人類サンプルと虐殺学園

田原摩耶

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第三章【注文の多い魔物たち】

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 幸い向かう途中の通路で誰と遭遇することもなかったが、本来ならばその時点で怪しむべきだった。
 男子便所。大中小様々なサイズの便器が並んだそこには影すらない。

「巳亦、トイレにも誰もいないみたいだ」
「この近くにもいないみたいだな。テミッド、匂いはわかるか?」
「……ここに確かにさっきの妖怪たちの匂いは残ってます、けど……」

 突然消えたということか?
 さっきから数分も経っていないはずなのに、あまりにも不自然だがここは魔界だ。そういうこともあるのだろうか、なんて見渡していると、ふと何かが落ちてることに気づいた。

「あれ、これ」

 さっき、巳亦が渡した酔い止めの袋だ。
 巳亦にそれを見せれば、巳亦は僅かに眉を寄せた。

「……怪しいな、さっきのウエイター。ホアン君たちが心配だ、ちょっと店内を見てくる」
「み、巳亦……俺も行く……っ」
「……わかったよ、置いてかねえからそんな目をするなって。じゃあテミッド、テミッドはここからホアン君達が出てこないか待っててくれ」
「……わかり、ました」

 こくりと頷くテミッド。少しだけ寂しそうなことに気付いたが、下手に他のスタッフがいるかもしれないフロアにテミッドを連れて行くのは確かに危険だ。
 テミッドから俺へと向き直った巳亦は俺の肩を掴む。

「曜、いいか。ここで出されたものは俺が許可したもの以外は口にするなよ」
「わ、わかった……」
「あと、何が起こるかわからない。俺から離れないように」
「わ、わかったってば……」

 ……完全に子供扱いである。
 何回言うんだ、そんなに俺は何でもかんでも口にそうに見えるのだろうか、となんだか不服だったが先程の毒の件もある。巳亦が過敏になるのも仕方ない……のか?……そういうことにしておこう。


 開いた扉の向こうには異様な空間が広がっていた。
 黒と紫を基調としたゴシック調の内装で統一されたフロアに本物か偽物なのかわからないような標本の数々。ところどころ血が滲んだそのフロアには様々な魑魅魍魎が楽しそうに話している。バーというよりはパーティーのような雰囲気だが、内装が内装なだけに怪しげな会合にも思える。
 そして壁際にはバースペースと、ボックス席。
 そして奥に繋がった階段から個室へと移動できるようだ。
 フロアスタッフはバースペースのウエイター一人だけのようだ俺達は人混みに紛れる。

「……巳亦、隠れなくて大丈夫かな?」
「曜、こういうのは堂々としとけば案外バレないんだよ。それに、中は暗い」
「ほ、本当に……?」
「取り敢えずホアン君たちと合流しよう」

 本当に大丈夫なのか……?とヒヤヒヤしながらも、俺は巳亦に従うことにした。
 それにしても、なんだろう。バーという単語から大人な場所だと思っていたが、やけに客同士の距離が近い気がする。
 なんとなく目のやり場に困りながらホアンたちを探していたときだ。いきなり、つんつんと肩を叩かれる。ぎょっと振り返れば、薄暗い中でもわかるほど露出の多いお姉さん(……なのか?)がするりと腕を絡めてくるではないか。

「お兄さんたち、よかったら私達と一緒に飲まない?」
「悪い、先約が入っててね」

 や、柔らかい?!と狼狽えるよりも先に、足を止めた巳亦によって引き剥がされる。そして、「残念」と肩を竦めた女妖怪は別の男に声を掛けては体を密着させてるではないか。そのまま奥へと移動する二人を見てしまった俺はカルチャーショックのあまり巳亦の服を引っ張った。

「こ、こういう店なのか……?!」
「なるほど、だから店が品定めした会員しか入れないのか」
「だから……?!」
「つまり……そうだな、曜にはまだ早い」

 きっぱりと言い捨てる巳亦に俺はもう何も返せない。
 帰りたい気持ちがあるが、それよりも戻ってこない黒羽とホアンたちにまさか皆……とあらぬ疑いを持たざる得ない。
 異様な雰囲気に酒の匂い、鼓膜を揺らす不協和音に段々酔ってくる。場酔い……というやつか。薄暗い視界のせいもあるかもしれない。

「それにしても……ここにはいないのか? リューグも一緒なんだよな」
「だと思うんだけど……もしかして、個室に移動してるとか……?」
「その線はなくもないが……上は簡単に入れる場所じゃなさそうだぞ」

 階段を上るには必ずバーの前を通らなければならない。それに、今見ると一人見張りらしきスタッフが増えている。カップルらしき妖怪たちがスタッフになにか差し出して、それを確認したスタッフは二人を階段へと上げていた。
 ……なんだ、あれ。通行証みたいなものなのだろうか。
 そう、眺めていたときだ。

「お客様、こちらサービスのドリンクです」
「っひぃ!」

 いきなり背後から声をかけられ、飛び上がりそうになる。
 振り返れば、そこにはテミッドの着ていたものと同じ細身の執事服を着た青年がにこやかに微笑んだまま立っていた。トレーの上には数人分のグラス。バレたのかと思ったが、どうやら手の空いてるもの全員に用意してるらしい。 
「ああ、ありがとう」と巳亦は差し出されたグラスを受け取る。そして、ウエイターは俺にも差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます」とそれを受け取れば、ウエイターは恭しく頭を下げ、そして他の手持無沙汰な客の元へ向かう。
 お酒なのだろうか、綺麗な紫色のそのドリンクに目を向けたとき、「飲むなよ」と横から伸びてきた巳亦の手にグラスごと取り上げられる。
 そして、自分のグラスと俺のグラスを嗅ぎ比べた。

「これだな」
「え?」
「毒が入ってる」
「……っ! 毒って……」
「恐らく、さっき外であった妖怪が飲まされていたものと同じものだろうな」

「飲むフリだけするんだ。絶対に口をつけるなよ」そう言って、巳亦は俺にグラスを返した。
 フリ、と言われても。と、ちらりと離れた場所で客と話してるウエイターに目を向ける。とりあえず口つけるフリだけしておくか。
 すると、巳亦は俺の顔を覗き込んできた。

「そんなに飲んで大丈夫か? ……あまり飲み慣れてないんだろ?」

 アドリブでそんなこと言われてみろ、うっかり毒を飲まないようにするだけでも精一杯な俺は焦りと動揺でガチガチに緊張する。

「だ、いじょうぶだと……思う……」
「無理するなよ、あそこが空いてるみたいだ。座るか?」
「う……うん」

 そう、巳亦に肩を掴まれ、フロア端のボックス席へと腰をかける。すごい、このソファーふかふかだ。と感動してる暇もない。俺の隣に腰を掛けた巳亦は俺からグラスを取り上げ、テーブルに置いた。そして、耳元に唇を寄せてくる。

「五分経ったら具合悪いふりをするんだ。そのまま外へ連れて行く」
「わ、わかった……でも、具合悪いフリって……?」
「さっき、外で会ったあの妖怪みたいな感じでいいよ」

 さっきの……。思い返してみるが、確かあの妖怪は一人で自立できることすらできなかったように思える。
 どうすればそれらしく見えるのだろうか……。思いながら隣の巳亦にしなだれ掛かったとき、巳亦の目がこちらを向いた。 

「……曜、まだ早いぞ。それじゃ酔が回るのが早すぎるだろ」
「えっ! あ、ごめ……」
「――いや、いい」

 咄嗟に巳亦から離れようとしたとき、伸びてきた巳亦の手に反対側の肩を抱かれる。

「み、み、巳亦……っ」

 肩から腕のラインをなぞるように手のひらで撫でられれば、全身がびくりと反応する。思わず巳亦を見れば、そこには上機嫌な巳亦がいて。 

「ちょっ、巳亦……」
「大丈夫だ、ここはそういうのもアリな店だから」
「あ、アリって言ったって」
「……まあ、そうだな。だから、こうしてた方がさっきみたいに声掛けられずに済む」

 こうしてって、と言い掛けたとき、視界が遮られる。そして、唇に触れる柔らかい感触にぎょっとするのも束の間、二股に割れた舌が俺の唇に這わされた。


 何してるんだ、こんなところで。いやこんなところだからか、そうなのか。
 キスするフリ、ならまだわかる。それでも恥ずかしいけど耐えられる。けれど、これはどうだ。

「……っ、は、……んむ……ッ」

 唇を舐められ、柔らかく啄まれたと思えば開いた口の中へは先割れた舌が否応なしに入ってくる。長い舌は俺の意思なんて構わずに喉奥で緊張と困惑で縮みこんでいた俺の舌を絡め取り、そのまま挟むように舌全体を舐られればそれだけで身動きが取ることができなくなり、堪らず目の前の巳亦にしがみつく。ぢゅぷ、と口の中いっぱい響く濡れた音が余計恥ずかしくて、巳亦から離れようと後退るがその分更に俺にのしかかって来る巳亦に内心俺はパニックになっていた。

「……ん、ふ、ぅ……っ!」

 柔らかいクッションは二人分の体重を受け止め、沈む。そのせいで余計逃げにくくて、元よりそういう用途もあるのか、ずるずると引き摺り込まれてはなし崩しになってしまいそうになる。舌の先っぽを擦り合わされると口の中に唾液がじわりと滲み、それを巳亦は躊躇なく啜るのだ。
 そして、口の中の水分全部取られたんじゃないかと思い始めたとき、巳亦の唇が離れた。

「……み、また……っ」
「……ああ、クソ……外野が邪魔だな」
「っ、ご、ふん、五分っ、経った……から……」

 これ以上は、まずい。怪しまれる。そう、回らない呂律でなんとか巳亦に訴えかければ、渋々といった様子で巳亦は俺から体を離した。

「……なんだ、早いな」
「……巳亦……」
「分かってるよ。……ああ、そうだな。テミッドに怒られる」

 ……良かった。
 一瞬、巳亦の目が笑っていないように見えて怖かったのだけれどちゃんと話は通じるようだ。そうだ、こんなことしてる場合ではないのだ。そうこくこくと頷けば、巳亦はソファーに沈んでいた俺の体を抱き起こしてくれる。
「動けそうか?」と囁かれ、俺は、小さく頷き返した。
 巳亦のお陰で下手な演技を晒さずとも体に力が入らない。きっとそれを分かったのだろう。そのまま巳亦は俺を立ち上がらせた。

「……っ、ぁ……」
「しっかり捕まってろよ」

 ……ちょっと待って、これ、お姫様抱っこじゃないか。
 されるがままにしてたせいであまりにもナチュラルに膝裏ごと抱えられ、抵抗する暇もなかった。……しかも軽々と……相手が人間ではないからまだ耐えられたが、わりとこれはかなり相当恥ずかしい。

「み、また……これ……」
「ん?」
「は、恥ずかしい……」
「大丈夫だ、周りは誰も俺たちを見ていない」

 本当か?と思ったが、確認する勇気もなかった。
 それでも耐えられなくて、せめて顔を見られないように巳亦の体の方へと向ければ、頭を撫でられた。

「……曜、あまり可愛いことをするなよ、このまま連れ去りたくなる」

 ……俺はそっと巳亦から顔を逸した。
 そしてフロアを出た俺たちは、一度テミッドと合流して先程の便所へと向かうことになったのだが……。

「伊波、様……お姫様抱っこ……素敵です……」
「あ、ありがとう……? ……ってか、巳亦、もう下ろしてくれよ、もういいだろっ」
「いや駄目だ、このまま便所に誘き寄せてテミッドに挟み撃ちにしてやる。だから、もう少しこのままな」

「作戦のためだ、諦めろ」と笑う巳亦は楽しそうだ。
 本当に作戦のためなんですよね?面白がってないですか?じとーっと睨むが、巳亦はどこ吹く風で。
 そんなやり取りしながら俺たちは便所へと入り、そしてテミッドは便所前の廊下の影で待ち伏せる。

「曜、大丈夫か? ……随分と具合悪そうだが」

 遠くから足音が聞こえてくる。数は恐らく一人だろう。巳亦がテミッドに合図を送り、影に隠れていたテミッドは小さく頷いた。やつが便所に入ってきた瞬間を狙う。
 袋小路にするつもり満々なのだろう、怪しまれないようにするためか、演技を続ける巳亦に俺は「うーん」と死にそうな声を出す。
 カツカツと響く足音は確かにこちらへと向かってくる。
 一歩二歩、あと数歩で顔を出す。固唾を飲んだときだった。
 ――きた。
 そして、現れたのは俺たちにドリンクをくれたウエイターだった。普通に待ち構えていた俺達に驚いたのか、一瞬戸惑った顔をした次の瞬間、その口から言葉が発されるよりも先に、男の背後に浮かぶ影。それは見事な回し蹴りだった。ウエイターが便所に足を踏み入れたその瞬間その側頭部に蹴りを叩き込み、力いっぱい壁にめり込むウエイターを見て、俺は顎が外れそうになった。
 テミッド、やり過ぎだ。頭から壁に突っ込んだ男に内心同情せざる得なかった。
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