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馬鹿も食わないラブロマンス
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野辺のやつが出ていったあとの風紀室はやけに静かに感じた。それはあいつは自身が騒々しいということもあったが、恐らく理由はそれだけではないだろう。
風紀室に残された俺は、暫くソファーから立ち上がることができなかった。
そんな俺を見、政岡は「尾張……」となにか言いたげに名前を呼んでくる。目を向ければ視線がぶつかった。不安そう、というよりもなんだか心配そうな顔だった。情けない顔。……なんでそんな目で俺を見るのだ。
「は……野辺、思ったよりも理論的なんだな。もう少しで上手く丸め込めそうだったのに、残念だ」
心配されるのも、慰めの言葉をかけられるのも癪だったので俺は政岡が言葉を発する前に先手を打つことにした。
けれど、政岡の表情は変わらない。相変わらず落ち込んでる飼い主を慰めるようなそんな目でこっちを見てくるのだ。
「なあ、尾張。さっき言ってたこと本当なんだろ? ……寒椿の野郎がお前の中ではクロなのか?」
俺が笑ってるのだ、一緒になって笑ってくれさえすればまた違う気分になれたのかもしれない。
そんなことを思いながら、俺は「ああ」と口にした。
「けど、わかんねえ」
「……」
「間違いねえと思ってたけど、野辺にまであんな風に諭されちゃ立つ瀬もない。それに、あいつの言ってることは正論だし」
「だから、お前も俺の戯言は無視していいぞ」と返そうとしたときだった、膝の上に置いていた手をいきなり政岡に握り締められ、ぎょっとする。
顔をあげれば馬鹿みてえに真面目な顔をした政岡がこちらを見ていて、
「関係ねえよ、あんな眼鏡」
「……政岡?」
「俺は、お前の直感を信じる。非科学的だろうが私怨だろうが勘違いだろうが思い込みでも関係ねえ、俺はお前の味方だ。尾張」
思わず呆気に取られた。
んな無茶苦茶なことを馬鹿真面目に口にするのだ、「は」と喉の奥から笑いが込み上げ、頬の筋肉が強張った。
「……政岡、俺が言うのはなんだけど、相手は選んだ方がいいぞ」
「選んでる、選んで俺はお前についたんだよ」
尾張、と指の骨が軋みそうなくらいの力でぎゅうっと握り締められ「痛えよ」と思わず笑ってしまった。どうやら痛がらせるのは不本意だったようで、政岡は「あ、わりい!」と慌てて手を退ける。
「だ、大丈夫か? ほ、骨……保健室……っ!」
「あー、大丈夫。問題ねえ。つか流石にそこまで軟じゃねえって」
今度はわたわたと慌て出す政岡に思わず笑ってしまった。手は離れたものの、握りしめられた手には政岡の乾いた掌の感触、熱が残っている。
こんな風にこいつに励まされたの、“あのとき”と同じだな。
「尾張……?」
「岩片がそんなことをするやつじゃないって話、お前だったら反論するのかと思ったけどな」
「あ? あー……それは、まあ」
「それなのに、俺の言うことを肯定するんだな」
そう少し意地の悪い質問をすれば、「ちげえよ」と政岡の眉根は寄せられる。
「言っとくけど俺はあいつのことは善人だと思ってねえし、寧ろ許せねえけど……」
「うん」
「……尾張のことは信じたいと思う。それに、あいつだってやけに寒椿のやつを信じ込んでるみてーだしな。それを言うならあのクソ童貞眼鏡だってそうだろ?」
ふん、と鼻を鳴らし、ソファーの背もたれに仰け反る政岡はそのまま腕を組む。
あくまでも、今回の場合政岡は中立的な立場である。俺自身には忖度してくれているようだが、それは=岩片を全肯定するというわけではない。
そんな存在は正直、必要だったのかもしれない。
そこまで考えたときだ、「なあ尾張」と政岡は声をあげる。
「なんだ?」
「お前の言うことが正しいってのはつまり、寒椿のやつがなにか企んでるかどうか調べりゃいいってことだよな」
「……まあ、そうなるな」
なにかきっと裏があるのは間違いないのだろうが、寒椿と岩片が手を組んだとしてなにを企んでるかまでは今現状わからない。が、このまま泳がせておくにはあまりにもその不確定要素の存在が厄介だった。
「じゃあ、寒椿の野郎に直接聞けばいいんじゃねえか」
「だから、それはもう俺がやったって」
「あいつはなんて言ったんだ?」
「……岩片は、ただ見舞いにきてくれただけだって」
「それだけか?」
尋ねられ、「ああ」と頷き返したときだった。
「よし!」とクソうるせえ声とともに政岡は勢いよくテーブルを叩き、そして立ち上がる。
「うおっ、なんだよ急にでけー声を出して」
「尾張、もう一度寒椿のとこに行くぞ」
「え?」
「今度は俺がやる」
「話し合いは任せろ」と政岡は拳を作り、歯を剥き出しにして笑っていた。
もしかしてその話し合いというのは肉体言語のことを言っているのではないのか。あまりにも悪役のような面をする政岡につい呆気に取られたが、確かにこのままでは埒が明かない。
よくも悪くも、こいつの行動力に何度か助けられた経験がある。そんなやつに一種の安心感のようなものを覚え始めていた自分に慄いた。
――学園内、保健室。
「おるぁ!! 出てこい寒椿!!」
「政岡おいっ! 保健室は静かに……ッ!」
ここへ来る途中まで大人しいかと思いきや、なんなんだこいつは。
扉ぶっ壊す勢いで保健室に突っ込んでいく政岡を慌てて止めようとするが、一足遅かった。
「おやぁ? 今度は随分と元気なお客様ですね」
そして、保健室の奥。先程同様教員用デスクには未来屋がいた。背もたれに持たれたままくるりとこちらを振り返る未来屋は笑う。
こんなうるせえ客人が来ても動じない辺り流石ではあるが。
「すんません、一応止めたんだけど…おい政岡……っ!」
「おいショタコン教師、寒椿はどこにいやがる」
「ショタ……ッ」
確かにちょいちょい未来屋の言動が怪しいなとは思ったが――じゃなくて。
「政岡、もっと静かに……っ」
「人聞きが悪いではありませんか。……全く、子供好きだと言ってください」
「うるせえ、テメェと話してたら進まねーんだよ!」
言うや否や未来屋の横をずかずかと大股で突き進み、ベッドスペースまでやってきた政岡。
まさかこいつ、と俺が青ざめるよりも先に「ここか?!」と片っ端からカーテンを捲っていく。
「おい政岡――」
俺が覚えてるからまずは人の話を聞け、と慌てて政岡の腕を掴んだときだった。
仕切られたカーテンの向こうを見たまま固まる政岡。
確かに止まれと言ったが、今度はいきなりなんなんだ。とつられて政岡の視線の先に目を向けた俺は思わず「あ」と声を漏らした。
それは向こうも同じだった。
「――本当、あなた方は間が悪いですね」
濡れたような艷やかな黒髪、そして丁度舎弟らしき生徒に包帯を巻かれていた半裸のそいつは俺たちを見るなり舌打ちをする。
「能義、テメェ……ッ!!」
「それよりも、どういうことですか。零児、何故貴方が尾張さんと一緒に……」
ああ、まずい。色々面倒なことが芋づる式に起きている。これ以上は俺の手に負えない。
とにかく能義をどうにかするべきか、と考えるよりも先に慌てて仲裁に入ろうとしていた能義の舎弟に「ああ?!やんのか?!」と掴みかかる政岡。
おいやめろ面倒を増やすな、ととにかく落ち着かせようとしたときだ。
「なになに? もしかして今僕のことを探してたかい? バンビーナ」
隣のカーテンが開き、にゅっと顔を出す寒椿。
更にややこしくなっていた。
「寒椿、今は出てくるな……っておわ!」
言い終わるよりも先に放り投げられた舎弟がベッドスペースの外まで飛んでいく。
おい待てって言ったのにあいつまじか。
「おい、政岡……っ! いい加減にしろ!」
一旦落ち着け、と言うよりも早く政岡の腕にぎゅっとしがみついた。
瞬間、ようやくこの脳筋男は気を取り戻したようだ。びくりと肩を跳ねさせ、そしてちらりとこちらを見る。
「お、尾張……っ、悪い……」
先程までの勢いはどこに行ったのか、しゅるしゅると萎んでいく政岡。この光景、さっきも見た気がするぞ。
「えーと、こほん」
そんなときだった。ベッドの上、胡座を掻いて座っていた能義はなんともわざとらしい咳払いをした。
「色々聞きたいことはございますが、取り敢えず零児……貴方、これはどういうことですか?」
ぴくりと能義の片眉が持ち上がり、そしてゆっくりと政岡と俺を交互に見た。
そこで俺はこの展開がいかに最悪であるかということを理解した。
一応、表向き政岡は生徒会の連中と仲直りしたということになって潜入してもらっている身だ。
寒椿ならまだしも、能義にまで余計な勘ぐりをされるのはただ厄介だった。……いやだったらなんで今まじで舎弟放り投げたんだあいつ、ムカついたからか?我慢してくれ俺だって我慢してんだから。
この場を打開するために脳を回せば回すほど、どんどん脳味噌が絞られていくみたいだ。なにも浮かばない。つかまじでなんだよこの展開は。なんで能義もこいつでここにいるんだよ、そしてなんだその怪我は。寒椿は「やほ」じゃないんだ、情報量絞ってくれ。
まず、状況を整理しよう。
寒椿に突撃しようとしたはずが、何故かこの保健室にいた能義と居合わせてしまい、俺と政岡が組んでることがバレそうになってる。以上。
うーん最悪だ。
「何故貴方と尾張さんが一緒にいるのですか?」
「ああ? 居ちゃわりぃのかよ、僻んでんのか?」
「ひが……ッ、誰がですか。どうせ貴方のことです、尾張さんに無理言って連れてきたんでしょう」
政岡の言葉に眉間ヒクつかせる能義だったが、なんとか勝手に良いように解釈してくれたようだ。しかも割と間違いではないんだよな。
しかし、問題はまだある。
「寒椿さんを探されていたようですが、彼に何か御用でも?」
「うるせえ、テメェこそなんでこんなところに普通にいやがんだよ! しかも仕切ってんじゃねえ! もっと慎め!」
「私が慎んでたら尾張さんの負担が激増するからですよ、主に貴方のお陰で」
「ああ? 誰が脳味噌お荷物野郎だコラ!! やんのか?!」
今にも能義に掴み掛かりそうな政岡を「やるなやるな」と慌てて止めながらも、確かに能義の言葉に納得してしまいそうになる自分もいた。癪ではあるが。
「寒椿へは少し聞きたいことがあってな」
「おや、尾張さんがですか?」
「ああ、そういうことだ。政岡はついてきてもらっただけだ、誰かさんのおかげで独り歩きが怖くてな」
ついでに皮肉の一つでも放れば、能義は悪びれた様子もなく「それはいい案ですね」などとにこやかに笑うのだ。こいつ、政岡にボコボコにされてもやはり図太さは現在のようだ。
「僕に用事というのは」
「まあそれは後で言うよ。それより、今度はお前の番だろ、能義」
「その怪我どうしたんだ。前よりも男前に磨きがかかってんじゃないか?」話の主導権は渡さないように意識しつつ、俺は能義に問いかけた。
能義はおやおややはりそうきましたかとでも言いたげな顔して肩を竦める。
「なに、ちょっとした擦り傷ですよ」
「その割には大層な手当をされてるみたいだけどな」
「おや、尾張さん心配してくださっているのですか?」
「もしかして誰かに襲われたのか?」
こいつの話題逸しの手に乗るつもりはない。そう畳かければ、能義はすっと目を細めた。
この反応はどちらだ。鎌掛けのつもりだったが、やはりこの男、わかりづらすぎる。
「おや、まるで具体例があるような口振りではございませんか。尾張さん」
それどころか、薄ら笑いを浮かべたまま尋ねてくる能義に『こいつ』と息を飲んだ。
矢先、ぐっと拳を握りしめてる政岡を見て慌てて俺は政岡の肩を掴む。「ややこしくなるからやめろ」とアイコンタクトを送れば、政岡はみるみるうちに縮み込んだ。やること多すぎんだよ。
「能義、お前は俺と話す気はないのか?」
「おや滅相もございません。……ですが、そこに座って威圧してくるゴリラが恐ろしくて思うように喋れないのですよ」
「ああ?! 誰がゴリラだと?!」
自覚はあったのか、と思いながらも「仕方ねえな」と息を吐く。
「政岡、ちょっとカーテンの外で待っててくれないか」
「お、尾張?! なんでそんな冷てえこと……っ、俺が駄目な子だからか?!」
「うーん……今のままならそうせざる得ないんだよな」
甘やかし過ぎもよくないな、と心を鬼にして口にすれば、ショックを受けたような顔をしたまま政岡は静止する。
そして、
「……分かった。尾張がそういうなら、外で待ってる」
可哀想なくらい縮み込んでしまったな、言い過ぎたか?と思った矢先、「妙な真似したらすぐぶっ飛ばすからな」と能義を睨みつけて威嚇しながら政岡は出ていった。
本当にあいつは心強いのか厄介なのかよくわからないやつだな、なんて思いながら俺は政岡がいなくなったあとのカーテンを締め切った。
「これで文句はないな? ……このまま話を聞かせてもらうぞ。能義」
政岡がカーテンの外へとすごすご出ていったのを横目に、そのまま能義はにやにやと笑いながらこちらに視線を向ける。
「おやおや、いいのですか? 大事な番犬を自ら手放すなんて。余程私とお喋りをしたかったのでしょうか。それとも、元々手に余っていたのか」
「勝手に話を進めないでもらえるか? それに、あいつがいると話せないって言いだしたのはお前だろ」
「なに、ちょっとした可愛い戯れではありませんか。そうピリピリしないでください、仲良くしましょう」
「聞こえてんぞゴラァ!!」
聞こえていたのか。
カーテンの外から貫通して聞こえてくる政岡の声を無視し、どさくさに紛れて肩組もうとしてくる能義を避ける。
すると、おや、と能義は眉を寄せた。
「つれないではありませんか」
「お生憎様、俺はお前と仲良しこよししたくて残ったわけじゃねーんだわ」
そうだ、あくまで本題はそこではない。
「この怪我、誰にやられた?」
伸びてきた能義の腕を掴み上げれば、能義は痛がる素振りを見せるわけでもなくただくすくすと笑った。
「なんだかんだ私のことが気になって仕方がないようですね」
「能義」
「最初に言っておきましょうか、ここで私が貴方の問いに正直に話すメリットは何一つ御座いません」
「……」
「それから、私がでたらめに答える可能性は大いに――」
それ以上やつの言葉を聞く気にはなれなかった。
そのまま能義の胸ぐらを掴み、馬乗りになったときだった。
「バンビーナ」
気の抜けるような呼称とともに、案外強い力で肩を掴まれる。
振り返らずとも、そんな訳のわからない呼び名で俺を呼ぶ男などこの学園内でたった一人しかいない。
顔をあげれば、寒椿はどことなく寂しそうな目でこちらを見下ろしていた。
「狂犬の彼を何故わざわざ隔離したのかい? 君が冷静さを欠いてはなんの意味もないだろう」
――まさか、寒椿に宥められる日が来るなんて思いもよらなかった。
この際政岡のことを狂犬の彼とか言ってるのは置いておくが。
それにしても、自分では冷静のつもりだったのだが傍から見るとどうやら俺は冷静ではないらしい。
取り敢えず、一旦深呼吸でもしておくか。頭に酸素をたっぷりと送り、上がりかけた熱を冷ます。
「……能義、お前はなにか勘違いしてるよな」
「はい?」
そしてそのまま、俺は能義の手に指を絡めた。掌の下、能義の手の甲が僅かにぴくりと反応するのがわかった。おや、と睫毛に縁取られた目がこちらを見上げる。
そのままベッドの上、寒椿からは見えないようにシーツの下へとやつの右手を抑え込んだまま俺は能義に顔を寄せた。
「これはただのお話でも仲良しこよしでもなんでもねーんだよ」
そして、俺は能義の指を思いっきり締め上げたのだ。
「……っ、おやおや、随分と積極的ではございませんか」
「お前には大層借りがあるからな、別にここで全部返してもらってもいいんだぞ」
「貴方は人の興奮を煽るのがお上手ですね。……私にその気があれば即射精ものでしたよ」
「ですが、残念ながら私に被虐趣味はございませんので」もう少し言い方はないのか、とツッコミそうになったとき。華奢な指に逆に指を絡め取られそうになる。
ねっとりと絡む指に腕を引かれ、能義はそっと耳元に唇を寄せるのだ。
「しかし、私も鬼ではありません。――貴方の愛らしさに免じて一つだけ教えて差し上げましょうか」
お前が鬼ではないのならなんなのだ、と顔を上げたとき。思いの外近い位置にあった能義と至近距離で視線がぶつかった。
「恐らく、私の怪我は貴方が想像するようなものとは違いますよ」
この男、とつい顔面の筋肉が反応しそうになった。
能義がただの見た目通りの華奢で軟弱そうな変態ではないということは俺が知ってる。綺麗なのは外見だけだ。
そんなゴリラのような能義に勝てる相手なんて限られている。そしてそれは政岡でもないとしたら、と俺は踏んでいた。
そのことを能義に読まれていたという事実は癪だった。
「で、その根拠は?」
「貴方が私のことを信じてくださるその心、でしょうか」
「……」
「バンビーナ、暴力はいけないよ!」
「落ち着け寒椿、俺は至って冷静だ」
「冷静な人はベッドフレームの形を歪ませないと思うんだけどな」
危うくまた器物損壊で説教食らう羽目になるところだった。
能義の言葉を真面目に聞くなと散々知っていたはずだ。俺は自分を叱咤しつつ、そのまま能義の手を振り払う。
そのままベッドから降りようとすれば、「おや、もういいのですか?」と能義は薄ら笑いを浮かべるのだ。
「お前は最初から俺と話す気なんてなさそうだからな」
「私のことを信じて下さらないのですね」
「それはお互い様だろ」
そのままカーテンを開けば、一生懸命聞き耳を立てていた出待ちの政岡と目があった。
びくりと背筋を伸ばす政岡を見つめたまま、俺は「寒椿」と背後の男に声をかけた。
「なんだ、今度は僕の番かい」
これ以上能義に付き合っても無駄だ。かと言って今更報復する気にもなれない。
俺は寒椿の言葉に頷き返した。
それから、寒椿と政岡とともに能義を放置して場所を移すことにした。
――保健室奥にあるカウンセリングルーム。
「静かに話し合いたいというのならカウンセリングルームを使うとよろしいですよ」という未来屋の許可をいただき、俺は寒椿と向かい合うように席についていた。
そして、そんな俺の背後で仁王立ちして腕を組み無駄に威圧的なオーラを醸し出しているのは政岡だ。
最初、なぜ教職員が進んで明らか揉めている生徒にカウンセリングルームを提供するのか不思議だったが、能義が聞き耳を立てる状況よりもかはましだ。それにしても、奇妙な図ではあるが。
「それにしても、ここにはこんな施設もあったんだね」
「あんた三年だろ、カウンセリングルームの存在も知らなかったのか」
「ああそうともさ、僕はお世話になることはなかったし、それに“話し合い”したいのならば僕たちには風紀室や指導室があったから」
「そりゃ確かに使いやすそうだな」
寒椿の言葉に余計な記憶まで思い出しそうになり、再び記憶の奥底へと落とし蓋をしておく。
「それで、話っていうのは? そこにいる狂犬君が先程から何かを言いたそうにしてるけど」
そう、俺の背後の政岡に目を向けた寒椿。
振り返らずとも政岡がどんな顔をしているか想像することは容易だ。青筋立てて今にも噛みつきそうな顔をしてるに違いない。
「まあ、後ろの事は気にしないでくれ」とだけ寒椿に返しておく。
「単刀直入に聞くぞ、寒椿」
「ああ、どうぞ」
「――お前、野辺のことを裏切ってないか?」
その言葉を口にした瞬間、確かにカウンセリングルームの室温が一度二度ほど下がったような気がしたのは気のせいではないだろう。
「裏切ってる……なんて、また随分とな言い草じゃないか。バンビーナ」
「いいから『はい』か『いいえ』で答えるんだよ! それ以外ごちゃごちゃ言うんじゃねえ!」
バン、とテーブルに拳を叩きつける政岡。めき、とテーブルの足がやや傾いていたのは見なかったことにしよう。
キャンキャンと吠える政岡に「バンビーナ」と助けを求めるようにこちらを見てくる寒椿。
「悪いな寒椿、今回ばかりは俺もこいつと同じ意見だ」
「バンビーナ……」
「……寒椿、お前のその怪我も自作自演じゃないのか?」
俺も政岡も笑っていないことからこれがただのジョークでもなんでもないと分かったらしい。寒椿は口元を引き締める。普段ヘラヘラしている顔ばかり見ていたからか、なんとなくやつの雰囲気が変わったような気がした。
「一応聞いておくよ。その根拠というのはあるのかい?」
「さっき、お前のことを襲ったって襲撃犯が保健室に入っていくのを見た」
「ああ、そういうことか」
「そういうことかって、認める気なのか?」
「見られていたというのならね。それに、もし自作自演を認めたところでなんだって話なんだよね。それは僕が鴻志を裏切ることへのイコールにはならない」
流石岩片の親戚だというだけある。口だけはよく回るようだ。
「なに開き直ってんだテメー、嘘吐いたら一緒だろうがよ!」
「全く狂犬君は……これだから生徒会は、なんて言われるんだよ」
「ああ?!」
「確かに僕は襲われたフリをしたとしよう。それで怪我を負ってしまったからなんだ? 僕はただここ最近皆が構ってくれなかったから心配されたくてこんなことしました、ってだけの可愛い話じゃないか?」
「可愛くはねえだろ!」
まあ、可愛くはないな。
が、確かに寒椿の意図が読めない。
しかし認めさせられたという事実は大きいことには違いない。
「それだけの単純な話ならよかったけどな」
「どういう意味だい」
「構ってもらうのが目的じゃなくて、なにかから目を逸らさせるために俺たちの気を引かせようとしたとかな」
ふむ、と寒椿は顎をなぞる。こちらを見上げるその睫毛に縁取られた目はすっと細められた。
「つまり君は、他の風紀の気を反らすためにわざわざ身を呈して騒動を起こした。その裏で別の事件が起きたと」
「例えば能義の怪我とかな」
「想像力逞しいのはいいことだ。ああ、そうだ。豊かな想像力は人生を彩るからね。……しかし、憶測で判断するのは危険だ。過度の妄想は目を曇らせてしまう」
「だーっ! うるせえ! 台詞がいちいちなげーんだよ、十五文字以内にまとめろ!」
「思い込みで人を疑うな」
「……って、言いたいんだよ。僕は」いつもと変わらない王子様スマイルを浮かべる寒椿に息を飲む。
野辺とはまた違う迫力がある笑顔だと思った。
この手の男相手に腹の探り合いは無意味だ。逆にこちらが食わせられる。そう俺はよく知っている。
「……アンタは、誰の味方だ」
軽く聞くつもりだったのに、思いの外上手く笑うことはできなかった。
寒椿は俺を見上げたまま、にこりと微笑むのだ。
「僕は僕の心の征くまま、僕がそのとき信じるべきものを信じるだけだ」
「無論、君もその内の一つだよ」恐るべきことに嘘を吐いているようには聞こえないのがこの男の恐ろしいところだと思う。
その答えが寒椿の全てだった。組織に属していながらも自由奔放に振る舞う寒椿らしいとは思うが、俺にとっては求めていた返答ではない。
寒椿を残したまま俺はカウンセリングルームをあとにした。
――学園内・廊下。
「なあ、尾張……良かったのか、あのまま放っておいて」
「なにがだ?」
「だってあいつ、ぜってーまだなにか隠してたぞ。お前さえよけりゃ別に俺が代わりにぶん殴ってでも……」
「いいんだよ、あいつはもう」
「……尾張」
少なくとも、寒椿が宛にならないことには間違いない。それに、あの口振りからして必要があれば岩片に寝返るつもりでもあるのだろう。
政岡の言う通り、ぶん縛るという手もあった。
けれど、それをしたところで起きる風紀委員との不和が今の俺にとっては面倒極まりない。
今回分かったことは風紀委員が宛にならないということだ。けれど、この状況で寒椿を裏切り者扱いして吊し上げて風紀の数少ない長所である結束力を失わせるのも惜しい。
それに、癪ではあるが寒椿は風紀委員のバランサーでもある。あの男がいなくなれば野辺を止めれる人間はいない。それならば、少なくとも俺だけでも寒椿が信用すべき人間ではないということを知っておけばいい。
確証ができた今、そう気持ちを切り換えることにした。
「尾張……」
「政岡も、付き合わせて悪かったな。……能義にも会うハメになったし、また後から疑われるかもな」
「別に、俺のことはどうでもいいんだよ。……それより、尾張、お前はこれから……」
「……どうすっかな」
案外あっさりと認められてしまった以上、こちらからはなにもいうこともない。
気になることはあるっちゃあるが……。
「……少し、一人で考えさせてくれ」
「尾張……」
「お前も気をつけろよ、政岡。……風紀は宛になんねーから」
ぽん、と政岡の胸を叩き、そのまま小さく手を振る。「尾張」とまだなにか言いたそうな政岡から逃げるように、そのまま俺は階段を登っていった。
風紀室に残された俺は、暫くソファーから立ち上がることができなかった。
そんな俺を見、政岡は「尾張……」となにか言いたげに名前を呼んでくる。目を向ければ視線がぶつかった。不安そう、というよりもなんだか心配そうな顔だった。情けない顔。……なんでそんな目で俺を見るのだ。
「は……野辺、思ったよりも理論的なんだな。もう少しで上手く丸め込めそうだったのに、残念だ」
心配されるのも、慰めの言葉をかけられるのも癪だったので俺は政岡が言葉を発する前に先手を打つことにした。
けれど、政岡の表情は変わらない。相変わらず落ち込んでる飼い主を慰めるようなそんな目でこっちを見てくるのだ。
「なあ、尾張。さっき言ってたこと本当なんだろ? ……寒椿の野郎がお前の中ではクロなのか?」
俺が笑ってるのだ、一緒になって笑ってくれさえすればまた違う気分になれたのかもしれない。
そんなことを思いながら、俺は「ああ」と口にした。
「けど、わかんねえ」
「……」
「間違いねえと思ってたけど、野辺にまであんな風に諭されちゃ立つ瀬もない。それに、あいつの言ってることは正論だし」
「だから、お前も俺の戯言は無視していいぞ」と返そうとしたときだった、膝の上に置いていた手をいきなり政岡に握り締められ、ぎょっとする。
顔をあげれば馬鹿みてえに真面目な顔をした政岡がこちらを見ていて、
「関係ねえよ、あんな眼鏡」
「……政岡?」
「俺は、お前の直感を信じる。非科学的だろうが私怨だろうが勘違いだろうが思い込みでも関係ねえ、俺はお前の味方だ。尾張」
思わず呆気に取られた。
んな無茶苦茶なことを馬鹿真面目に口にするのだ、「は」と喉の奥から笑いが込み上げ、頬の筋肉が強張った。
「……政岡、俺が言うのはなんだけど、相手は選んだ方がいいぞ」
「選んでる、選んで俺はお前についたんだよ」
尾張、と指の骨が軋みそうなくらいの力でぎゅうっと握り締められ「痛えよ」と思わず笑ってしまった。どうやら痛がらせるのは不本意だったようで、政岡は「あ、わりい!」と慌てて手を退ける。
「だ、大丈夫か? ほ、骨……保健室……っ!」
「あー、大丈夫。問題ねえ。つか流石にそこまで軟じゃねえって」
今度はわたわたと慌て出す政岡に思わず笑ってしまった。手は離れたものの、握りしめられた手には政岡の乾いた掌の感触、熱が残っている。
こんな風にこいつに励まされたの、“あのとき”と同じだな。
「尾張……?」
「岩片がそんなことをするやつじゃないって話、お前だったら反論するのかと思ったけどな」
「あ? あー……それは、まあ」
「それなのに、俺の言うことを肯定するんだな」
そう少し意地の悪い質問をすれば、「ちげえよ」と政岡の眉根は寄せられる。
「言っとくけど俺はあいつのことは善人だと思ってねえし、寧ろ許せねえけど……」
「うん」
「……尾張のことは信じたいと思う。それに、あいつだってやけに寒椿のやつを信じ込んでるみてーだしな。それを言うならあのクソ童貞眼鏡だってそうだろ?」
ふん、と鼻を鳴らし、ソファーの背もたれに仰け反る政岡はそのまま腕を組む。
あくまでも、今回の場合政岡は中立的な立場である。俺自身には忖度してくれているようだが、それは=岩片を全肯定するというわけではない。
そんな存在は正直、必要だったのかもしれない。
そこまで考えたときだ、「なあ尾張」と政岡は声をあげる。
「なんだ?」
「お前の言うことが正しいってのはつまり、寒椿のやつがなにか企んでるかどうか調べりゃいいってことだよな」
「……まあ、そうなるな」
なにかきっと裏があるのは間違いないのだろうが、寒椿と岩片が手を組んだとしてなにを企んでるかまでは今現状わからない。が、このまま泳がせておくにはあまりにもその不確定要素の存在が厄介だった。
「じゃあ、寒椿の野郎に直接聞けばいいんじゃねえか」
「だから、それはもう俺がやったって」
「あいつはなんて言ったんだ?」
「……岩片は、ただ見舞いにきてくれただけだって」
「それだけか?」
尋ねられ、「ああ」と頷き返したときだった。
「よし!」とクソうるせえ声とともに政岡は勢いよくテーブルを叩き、そして立ち上がる。
「うおっ、なんだよ急にでけー声を出して」
「尾張、もう一度寒椿のとこに行くぞ」
「え?」
「今度は俺がやる」
「話し合いは任せろ」と政岡は拳を作り、歯を剥き出しにして笑っていた。
もしかしてその話し合いというのは肉体言語のことを言っているのではないのか。あまりにも悪役のような面をする政岡につい呆気に取られたが、確かにこのままでは埒が明かない。
よくも悪くも、こいつの行動力に何度か助けられた経験がある。そんなやつに一種の安心感のようなものを覚え始めていた自分に慄いた。
――学園内、保健室。
「おるぁ!! 出てこい寒椿!!」
「政岡おいっ! 保健室は静かに……ッ!」
ここへ来る途中まで大人しいかと思いきや、なんなんだこいつは。
扉ぶっ壊す勢いで保健室に突っ込んでいく政岡を慌てて止めようとするが、一足遅かった。
「おやぁ? 今度は随分と元気なお客様ですね」
そして、保健室の奥。先程同様教員用デスクには未来屋がいた。背もたれに持たれたままくるりとこちらを振り返る未来屋は笑う。
こんなうるせえ客人が来ても動じない辺り流石ではあるが。
「すんません、一応止めたんだけど…おい政岡……っ!」
「おいショタコン教師、寒椿はどこにいやがる」
「ショタ……ッ」
確かにちょいちょい未来屋の言動が怪しいなとは思ったが――じゃなくて。
「政岡、もっと静かに……っ」
「人聞きが悪いではありませんか。……全く、子供好きだと言ってください」
「うるせえ、テメェと話してたら進まねーんだよ!」
言うや否や未来屋の横をずかずかと大股で突き進み、ベッドスペースまでやってきた政岡。
まさかこいつ、と俺が青ざめるよりも先に「ここか?!」と片っ端からカーテンを捲っていく。
「おい政岡――」
俺が覚えてるからまずは人の話を聞け、と慌てて政岡の腕を掴んだときだった。
仕切られたカーテンの向こうを見たまま固まる政岡。
確かに止まれと言ったが、今度はいきなりなんなんだ。とつられて政岡の視線の先に目を向けた俺は思わず「あ」と声を漏らした。
それは向こうも同じだった。
「――本当、あなた方は間が悪いですね」
濡れたような艷やかな黒髪、そして丁度舎弟らしき生徒に包帯を巻かれていた半裸のそいつは俺たちを見るなり舌打ちをする。
「能義、テメェ……ッ!!」
「それよりも、どういうことですか。零児、何故貴方が尾張さんと一緒に……」
ああ、まずい。色々面倒なことが芋づる式に起きている。これ以上は俺の手に負えない。
とにかく能義をどうにかするべきか、と考えるよりも先に慌てて仲裁に入ろうとしていた能義の舎弟に「ああ?!やんのか?!」と掴みかかる政岡。
おいやめろ面倒を増やすな、ととにかく落ち着かせようとしたときだ。
「なになに? もしかして今僕のことを探してたかい? バンビーナ」
隣のカーテンが開き、にゅっと顔を出す寒椿。
更にややこしくなっていた。
「寒椿、今は出てくるな……っておわ!」
言い終わるよりも先に放り投げられた舎弟がベッドスペースの外まで飛んでいく。
おい待てって言ったのにあいつまじか。
「おい、政岡……っ! いい加減にしろ!」
一旦落ち着け、と言うよりも早く政岡の腕にぎゅっとしがみついた。
瞬間、ようやくこの脳筋男は気を取り戻したようだ。びくりと肩を跳ねさせ、そしてちらりとこちらを見る。
「お、尾張……っ、悪い……」
先程までの勢いはどこに行ったのか、しゅるしゅると萎んでいく政岡。この光景、さっきも見た気がするぞ。
「えーと、こほん」
そんなときだった。ベッドの上、胡座を掻いて座っていた能義はなんともわざとらしい咳払いをした。
「色々聞きたいことはございますが、取り敢えず零児……貴方、これはどういうことですか?」
ぴくりと能義の片眉が持ち上がり、そしてゆっくりと政岡と俺を交互に見た。
そこで俺はこの展開がいかに最悪であるかということを理解した。
一応、表向き政岡は生徒会の連中と仲直りしたということになって潜入してもらっている身だ。
寒椿ならまだしも、能義にまで余計な勘ぐりをされるのはただ厄介だった。……いやだったらなんで今まじで舎弟放り投げたんだあいつ、ムカついたからか?我慢してくれ俺だって我慢してんだから。
この場を打開するために脳を回せば回すほど、どんどん脳味噌が絞られていくみたいだ。なにも浮かばない。つかまじでなんだよこの展開は。なんで能義もこいつでここにいるんだよ、そしてなんだその怪我は。寒椿は「やほ」じゃないんだ、情報量絞ってくれ。
まず、状況を整理しよう。
寒椿に突撃しようとしたはずが、何故かこの保健室にいた能義と居合わせてしまい、俺と政岡が組んでることがバレそうになってる。以上。
うーん最悪だ。
「何故貴方と尾張さんが一緒にいるのですか?」
「ああ? 居ちゃわりぃのかよ、僻んでんのか?」
「ひが……ッ、誰がですか。どうせ貴方のことです、尾張さんに無理言って連れてきたんでしょう」
政岡の言葉に眉間ヒクつかせる能義だったが、なんとか勝手に良いように解釈してくれたようだ。しかも割と間違いではないんだよな。
しかし、問題はまだある。
「寒椿さんを探されていたようですが、彼に何か御用でも?」
「うるせえ、テメェこそなんでこんなところに普通にいやがんだよ! しかも仕切ってんじゃねえ! もっと慎め!」
「私が慎んでたら尾張さんの負担が激増するからですよ、主に貴方のお陰で」
「ああ? 誰が脳味噌お荷物野郎だコラ!! やんのか?!」
今にも能義に掴み掛かりそうな政岡を「やるなやるな」と慌てて止めながらも、確かに能義の言葉に納得してしまいそうになる自分もいた。癪ではあるが。
「寒椿へは少し聞きたいことがあってな」
「おや、尾張さんがですか?」
「ああ、そういうことだ。政岡はついてきてもらっただけだ、誰かさんのおかげで独り歩きが怖くてな」
ついでに皮肉の一つでも放れば、能義は悪びれた様子もなく「それはいい案ですね」などとにこやかに笑うのだ。こいつ、政岡にボコボコにされてもやはり図太さは現在のようだ。
「僕に用事というのは」
「まあそれは後で言うよ。それより、今度はお前の番だろ、能義」
「その怪我どうしたんだ。前よりも男前に磨きがかかってんじゃないか?」話の主導権は渡さないように意識しつつ、俺は能義に問いかけた。
能義はおやおややはりそうきましたかとでも言いたげな顔して肩を竦める。
「なに、ちょっとした擦り傷ですよ」
「その割には大層な手当をされてるみたいだけどな」
「おや、尾張さん心配してくださっているのですか?」
「もしかして誰かに襲われたのか?」
こいつの話題逸しの手に乗るつもりはない。そう畳かければ、能義はすっと目を細めた。
この反応はどちらだ。鎌掛けのつもりだったが、やはりこの男、わかりづらすぎる。
「おや、まるで具体例があるような口振りではございませんか。尾張さん」
それどころか、薄ら笑いを浮かべたまま尋ねてくる能義に『こいつ』と息を飲んだ。
矢先、ぐっと拳を握りしめてる政岡を見て慌てて俺は政岡の肩を掴む。「ややこしくなるからやめろ」とアイコンタクトを送れば、政岡はみるみるうちに縮み込んだ。やること多すぎんだよ。
「能義、お前は俺と話す気はないのか?」
「おや滅相もございません。……ですが、そこに座って威圧してくるゴリラが恐ろしくて思うように喋れないのですよ」
「ああ?! 誰がゴリラだと?!」
自覚はあったのか、と思いながらも「仕方ねえな」と息を吐く。
「政岡、ちょっとカーテンの外で待っててくれないか」
「お、尾張?! なんでそんな冷てえこと……っ、俺が駄目な子だからか?!」
「うーん……今のままならそうせざる得ないんだよな」
甘やかし過ぎもよくないな、と心を鬼にして口にすれば、ショックを受けたような顔をしたまま政岡は静止する。
そして、
「……分かった。尾張がそういうなら、外で待ってる」
可哀想なくらい縮み込んでしまったな、言い過ぎたか?と思った矢先、「妙な真似したらすぐぶっ飛ばすからな」と能義を睨みつけて威嚇しながら政岡は出ていった。
本当にあいつは心強いのか厄介なのかよくわからないやつだな、なんて思いながら俺は政岡がいなくなったあとのカーテンを締め切った。
「これで文句はないな? ……このまま話を聞かせてもらうぞ。能義」
政岡がカーテンの外へとすごすご出ていったのを横目に、そのまま能義はにやにやと笑いながらこちらに視線を向ける。
「おやおや、いいのですか? 大事な番犬を自ら手放すなんて。余程私とお喋りをしたかったのでしょうか。それとも、元々手に余っていたのか」
「勝手に話を進めないでもらえるか? それに、あいつがいると話せないって言いだしたのはお前だろ」
「なに、ちょっとした可愛い戯れではありませんか。そうピリピリしないでください、仲良くしましょう」
「聞こえてんぞゴラァ!!」
聞こえていたのか。
カーテンの外から貫通して聞こえてくる政岡の声を無視し、どさくさに紛れて肩組もうとしてくる能義を避ける。
すると、おや、と能義は眉を寄せた。
「つれないではありませんか」
「お生憎様、俺はお前と仲良しこよししたくて残ったわけじゃねーんだわ」
そうだ、あくまで本題はそこではない。
「この怪我、誰にやられた?」
伸びてきた能義の腕を掴み上げれば、能義は痛がる素振りを見せるわけでもなくただくすくすと笑った。
「なんだかんだ私のことが気になって仕方がないようですね」
「能義」
「最初に言っておきましょうか、ここで私が貴方の問いに正直に話すメリットは何一つ御座いません」
「……」
「それから、私がでたらめに答える可能性は大いに――」
それ以上やつの言葉を聞く気にはなれなかった。
そのまま能義の胸ぐらを掴み、馬乗りになったときだった。
「バンビーナ」
気の抜けるような呼称とともに、案外強い力で肩を掴まれる。
振り返らずとも、そんな訳のわからない呼び名で俺を呼ぶ男などこの学園内でたった一人しかいない。
顔をあげれば、寒椿はどことなく寂しそうな目でこちらを見下ろしていた。
「狂犬の彼を何故わざわざ隔離したのかい? 君が冷静さを欠いてはなんの意味もないだろう」
――まさか、寒椿に宥められる日が来るなんて思いもよらなかった。
この際政岡のことを狂犬の彼とか言ってるのは置いておくが。
それにしても、自分では冷静のつもりだったのだが傍から見るとどうやら俺は冷静ではないらしい。
取り敢えず、一旦深呼吸でもしておくか。頭に酸素をたっぷりと送り、上がりかけた熱を冷ます。
「……能義、お前はなにか勘違いしてるよな」
「はい?」
そしてそのまま、俺は能義の手に指を絡めた。掌の下、能義の手の甲が僅かにぴくりと反応するのがわかった。おや、と睫毛に縁取られた目がこちらを見上げる。
そのままベッドの上、寒椿からは見えないようにシーツの下へとやつの右手を抑え込んだまま俺は能義に顔を寄せた。
「これはただのお話でも仲良しこよしでもなんでもねーんだよ」
そして、俺は能義の指を思いっきり締め上げたのだ。
「……っ、おやおや、随分と積極的ではございませんか」
「お前には大層借りがあるからな、別にここで全部返してもらってもいいんだぞ」
「貴方は人の興奮を煽るのがお上手ですね。……私にその気があれば即射精ものでしたよ」
「ですが、残念ながら私に被虐趣味はございませんので」もう少し言い方はないのか、とツッコミそうになったとき。華奢な指に逆に指を絡め取られそうになる。
ねっとりと絡む指に腕を引かれ、能義はそっと耳元に唇を寄せるのだ。
「しかし、私も鬼ではありません。――貴方の愛らしさに免じて一つだけ教えて差し上げましょうか」
お前が鬼ではないのならなんなのだ、と顔を上げたとき。思いの外近い位置にあった能義と至近距離で視線がぶつかった。
「恐らく、私の怪我は貴方が想像するようなものとは違いますよ」
この男、とつい顔面の筋肉が反応しそうになった。
能義がただの見た目通りの華奢で軟弱そうな変態ではないということは俺が知ってる。綺麗なのは外見だけだ。
そんなゴリラのような能義に勝てる相手なんて限られている。そしてそれは政岡でもないとしたら、と俺は踏んでいた。
そのことを能義に読まれていたという事実は癪だった。
「で、その根拠は?」
「貴方が私のことを信じてくださるその心、でしょうか」
「……」
「バンビーナ、暴力はいけないよ!」
「落ち着け寒椿、俺は至って冷静だ」
「冷静な人はベッドフレームの形を歪ませないと思うんだけどな」
危うくまた器物損壊で説教食らう羽目になるところだった。
能義の言葉を真面目に聞くなと散々知っていたはずだ。俺は自分を叱咤しつつ、そのまま能義の手を振り払う。
そのままベッドから降りようとすれば、「おや、もういいのですか?」と能義は薄ら笑いを浮かべるのだ。
「お前は最初から俺と話す気なんてなさそうだからな」
「私のことを信じて下さらないのですね」
「それはお互い様だろ」
そのままカーテンを開けば、一生懸命聞き耳を立てていた出待ちの政岡と目があった。
びくりと背筋を伸ばす政岡を見つめたまま、俺は「寒椿」と背後の男に声をかけた。
「なんだ、今度は僕の番かい」
これ以上能義に付き合っても無駄だ。かと言って今更報復する気にもなれない。
俺は寒椿の言葉に頷き返した。
それから、寒椿と政岡とともに能義を放置して場所を移すことにした。
――保健室奥にあるカウンセリングルーム。
「静かに話し合いたいというのならカウンセリングルームを使うとよろしいですよ」という未来屋の許可をいただき、俺は寒椿と向かい合うように席についていた。
そして、そんな俺の背後で仁王立ちして腕を組み無駄に威圧的なオーラを醸し出しているのは政岡だ。
最初、なぜ教職員が進んで明らか揉めている生徒にカウンセリングルームを提供するのか不思議だったが、能義が聞き耳を立てる状況よりもかはましだ。それにしても、奇妙な図ではあるが。
「それにしても、ここにはこんな施設もあったんだね」
「あんた三年だろ、カウンセリングルームの存在も知らなかったのか」
「ああそうともさ、僕はお世話になることはなかったし、それに“話し合い”したいのならば僕たちには風紀室や指導室があったから」
「そりゃ確かに使いやすそうだな」
寒椿の言葉に余計な記憶まで思い出しそうになり、再び記憶の奥底へと落とし蓋をしておく。
「それで、話っていうのは? そこにいる狂犬君が先程から何かを言いたそうにしてるけど」
そう、俺の背後の政岡に目を向けた寒椿。
振り返らずとも政岡がどんな顔をしているか想像することは容易だ。青筋立てて今にも噛みつきそうな顔をしてるに違いない。
「まあ、後ろの事は気にしないでくれ」とだけ寒椿に返しておく。
「単刀直入に聞くぞ、寒椿」
「ああ、どうぞ」
「――お前、野辺のことを裏切ってないか?」
その言葉を口にした瞬間、確かにカウンセリングルームの室温が一度二度ほど下がったような気がしたのは気のせいではないだろう。
「裏切ってる……なんて、また随分とな言い草じゃないか。バンビーナ」
「いいから『はい』か『いいえ』で答えるんだよ! それ以外ごちゃごちゃ言うんじゃねえ!」
バン、とテーブルに拳を叩きつける政岡。めき、とテーブルの足がやや傾いていたのは見なかったことにしよう。
キャンキャンと吠える政岡に「バンビーナ」と助けを求めるようにこちらを見てくる寒椿。
「悪いな寒椿、今回ばかりは俺もこいつと同じ意見だ」
「バンビーナ……」
「……寒椿、お前のその怪我も自作自演じゃないのか?」
俺も政岡も笑っていないことからこれがただのジョークでもなんでもないと分かったらしい。寒椿は口元を引き締める。普段ヘラヘラしている顔ばかり見ていたからか、なんとなくやつの雰囲気が変わったような気がした。
「一応聞いておくよ。その根拠というのはあるのかい?」
「さっき、お前のことを襲ったって襲撃犯が保健室に入っていくのを見た」
「ああ、そういうことか」
「そういうことかって、認める気なのか?」
「見られていたというのならね。それに、もし自作自演を認めたところでなんだって話なんだよね。それは僕が鴻志を裏切ることへのイコールにはならない」
流石岩片の親戚だというだけある。口だけはよく回るようだ。
「なに開き直ってんだテメー、嘘吐いたら一緒だろうがよ!」
「全く狂犬君は……これだから生徒会は、なんて言われるんだよ」
「ああ?!」
「確かに僕は襲われたフリをしたとしよう。それで怪我を負ってしまったからなんだ? 僕はただここ最近皆が構ってくれなかったから心配されたくてこんなことしました、ってだけの可愛い話じゃないか?」
「可愛くはねえだろ!」
まあ、可愛くはないな。
が、確かに寒椿の意図が読めない。
しかし認めさせられたという事実は大きいことには違いない。
「それだけの単純な話ならよかったけどな」
「どういう意味だい」
「構ってもらうのが目的じゃなくて、なにかから目を逸らさせるために俺たちの気を引かせようとしたとかな」
ふむ、と寒椿は顎をなぞる。こちらを見上げるその睫毛に縁取られた目はすっと細められた。
「つまり君は、他の風紀の気を反らすためにわざわざ身を呈して騒動を起こした。その裏で別の事件が起きたと」
「例えば能義の怪我とかな」
「想像力逞しいのはいいことだ。ああ、そうだ。豊かな想像力は人生を彩るからね。……しかし、憶測で判断するのは危険だ。過度の妄想は目を曇らせてしまう」
「だーっ! うるせえ! 台詞がいちいちなげーんだよ、十五文字以内にまとめろ!」
「思い込みで人を疑うな」
「……って、言いたいんだよ。僕は」いつもと変わらない王子様スマイルを浮かべる寒椿に息を飲む。
野辺とはまた違う迫力がある笑顔だと思った。
この手の男相手に腹の探り合いは無意味だ。逆にこちらが食わせられる。そう俺はよく知っている。
「……アンタは、誰の味方だ」
軽く聞くつもりだったのに、思いの外上手く笑うことはできなかった。
寒椿は俺を見上げたまま、にこりと微笑むのだ。
「僕は僕の心の征くまま、僕がそのとき信じるべきものを信じるだけだ」
「無論、君もその内の一つだよ」恐るべきことに嘘を吐いているようには聞こえないのがこの男の恐ろしいところだと思う。
その答えが寒椿の全てだった。組織に属していながらも自由奔放に振る舞う寒椿らしいとは思うが、俺にとっては求めていた返答ではない。
寒椿を残したまま俺はカウンセリングルームをあとにした。
――学園内・廊下。
「なあ、尾張……良かったのか、あのまま放っておいて」
「なにがだ?」
「だってあいつ、ぜってーまだなにか隠してたぞ。お前さえよけりゃ別に俺が代わりにぶん殴ってでも……」
「いいんだよ、あいつはもう」
「……尾張」
少なくとも、寒椿が宛にならないことには間違いない。それに、あの口振りからして必要があれば岩片に寝返るつもりでもあるのだろう。
政岡の言う通り、ぶん縛るという手もあった。
けれど、それをしたところで起きる風紀委員との不和が今の俺にとっては面倒極まりない。
今回分かったことは風紀委員が宛にならないということだ。けれど、この状況で寒椿を裏切り者扱いして吊し上げて風紀の数少ない長所である結束力を失わせるのも惜しい。
それに、癪ではあるが寒椿は風紀委員のバランサーでもある。あの男がいなくなれば野辺を止めれる人間はいない。それならば、少なくとも俺だけでも寒椿が信用すべき人間ではないということを知っておけばいい。
確証ができた今、そう気持ちを切り換えることにした。
「尾張……」
「政岡も、付き合わせて悪かったな。……能義にも会うハメになったし、また後から疑われるかもな」
「別に、俺のことはどうでもいいんだよ。……それより、尾張、お前はこれから……」
「……どうすっかな」
案外あっさりと認められてしまった以上、こちらからはなにもいうこともない。
気になることはあるっちゃあるが……。
「……少し、一人で考えさせてくれ」
「尾張……」
「お前も気をつけろよ、政岡。……風紀は宛になんねーから」
ぽん、と政岡の胸を叩き、そのまま小さく手を振る。「尾張」とまだなにか言いたそうな政岡から逃げるように、そのまま俺は階段を登っていった。
応援ありがとうございます!
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