飼い犬Subの壊し方

田原摩耶

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 菖蒲さんが、いる。こんなに近くに。
 体を支える菖蒲さんの腕に無意識にしがみついてしまう。
「会長」と顔を上げれば、こちらへと目を向けた菖蒲さんはふわりと微笑んだ。

「このまま僕の部屋に連れて行くけど、構わないかな」

 いつもと変わらない優しい声と笑顔。それなのに、その言葉に、向けられる視線に、体がぶるりと震えた。逆らうつもりなんて毛頭ないのに、まるで逆らうなと言うかのようなそのオーラに押し潰されそうになる。
 はい、と答えたその声が震えてるのに気付いたのだろう。菖蒲さんは少しだけはっとし、それから目を伏せる。

「……ごめんね、怒ってるわけじゃないんだ」
「……? 菖蒲さん……?」
「……」

 菖蒲さんはただ笑い、それから俺を連れて歩き出した。
 菖蒲さんの部屋に着くまで俺達の間に会話らしい会話もなかった。ただ、菖蒲さん自身も何かに戸惑ってるような――そんなチグハグな空気だけが俺達の間に流ていた。


 ――学生寮、菖蒲さんの部屋。
 扉を開けた菖蒲さんにそっと背中を押され、そのまま足を踏み入れる。菖蒲さんの部屋に入るのは初めてだった。
 後ろ手に扉を閉めた菖蒲さんはそのまま固まってる俺を抱き締める。
 少し驚いたが、それよりも包み込まれるような体温に全身の緊張が緩んだ。

「……酷い顔色だ」
「菖蒲さん……」
「『今日は愛佐君は生徒会に顔を出せない』……そうあいつからは聞いていたんだ。倒れたんだって?」
「は、はい。ですが心配には及びません。もう回復は……」
「……そういう問題じゃないんだけどなあ」

 そう、顔を上げた菖蒲さんは少しだけ変な笑い方をする。色んな感情が綯い交ぜになったような複雑な笑顔。

「ごめんね、僕の監督不行届だ。ここ最近、君に甘えていた」
「そんなことは……」
「いいんだ、僕の前では無理をしないでくれ」
「……っ、……ぁ、菖蒲さん……ん……」

 頬を撫でられ、軽く唇を重ねられる。菖蒲さんの眼差しがどこまでも優しくて、心の奥まで覗き込まれてるみたいでむず痒くなる。
 きっと、俺が隠し事してるって気付いてる。それなのに、この人はコマンドを使ってこない。
 その気遣いと優しさが逆に痛い。

「……菖蒲さん」
「暫く、生徒会の仕事は休むといい。……星名君のことも、気にしなくていい」
「いえ、大丈夫です。そこまで甘えるわけにはいきません」

 ただでさえ菖蒲さんと過ごす時間が減っているのに、と慌てて首を横に振れば、菖蒲さんは微笑む。いつもの笑顔で。

「君は本当に頑張り屋さんだね。……それじゃあ、今日はゆっくり休むんだ」

 そう頭を撫でらる手はあっさりと離れる。
 本当はもっと触れられたい。触れていたい。もっと抱き締めてほしい。撫でられて、囁かれて……。

「一緒にお風呂にでも入る?」

 玄関の前から動けない俺に菖蒲さんは悪戯っぽく笑う。多分冗談のつもりだったのだろう、けれど俺は間髪入れずに「はい」と声を上げた。
 菖蒲さんは目を丸くし、そして、

「……逆上せないように気をつけないとね」

 自分に言い聞かせるように呟き、「それじゃあ、暫くゆっくりしててね」と俺をソファーに座らせ、シャワールームへと向かった。



 正直な話、下心がなかったわけではない。
 けれど菖蒲さんは俺の体調を優先させた。広いバスタブにて、抱き抱えられるように一緒に湯船に浸かる。
 体を洗われて、一緒にゆっくりできて、本当に菖蒲さんのペットになった気分だった。多分それは贅沢なことなのだろう。

「……はあ、僕が言い出したことだけど、結構これ、拷問だね」

 水面の奥、腰の辺りに当たる感触は先程から感じていた。ちら、と背後を振り返れば、菖蒲さんと目が合う。ぽたぽたと落ちていく水滴が相俟って普段よりも色気を孕んだ菖蒲さんの顔を直視できない。

「あ、あの、俺に命じてください」
「《駄目》だよ、愛佐。……我慢も大事なんだ。それは僕も同じだよ」
「でも、菖蒲さんのが……」
「僕は良いんだ。……後でどうにでもできる」

 その言葉に他のSubの存在がチラつき、胸の奥がちくりと痛んだ。小晴の言葉を鵜呑みにするわけではないが、そうだ。菖蒲さんがそういう人だとは思いたくないが、この人はSubのためなら抱くこともできる。

「愛佐、僕は君を癒やしたいんだ」
「は、い……」
「うん、ありがとう。聞き分けがよくて助かるよ」

 頭を撫でるように濡れた横髪を耳に掛けられ、目尻や頬に軽く唇を押し付けられた。それだけで不安や負の感情は熱に滲むように消えていく。それでも腹の奥では別のものが確かに大きくなっていくのだ。多分それは、俗に言う独占欲という身に余りすぎる感情だ。
 ああ、実によくない傾向だ。
 菖蒲さんの唇を受け入れながら、俺は必死に欲深い自分を押し殺す。


 風呂から上がり、菖蒲さんに髪を乾かされる。少しばかり逆上せてしまったのは菖蒲さんも同じらしい。普段は透き通る程の白い肌がほんのり赤くなっている。

「長風呂するつもりはなかったんだけどね。……愛佐、水分補給はしっかりしないと」
「はい。ありがとうございます」
「……」
「菖蒲さん?」
「……あ、いや。なんだか新鮮だと思ってね」
「新鮮、ですか……?」
「同棲するってこういう感覚なのかなって思って。……僕はほら、ずっと一人部屋だったから」

 SSランクのDom、というのも色々あるのだろう。この学園はそういうダイナミクスに対して寛容な学園だ。だけど、そう口にする菖蒲さんが少しだけ楽しそうに見えたから俺も嬉しくなった。

 それから寝る前に明日の準備をして、それから俺は菖蒲さんと一緒に眠ることになるのだが。

「……」
「……っ、……」
「……愛佐?」
「は、はいっ!」
「……僕がいると邪魔かな」
「い、いえ、そんなことは……!」

 ベッドの上、広いとはいえなるべく菖蒲さんの邪魔にならないようにと神経を張り巡らせた結果ベッドの淵まで避けてしまったが、それが菖蒲さんの気に障ったらしい。
「それなら良いけど」と体をこちらへと向けた菖蒲さんはそのまま俺に手を差し出す。

「――《おいで》」

 ここでコマンドを使われるのは、ずるい。
 おず、と、俺はシーツの中、菖蒲さんの腕の中に体を収める。
 向き合うような体勢のまま、菖蒲さんに抱き締められた。

「いい子だ、愛佐」
「……菖蒲さん……っ、ん、……」
「ごめんね、君を癒やすためだって言ったけど……九割僕のエゴかも」
「俺も、菖蒲さんとこうしてるのは……好きなので」

 だから、エゴではありません。
 そう、菖蒲さんの胸元に顔を寄せる。普段抱き合うこともあったのに、なんだろうか。今目の前にいるのは制服に身を包んだ生徒会長の桐蔭菖蒲ではなく、生身の菖蒲さんだからだろうか。全てが新鮮で、それでいて離し難い。
「ありがとうございます」と声を振り絞る。暗くなった部屋の中、二人分の鼓動は混ざり合う。俺が寝付くまでずっと、菖蒲さんは俺の頭や背中を優しく撫でてくれた。そのお陰ですっかり体の不調は嘘みたいに消え、意識は睡魔に飲み込まれていく。


「本当に……お礼を言うのは僕の方だよ」

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