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78【side:真夜】
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自分たち以外のSubとDomが集まる学園は見ていて不思議だった。
Normalと恋愛ごっこしてるSubも、コマンド一つでぐちゃぐちゃになって最終的には俺のことが好きだって言ってくれる。決まって向けられる好意は汚泥のようにどろりとした愛ばかりで、俺にとっては蜂蜜みたいに甘くてそれが普通でそれが褒美だと思っていた。
のに。
何度か桐蔭菖蒲がSubといるところを見たことがある。
あの人は表向きでDomと公言し、複数のSubを“飼っている”。
俺たちにもペットと呼べるような不特定多数のSubはいた。けど、あの人と一緒にいるSubは違った。
きらきらして、綿菓子みたいにふわふわした、触れたら掻き消えてしまいそうな淡い感情が漏れている。
そんなもの、見たことがない。いや、正確にはあった。俺らがダイナミクスに目覚める前、まだもっと幼い頃。
純粋な恋心。それを、SubがDomに向ける。それも、あの人に。
他人を羨ましいなんて思ったことなかった。
何故あの人がSubに愛されてるのか。必要とされるのか。考えれば考えるほど理解できない。
「やあ、真夜。いたのかい。……入るといい。丁度君に書類整理を頼みたかったんだ」
「……あーい」
菖蒲さんと一緒にいたSubはどこのクラスかもすぐに分かった。俺らが目をつけていたSubの一人だったから。
だから、菖蒲さんの隙を狙って近付いて襲うのも別に簡単だった。俺と小晴が二人いて逃げられるSubなんていないから。
あのSubが菖蒲さんではなく、俺を好きになればあのきらきらとした感情を向けられるのだろうか。そう楽しみにしていたが、実際はどうだ。抱き潰して、何度も好きだと言わせた。コマンドで塗り替えて、体も全部自分のものにしたのに、向けられるのはやはり汚泥混じりの感情ばかりだった。
心底落胆した。気持ちいいのには変わらない。けど、俺が欲しかったものはこれじゃなかった。
小晴から呆れられた。
「お前、会長の犬に手ぇ出したろ」
「構って欲しそうだったから構っただけ」
「あんま目立つ真似すんなよ、あの人寝取られ趣味ねーだろ」
「……分かってる」
固執してるつもりはなかった。けど、小晴に注意されるってのは多分相当だったと思う。
俺とあいつのなにが違うのか。あの男の仮面を引き剥がしてやりたかったのもある。自分の飼い犬が他の男に靡いたらどんな反応するのかも。
けど、最後の最後まであの人は俺の前で本心を口にすることはなかった。
「真夜、今日限りを持って生徒会補佐を解任する。理由の説明は必要ないだろ?」
「会長のセフレ寝取ったから?」
「素行の問題だ。お前宛に他にも複数苦情が届いている」
「……」
「……僕はお前に何かしたか?」
仮面の下からどろりとした感情が溢れる。赤――怒り。
きた、と思った。口の中に唾液が滲む。けど、それも一瞬ですぐに仮面の奥へと引っ込んだ。
結局俺は生徒会もあっさり辞めさせられる。
別に悔いはなかった。寧ろ小晴の方が先に辞めると思ってただけに続いてるのは意外だった。
優しい優しいDom様会長は三年生に上がり、さらに多くの新入生たちから羨望の眼差しを向けられる。
俺たちも二年生になった。小晴は生徒会の仕事が忙しくて最近遊べていない。だから代わりと言っちゃなんだが、生徒会を辞めてからは暫く俺はSubと遊ぶことに夢中になっていた。
Subは分かりやすい。桐蔭菖蒲に惹かれるようなSubは特にキラキラして見えたから。
「月夜野弟、兄を呼べ」
「愛ちゃん、今日もかわいーね。お仕事頑張ってる?」
「良いから黙って兄を呼べっ!」
「はいはい。……こは~」
二年の春。俺の後釜で生徒会長補佐に入ってきた愛佐一凛はSubの中のSubだった。
Dom、Normal、Sub――その中で最も最下層にいるSランクのSub。逆らえる人間なんていないはずのよわよわSubのくせに、愛ちゃんは変な子だった。
警戒心強くて、その癖逃げない。Domの性質もよく分かってないほどの箱入りSub。
まさしく格好の餌。Domに飼われるためだけに産まれてきたみたいな愛ちゃんは、桐蔭菖蒲に囲われていた。
特別教室棟にある空き教室。そこからは生徒会室の様子が見える。放課後の生徒会室で桐蔭菖蒲に抱かれてる愛佐一凛を見て胸の奥が酷く疼いたのを覚えてる。
悪い癖だって小晴は言ってた。あいつに分かるわけがない。Subから愛されることを知らないあいつには。
同じSSランクのDomでどうしてこうも違うのか。あの男に向けられる感情が強ければ強いほど、目も眩むような欲求に掻き乱される。
「びょーきだな、びょーき。お前の悪い癖だ」
「良いから。早く愛ちゃん連れてこいよ」
「まだダメだ。つか一応あいつ俺の可愛がってる後輩だからな。……って、そうだ。そういや今度転校生くるんだってよ」
「転校生? ……可愛い子?」
「SランクのSub」
「愛ちゃん似?」
「正反対。けど、理事長の親戚だってよ。ほら」
「……へー」
放り投げられたスマホを覗けば、画面にはいかにも男ウケ良さそうな屈託のない笑顔を浮かべた少年がいた。
「Subだってバレたら大変そー」
「そ。だから菖蒲さんもそっちの世話しなきゃなんねーとか」
「……ふーん?」
「どうなるか分かんねえけど、あのクソ理事長様の大切な親戚らしいからな。……暫くは付きっきりだろ」
小晴と目が合う。多分、考えてることは同じだ。
桐蔭菖蒲の直接の保護下から外れる瞬間、あのSubと遊ぶには丁度良い。
愛ちゃんをこの手に堕とせるのなら楽しみだ。それも、今まで寝取ってきたただの飼い犬Subではない。桐蔭菖蒲が他よりも目を掛けている愛犬。そんなの。
「……最ッ高だな、こは」
「……おい、真夜」
「……ん~……愛ちゃん?」
「重い、邪魔だ。……寝苦しい」
「そんな寂しいこと言うなよ……ほら、抱っこ」
「いらん。……トイレ行くから離れろ」
懐かしい夢を見てた気がする。
愛ちゃんは腕の中にいて、今では俺が愛ちゃんの部屋で寝泊まりする形になってる。
本当に、何が起きるのか分からないと思う。
最初はほんの好奇心、腹いせのようなものだったのに、まさかここまで自分が特定のSubのパートナーになるとは思わなかった。
「愛ちゃん、会計の仕事は大変?」
「……やることは多いが、基本はマニュアル化されてる。その通りにすれば間違えることはない」
「ふーん……」
冷蔵庫から取り出したボトルを直飲みしてる愛ちゃんを眺める。
愛ちゃんが生きてる。動いてる。
まだ怠い体を動かして歩み寄れば、相変わらずむっとした顔で愛ちゃんはこちらを睨む。けど、以前のような刺々しさはない。
「……なんだ、眠いなら寝ろ」
「……んー、もうちょっと」
「重……っ、抱きついてくるな……っ! せめて飲み終わるまで待ってろ」
「ん~……」
ちゅ、ちゅ、とキスをすればみるみる内に赤くなっていく。
愛ちゃんは、初めて会った時、会長に向けていたようなキラキラはなくなった。けど、俺を睨む目はやっぱりキラキラしてる。何が違うんだろうかとずっと寝顔を見つめたり、たまに脇腹をくすぐったりして確かめていた。
愛ちゃんは他のSubよりも喜怒哀楽分かりやすいし隠そうともしない。
俺の顔を見る度に全身で嫌いだって言ってた愛ちゃん。そんな愛ちゃんが今は俺だけを頼ってくれている。そんな状況が気持ちいいのかと思ってた時もあった。
けど、多分それだけじゃない。
「……おい、真夜」
「名前」
「……は?」
「愛ちゃんに名前呼ばれんの、好きだわ。やっぱ」
「………………知らん」
「真っ赤」
「気のせいだ。……起きるならさっさと顔洗ってこい」
「……はーい」
桐蔭菖蒲が羨ましかった。Subからあんなにも求められ、愛される桐蔭菖蒲が。
だから愛ちゃんに近付いたはずだったのに、いつからか手段が目的とすり替わっていた。
桐蔭菖蒲はSubを愛せない。
あの男はSub、自分の性を憎んでいる。恨んでいる。だからこそ取り繕うことができる。自分を律して演じることができる。
その結果、Subを苦しめることになっても厭わないからだ。
「……」
鏡の中の自分の顔を見つめる。
俺と桐蔭菖蒲は正反対だった。それこそないものねだり。そりゃそうだ。最初から桐蔭菖蒲になれることなど無理だった。俺は、Subからの愛がなければ生きていけない。
理解できるはずがない。なかった。
桐蔭菖蒲を本気で好きになったからこそ苦しむ愛ちゃんを見た時、明確に理解した。真っ当なDomだったら自分の飼い犬をここまで放置することはできない。
「好き……ね」
あの日。桐蔭菖蒲を見つけたあの部屋の中。一瞬殺人現場にでも踏み込んでしまったかと思った。
強い怒りと憎悪、仮面でも覆い隠せないほどの渦巻いた感情の波――桐蔭菖蒲のグレアを前に、俺は後悔した。あの男の腕の中で気絶した血まみれになった愛ちゃんを見て頭から血が引いていく。
この男がここまで溜め込んでいたのか。滲み出ていたドス黒い感情がまだマシだと思えるほどの吐き気。
『……アンタ、自分が何してるのか分かってるのかよ』
『真夜。お前の言った通りだな』
『……は?』
『僕はDom失格だ』
愛ちゃんを抱き抱えたまま出て行こうとする桐蔭菖蒲の姿は今でも覚えてる。高嶺の花と名高い美貌も跡形もない。鼻血も唇の血も拭うこともしないまま、それでもしっかりとした足取りで愛ちゃんを連れて行こうとするあの男を見た時、考える余裕もなかった。
「……」
手のひらを見つめる。
まだ手の中には感情が残っている。桐蔭菖蒲を殴った時の感触が。
桐蔭菖蒲は死にかけだった。Domの精神状態はSubに大きく影響を与える。あの人はそれを軽視していた。知ろうとせず避けてきた。その結果がこれだ。
桐蔭菖蒲を気絶させ、とにかく愛ちゃんを保護することが優先だった。すぐに二人救急車を呼んで、あの時は思い出しただけで具合が悪くなる。
『お前がそんなことするなんてな』と小晴が笑ってた。俺だって、驚いた。けど、今思い返すとあの時の判断は間違っていなかった――はずだ。そう思いたい。
桐蔭菖蒲は愛ちゃんとは別の、Dom専門の病院に運ばれた。――と、理事長から聞いた。
『生徒会長としての責務に追われていたところ、可愛がっていたSubの後輩が他生徒により暴行されたことにより強く精神を揺さぶられグレアを発症。本人のメンタルをケアをする必要があり、しかるべき施設で長期療養させる』とのこと。
どこまでが本当かは知らない。最後の最後までこの男の口からはヘドロのような息しか見えなかった。
けど、俺の知ってる桐蔭菖蒲――あの男はただ自分の飼い犬を傷つけられたくらいで動揺する男ではない。それよりももっと、根源を揺るがすような何かがあったのではないか。自分の過ちに気付けたくらいの何かが。
だったらいいと思う。これは俺のエゴだ。
……だって、そうじゃないとムカつくから。
あの時、初めてあの人と話せた気がした。
実際は心臓バクバクになってグレアまみれだわ愛ちゃん死にかけてるわでそれどころではなかったのに、今になって思い返せばあの時の一言がやけに頭に残っていた。
分かり合えるとは思ってないけど、もっとちゃんと話してたら違ってたのか。そんな馬鹿げたたらればを考えてしまうくらいには。
「真夜、飯は」
「ん……ああ、お腹減ったんだ? 食堂行く?」
「……」
きゅるる、とお腹を鳴らした愛ちゃんが頷く。思わず笑えば、「今のは俺じゃない」とか謎の言い訳をする愛ちゃんの頭を撫でてやる。
桐蔭菖蒲のことを忘れるべきは愛ちゃんだけではない。
あの男はいなくなって、あの男が消えた後もこうして時間は進んでる。なら、もういいだろう。
理事長が言うには病院を退院してもこの学園にあの男が戻ってくることはない。元より、問題を起こさないことが約束だったのだと言う。
だから実家にでも帰るのだろう。また一度会いたい気持ちもあった。仮面が剥がれた後のあの男がどう生きるのか興味がある反面、今の愛ちゃんと俺の関係を邪魔されたくなかった。
「……」
過剰防衛。違う、殺す気でなければあの男を止めることはできなかった。
お咎めなしの代わりに、桐蔭菖蒲のことも今後一切触れるなと理事長と交渉した。それから、愛ちゃんのことも。
愛ちゃんの親への口回しに理事長も協力してもらって、俺は親公認の愛ちゃんのパートナーにもなれた。愛ちゃんも、そのことを受け入れてくれてる。
コマンドが通用しなくなったのは予想外だったし少し狂わされたが、逆にこれは好都合だ。俺以外のDomに良いようにされることもない。――小晴にもだ。
俺だけのSub。あいつと共有しなくてもいい、俺だけのペット。俺だけに心開いてくれる愛ちゃん。
「愛ちゃん、お待たせ」
「……何ニヤニヤしてんだよ」
「してない。てか、俺は元々こういう顔だから」
「ふーん」
「なんだよ、反応薄」
「いいから食堂、行くぞ。……混むから」
「はーい」
相変わらずツンツンしてるが、それでも確かに以前よりも和らいだ愛ちゃんからの信頼が心地いい。
俺はそのまま愛ちゃんの部屋に置きっぱなしにしてた上着を羽織り、愛ちゃんと一緒に部屋を出た。
Normalと恋愛ごっこしてるSubも、コマンド一つでぐちゃぐちゃになって最終的には俺のことが好きだって言ってくれる。決まって向けられる好意は汚泥のようにどろりとした愛ばかりで、俺にとっては蜂蜜みたいに甘くてそれが普通でそれが褒美だと思っていた。
のに。
何度か桐蔭菖蒲がSubといるところを見たことがある。
あの人は表向きでDomと公言し、複数のSubを“飼っている”。
俺たちにもペットと呼べるような不特定多数のSubはいた。けど、あの人と一緒にいるSubは違った。
きらきらして、綿菓子みたいにふわふわした、触れたら掻き消えてしまいそうな淡い感情が漏れている。
そんなもの、見たことがない。いや、正確にはあった。俺らがダイナミクスに目覚める前、まだもっと幼い頃。
純粋な恋心。それを、SubがDomに向ける。それも、あの人に。
他人を羨ましいなんて思ったことなかった。
何故あの人がSubに愛されてるのか。必要とされるのか。考えれば考えるほど理解できない。
「やあ、真夜。いたのかい。……入るといい。丁度君に書類整理を頼みたかったんだ」
「……あーい」
菖蒲さんと一緒にいたSubはどこのクラスかもすぐに分かった。俺らが目をつけていたSubの一人だったから。
だから、菖蒲さんの隙を狙って近付いて襲うのも別に簡単だった。俺と小晴が二人いて逃げられるSubなんていないから。
あのSubが菖蒲さんではなく、俺を好きになればあのきらきらとした感情を向けられるのだろうか。そう楽しみにしていたが、実際はどうだ。抱き潰して、何度も好きだと言わせた。コマンドで塗り替えて、体も全部自分のものにしたのに、向けられるのはやはり汚泥混じりの感情ばかりだった。
心底落胆した。気持ちいいのには変わらない。けど、俺が欲しかったものはこれじゃなかった。
小晴から呆れられた。
「お前、会長の犬に手ぇ出したろ」
「構って欲しそうだったから構っただけ」
「あんま目立つ真似すんなよ、あの人寝取られ趣味ねーだろ」
「……分かってる」
固執してるつもりはなかった。けど、小晴に注意されるってのは多分相当だったと思う。
俺とあいつのなにが違うのか。あの男の仮面を引き剥がしてやりたかったのもある。自分の飼い犬が他の男に靡いたらどんな反応するのかも。
けど、最後の最後まであの人は俺の前で本心を口にすることはなかった。
「真夜、今日限りを持って生徒会補佐を解任する。理由の説明は必要ないだろ?」
「会長のセフレ寝取ったから?」
「素行の問題だ。お前宛に他にも複数苦情が届いている」
「……」
「……僕はお前に何かしたか?」
仮面の下からどろりとした感情が溢れる。赤――怒り。
きた、と思った。口の中に唾液が滲む。けど、それも一瞬ですぐに仮面の奥へと引っ込んだ。
結局俺は生徒会もあっさり辞めさせられる。
別に悔いはなかった。寧ろ小晴の方が先に辞めると思ってただけに続いてるのは意外だった。
優しい優しいDom様会長は三年生に上がり、さらに多くの新入生たちから羨望の眼差しを向けられる。
俺たちも二年生になった。小晴は生徒会の仕事が忙しくて最近遊べていない。だから代わりと言っちゃなんだが、生徒会を辞めてからは暫く俺はSubと遊ぶことに夢中になっていた。
Subは分かりやすい。桐蔭菖蒲に惹かれるようなSubは特にキラキラして見えたから。
「月夜野弟、兄を呼べ」
「愛ちゃん、今日もかわいーね。お仕事頑張ってる?」
「良いから黙って兄を呼べっ!」
「はいはい。……こは~」
二年の春。俺の後釜で生徒会長補佐に入ってきた愛佐一凛はSubの中のSubだった。
Dom、Normal、Sub――その中で最も最下層にいるSランクのSub。逆らえる人間なんていないはずのよわよわSubのくせに、愛ちゃんは変な子だった。
警戒心強くて、その癖逃げない。Domの性質もよく分かってないほどの箱入りSub。
まさしく格好の餌。Domに飼われるためだけに産まれてきたみたいな愛ちゃんは、桐蔭菖蒲に囲われていた。
特別教室棟にある空き教室。そこからは生徒会室の様子が見える。放課後の生徒会室で桐蔭菖蒲に抱かれてる愛佐一凛を見て胸の奥が酷く疼いたのを覚えてる。
悪い癖だって小晴は言ってた。あいつに分かるわけがない。Subから愛されることを知らないあいつには。
同じSSランクのDomでどうしてこうも違うのか。あの男に向けられる感情が強ければ強いほど、目も眩むような欲求に掻き乱される。
「びょーきだな、びょーき。お前の悪い癖だ」
「良いから。早く愛ちゃん連れてこいよ」
「まだダメだ。つか一応あいつ俺の可愛がってる後輩だからな。……って、そうだ。そういや今度転校生くるんだってよ」
「転校生? ……可愛い子?」
「SランクのSub」
「愛ちゃん似?」
「正反対。けど、理事長の親戚だってよ。ほら」
「……へー」
放り投げられたスマホを覗けば、画面にはいかにも男ウケ良さそうな屈託のない笑顔を浮かべた少年がいた。
「Subだってバレたら大変そー」
「そ。だから菖蒲さんもそっちの世話しなきゃなんねーとか」
「……ふーん?」
「どうなるか分かんねえけど、あのクソ理事長様の大切な親戚らしいからな。……暫くは付きっきりだろ」
小晴と目が合う。多分、考えてることは同じだ。
桐蔭菖蒲の直接の保護下から外れる瞬間、あのSubと遊ぶには丁度良い。
愛ちゃんをこの手に堕とせるのなら楽しみだ。それも、今まで寝取ってきたただの飼い犬Subではない。桐蔭菖蒲が他よりも目を掛けている愛犬。そんなの。
「……最ッ高だな、こは」
「……おい、真夜」
「……ん~……愛ちゃん?」
「重い、邪魔だ。……寝苦しい」
「そんな寂しいこと言うなよ……ほら、抱っこ」
「いらん。……トイレ行くから離れろ」
懐かしい夢を見てた気がする。
愛ちゃんは腕の中にいて、今では俺が愛ちゃんの部屋で寝泊まりする形になってる。
本当に、何が起きるのか分からないと思う。
最初はほんの好奇心、腹いせのようなものだったのに、まさかここまで自分が特定のSubのパートナーになるとは思わなかった。
「愛ちゃん、会計の仕事は大変?」
「……やることは多いが、基本はマニュアル化されてる。その通りにすれば間違えることはない」
「ふーん……」
冷蔵庫から取り出したボトルを直飲みしてる愛ちゃんを眺める。
愛ちゃんが生きてる。動いてる。
まだ怠い体を動かして歩み寄れば、相変わらずむっとした顔で愛ちゃんはこちらを睨む。けど、以前のような刺々しさはない。
「……なんだ、眠いなら寝ろ」
「……んー、もうちょっと」
「重……っ、抱きついてくるな……っ! せめて飲み終わるまで待ってろ」
「ん~……」
ちゅ、ちゅ、とキスをすればみるみる内に赤くなっていく。
愛ちゃんは、初めて会った時、会長に向けていたようなキラキラはなくなった。けど、俺を睨む目はやっぱりキラキラしてる。何が違うんだろうかとずっと寝顔を見つめたり、たまに脇腹をくすぐったりして確かめていた。
愛ちゃんは他のSubよりも喜怒哀楽分かりやすいし隠そうともしない。
俺の顔を見る度に全身で嫌いだって言ってた愛ちゃん。そんな愛ちゃんが今は俺だけを頼ってくれている。そんな状況が気持ちいいのかと思ってた時もあった。
けど、多分それだけじゃない。
「……おい、真夜」
「名前」
「……は?」
「愛ちゃんに名前呼ばれんの、好きだわ。やっぱ」
「………………知らん」
「真っ赤」
「気のせいだ。……起きるならさっさと顔洗ってこい」
「……はーい」
桐蔭菖蒲が羨ましかった。Subからあんなにも求められ、愛される桐蔭菖蒲が。
だから愛ちゃんに近付いたはずだったのに、いつからか手段が目的とすり替わっていた。
桐蔭菖蒲はSubを愛せない。
あの男はSub、自分の性を憎んでいる。恨んでいる。だからこそ取り繕うことができる。自分を律して演じることができる。
その結果、Subを苦しめることになっても厭わないからだ。
「……」
鏡の中の自分の顔を見つめる。
俺と桐蔭菖蒲は正反対だった。それこそないものねだり。そりゃそうだ。最初から桐蔭菖蒲になれることなど無理だった。俺は、Subからの愛がなければ生きていけない。
理解できるはずがない。なかった。
桐蔭菖蒲を本気で好きになったからこそ苦しむ愛ちゃんを見た時、明確に理解した。真っ当なDomだったら自分の飼い犬をここまで放置することはできない。
「好き……ね」
あの日。桐蔭菖蒲を見つけたあの部屋の中。一瞬殺人現場にでも踏み込んでしまったかと思った。
強い怒りと憎悪、仮面でも覆い隠せないほどの渦巻いた感情の波――桐蔭菖蒲のグレアを前に、俺は後悔した。あの男の腕の中で気絶した血まみれになった愛ちゃんを見て頭から血が引いていく。
この男がここまで溜め込んでいたのか。滲み出ていたドス黒い感情がまだマシだと思えるほどの吐き気。
『……アンタ、自分が何してるのか分かってるのかよ』
『真夜。お前の言った通りだな』
『……は?』
『僕はDom失格だ』
愛ちゃんを抱き抱えたまま出て行こうとする桐蔭菖蒲の姿は今でも覚えてる。高嶺の花と名高い美貌も跡形もない。鼻血も唇の血も拭うこともしないまま、それでもしっかりとした足取りで愛ちゃんを連れて行こうとするあの男を見た時、考える余裕もなかった。
「……」
手のひらを見つめる。
まだ手の中には感情が残っている。桐蔭菖蒲を殴った時の感触が。
桐蔭菖蒲は死にかけだった。Domの精神状態はSubに大きく影響を与える。あの人はそれを軽視していた。知ろうとせず避けてきた。その結果がこれだ。
桐蔭菖蒲を気絶させ、とにかく愛ちゃんを保護することが優先だった。すぐに二人救急車を呼んで、あの時は思い出しただけで具合が悪くなる。
『お前がそんなことするなんてな』と小晴が笑ってた。俺だって、驚いた。けど、今思い返すとあの時の判断は間違っていなかった――はずだ。そう思いたい。
桐蔭菖蒲は愛ちゃんとは別の、Dom専門の病院に運ばれた。――と、理事長から聞いた。
『生徒会長としての責務に追われていたところ、可愛がっていたSubの後輩が他生徒により暴行されたことにより強く精神を揺さぶられグレアを発症。本人のメンタルをケアをする必要があり、しかるべき施設で長期療養させる』とのこと。
どこまでが本当かは知らない。最後の最後までこの男の口からはヘドロのような息しか見えなかった。
けど、俺の知ってる桐蔭菖蒲――あの男はただ自分の飼い犬を傷つけられたくらいで動揺する男ではない。それよりももっと、根源を揺るがすような何かがあったのではないか。自分の過ちに気付けたくらいの何かが。
だったらいいと思う。これは俺のエゴだ。
……だって、そうじゃないとムカつくから。
あの時、初めてあの人と話せた気がした。
実際は心臓バクバクになってグレアまみれだわ愛ちゃん死にかけてるわでそれどころではなかったのに、今になって思い返せばあの時の一言がやけに頭に残っていた。
分かり合えるとは思ってないけど、もっとちゃんと話してたら違ってたのか。そんな馬鹿げたたらればを考えてしまうくらいには。
「真夜、飯は」
「ん……ああ、お腹減ったんだ? 食堂行く?」
「……」
きゅるる、とお腹を鳴らした愛ちゃんが頷く。思わず笑えば、「今のは俺じゃない」とか謎の言い訳をする愛ちゃんの頭を撫でてやる。
桐蔭菖蒲のことを忘れるべきは愛ちゃんだけではない。
あの男はいなくなって、あの男が消えた後もこうして時間は進んでる。なら、もういいだろう。
理事長が言うには病院を退院してもこの学園にあの男が戻ってくることはない。元より、問題を起こさないことが約束だったのだと言う。
だから実家にでも帰るのだろう。また一度会いたい気持ちもあった。仮面が剥がれた後のあの男がどう生きるのか興味がある反面、今の愛ちゃんと俺の関係を邪魔されたくなかった。
「……」
過剰防衛。違う、殺す気でなければあの男を止めることはできなかった。
お咎めなしの代わりに、桐蔭菖蒲のことも今後一切触れるなと理事長と交渉した。それから、愛ちゃんのことも。
愛ちゃんの親への口回しに理事長も協力してもらって、俺は親公認の愛ちゃんのパートナーにもなれた。愛ちゃんも、そのことを受け入れてくれてる。
コマンドが通用しなくなったのは予想外だったし少し狂わされたが、逆にこれは好都合だ。俺以外のDomに良いようにされることもない。――小晴にもだ。
俺だけのSub。あいつと共有しなくてもいい、俺だけのペット。俺だけに心開いてくれる愛ちゃん。
「愛ちゃん、お待たせ」
「……何ニヤニヤしてんだよ」
「してない。てか、俺は元々こういう顔だから」
「ふーん」
「なんだよ、反応薄」
「いいから食堂、行くぞ。……混むから」
「はーい」
相変わらずツンツンしてるが、それでも確かに以前よりも和らいだ愛ちゃんからの信頼が心地いい。
俺はそのまま愛ちゃんの部屋に置きっぱなしにしてた上着を羽織り、愛ちゃんと一緒に部屋を出た。
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