誰が女王を殺した?

田原摩耶

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全てを失った日

赤い初夜

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 ――アリスを殺す。
 なんとしてでもその隙きを探し出すのだ。

「……それにしても、王様が心配だな。君もそうだろう? ロゼッタ」
「……そう、だな」

 心配なんてするものか、寧ろジャックに暗殺を妨害されたことが歯痒く思えるほどだ。
 けれど、ここは適当に合わせておく。アリスに油断をさせるのだ。毒殺が確実だろうが、先程のこともある。最悪、このナイフで刺すしかない。そう服の下に忍ばせたナイフを確認したときだ。

「じゃあ決まったね。王様のところに行こう」
「っ、え……」
「王様もロゼッタが居なくなって心配していた。こんな時間ではあるが挨拶しに行こう」

「大丈夫だよ、僕も一緒にいる。君には危ない目には合わせないから」何を勘違いしているのか、見当違いなことを口にするアリスはそう僕の手を握るのだ。
 ――あの男に会う。
 最早父と呼ぶことにすら吐き気がする。母が処刑されどんな顔をしてのうのうと過ごしているのか見てみたい気持ちはあったが、いざとなると嫌悪感が勝った。
 それに、ジャックも一緒にいるという。――最悪のメンツだ。
 咄嗟にアリスの手を掴み返し、引き留めた。ここでジャックが僕の側に着くと余計動きにくくなってしまう。

「ロゼッタ?」
「……今は会いたくない」
「どうして? 心配なんだろ?」

 ああくそ、ああ言えばこう言う。ここでナイフで刺してやるか。そう、服の下に手を忍ばせた。

「……そ、れは」
「……ロゼッタ?」

 口ごもり、視線を泳がせる。言葉を探るようにして伸ばした片方の手を不意にアリスに握り締められた。
 ぎょっと顔を上げれば、先程までの緊張感のない腑抜けた顔とは違う、見たことのない表情のアリスがいた。

「なるほど、そういうことか」
「お、い……っ」

 重ねるように覆われた掌、そして絡め取られる指に息を飲む。妙な触り方をするな、と振り払おうとして手を持ち上げられる。何を、と言いかけるよりも先にアリスの唇が手首に押し当てられる。

「……ッな……」

 ちゅ、と小さな音を立て唇は離れる。
 伏し目を覆う長い睫毛を揺らし、顔を上げたアリスと至近距離で目が合った。
 手首へのキス、それが意味するのは――。

「僕の部屋に戻ろう。王様への挨拶は明日にでもすればいい」
「……ッ」

 誤解されている、間違いなく。
 あまりにもごく自然なアリスの動作に思わず反応に遅れてしまうが、背中へと回された腕に腰を撫でられ察する。
 そんなつもりで言ったのではない。あまりの不快感に全身が泡立つようだったが逆にこれは好機なのではないだろうか。
 閨では最も無防備になる。暗殺の手口としては常套手段だ。……大抵、女の暗殺者が男の貴族相手に使う技だが。
 それを何故僕が、と考えると酷く不快だったが今更なりふり構ってはいられない。

 ――できることはなんだってしてやる。
 そう自分自身を鼓舞することで精一杯だった。



 ――旧、女王の寝室。そこはほとんどが母が使っていたまま残されていた。
 赤と黒が基調となった壁紙やインテリア。どれほどぶりだろうか、母の寝室に入ったのは。恐らくまだ僕が一人で歩けるようになった頃くらいだろう。物心ついたときから自分の部屋が用意されていた。
 少なくとも当時の僕はこんな形で再び母の寝室に踏み込むとは思わなかっただろう。
 ――母との思い出の空間にこの男がいることだけでも吐き気を催す。そんな僕に気にもせず、アリスは僕が部屋に踏み入れるのを見て扉を閉める。
 邪魔者はいない。今度こそ、二人きりだ。

「……ロゼッタ」

 これだけ持て囃されてる男だ、こんな風に名前を呼ばれて喜ぶやつは山ほど居るのだろう。けれど僕はそうではない。気付けば扉を背に追い込まれていた。
 その唇が触れそうになり、咄嗟に僕はアリスの口を塞ぐ。

「っ、待て……」
「な……ロゼッタ、今度はどうしたんだい?」

 本気でこんな真似するつもりはない。こいつにこれ以上好き勝手されるつもりもなかった。
 困惑するアリスの胸をそっと押し返す。捻り出せ、一番適切な答えを

「……心の、準備が出来ていない」

 そう、声を絞り出せばアリスは呆けたように目を丸くした。そして、すぐにその表情を崩す。

「ロゼッタ……君はそうか、そうだよな。……ああ、よかった。舞い上がっているのは僕だけかと心配だったんだ。……君はいつもと変わらないから」

 言いながら、アリスは僕の髪を撫でる。全身が泡立ち、思わずその手を振り払いそうになった。まだだ。まだその時ではない。

「向こう、向いててくれないか」
「どうして?」
「……お前が見てると、その、やりづらい」

 この吐き気も、この嫌悪感も全て押し隠せているのかわからなかったが、アリスの表情からして少なからずこの馬鹿男は信じ込んでいるのだとわかった。
 アリスの頬が赤くなる、白い肌だからこそ余計その朱が目立った。それを隠すように掌で覆ったアリスは「あー……」と言いながら僕に背中を向けるのだ。

「ロゼッタ……わかった、恥ずかしいと言うなら僕は君がいいと言うまで待っているよ」

 背中を向けたその項すらもやや赤くなっている。ああ、僕に見せたな背中を。
 演技か、それとも本物の馬鹿なのか。この際どちらでも良かった、ナイフを取り出しアリスの背後に近付く。窓から射し込む月明かりを反射して鋭く光るナイフに自分の顔が映った。……酷い顔だった、まるで罪人のような目だ。自嘲し、そして保膜は無防備なその背中、臓物や神経が詰まっているであろうその腰に向かって思いっきりナイフを突き立てた。きつく目を瞑り、ナイフの柄を握り締めたまま体重をかける。
 ……そう、柄までその身体に刃を突き立てたはずだったのに一向に呻き声も刺したときの感触すらもない。まるで空気を刺したように手応えがなかったのだ。

「……ロゼッタ」

 何が起こっているのか、目を開くことを恐怖した。頭上から降りてくる声に、冷たい汗が滲む。ナイフを握り締めた掌に、アリスの掌が重ねられた。

「――……これは、なに?」

 低く、囁かれる声。先程までの溢れ出す喜怒哀楽なにもない、無感情な声に背筋が凍り付く。
 恐る恐る目を開けた瞬間、手の中にはナイフではなく赤い薔薇の花が握られていた。錯覚、手品、或いは奇術か。訳がわからない。顔を上げれば、僕のナイフを手にしたアリスが冷たい目で僕を見ていた。

「これはなんだ、ロゼッタ」

 僕の掌の薔薇を握り潰す。花弁はまるで血のように足元に落ち、僕の手ごと薔薇を握り潰したアリスに息を飲んだ。

「ロゼッタ……まさか、君は僕を殺そうとしたんじゃないだろうな」

 何故、何故刺すことができなかったのか。
 そんなことを考える暇はなかった。今までに見たことのない、いや、見たことはある――ダムを見たときのあの目だ。けれどそれを向けられたことはなあった。突き刺さるほどの明確な怒り、そして――。

「離せ……ッ!」

 こうなったら何もかも取り繕う必要もない。アリスの手からナイフを取り返そうとするが、手首ごと掴むアリスの指の力は強くびくともしない。

「君は、本当に……僕を殺そうとしたのか?」
「っ、黙れよ、お前のせいで母様は処刑された……っ、何もかもがめちゃくちゃだ」

「これ以上お前の好きにさせるつもりはない」そう、目の前のアリスを睨み付けたとき。アリスは何かを言いかけた。そして、深く息を吐く。

「……やはり、あの女を処刑させただけでは何も変わらないのか」
「っ、母様を愚弄するつもりか……ッ!」
「君は呪われている。……悪逆無道なあの女が居なくなれば或いはと思ったが……」
「……ッ、貴様……!」

 なんでもいい、力の差で敵わなくても隙きさえ作ってナイフを取り返せばいい。そう、劇薬の小瓶を取り出そうとしたとき。
 顎の下、触れた指先にそのまま顔を持ち上げられた。暗くなる視界の中、唇になにかが触れた。
 それがアリスの指だとわかったとき、咄嗟に歯を立てようとするがそれよりも強い力で口を抉じ開けられるのだ。

「っ、ん、ぁ……ッ!」
「残念だよ、ロゼッタ。……君に誘われたときは本当に嬉しかったのに」
「っ、あ、ぃ……ふ……ッ」
「僕が君の呪いを解いてあげるよ」

 抉じ開けられた顎、その奥に逃げ込んだ舌を無理矢理引きずり出される。やめろ、離せとアリスの指を引き抜こうとするが舌先をぐり、と指で押されれば痛みに腰が引きそうになる。

「ぁ、はな、へ……ッ!」
「……そういえば、ずっと君はポケットの中身を気にしていたようだね。ロゼッタ」
「……ッ、……!」
「余程、大切なものでも隠しているのかい?」

 甘い声とは裏腹にやつの言葉は感情がない。
 まずい、と焦るよりも先に劇薬を隠していたポケットにアリスの手が入ってくる。
 咄嗟に暴れて邪魔をするが、遅かった。
 ポケットの中から出てきた小瓶を手に、アリスは僕の眼前でその小瓶を傾ける。

「……ねえ、ロゼッタ。これはなに?」
「……っ、……」

 無色透明のその液体に、アリスも気付いてるはずだ。そしてわかっててそれを僕の口から聞き出そうとするのだ、この男は。
 目を逸らせば、アリスは「ああ、そう」と吐き捨てる。そして。

「じゃあ、確かめてみようか。ロゼッタ」

 その一言に背筋が凍り付く。
 やめろ、とやつから逃げようとするが更に強い力で舌を引っ張られれば身動きすら取れない。
 この男、まさか僕で試すつもりなのか。目の前、小瓶の蓋を器用に開けたアリスはそれを傾ける。
 そして、あろうことかやつは僕に飲ませる――のではなく、自分の口の中に中身を流し込んだのだ。

「……ッ!」

 正気か、と目を疑ったときだった。空になった小瓶を捨てたアリスは濡れた唇を舌で舐め取る。そして、笑うのだ。

「……君の反応、どうやらただのシロップだったというわけではなさそうだね」

 何故、この男はこうしてピンピンしているのか。化物か。それとも本当は劇薬ではなかったのか。
 まだ後者の方が現実味がある。
 捨てた小瓶から垂れた液体が紅いカーペットに微かに濡れ、その一部が変色したのを見てアリスは鼻で笑う。

「……ロゼッタ、残念だよ」
「っ、ふ、ぅ……ッ」
「あんなに純粋だった君が僕の知らない間にこんなに毒されていたなんて」

 怒りとも悲しみともつかない眼差しのまま、アリスは僕の唇に触れる。そして口をこじ開けられたまま唇を重ねてくる目の前の男に血の気が引いた。

「っひ、ぁ……ッ」

 やめろ、お前の口の中には毒が残っているはずだろう。そう慌ててアリスを引き剥がそうとするがアリスはそれを無視して舌の粘膜同士をこすり合わせるように舌を絡めてくるのだ。

「ん゛ッ、ぅ……ッ!」

 息が浅くなる。毒が回っているのかもわからない。けれど、口の中、触れた舌が熱く溶けるように痺れだすのだ。舌の根から裏側の血管までもを舌先で愛撫され、先端部をぢう、と吸い上げられれば頭の奥からじわりと熱が溢れるようだった。

「っは、ぁ……ッ!」
「っ、ふ、ふふ……ロゼッタ、怯えてるの? 身体、震えているじゃないか。……もしかして、自分まで毒で死んでしまったらと思ってるのかい?」
「っ、……ッお、まえ……ん、ぅ……ッ!」

 ぬるりと絡められる舌を今度こそ噛んでやろうと思うが、アリスに舐められた場所がじんじんと痺れ、熱を持ち、乾いていくのだ。アリスの濡れた舌で舐められるだけで満たされるようだった。水分が失われていくような感覚の中、アリスの唾液が甘く、舌を絡められ唾液を流し込まれるだけで身体が反応しそうになる。
 まさか、毒の効果か。近付いてくる死の恐怖に見えない真綿に首を締められていくようだ。

「っ、ふ、ぅ……ッ!」
「……っ、は、ロゼッタ……大丈夫だよ、君は死なない」
「っん、ぅう……ッ!」

 後頭部を掴まれ、更に深く唇を塞がれる。アリスに口付けされるだけなのに、まるで甘いケーキを食べているように多幸感に包まれていくのだ。こんなの、おかしい。こんなはずないのに。毒を口移しされ、この男にキスをされて喜ぶはずがない。

「っ、お前……な、にを……した……ッ?!」

 先程まで余計なことまでべらべらと喋っていたくせに、尋ねればアリスはただ柔らかく微笑むのだ。そして、ロゼッタ、と悍ましいほど優しい声で僕を呼ぶ。その声に、体とは別の深い部分が反応してしまうのだ。

「や、めろ……呼ぶな……ッ」
「僕は言ったよね、君は呪われてると。……そう、あの恐ろしい女の呪いだ。僕はただ、君に本来の姿を取り戻してもらいたいと思ってる」

 心からね、と僕の手を取ったアリスは指先に舌を這わせるのだ。茨を掴んだときに傷付いてしまったのだろう、細かい切り傷が残った掌、そして指先に唇を押し付け、アリスは舌を這わせる。

「っ、や……めろ……!」

 振り払おうとするが、傷を舐められた瞬間全身が大きく震えた。やめろ、と吐き出す都度喉が震え、呼吸が浅くなる。毒が体の芯から爪先まで回っていくようだった。

「このままだと君は身を滅ぼす」
「お、まえが……殺すんだろう、お母様みたいに僕を……ッ!」
「ロゼッタ、まだ君は勘違いしてる。僕に君を殺す気は毛頭ない。……君が僕を殺そうとしていてもね」

 すり、と先ほど口付けられた手首を撫でられ、身体が硬直する。僕の手を掴んだまま、その手を自分の頬へと押し当てるアリスは切なそうに目を細めるのだ。

「それに、僕は死なない。君が僕を絞め殺そうとしようが、焼き尽くそうとしようが、劇薬で骨まで溶かそうとしても君に僕を殺すことは不可能だ」

「それが、僕の呪いだからね」頭のいかれた男はそう笑った。冗談にしてはつまらない。そして、先程の異様な体験を思い出す。この男の戯言だ。
 わかっているのに、そう思いたいのに。

「……ッ」

 殺すこともできないのならば、どうすればこの男を傷付ける事ができるのか。麻痺したようにどろりと溶けていくような頭の中、僕はアリスの手の中からナイフを奪った。

「ロゼ――」

 そう、アリスが名前を呼ぶよりも先に僕はそのナイフで自分の首を掻き切った。
 皮膚に刃物が食い込む感触がやけに覚えている。視界が赤く染まっていく中、目を見開いたアリスの顔が網膜に焼き付く。
 それを最後に世界は幕を閉じたのだ。

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