飼い犬Subの壊し方

田原摩耶

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「……っ、ぁ、菖蒲……さん……?」

 何か余計なことを言ってしまったのか。
 けど、分からない。どうして菖蒲さんがこんなに怒ってるのかが分からない。
 酸素が薄まっていき、パニックで余計思考がままならない。はっはっと呼吸を整えようとして上手くいかない俺の頬にそっと菖蒲さんの手が触れる。

「そっかぁ、へえ。……それで?」

 優しい声、のはずなのに。噛み合っていない。こんなにすぐ側にいるはずなのに、まるで菖蒲さんが見えない。

「ぁ、そ、それで、……目を覚ましたら菖蒲さんがいて……」
「……」

 なんで、菖蒲さんのグレアが濃くなっているんだ。その理由さえ分かればまだ良かった。
 口の中が乾いていく。眼球の奥に針が刺すような痛みが走る。文字通り外圧に押し潰されるかのような錯覚に指先が痺れ、無意識に菖蒲さんにしがみついていた。菖蒲さんはそんな俺を抱き止め、頬を撫でいた指先がするりと顎の下を撫でる。

「目を覚ましたら僕がいて、ガッカリした?」
「っ、ち、違……っ、う、く……っ」
「愛佐。素直は君の美徳だ。……いや、美徳だった」

 軽く顎を持ち上げられ、目の奥まで覗き込まれる。
 見つめられれば見つめられるほど吸い込まれる程の深い瞳。今は、それから二重の意味で逸らすことができなかった。

「君は本当に嘘が下手だね。悲しいくらいに。そんなところが……そうだね、僕は気に入っていたんだよ」
「――」
「協力感謝するよ、愛佐。……君のお陰で多少なりとも自分を理解することができた」

「ああ、それはもう嫌って程にね」菖蒲さんが笑ってる。いつもの柔らかい微笑みとも先ほどの嘲笑とも違う、貼り付けたような冷たい笑顔。

 菖蒲さんは何を言ってるんだ。俺は嘘を吐いたつもりはない。ちゃんと、コマンドに応えたはずなのに。どうして。

 弁明する隙すら与えられない。口を開こうとすればするほど言葉が浅い呼吸となって洩れていく。
 菖蒲さんが求めた言葉以外、口にすることすらも許されないのだ。

「……っ、は、ぁ、やめ、さ……っ、ご、めんなさい……」
「……」
「俺がお、怒らせてしまったなら、しゃ……ざい、します。だから、……っ」

 グレアを止めて下さい。
 カチ割れそうな程の頭痛と吐き気にえずきながら藻掻く。油断をすれば気を失いそうな程気付けば追い詰められていたことに気付いた。
 頬を濡らすのが汗なのか涙なのかも分からない。いつ自分が泣いていたのかも分からない。けど、ただひたすら困惑した。悲しいというよりも、何が起きてるのか分からない。だから菖蒲さんの心無い言葉を悲しむ余裕もない。

 菖蒲さんは俺の前髪を撫で、そして軽くキスをした。和らぐどころかキスされた場所は熱した鉄でも押し当てられたように熱く疼き、小さな呻き声が漏れてしまう。

「っ、ぅ、ん゛……っ」

 唇はすぐに離れた。それでもまだ痺れの残った唇を舐め取り、菖蒲さんは目を細めた。

「……可哀想に、震えてるね。愛佐」
「っ、ぅ……」
「そんなに、僕に触れられるのは嫌?」
「ち、ちがっ」
「《本当に?》」

 手を取られたかと思えばそのまま掌を重ねるように菖蒲さんに握り締められる。瞬間、無数の針が掌を貫通するような痛みが走った。
 ――無論、錯覚だ。
 そのはずなのに、恋人同士のように繋がれた手に汗が止まらない。
 菖蒲さんから触れられるのは嬉しい、はずなのに。
 針の筵を無理矢理握らされたような逃れられない痛みに耐えきれず、咄嗟に俺は菖蒲さんの手を引き剥がそうとした。が、菖蒲さんはそれを拒むように更に強く握り締められた。手の甲の骨が軋む。掌同士がくっついてしまってるのではないか、そう恐ろしくなるほど硬く手を握られる。

「っあ、菖蒲さん……っ!」
「ほらね、嘘を吐いた」
「うっ、や」
「君は優しいね。僕を傷付けないように我慢してくれてたんだろうけど……そうか、そうなんだ」

「僕は用済みだって?」目の前、菖蒲さんの声だけが頭に響く。
 痛い程の菖蒲さんの感情が穴という穴から流れ込んできて、受け止め切れることができない。それどころか、耐えることもできていないだろう。

 違います、と何度必死に首を振って否定するが、菖蒲さんには届かない。
 菖蒲さんが何を恐れてるのか、何に怒ってるのか分からない。けど、勘違いしてる。俺は菖蒲さんを用済みだなんて思っていない。そんな烏滸がましいこと。
 寧ろ、捨てられてもおかしくないのは俺で。

「……っ、……」

 言葉で伝わらないなら、示すしかない。
 指一本動かそうとする度に全身が悲鳴を上げる。菖蒲さんに伝えなければならない。俺の気持ちを、ちゃんと。

 目を瞑り、目の前の菖蒲さんにしがみつく。自ら針の筵に飛び込むような、太く鋭利な針に全身に貫かれるほど痛みに意識が飛びそうになった。
 それでも、今この人に必要なのは間違いなく、Subだ。
 それだけはわかったから。

「っ、ぅ、く……」
「……何をしているの? 愛佐」
「っ、は、……ぁ、菖蒲さん……お、れ」

 痛い。苦しい。
 文字通り心臓が張り裂けてしまいそうな程の痛みに気が遠退きそうになるのを必死に堪えながら、俺は菖蒲さんの胸に顔を埋める。
 ――怖い。違う、この人は俺の大好きな人で。俺は菖蒲さんを見捨てたりなんてしない。こんなこと平気だ。こんな、痛み。

「……愛佐」

 ほんの僅かに、緊張していた菖蒲さんの体から力が抜ける。
 ほんの少しでも俺の気持ちが伝わり、落ち着いてくれたのだろうか。
 それでもまだ和らぐことのないグレアに俺の意識も最早風前の灯だった。それでも、細い意識の糸を手繰り寄せて自ら意思で菖蒲さんにしがみつく。

 Subが必要なのはDomも同じだと、あいつは言っていた。
 Subからの信頼がDomの幸福だって。
 何が菖蒲さんを不安にさせたのか、その明確な理由は俺には分からない。けど、俺にできることはこれしかない。

「…………」

 どぐ、と心臓の音が大きく体内で響く。それが菖蒲さんのものだてすぐにわかった。
 痛い程の鼓動。それから、溶けるほどの熱。苦しいのは菖蒲さんも同じだ。
 引き剥がされないように必死に菖蒲さんを抱き締める。不格好でもいい、引き剥がされてもいい。そんな思いを腕にいっぱい込めて。

「……」

 不意に菖蒲さんの手が俺の頭に伸びる。優しく後ろ髪を撫で付けられた瞬間、髪を引っ張られるような痛みが皮膚に走り、体が跳ね上がった。

「……痛いのかい? 愛佐」
「……っ、」
「嘘を吐け。君の体は僕を拒んでる。君がどう取り繕おうが僕に触れられることは苦痛だろう、だって君は――」
「勝手に、決めないでください……ッ!」

 喉から絞り出した声は酷いものだった。みっともなく裏返り、ひび割れ、掠れたその俺の声を聞いて菖蒲さんは目を丸くした。
 今まで俺の前ではそんな顔、しなかったのに。
 その表情はまるで叱られた子供のようにも見えた。

 人の言葉を聞こうとしない。噛み合わない。普段の菖蒲さんから大きく乖離した本人を前に何も言わずに受け入れろと言われても難しい。
 自分でも心己がの狭い人間だという自覚はあった。
 それでも、俺の尊敬した人には変わり無い。寧ろ今まで欠点の一つなかったことの方が不思議なくらいだった。

 そんな菖蒲さんの嫌なところを知ったところで、全てが嫌いになるわけではない。積み重ねてきた関係性が全てが無に帰すわけではない。

 菖蒲さんが一瞬見せた動揺、同時に呼吸する余裕が戻る。何度か咽せ、それから菖蒲さんを見上げた。
 普段生徒会室でも見せなかった無防備な素顔と、乱れた髪。その下の強張った顔を見て、なんだか初めて菖蒲さんの顔を見れたような気分になった。

「グレアをやめて下さい……っ、会長……」
「…………っ、……《嫌だ》」
「っ、……ぅ、ぐ……ッ!」
「……《嫌だ》、……愛佐。僕は、……君に《捨てられたくない》」

 捨てない。捨てる捨てない以前に、貴方は俺のものではない。
 そう脳裏に浮かんだ言葉を吐き出そうとしても見えない手に首を絞められたみたいに言葉が詰まる。一度に何重掛けにもされるコマンド。それは更に俺の首を締め上げた。
 犬のように浅く喘ぐことしかできない俺を見下ろし、菖蒲さんはやっぱり引き攣った笑みを浮かべるのだ。下手くそで歪な、仮面と呼ぶにはあまりにもお粗末な笑顔を。

「それに、僕はもう会長じゃなくなる」

 その口から出てきた言葉に今度こそ脳の処理が追いつかなかった。

 何が起きてるんだ。その言葉の意味はなんなのか。卒業して生徒会選挙を行う、という意味には到底聞こえなかった。
 それでも質問は許されない。ただ目の前の人を見つめることしかできない。

「その顔、その目。……そうだろうね、きっと君は軽蔑するだろう。僕は君に嫌われるようなことを沢山した。……何より、そんなことをして尚悪いことをしたと思ってない。寧ろ君を守れるのならなんだっていいとすら、自分のことを誇らしくすらあったんだ」

 何を、言ってるんだろうか。この人は。
 菖蒲さんの言ってる意味が理解できないのはグレアによる意識低下だけが原因ではないはずだ。
 なのに。

「僕はね、君の為ならどうなってもよかった。……驚いたよ。自分にまだここまで他人を思えるような心があるなんてね」
「菖蒲さん……っ」
「愛佐、君からの好意はとても……ああ、心地がいい。君の期待に応えることが僕にとって重荷でもあり……救いでもあった。けど、その信用は僕が君の“尊敬する生徒会長”だったから」

 菖蒲さんの吐き出す言葉たちは暴力にも等しい。

「ねえ愛佐。君は本当にどんな僕でも受け入れてくれる?」
「……っ、あ、やめさん」
「愛佐、僕のことが《好き》?」

 口の中に溜まっていた唾液の塊が喉の奥へと流れ落ちていく。
 思考も全て真っ白に染め上げられた。

 菖蒲さんが強請ったその言葉が何を意味するのか、知っていた。頭にはあった。ずっと。いつだって口にすることができた。
 俺がそれに応えて復唱すれば菖蒲さんを止めることができる。けれどそれは、そうしてしまうと俺の意思で菖蒲さんを傷つけることにもなるのだ。
 菖蒲さんが何を求めているのか。
 それを遠回りな自傷行為だと片付けるにはあまりにも突然だった。唐突だった。いや、必要なものはきっかけだったのかもしれない。
 俺が向き合うことを避け続け、なあなあに続けていたからこそ当然の結末だったのかもしれない。

「愛佐」

 ――僕を止めてくれ。
 そう、瞳の奥で菖蒲さんが叫んでいるような気がした。錯覚だ。けれど、濃くなる周囲の空気から菖蒲さんの感情の機微は確かに、痛い程に感じることはできた。

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