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第二章【祟り蛇と錆びた断頭台】
02※
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「生意気な目だな。……いいだろう」
そう言って、獄長は俺の前髪を掴んだ。瞬間、無数の細い鎖が俺の周囲に生えてきた。意思を持って生き物のように蠢くそれに、血の気が引く。
慌てて逃げようとして、足首に絡みついた鎖に引っ張られた。
「ぅ、ぐ……ッ」
慌てて起き上がろうとついた右腕に鎖が絡みつく。それを剥がそうとした左手首にも鎖は絡み、制服が汚れるのも構わず、腹這いになる俺の腰に太い鎖が巻き付き、地面へと縫い付けた。
骨が軋む音がした。冷たく、頑丈な鎖はちょっとやそっとじゃ離れない。それどころか、暴れれば暴れるほど体に食い込む。息が漏れる。地面の上、強制的に腹這いにさせられたとき、視界が陰る。え、と思った瞬間、硬質な革靴にこめかみ部分を思いっきり踏みつけられた。
「その体に……脳に、俺が直々に教えてやろう」
感謝しろよ、人間。そう、やっぱり無表情のまま吐き捨てる獄長に、今度こそ俺は青褪める。
俺に手を出したやつは重たい処罰が下される。そう和光に聞いていた。けれど、目の前の男はそんなものどうでもいいと言わんばかりに意図も容易く破るのだ。
巳亦との会話が頭に過る。
もしかして、本当に、この地下監獄は治外法権下に置かれているというのか。
ならば、と思うとゾッとしない。本当に、殺される。
「……っ、離せ」
磔にされた手が震える。それをぐっと握り絞め、力を振り絞った。怖い、死ぬほど怖いが、その恐怖を認めてしまえば本当に呑まれてしまいそうになる。
「……随分と震えてるな。今更怖気付いたか」
獄長は薄く、冷ややかな笑みを浮かべる。見れば見るほど造形物のような無機質な笑顔だ。俺は、獄吏たちが土人形であるというのを思い出す。そして、獄長は水が苦手なのだということも。
……どうにかして、逃げられないか。
眼球だけを動かし、辺りを見る。なんとか水がある場所まで逃げれたらと思うのだけれど、それ以前にこの体勢では逃げることも敵わない。
「何を見ている」
「……ッ」
「……勘違いしているようだが、お前は俺から逃げることは不可能だ。言っただろう、その甘ったれた思考を矯正してやると」
靴の裏に負荷を掛けられれば、頭蓋骨が音を立てて軋むのが分かった。頭が割れそうだ。それだけではない。全身の痛みに、腹の中の臓物が口から飛び出そうな気すらした。
とにかく、この鎖から抜け出さなければ。
「逃げることは、出来る。不可能じゃない。……だから、逃げられることが怖いから、こんな鎖で拘束してんだろ」
下手したら殺されるだろう。それでもいい。どうせこのままでは嬲り殺しにされるだろう。ならば、と思い切って言い返したとき、「何だと?」と獄長の片眉が釣り上がる。端正なその顔に怒りの色が滲む。
「弱い人間相手にこんな何重にも拘束してんだ。……本当は自信ないんじゃ……」
ないのか、と言い終わるよりも先に、動き出した鎖により思いっきり壁に叩きつけられる。痛みよりも先に全身を抉るほどの衝撃が走り、一瞬、思考が飛ぶ。口から何か溢れたような気がした。声も、息も出ない。だけど、全身を拘束していた鎖は離れた。
自由になった手足。けれど指先に力が入れられず、俺の体はそのままズルズルと壁から落ちる。
「拘束がなければ何も出来ない、そう言ったな、人間」
カツリ、と音を立て、目の前までやってきた獄長に顎を掴まれる。霞む視界の中、怪しく光るその目に覗き込まれた瞬間、全身から力が抜ける。そう、抜け落ちた。まるで自分の体ではないような、体と脳味噌が切り離されたような感覚に陥り、困惑する。
――なんだ、なんだこれ、おかしい。
心臓がバクバクと早鐘打つ。焦点が合わないのに、やつの目からは逸らせない。
「『罪人には直接手を出さずに拘束する』、そう決めていた。……何故だか分かるか?」
頭の中、直接脳味噌に響くその低い声に、息が浅くなる。唇すら動かすことができない。思い通りに体が動かない。まるで、『何者かに乗っ取られた』みたいに。
何も答えられないと分かっていてこの男は俺に問いかける。
「俺が直接手を下すと、使い物にならなくなるからだ。どんな極悪人もただの肉塊になってしまう。……そうなれば、この監獄で罪を償うことも不可能になるだろう。それを避けるために俺は直接手を出さなかったのだが……人間、どうやら貴様はそれを所望するようだな」
息を、呑む。その言葉の意味は、すぐに理解した。
指先が、動かない。唇も、呼吸すら儘ならない。眩む視界の中、獄長の冷笑だけは鮮明に焼き付く。
「苦しいか。……そうだろうな、お前の息の根を止めることなど造作もない。お前の体は今もうすでに俺の物だ。……分かるか? この心臓も、俺が止めようと思えばその生命活動を終える。お前の体は俺の傀儡となったのだ」
喘ぐ胸。そこを衣類越しに撫でられる。心臓の辺りを指先で突かれ、体が強張る。俺の思い通りに動かないのに、与えられる刺激は鮮明に、より鋭く流れ込んでくるのだ。
「……頭を垂れろ」
「……ッ」
「頭を垂れ、地面に伏せて詫びろ。貴様のせいで汚れたこの靴を清めるのだ」
誰が、そんなことするか。
屈辱のあまりに叫びそうになるが、やつに乗っ取られた体は言葉をろくに発することもできなかった。
膝が、折れる。嘘だろ、と思った次の瞬間、俺の意志関係なく俺の体は額を地面に擦りつけ、土下座するのだ。
嫌だ、嫌だ、こんな真似したくない。そう思うが、体は勝手に動くのだ。
獄長は何食わぬ顔してその爪先を俺の顔に擦り付ける。硬質な黒革のブーツが目に入る。
いやだ、嘘だろ、やめろ。頭の中で叫ぶ。けれど、俺の体には届かない。躊躇いなく口を開き、舌を出した体は、そのまま獄長の靴裏に舌を這わせた。
「っ、……申し訳ございませんでした、ユアン獄長様」
喉奥から発せられたその声は自分のものなのに、他人のように聞こえたのは言わされてるからだろう。この男の仕業だろう。だって、俺はこいつの名前なんか知らない。
靴に舌を這わせる俺を見て、男……ユアン獄長はせせら笑う。「貴様、可愛げがある顔も出来るのだな」と、まるで面白い玩具を見つけたかのような顔で。
自分の体が自分のものでなくなる瞬間が来るとは思わなかった。
舌先に砂利の感触が触れ、嫌なのに、突き出した舌は執拗に獄長の靴に這わされる。
今すぐ口を洗いたい衝動に駆られるが、体は相変わらず俺の意思命令を遮断したままで。
「人間、名をなんと言う」
口元から離れた靴先は、頬から顎のラインをなぞるように滑り落ちる。
こんなやつに名前を教えたくないと思うのに、口は俺の意志と関係なく「曜」と掠れた声で応えるのだ。
俺の名前を聞いた獄長はふ、と笑う。
「……曜」
その声で名前を呼ばれた瞬間、心臓に無数の鎖が絡み付く感覚に陥る。実際には心臓はむき出しにもなっていない。そのはずなのに、この男に名前を呼ばれただけで見えない鎖に雁字搦めになるような、そんな息苦しさが増すのだ。
体から引き離され、宙ぶらりんになった思考。脳味噌にまで獄長の指が絡みついてくるような得体の知れない恐怖。
「……お前の心の声は随分と騒がしいな」
その一言に、カッと耳が熱くなる。
心の声すらも聞かれているのだと思うと、自分の、自分だけの体だったはずなのに急に自分のものなんか一つもなくなったみたいで。
獄長に心を読まれたくない、そう頑なに何も考えないようにするが、それこそ難しい話だ。
「これで分かっただろう。お前は俺に逆らうことは出来ない」
わかった。身を持って理解した。
けれど、それを認めると本当にこの体を、自分という存在を見失いそうで怖かった。
そんなわけない、と心の中で強く思う。やつに伝わるように、強く、念じる。
そして、それは獄長にしっかりと伝わったらしい。感情の宿っていないその目が、確かに不愉快そうに細められる。
「……まだ分からないか、物分りの悪いガキだ」
そう言って、黒衣の下から獄長は何かを取り出した。
そして、取り出した棒状のそれを俺の目の前に投げ捨てる。
「それを拾え」
そう一言、言い放つ。地面に落ちたそれは、鞘に収められた短剣のようだった。
なんで、俺に、武器を渡すんだ。
理解できなかった。下手すれば、俺はこの短剣を使って獄長に襲い掛かる可能性だってあるかもしれない。と、そこまで考えて、気付いた。
だからだろう、俺が絶対に自分に逆らえないということを誇示するために敢えて武器を使おうとしたんだ。
そんな俺の思考を読んだのか、獄長は口元に不気味な笑みを浮かべる。
「それで自ら腹を掻き切るんだ」
それは、地獄の底から這い上がるような不気味な声だった。恐ろしいことを口にする獄長に耳を疑った。
けれど、獄長は撤回も訂正もしない、ただ薄く笑みを浮かべ、俺を見詰めるのだ。
そんなこと、誰がするものか。そう、獄長を睨もうとしたときだった。手が、勝手に短剣へと伸びる。
「……っ」
嘘だ。冗談だろう。必死に体を止めようとするが、動かない。
拾い上げた手からは、見た目からは想像できないほど重量が伝わってきた。
――嫌だ、駄目だ、駄目だ、止まれ、止まれ……――ッ!!
念じるが、体は少しも言うことなんて聞いちゃくれない。指先は勝手に鞘から短剣を抜く。
中から現れた鈍色の鋭い刃物。その表面に反射して写る自分の顔は、魂が抜け落ちたような、見たことない顔をしていて、ゾッとした。
短剣の先端が、ゆっくりと自分の方へと向く。腹部、臍の上辺り。短剣の先端を突き刺そうと体が動いた。
……その瞬間だった。頭が、真っ白になる。そして、襲い掛かってくるのは頭が割れそうなほどの頭痛。
手元から短剣が滑り落ちる。鈍い音を立て、それは足元を滑った。それを拾うこともできなかった。刺してしまったのかと思ったが、痛みは頭からのみだ。
「っ、ぐ、ぅ……っ!」
頭を抑え、呻く俺を見て獄長は不快そうに眉根を寄せる。痛みに喘ぐ俺を見て、そして、笑った。
「その首輪……なるほど、そういうことか」
そう、短剣を拾い上げる獄長は呟く。
死ぬほど頭が痛い。痛くて、本当に頭が割れてしまったのではないだろうかと思うほどの痛みだったが、一時的だが確かに体は獄長からの呪縛を逃れたのだ。
短剣を遠ざければ、痛みは和らぐ。
助かったのか、と息をするのも束の間。
「立て」と獄長に命じられれば、再び見えない鎖に拘束されたように自由を奪われる。
命じられるがままに立ち上がれば、獄長は俺の目の前に立った。そして、その短剣の表面で俺の頬を撫でるのだ。
冷たい感触に、全身が反応する。ぴりっとした痛みとともに皮膚が濡れる感触を感じた。……焼けるように熱い。
「どうやら貴様は自害できないように出来てるらしいな」
獄長は首輪を見て気付いていた。ということは、恐らく、自害できないようにしたのは和光で間違いないだろう。
仮死状態とはいえど、俺に本当に死なれたら困るからか。守るためなのか、それとも俺が自害して逃げ出すことを危惧したからか、わからない。
「……随分と可愛がられてるようだな、貴様のようなやつにそれほどの価値があるとは到底思えないが……」
「こんな下らん玩具まで着けてまで守ろうとしたものを壊され、あの能面のような男がどんな反応を示すかは興味がある」シャツの襟首から滑り込んできたその指先で首輪を撫でられる。
先程までの滲み出るほどの殺気とは違う、獄長の雰囲気に嫌な予感を覚えた。
「服を脱げ」
冷たい声、その命令が胸の奥底へと落ちる。
理由が分からなかった。何故だ、と反応するよりも先に、制服越しに腹部を撫で上げられ、思わず逃げたくなったが獄長はそれを許さない。
「一度魔物と体を交わした人間は内部から魔に侵食される。本人が意識せずとも、魔物を誘い、受け入れるように作り変えられるのだ。……それに俺が気付かないと思ったか」
この男が何を言ってるのか理解できなかった。したくもなかった。
昨夜散々黒羽に嬲られた体を触られ、それだけで、酷く反応してしまいそうになる。
恐ろしい気持ちよりも、恥ずかしいという気持ちが大きかった。俺のことを馬鹿にするような、一人の人間として見ないようなこの男に本当に全部覗かれてるみたいで、悔しくて、ムカついたのに、逃げ出すことも抵抗することもできない。
命じられるがまま、体は勝手に制服のボタンを外していく。脱ぎ捨てるシャツ。獄長は目の色を変えないまま「下もだ」と続けた。
自害できないようにできるなら、この男の命令を聞かなくてもいいようなシステムをこの首輪に付けてほしかった。
制服を脱ぎ、下着から脚を抜く。恥ずかしさはない。だってそうだろう、この傲慢不遜なムカつく男は土人形だ。
そう思うと、まだましだった。
ただ脱ぐくらいなら全然いい。寧ろ俺の裸を見てなにが楽しいのか理解できない。見たきゃ見ればいいだろ、と半ばその時俺はやけくそになっていた。
「……知っているか」
伸びてきた手に、顎を掴まれる。俺が逃げられないのがわかってるくせに、力づくでも自分の方へと向かせようとするのだ、この男は。
「この監獄では人間が好物のやつは少なくはない。肉や血だけではなく、骨や臓器、その体に食べ余すないものはないと言うくらいだ。しかし人間でも高値で取引されるのは肉のついて熟した人間よりも、肉付きも普通の貴様のような年端もいかぬ子供だ。何故だか分かるか?」
「種付し、子を孕ませ、産ませたあとに好きなだけ肉を付けて食うこともできるからだ」変わらぬ、淡々とした口調で告げられる言葉に、血の気が引いた。
逃げ出したい気持ちになった俺を見て、獄長は笑う。
「俺にはお前のような乳臭いガキを妾にする趣味はないが、俺のペットの餌くらいにはなりそうだ」
その言葉と同時に、ぼたりと剥き出しになった背中に何かが落ちてくる。異臭。濃厚な泥の匂い。
え、と目だけを動かして上を見たときだった。血の気が引いた。
土が剥き出しになった天井に巨大な何かが蠢いていたのだ。それがなんなのかわからない。俺は今までにこんなものを見たこともなかった。
例えるなら、泥を纏った液状のクリーチャー。
「こい、お前の新しい玩具だ」
そう獄長が口にしたのと、天井のそれが落ちてきたのはほぼ同時だった。体の上、頭からぼたぼたと降り注ぐそれを避けることすらできずに直撃する。
見た目以上に質量のあるそれは重く、思わず倒れそうになるが全身を包み込むように絡みついてくるそれに、息を呑む。
慌てて避けようとして、そこで、自分の体の自由が効くようになってることに気付いた。
「ここ最近お気に入りの玩具だった囚人をうっかり飲み込んでしまってから落ち込んでいたんだ。……人間、精々たっぷり遊んでやってくれ」
そう、部屋の隅へと移動した獄長は指を鳴らす。
瞬間、巨大な檻が地面と天井から生え、俺とこの謎の化物を隔離する。
「っ、何、言って……」
酷く久し振りに言葉を発したような気がした。
慌てて檻を掴もうとするが、びくともしない。それどころか、背後から濡れた音を立て、近付いてくるそのクリーチャーに伸ばした手ごと絡め取られそうになり、情けない声が漏れた。砂利となにかが混じったようなそれはただ痛い。必死に剥がそうとするが、まるで手応えがないのだ。
両手部分が現れ、胴体を掴まれる。
そして、顔らしき場所にぽっかりと浮かび上がる大きな口のような穴。
そこから覗く闇に、青褪めた。
「っ、は、なせ!」
がむしゃらに暴れる。
半ばやけくそになりながら、体を拘束してこようとしたそれを思いっきり振り払う。
思った以上に体は脆い、手応えは泥と同じだ。ぐしゃりと崩れ、しかしすぐに体は元通りになる。
酔狂な獄長のお陰で妙な技から抜け出せたのはでかいが、それでも状況が好転したわけではない。おまけにろくに身を守れるものもない。
自由になった身で、俺がまずしたのは制服を拾うことだった。広くはない檻の中、逃げながら落ちていたシャツを拾い上げようとすれば泥の化物が俺のシャツを掴んでくる。
え、まじか。
ものすごい力で引っ張られ、思わず手を離してしまいそうになる。
というか、よく見たら掴まれた箇所が溶けているように見えるのは俺の気のせいだろうか。
「っ、だめだ、やめろって! おい! こら!」
うーだとかあーだとなんか呻きながらもよたよたとこちらの声に反応する化物は歩きを覚えたての赤子のようにすら見えた。
俺はそいつから思いっきりシャツを奪い返し、慌てて袖の部分に腕を通した。
するとすぐに繊維が肌に張り付くように体に密着する。
魔界のものはやはり万能のようで、溶けかけていた箇所は既に直り、ご丁寧に下着やスラックス部分まで作ってくれる。
「再生衣か……人間のくせに随分と身分不相応なものを身に着ける」
「っ、そんなことどうでもいいからここから出せよ!」
「お前、人の話を全く聞いていないようだな。お前の墓場はここだ。お前の骨もレーガンの餌になる、これ程名誉なこともないだろう」
レーガンというのはこの化物のことだろうか。
とてもじゃないがレーガンという顔じゃない、むしろドロドロとか、マルマルとかそんな感じだ。
けれど、レーガンの名前を口にする獄長の声は気味悪いほど甘い。相当可愛がってるらしい。名前を呼ばれ、反応するレーガンは獄長のいる方へとのそのそと方向転換し、そして檻に体をめり込ませるように獄長へと近付こうとするのだ。
「レーガン、俺はいい、そこにお前の好きな肉があるぞ。好きなように遊んでいい。どうだ、嬉しいだろう?」
言いながらレーガンの顔らしき部分を撫でる獄長。余程懐いてるらしい。感情を表すかのようにドロドロと体を蕩けさせるレーガンに、俺は何を見せられてるのだとしばし呆けた。
しかし、これはチャンスかもしれない。
「……獄長さん、あんたのペットは随分と獄長さんと遊びたがってるみたいだけど?」
「貴様がレーガンのことを分かったような口を聞くな。こいつは甘えん坊なのだ、三時間おきに撫でないと暴れる」
「そういえばまだ今日は触れてなかったな」と言いながら手を離す獄長。すると、満足したようにレーガンは体を蠢かせ、それから身を固くする。スライムのような形状から手足の生えた泥人形へと変化するに、青褪めた。
「磨り潰してもいい、溶かすのも悪くないだろう、砕くか?踊り食いもお前は好きだろう」
このままレーガンが獄長に甘えてあわよくば檻を開けて入ってこないかと思ったが、甘かった。
それどころかより一層大きくなったレーガンに、血の気が引く。
「っ、ぉわ」
大きな分厚い掌に頭を掴まれそうになり、頭を下げ、間一髪避け切ることができたがそのままバランスを崩してしまった。転びそうになる俺に、伸びてきた手に今度こそ脚を掴まれる。
砂利混じったグチャグチャの手に持ち上げられ、視界がぐるりと傾いた。真っ逆さま。このままレーガンが手を離したら頭から落ちてそのまま脳挫傷コースに違いない。
受け身を取るには高さがありすぎる。体勢を立て直すため、俺はレーガンの腕にしがみついた。そして、そのままレーガンの顔面部分を、思いっきり片方の脚で蹴り上げようとしたときだ。相変わらず手応えがない。けれど、崩れた泥は瞬時に脚に絡みついてくる。
「な、え……ッ」
そして、衝撃。視界が大きく傾いた次の瞬間、咄嗟に頭を腕で庇う。
声も出なかった。思いっきり地面に叩きつけられた体は悲鳴を上げる。咄嗟に庇う体勢をとったものの、そんなもの無意味だと思い知らされるほどの激痛に頭が真っ白になる。絶対、腕イッた。顔面を庇った左肘辺りが焼けるように痛む。アドレナリンが大放出中の脳味噌はそれを痺れとして受け止めてるようだ。力を入れても動かないそこに、今度こそ死を覚悟した。
本気で、このままでは殺される。
息が上がる。汗が止まらない。出血はないものの、強く叩きつけられた体は立ってるのもやっとだった。
獄長の言うとおりなのかもしれない、人間の俺は魔法を使えるわけでもすごい力があるわけでもない、魔族に勝とうなんて思うこと自体が間違えなのか。
レーガンがゆっくりと歩み寄ってくる。
その巨体が一歩踏み出す度に微かに地面が揺れた。
黒羽さん、黒羽さん。
頭の中で何度も繰り返す。辛うじて神経の繋がってる右手で、制服の中の時計を握り締めた。
――この際なんでもいい、この状況を打破できるなら神でも仏でも邪神でも……っ!!
誰か俺を助けてくれ、と硬く目を瞑ったときだった。
「貴様!! 伊波様から離れろ!!」
……一瞬、幻聴かと思った。
今はもう聞き慣れたその低い声に、俺は、ハッと顔を上げる。そして、息を飲んだ。
檻の隙間から飛んできた黒い毛玉はレーガンの巨体、その顔面に突進する。
そして、ぽてっと音を立て地面に落ちた。
「っ、く、黒羽さん……?!」
状況が読み込めなかった。
咄嗟に落ちたその黒い毛玉を片腕で抱き上げれば、この毛玉はわなわなと震えていた。右目部分縦一文字に裂けた大きな傷跡。間違いない、黒羽だ。
そう言って、獄長は俺の前髪を掴んだ。瞬間、無数の細い鎖が俺の周囲に生えてきた。意思を持って生き物のように蠢くそれに、血の気が引く。
慌てて逃げようとして、足首に絡みついた鎖に引っ張られた。
「ぅ、ぐ……ッ」
慌てて起き上がろうとついた右腕に鎖が絡みつく。それを剥がそうとした左手首にも鎖は絡み、制服が汚れるのも構わず、腹這いになる俺の腰に太い鎖が巻き付き、地面へと縫い付けた。
骨が軋む音がした。冷たく、頑丈な鎖はちょっとやそっとじゃ離れない。それどころか、暴れれば暴れるほど体に食い込む。息が漏れる。地面の上、強制的に腹這いにさせられたとき、視界が陰る。え、と思った瞬間、硬質な革靴にこめかみ部分を思いっきり踏みつけられた。
「その体に……脳に、俺が直々に教えてやろう」
感謝しろよ、人間。そう、やっぱり無表情のまま吐き捨てる獄長に、今度こそ俺は青褪める。
俺に手を出したやつは重たい処罰が下される。そう和光に聞いていた。けれど、目の前の男はそんなものどうでもいいと言わんばかりに意図も容易く破るのだ。
巳亦との会話が頭に過る。
もしかして、本当に、この地下監獄は治外法権下に置かれているというのか。
ならば、と思うとゾッとしない。本当に、殺される。
「……っ、離せ」
磔にされた手が震える。それをぐっと握り絞め、力を振り絞った。怖い、死ぬほど怖いが、その恐怖を認めてしまえば本当に呑まれてしまいそうになる。
「……随分と震えてるな。今更怖気付いたか」
獄長は薄く、冷ややかな笑みを浮かべる。見れば見るほど造形物のような無機質な笑顔だ。俺は、獄吏たちが土人形であるというのを思い出す。そして、獄長は水が苦手なのだということも。
……どうにかして、逃げられないか。
眼球だけを動かし、辺りを見る。なんとか水がある場所まで逃げれたらと思うのだけれど、それ以前にこの体勢では逃げることも敵わない。
「何を見ている」
「……ッ」
「……勘違いしているようだが、お前は俺から逃げることは不可能だ。言っただろう、その甘ったれた思考を矯正してやると」
靴の裏に負荷を掛けられれば、頭蓋骨が音を立てて軋むのが分かった。頭が割れそうだ。それだけではない。全身の痛みに、腹の中の臓物が口から飛び出そうな気すらした。
とにかく、この鎖から抜け出さなければ。
「逃げることは、出来る。不可能じゃない。……だから、逃げられることが怖いから、こんな鎖で拘束してんだろ」
下手したら殺されるだろう。それでもいい。どうせこのままでは嬲り殺しにされるだろう。ならば、と思い切って言い返したとき、「何だと?」と獄長の片眉が釣り上がる。端正なその顔に怒りの色が滲む。
「弱い人間相手にこんな何重にも拘束してんだ。……本当は自信ないんじゃ……」
ないのか、と言い終わるよりも先に、動き出した鎖により思いっきり壁に叩きつけられる。痛みよりも先に全身を抉るほどの衝撃が走り、一瞬、思考が飛ぶ。口から何か溢れたような気がした。声も、息も出ない。だけど、全身を拘束していた鎖は離れた。
自由になった手足。けれど指先に力が入れられず、俺の体はそのままズルズルと壁から落ちる。
「拘束がなければ何も出来ない、そう言ったな、人間」
カツリ、と音を立て、目の前までやってきた獄長に顎を掴まれる。霞む視界の中、怪しく光るその目に覗き込まれた瞬間、全身から力が抜ける。そう、抜け落ちた。まるで自分の体ではないような、体と脳味噌が切り離されたような感覚に陥り、困惑する。
――なんだ、なんだこれ、おかしい。
心臓がバクバクと早鐘打つ。焦点が合わないのに、やつの目からは逸らせない。
「『罪人には直接手を出さずに拘束する』、そう決めていた。……何故だか分かるか?」
頭の中、直接脳味噌に響くその低い声に、息が浅くなる。唇すら動かすことができない。思い通りに体が動かない。まるで、『何者かに乗っ取られた』みたいに。
何も答えられないと分かっていてこの男は俺に問いかける。
「俺が直接手を下すと、使い物にならなくなるからだ。どんな極悪人もただの肉塊になってしまう。……そうなれば、この監獄で罪を償うことも不可能になるだろう。それを避けるために俺は直接手を出さなかったのだが……人間、どうやら貴様はそれを所望するようだな」
息を、呑む。その言葉の意味は、すぐに理解した。
指先が、動かない。唇も、呼吸すら儘ならない。眩む視界の中、獄長の冷笑だけは鮮明に焼き付く。
「苦しいか。……そうだろうな、お前の息の根を止めることなど造作もない。お前の体は今もうすでに俺の物だ。……分かるか? この心臓も、俺が止めようと思えばその生命活動を終える。お前の体は俺の傀儡となったのだ」
喘ぐ胸。そこを衣類越しに撫でられる。心臓の辺りを指先で突かれ、体が強張る。俺の思い通りに動かないのに、与えられる刺激は鮮明に、より鋭く流れ込んでくるのだ。
「……頭を垂れろ」
「……ッ」
「頭を垂れ、地面に伏せて詫びろ。貴様のせいで汚れたこの靴を清めるのだ」
誰が、そんなことするか。
屈辱のあまりに叫びそうになるが、やつに乗っ取られた体は言葉をろくに発することもできなかった。
膝が、折れる。嘘だろ、と思った次の瞬間、俺の意志関係なく俺の体は額を地面に擦りつけ、土下座するのだ。
嫌だ、嫌だ、こんな真似したくない。そう思うが、体は勝手に動くのだ。
獄長は何食わぬ顔してその爪先を俺の顔に擦り付ける。硬質な黒革のブーツが目に入る。
いやだ、嘘だろ、やめろ。頭の中で叫ぶ。けれど、俺の体には届かない。躊躇いなく口を開き、舌を出した体は、そのまま獄長の靴裏に舌を這わせた。
「っ、……申し訳ございませんでした、ユアン獄長様」
喉奥から発せられたその声は自分のものなのに、他人のように聞こえたのは言わされてるからだろう。この男の仕業だろう。だって、俺はこいつの名前なんか知らない。
靴に舌を這わせる俺を見て、男……ユアン獄長はせせら笑う。「貴様、可愛げがある顔も出来るのだな」と、まるで面白い玩具を見つけたかのような顔で。
自分の体が自分のものでなくなる瞬間が来るとは思わなかった。
舌先に砂利の感触が触れ、嫌なのに、突き出した舌は執拗に獄長の靴に這わされる。
今すぐ口を洗いたい衝動に駆られるが、体は相変わらず俺の意思命令を遮断したままで。
「人間、名をなんと言う」
口元から離れた靴先は、頬から顎のラインをなぞるように滑り落ちる。
こんなやつに名前を教えたくないと思うのに、口は俺の意志と関係なく「曜」と掠れた声で応えるのだ。
俺の名前を聞いた獄長はふ、と笑う。
「……曜」
その声で名前を呼ばれた瞬間、心臓に無数の鎖が絡み付く感覚に陥る。実際には心臓はむき出しにもなっていない。そのはずなのに、この男に名前を呼ばれただけで見えない鎖に雁字搦めになるような、そんな息苦しさが増すのだ。
体から引き離され、宙ぶらりんになった思考。脳味噌にまで獄長の指が絡みついてくるような得体の知れない恐怖。
「……お前の心の声は随分と騒がしいな」
その一言に、カッと耳が熱くなる。
心の声すらも聞かれているのだと思うと、自分の、自分だけの体だったはずなのに急に自分のものなんか一つもなくなったみたいで。
獄長に心を読まれたくない、そう頑なに何も考えないようにするが、それこそ難しい話だ。
「これで分かっただろう。お前は俺に逆らうことは出来ない」
わかった。身を持って理解した。
けれど、それを認めると本当にこの体を、自分という存在を見失いそうで怖かった。
そんなわけない、と心の中で強く思う。やつに伝わるように、強く、念じる。
そして、それは獄長にしっかりと伝わったらしい。感情の宿っていないその目が、確かに不愉快そうに細められる。
「……まだ分からないか、物分りの悪いガキだ」
そう言って、黒衣の下から獄長は何かを取り出した。
そして、取り出した棒状のそれを俺の目の前に投げ捨てる。
「それを拾え」
そう一言、言い放つ。地面に落ちたそれは、鞘に収められた短剣のようだった。
なんで、俺に、武器を渡すんだ。
理解できなかった。下手すれば、俺はこの短剣を使って獄長に襲い掛かる可能性だってあるかもしれない。と、そこまで考えて、気付いた。
だからだろう、俺が絶対に自分に逆らえないということを誇示するために敢えて武器を使おうとしたんだ。
そんな俺の思考を読んだのか、獄長は口元に不気味な笑みを浮かべる。
「それで自ら腹を掻き切るんだ」
それは、地獄の底から這い上がるような不気味な声だった。恐ろしいことを口にする獄長に耳を疑った。
けれど、獄長は撤回も訂正もしない、ただ薄く笑みを浮かべ、俺を見詰めるのだ。
そんなこと、誰がするものか。そう、獄長を睨もうとしたときだった。手が、勝手に短剣へと伸びる。
「……っ」
嘘だ。冗談だろう。必死に体を止めようとするが、動かない。
拾い上げた手からは、見た目からは想像できないほど重量が伝わってきた。
――嫌だ、駄目だ、駄目だ、止まれ、止まれ……――ッ!!
念じるが、体は少しも言うことなんて聞いちゃくれない。指先は勝手に鞘から短剣を抜く。
中から現れた鈍色の鋭い刃物。その表面に反射して写る自分の顔は、魂が抜け落ちたような、見たことない顔をしていて、ゾッとした。
短剣の先端が、ゆっくりと自分の方へと向く。腹部、臍の上辺り。短剣の先端を突き刺そうと体が動いた。
……その瞬間だった。頭が、真っ白になる。そして、襲い掛かってくるのは頭が割れそうなほどの頭痛。
手元から短剣が滑り落ちる。鈍い音を立て、それは足元を滑った。それを拾うこともできなかった。刺してしまったのかと思ったが、痛みは頭からのみだ。
「っ、ぐ、ぅ……っ!」
頭を抑え、呻く俺を見て獄長は不快そうに眉根を寄せる。痛みに喘ぐ俺を見て、そして、笑った。
「その首輪……なるほど、そういうことか」
そう、短剣を拾い上げる獄長は呟く。
死ぬほど頭が痛い。痛くて、本当に頭が割れてしまったのではないだろうかと思うほどの痛みだったが、一時的だが確かに体は獄長からの呪縛を逃れたのだ。
短剣を遠ざければ、痛みは和らぐ。
助かったのか、と息をするのも束の間。
「立て」と獄長に命じられれば、再び見えない鎖に拘束されたように自由を奪われる。
命じられるがままに立ち上がれば、獄長は俺の目の前に立った。そして、その短剣の表面で俺の頬を撫でるのだ。
冷たい感触に、全身が反応する。ぴりっとした痛みとともに皮膚が濡れる感触を感じた。……焼けるように熱い。
「どうやら貴様は自害できないように出来てるらしいな」
獄長は首輪を見て気付いていた。ということは、恐らく、自害できないようにしたのは和光で間違いないだろう。
仮死状態とはいえど、俺に本当に死なれたら困るからか。守るためなのか、それとも俺が自害して逃げ出すことを危惧したからか、わからない。
「……随分と可愛がられてるようだな、貴様のようなやつにそれほどの価値があるとは到底思えないが……」
「こんな下らん玩具まで着けてまで守ろうとしたものを壊され、あの能面のような男がどんな反応を示すかは興味がある」シャツの襟首から滑り込んできたその指先で首輪を撫でられる。
先程までの滲み出るほどの殺気とは違う、獄長の雰囲気に嫌な予感を覚えた。
「服を脱げ」
冷たい声、その命令が胸の奥底へと落ちる。
理由が分からなかった。何故だ、と反応するよりも先に、制服越しに腹部を撫で上げられ、思わず逃げたくなったが獄長はそれを許さない。
「一度魔物と体を交わした人間は内部から魔に侵食される。本人が意識せずとも、魔物を誘い、受け入れるように作り変えられるのだ。……それに俺が気付かないと思ったか」
この男が何を言ってるのか理解できなかった。したくもなかった。
昨夜散々黒羽に嬲られた体を触られ、それだけで、酷く反応してしまいそうになる。
恐ろしい気持ちよりも、恥ずかしいという気持ちが大きかった。俺のことを馬鹿にするような、一人の人間として見ないようなこの男に本当に全部覗かれてるみたいで、悔しくて、ムカついたのに、逃げ出すことも抵抗することもできない。
命じられるがまま、体は勝手に制服のボタンを外していく。脱ぎ捨てるシャツ。獄長は目の色を変えないまま「下もだ」と続けた。
自害できないようにできるなら、この男の命令を聞かなくてもいいようなシステムをこの首輪に付けてほしかった。
制服を脱ぎ、下着から脚を抜く。恥ずかしさはない。だってそうだろう、この傲慢不遜なムカつく男は土人形だ。
そう思うと、まだましだった。
ただ脱ぐくらいなら全然いい。寧ろ俺の裸を見てなにが楽しいのか理解できない。見たきゃ見ればいいだろ、と半ばその時俺はやけくそになっていた。
「……知っているか」
伸びてきた手に、顎を掴まれる。俺が逃げられないのがわかってるくせに、力づくでも自分の方へと向かせようとするのだ、この男は。
「この監獄では人間が好物のやつは少なくはない。肉や血だけではなく、骨や臓器、その体に食べ余すないものはないと言うくらいだ。しかし人間でも高値で取引されるのは肉のついて熟した人間よりも、肉付きも普通の貴様のような年端もいかぬ子供だ。何故だか分かるか?」
「種付し、子を孕ませ、産ませたあとに好きなだけ肉を付けて食うこともできるからだ」変わらぬ、淡々とした口調で告げられる言葉に、血の気が引いた。
逃げ出したい気持ちになった俺を見て、獄長は笑う。
「俺にはお前のような乳臭いガキを妾にする趣味はないが、俺のペットの餌くらいにはなりそうだ」
その言葉と同時に、ぼたりと剥き出しになった背中に何かが落ちてくる。異臭。濃厚な泥の匂い。
え、と目だけを動かして上を見たときだった。血の気が引いた。
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例えるなら、泥を纏った液状のクリーチャー。
「こい、お前の新しい玩具だ」
そう獄長が口にしたのと、天井のそれが落ちてきたのはほぼ同時だった。体の上、頭からぼたぼたと降り注ぐそれを避けることすらできずに直撃する。
見た目以上に質量のあるそれは重く、思わず倒れそうになるが全身を包み込むように絡みついてくるそれに、息を呑む。
慌てて避けようとして、そこで、自分の体の自由が効くようになってることに気付いた。
「ここ最近お気に入りの玩具だった囚人をうっかり飲み込んでしまってから落ち込んでいたんだ。……人間、精々たっぷり遊んでやってくれ」
そう、部屋の隅へと移動した獄長は指を鳴らす。
瞬間、巨大な檻が地面と天井から生え、俺とこの謎の化物を隔離する。
「っ、何、言って……」
酷く久し振りに言葉を発したような気がした。
慌てて檻を掴もうとするが、びくともしない。それどころか、背後から濡れた音を立て、近付いてくるそのクリーチャーに伸ばした手ごと絡め取られそうになり、情けない声が漏れた。砂利となにかが混じったようなそれはただ痛い。必死に剥がそうとするが、まるで手応えがないのだ。
両手部分が現れ、胴体を掴まれる。
そして、顔らしき場所にぽっかりと浮かび上がる大きな口のような穴。
そこから覗く闇に、青褪めた。
「っ、は、なせ!」
がむしゃらに暴れる。
半ばやけくそになりながら、体を拘束してこようとしたそれを思いっきり振り払う。
思った以上に体は脆い、手応えは泥と同じだ。ぐしゃりと崩れ、しかしすぐに体は元通りになる。
酔狂な獄長のお陰で妙な技から抜け出せたのはでかいが、それでも状況が好転したわけではない。おまけにろくに身を守れるものもない。
自由になった身で、俺がまずしたのは制服を拾うことだった。広くはない檻の中、逃げながら落ちていたシャツを拾い上げようとすれば泥の化物が俺のシャツを掴んでくる。
え、まじか。
ものすごい力で引っ張られ、思わず手を離してしまいそうになる。
というか、よく見たら掴まれた箇所が溶けているように見えるのは俺の気のせいだろうか。
「っ、だめだ、やめろって! おい! こら!」
うーだとかあーだとなんか呻きながらもよたよたとこちらの声に反応する化物は歩きを覚えたての赤子のようにすら見えた。
俺はそいつから思いっきりシャツを奪い返し、慌てて袖の部分に腕を通した。
するとすぐに繊維が肌に張り付くように体に密着する。
魔界のものはやはり万能のようで、溶けかけていた箇所は既に直り、ご丁寧に下着やスラックス部分まで作ってくれる。
「再生衣か……人間のくせに随分と身分不相応なものを身に着ける」
「っ、そんなことどうでもいいからここから出せよ!」
「お前、人の話を全く聞いていないようだな。お前の墓場はここだ。お前の骨もレーガンの餌になる、これ程名誉なこともないだろう」
レーガンというのはこの化物のことだろうか。
とてもじゃないがレーガンという顔じゃない、むしろドロドロとか、マルマルとかそんな感じだ。
けれど、レーガンの名前を口にする獄長の声は気味悪いほど甘い。相当可愛がってるらしい。名前を呼ばれ、反応するレーガンは獄長のいる方へとのそのそと方向転換し、そして檻に体をめり込ませるように獄長へと近付こうとするのだ。
「レーガン、俺はいい、そこにお前の好きな肉があるぞ。好きなように遊んでいい。どうだ、嬉しいだろう?」
言いながらレーガンの顔らしき部分を撫でる獄長。余程懐いてるらしい。感情を表すかのようにドロドロと体を蕩けさせるレーガンに、俺は何を見せられてるのだとしばし呆けた。
しかし、これはチャンスかもしれない。
「……獄長さん、あんたのペットは随分と獄長さんと遊びたがってるみたいだけど?」
「貴様がレーガンのことを分かったような口を聞くな。こいつは甘えん坊なのだ、三時間おきに撫でないと暴れる」
「そういえばまだ今日は触れてなかったな」と言いながら手を離す獄長。すると、満足したようにレーガンは体を蠢かせ、それから身を固くする。スライムのような形状から手足の生えた泥人形へと変化するに、青褪めた。
「磨り潰してもいい、溶かすのも悪くないだろう、砕くか?踊り食いもお前は好きだろう」
このままレーガンが獄長に甘えてあわよくば檻を開けて入ってこないかと思ったが、甘かった。
それどころかより一層大きくなったレーガンに、血の気が引く。
「っ、ぉわ」
大きな分厚い掌に頭を掴まれそうになり、頭を下げ、間一髪避け切ることができたがそのままバランスを崩してしまった。転びそうになる俺に、伸びてきた手に今度こそ脚を掴まれる。
砂利混じったグチャグチャの手に持ち上げられ、視界がぐるりと傾いた。真っ逆さま。このままレーガンが手を離したら頭から落ちてそのまま脳挫傷コースに違いない。
受け身を取るには高さがありすぎる。体勢を立て直すため、俺はレーガンの腕にしがみついた。そして、そのままレーガンの顔面部分を、思いっきり片方の脚で蹴り上げようとしたときだ。相変わらず手応えがない。けれど、崩れた泥は瞬時に脚に絡みついてくる。
「な、え……ッ」
そして、衝撃。視界が大きく傾いた次の瞬間、咄嗟に頭を腕で庇う。
声も出なかった。思いっきり地面に叩きつけられた体は悲鳴を上げる。咄嗟に庇う体勢をとったものの、そんなもの無意味だと思い知らされるほどの激痛に頭が真っ白になる。絶対、腕イッた。顔面を庇った左肘辺りが焼けるように痛む。アドレナリンが大放出中の脳味噌はそれを痺れとして受け止めてるようだ。力を入れても動かないそこに、今度こそ死を覚悟した。
本気で、このままでは殺される。
息が上がる。汗が止まらない。出血はないものの、強く叩きつけられた体は立ってるのもやっとだった。
獄長の言うとおりなのかもしれない、人間の俺は魔法を使えるわけでもすごい力があるわけでもない、魔族に勝とうなんて思うこと自体が間違えなのか。
レーガンがゆっくりと歩み寄ってくる。
その巨体が一歩踏み出す度に微かに地面が揺れた。
黒羽さん、黒羽さん。
頭の中で何度も繰り返す。辛うじて神経の繋がってる右手で、制服の中の時計を握り締めた。
――この際なんでもいい、この状況を打破できるなら神でも仏でも邪神でも……っ!!
誰か俺を助けてくれ、と硬く目を瞑ったときだった。
「貴様!! 伊波様から離れろ!!」
……一瞬、幻聴かと思った。
今はもう聞き慣れたその低い声に、俺は、ハッと顔を上げる。そして、息を飲んだ。
檻の隙間から飛んできた黒い毛玉はレーガンの巨体、その顔面に突進する。
そして、ぽてっと音を立て地面に落ちた。
「っ、く、黒羽さん……?!」
状況が読み込めなかった。
咄嗟に落ちたその黒い毛玉を片腕で抱き上げれば、この毛玉はわなわなと震えていた。右目部分縦一文字に裂けた大きな傷跡。間違いない、黒羽だ。
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