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第一章【烏と踊る午前零時】
ぎくしゃくする二人
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そしてやってきたのはビザール通り。
放課後ということもあってか、ビザール通りは既にたくさんの者たちで賑わっていた。
朝とはまた違う、楽しげな笑い声、様々な言葉が飛び交うそこは少しでも黒羽から離れたらそのままどこかへ流されそうなほどの人混みならぬモンスター込みで。
流石にこの群れに混ざる勇気はなかった。本通りから少し離れた路地裏、そちらを通り、俺たちは目的地に向かって歩いていた。
「黄桜の言っていた吸血鬼除けか」
「うん……やっぱり、今日みたいなことがまたあったら怖いし、念には念をって思って……」
「……自分が不甲斐無いばかりに、伊波様にそんな心配をさせてしまうとは」
「そ、そうじゃないって……」
相変わらず、黒羽はこんな調子だった。
それに、吸血鬼除けはついでみたいなところもある。
予め、業案の場所は巳亦に聞いていた。それをメモした紙を手に、石畳の道を歩いていく。
裏道には柄の悪い妖怪たちがいたが、それも黒羽が横に居るのを見ると直接関わってこようとはしなかった。
……心強いと思うのは、俺だけなのだろうか。辺りを警戒してる黒羽をちらりと見上げれば、ふいに黒羽と目があった。
「……伊波様」
「は、はい!」
「今の通路、右では?」
「……あ」
と、まあ、そんな感じで通りを彷徨うこと数十分。ようやく、それらしき建物が見えてきた。一言で例えるなら、オンボロの日本家屋だ。玄関口であろう扉の横には出入りの妨げにならない程度に骨董品やら箱やらなんやらが乱雑に積み上げられている。おそらく、『業庵』と木彫りされた看板がなければ見落としていた。
「……ここが、業庵……」
和洋折衷様々な造りの店が並ぶ中、業庵はどこか浮いていた。その理由はすぐに分かった。
どのお店も、形は様々だが共通して美味しそうな料理だったりはたまた珍味だったりといった食事処だった。けれど、この目の前のオンボロの店はメニューもなければサンプルもなく、料理が出て来る気配すらしない。それどころか、その店だけ周りに人がいないのだ。
原因は、近付いていなくても鼻につく独特の匂いのせいか。
俺は鼻呼吸を止め、扉を開く。ビンゴ。扉を開けた瞬間、外まで漂っていたその異臭は強くなった。例えるなら、様々な漢方を混ぜたような、そんな匂いだ。
「っ……う゛……」
「……これは、すごい匂いですね」
俺と黒羽は鼻を抑えながら、俺は店内へと目を向ける。中はあまり広くないだろう。それどころか、外に溢れていた骨董品やらが中でも山のように積み上がっているのだ。
おそらくカウンターらしき場所は見つけたが、ガラクタばかりが積まれてるばかりで人の姿はない。誰もいないのだろうか。
「……すみませーん」
恐る恐る、カウンターに近づく。それにしても、ここ何屋だ。壁には干からびた爬虫類が吊るされ、また一部では教科書で見たことがあるような古い水墨画も飾られている。天井には隙間なく御札が貼られてるし、なんか天井部分がミシミシと音立ててるし……。
と、辺りを見渡していたときだ。
傍にあったガラクタの山がガラガラと音を立て崩れた。
「……らっしゃい」
「うわっ!!」
いきなり現れた小さな老婆に、一瞬、口から心臓が飛び出しそうになる。
俺の膝ほどしかないのではないだろうか、分厚い座布団の上に座っていた老婆は、痩せ、その顔は骸骨のようにも見えた。
老婆は、俺の姿を見るなり「ん?」と細い目を更に細める。
「……おや、珍しいね、あんたみたいな人間の小僧が来るなんて」
「何の用だい、ここで取り扱ってるのは人間様には無縁のものばかりだよ」そう、裾口から煙管を取り出し、咥える老婆。嗄れたその声には棘があった。
けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「あの、ここに吸血鬼……が苦手なものがあるって聞いたんですけど……」
「……ああ、あれか。あるにはあるが……どうするつもりだい?」
「えっ、ええと……」
「あるなら出せ。言い値でそれを頂こう」
口籠る俺の代わりに前に出たのは、黒羽だ。
高圧的な物言いだが、老婆は機嫌を悪くするわけでもなく、自分の何倍もある黒羽を見上げ、そして口から真っ白な煙を吐き出した。
「……金なんかいらないよ、あんなもの店に置いてるだけで寝床まで臭くて仕方ないんだ。持ってってくれるならくれてやる」
「……えっ、いいんですか?」
「いいって言ってるんだ、ちょっと待ってな」
よいしょ、と立ち上がる老婆はそのまま、ガラクタを足蹴にしながら奥へと進んでいく。
そして暫くして、黒く塗られた箱を手に戻ってきた。
「ほら、これだろう」
「……ありがとうございます」
臭くて仕方ないと言うものだからどんなものがくるかと思えば、それほど臭わない、というか匂いが分からなかった。「開けていいですか」と尋ねれば、老婆は返事の代わりに煙を吐き出した。
そっと開ければ、中にはお守りが入っていた。
どこからどうみても普通のお守りに見えるが、黒羽の表情を見るにそれなりに効果はあるようだ。
「……これで満足かい?」
「……あの、本当にただでもらってよかったんですか?」
「くどい。……アタシの善意が信用できないってか?」
「い、いえいえいえ!」
「……フン! まあいい、それと言っちゃなんだ、……うちでは色々魔道具から薬品、調味料まで役立つものを取り扱ってる。……また何か欲しいものがあったらうちに来な」
「あんたが来てくれると、広告にもなる」そう、老婆はしわしわの顔を歪め、ニッと笑う。
なるほどな、と思ったが、怪訝にされるよりかは歓迎された方が嬉しい。俺は、「わかりました」と頭を下げ、木箱を手にそのまま店を立ち去ろうとした。
そのときだ。
「そこの黒いの」
老婆は、呼び止める。
それは俺ではなく、黒羽に向けられたものだということはすぐに分かった。
「……俺か?」
「ああ、おめえだよ、その目の傷、治す気はないのかね。……視力は戻らんだろうが、傷跡を消す薬ならいいものがある。もちろんそれなりのモノは貰うがな」
そう言って、老婆は厭らしく笑った。
黒羽の顔の傷。確かに、目立つなとは思っていたが、あまり触れてはいけないのだろうと思い、触れないようにしていた。
だからこそ、俺は足を止め、二人のやり取りを聞いていた。
「無用だ。……この傷を消したいと思ったこともない」
黒羽の態度は、昂然としたものだった。まるで証だ、とでも言うかのように、黒羽は笑う。
それは老婆とはまた違った感情を孕んだ笑みだった。
「ふん、変わりもんだね。まあいい、気が向いたらまた来な。そこらのやぶ医者よりもいい薬をやる」
老婆はつまらなさそうに手を振る。俺は、木箱ごと制服の内ポケットに仕舞い、黒羽とともに業庵を後にした。
「目的の品も手に入れたし、そろそろ……」
戻るか、と口を開く黒羽に俺は「あの!」と慌てて手を上げる。
「寮に戻る前に、ちょっと……食べていかない?」
「別に構わないが……私はその、巳亦のようにこの辺の良し悪しは分からないぞ」
「それは、いいんだ。行きたいところは決まってるし」
というわけで、黒羽からの許可を貰った俺は、一度大通りに戻ることにした。通りに出ると数体の妖怪たちがこちらを振り返り、そしてこそこそと道の端へと寄る。
あんなに混んでるのに、不自然に道が出来てることからするに、もしかしたら吸血鬼除けのお陰だろうか。
だとすると、申し訳ない気もするが、今はありがたさもある。俺は、朝の記憶を辿りながら、屋台を探した。
そして見つけた。
「……ここは……」
「黒羽さん、何か食べたいものとかある?」
変わらず頑固親父タイプのおじさんが無言でひたすらあらゆる肉を焼いているその屋台。そこは、朝黒羽が興味を示していたそれだ。
それに気付いた黒羽、左目を丸くさせる。
「…………もしかして、私のためにわざわざここを選んだのか?」
「黒羽さん、朝も昼もろくに口に入れてないですし……朝ここ通りかかったとき食べたさそうにしてたので、好きなのかなって思ったんだけど……あっ、えーと、それと俺も食べたかったし……」
あまり気遣わせるのもいけないと思い、咄嗟にそう手を叩けば、黒羽はなんとも言えない顔をする。自己嫌悪と、感動と、そんな相反する感情が同時に込み上げてきたような妙な顔だ。
「……申し訳ございません、自分なんかのために、余計な手間を」
「余計じゃないですって、あの、なんか食べたいのとかないんですか? あ、そうだ、お金とかって……」
店主にちらりと目を向ければ、店主は首を横に振る。顔パスか、それとも、もともとここでは金銭のやり取りをしないのか。と思ったが、他の店の様子からするに普通に金になるものはあるようだ。ここの学園内通貨の仕組みは未だに謎だ。
というわけで、黒羽は何かよくわからない生き物の姿焼きと、俺は食べられそうな焼き魚を購入することにした。
見た目は魔界の魚ということだけあってなかなか色がカラフルだが、匂いは普通の魚のようにも思える。
一度通りにあるベンチに移動し、俺と黒羽は隣り合って食事をとることにした。とはいえ、学校帰りの買い食いレベルで腹はそれほど満たされないが。
頭からまるごと食べる黒羽を眺めながら、俺はなかなか一口目に踏み出せずにいた。
「……? どうかされましたか?あまり食欲がないのでは……」
「いや、その……黒羽さん見てただけだから」
「私、ですか……」
「……美味しい?」
「……となりに伊波様がいるんです、不味いわけがありません」
そういう意味で聞いたのではなかったのだが、美味しそうに二口目を口にする黒羽を見て俺も嬉しかった。
最初は緊張してるようだったが、次第にそれも解れてくる。気付けば俺も、焼き魚を完食していた。因みに味は普通に美味しかった。
食べ終わって、黒羽は「ちょっと待っててください」といい席を立つ。そして数分もしない内に戻ってきた。
「伊波様、これをどうぞ」
それは水が入ったボトルのようだ。近くの店で貰ってきたのか、「ありがとうございます」とそれを受け取る。
俺が魔界のものに慣れていないことへの配慮か、ボトルには見慣れた文字が書かれている。日本製だ。俺はそれで喉を湿らせることにした。
「黒羽さん、もうお腹は大丈夫ですか?」
「ええ、元々何日も断食する生活を送ってましたし、三食取らずとも平気です」
「え、それは……」
詳しく聞きたいような、聞くのが怖いような……。
俺は敢えて聞かないようにする。元々妖怪は食事をしないのかと言えば、寮生たちの生活を見るに朝飯からちゃんと食べてる者も多い。本当に疎らなのだろう。
黒羽は性格が修行僧みたいなところあるとは思っていたが、本当、俺の護衛を任される前は何をしていたのだろうが。謎だ……。
「……黒羽さんって……」
「どうしましたか?」
「俺、黒羽さんのことなにも知らないなって思って」
「私の話を聞いても面白くもなんともありませんよ」
「それは、別に、楽しみたいわけではないので……黒羽さん、好きな食べ物とかないの?」
「特別好き嫌いはございません」
「そうなんだ……あ、でも確かに黒羽さん、嫌いなものなさそう。それじゃあ……」
と、何か聞いてみようと思うが、思い浮かばない。というか、どこまで聞いていいのかわからないのだ。家族構成、そもそも妖怪に家族意識があるのか、下手に地雷を踏んでしまうのも避けたい。そもそも、黒羽が自分から話し出さない内容を俺が聞いてもいいものか。急激に不安になってくる。「えーと」と悩んだとき。
「伊波様は、どういったものが好きなんですか?」
「俺?」
「……ええ、今後の参考にしようかと思いまして……。いえ、変な意味はないんですが、食事処を探す際にやはり伊波様が好きなものがある店がいいかと」
いつもとは打って変わって、しどろもどろと話し始める黒羽。業務的な内容だとしても、興味を持ってもらえることは進歩なのではないだろうか。……いや、前からか?
どちらにせよ、嬉しい。
「俺も、黒羽さんと同じで基本なんでも好きですけど一番って言われたらそうですね……ラーメンとか」
「拉麺、ですか……私は食べたことないですが、伊波様が美味しいと仰るならきっと美味しいのでしょう」
「食べたことないんですか?」
「はい」
「それじゃあ、今度一緒に……あ、でも、ここにラーメン屋ってあるのかな……」
「伊波様、私はお気持ちだけで充分です」
「うぐ……」
どうしてだろうか。ことごとくやんわりと避けられてる感があるのだが……。
やはり避けられてるのかと思ったが、普通に考えれば黒羽が俺に距離を置いても無理はない。けれど、これからの付き合いになる相手だ、少しでも仲良くできたらと思ったのだが……いや変な意味ではなく、純粋に。
いいや、巳亦にラーメンが食べれる場所がないかこっそり調べてもらっておこう。
気付けば時計台の時計の針は六時を回っている。巨大な嘴を持った複数の羽を携えた謎の鳥たちがガアガアと鳴きながら真紫色の空を飛んでゆく。
段々人混みは増し、先程まで閉まっていた一部の店が開店の準備をし始めた。女子供の姿は見えなくなり、昼間見掛けないような恐ろしい姿の魔物たちがよく目につくようになった。
魔の夜が来る。
ひたりと、冷たい風が首筋を撫でた。
俺と黒羽は寮へと戻ることにした。
夜だというのに明るいのは、いたる所にぶら下がる色とりどりの提灯のお陰だろうか。
夜の街へと繰り出す妖怪たちとすれ違い、時折会釈をしながらも戻ってきた楼閣。その頂上は綿飴のような濃い雲に覆われて見えない。
豪奢な出入り口を潜れば、外の世界とはまたガラリと代わった艶やかな内装が広がっていた。
「おう、随分と早いお帰りだな」
そんな俺達を出迎えてくれたのは巳亦だった。
丁度出かけようとしていたのか、制服の上から上着を羽織った巳亦は俺達に近付いてくる。
巳亦には予め業庵に行くことは伝えていた。「どうだった?」と聞いてくる巳亦に、俺は締まっていた木箱を取り出した。
「一応、店主のお婆さんに貰えたよ」
「……へえ、これが噂の……」
「……巳亦は平気なのか?」
「ま、俺は吸血鬼じゃないしな」
「それよりも」と、巳亦は黒羽の方をちらりと見て、それからこそこそと俺に耳打ちをする。
「黒羽さん、機嫌直ったみたいだな」
「まあ……うん、そうだな」
「……おい、何を人を見ながらこそこそ話してる」
「別になにも? ただ、美味そうな匂いするなって。飯食ってきたの?か」
「ああ、少しだけだけど……」
「なら良かったな。今日はここで出された飯食わない方が方がいいぞ」
「え? どういうこと?」
「今日の料理人は飯が不味いんだ。俺が言うんだから曜も無理だと思うぞ。……だから、ほとんどのやつは外に食いに行ってるみたいだしな」
なるほど、それで巳亦も出掛けようとしていたのか。
「舌が狂ってるやつらには涎垂ものだろうけどな」と巳亦は皮肉げに笑い、そして「それじゃあ、俺はこれで」とそのまま夜の風景へと消える。
「本当、落ち着きがない男だな」
「……そよっぽど不味いんだな……」
「どうだろうな。あの男の二枚舌はどうにも信用ならん」
なんて話しながらも、晩飯が用意されているであろう大広間の前を通りかかったときだ。閉め切られた襖の奥から溢れ出す異臭、まるで生ゴミを火で炙ったかのようなその悪臭に俺は思わず吐き気を覚えた。……これは、近付かない方がいいやつだ。襖の向こうから聞こえてくる賑やかな声の中に白梅の笑い声が聞こえてきたような気がしたが俺は聞こえなかったことにした。
何段もの階段を上がり、辿り着いた最上階。その階に踏み込んだ瞬間、今まで聴こえてきた他の者の声すらも聞こえなくなった。……ような気がする。
ひやりとした空気の中、俺と黒羽は異様に広いその通路を渡り歩いていた。
当たり前のように自室まで着いてくる黒羽に、今ではほっとすらした。一人だとこの広い空間は心細すぎるのだ。
「そういえば伊波様、部屋の崩壊した部分の修復はもう済んでるということだ」
崩壊というよりも、黒羽が蹴り壊したんだが……まあ、細かいことはさておきだ。
「……じゃあ、もうこっちで寝ても大丈夫なのかな」
「その件だが、もしものこともある。俺が一晩見ておこう」
見ておこうって、まさか。
「俺の部屋にずっといるということ……?」
「無論そういうことになるな」
……確かに、黒羽がいると心強いと思うけど。
思うけど、なんだろうか、24時間体勢でずっと黒羽が監視すると思うと……正直それもそれで休まらないのだが。
けどまあ、状況が状況だし……そういうものだろうか?
そう、思いながらちらりと黒羽を見上げたとき、視線がばちりとぶつかった。そして、黒羽がハッとする。
「……その、俺が気になるというのなら姿を消すことも可能だし、もし信用ならないのなら俺の手足を縛ってくれても構わないが……」
「っ、え……えええそれはそれで……」
というか、黒羽が危惧してるその言葉の意味を理解し、顔が熱くなる。確かに、昼間のことを思い出せば、俺も俺で危うく流されそうになってたわけだし……安心とは思えない。
「……やっぱり、外で待機しておく」
俺の気持ちを察したのか、苦虫を噛み潰したような顔をした黒羽はそう重々しげに口にした。
俺は敢えて何も言わなかった。心なしかまた黒羽が落ち込んでるような気がしたが、掛ける言葉が見当たらず、諦める。
そして、部屋の前に待機するということで黒羽と別れ、俺は自室へと入る。
部屋の中は誰が入った気配もない。寧ろ、昨日のままのように見えた。
壊れた箇所も、今ではどこが壊れたのかもわからない。それらしき壁の痕、ガラスに触れるが、壁を作り直した気配もないのだ。元に戻った、みたいだ。……それが現実に有り得る世界なだけに、あながち間違えではないかもしれない。
一通り部屋の中を確認した後は、制服から和服へと着替える。相変わらず帯を巻くのは上手くいかないが、締め付けられる制服に比べれば幾らかましだ。
机の上、俺は今日授業で使ったノートを広げた。それを読み返し、一日のことを思い返した。よく考えれば、ろくでもない一日だった。けれど、色んなことを見て、知って、出会った。……一日で何十年分の驚きを使い果たしたんじゃないか、そう思えるほど。
――親善大使として、人類代表として、何も出来ていない気もするが、まずは知らなければならない。
取り敢えず、明日も文学部に行くとして。時間割を確認する。この世界のことを知るには世界科も手っ取り早いが天文学も……。そんなことを考えながら、明日の日程を組み立てて、気が付けばうとうとと船を漕いでいた。
……布団で寝ないと、明日が辛いぞ。思いながら、立ち上がる。そのまま寝室へと移動し、敷かれた布団の中へと移動しようとしたとき、視線を感じた。
――……なんだ?
昨夜のこともある、警戒して辺りを見渡した。が、薄暗い部屋の中、人の影すら見当たらない。……考え過ぎなのか、それとも神経質になってるだけなのか。リューグに噛まれた跡がじぐりと熱を持って疼き始めた。
やっぱり、気のせいだったか。思いながら窓、それを覆い隠す襖を開いたときだった。
全身から冷たい汗が吹き出した。本来ならば真紫の夜空が広がるはずのそこには、濁った巨大な目玉が無数窓ガラスに張り付いていたのだ。
思わず、息を飲んだ。声すら出ず、思わず襖を閉めたときだ。扉が叩かれる、「伊波様!いかがされましたか!」と響く声、黒羽だ。俺は慌てて黒羽の元へ向かう。
扉を開けば、顔色を変えた黒羽がいて、安堵する。
「っ、く、黒羽さん、窓に、窓の外に目玉が……おっきな目玉が……いっぱい……ッ」
「……目玉……?」
扉を閉め、黒羽は俺の部屋へと上がる。
その奥、寝室の奥の襖を指差せば、近付いた黒羽は思いっきりそれを開いた。
そして。
「……目玉……ですか……」
先程まで無数の目玉が張り付いていたはずのそこには、本来あるべきはずの夜空が広がっているだけだった。――目玉の一つすらない。
「……あれ……? うそ、さっきまで、確かに……」
「……もしかしたら通りすがりの物の怪だったのかもしれませんな。……気配も感じないし、恐らくもう大丈夫かと」
もう、大丈夫。そう言って窓を隠す黒羽。
本当に大丈夫なのだろうか。俺は、釈然としなかった。あの目玉の大きさに数からして、すぐに隠れることが出来るとは思えないからだ。本当にいなくなったのか?
得体の知れない恐怖だけが残った。
「……大丈夫、か……そっか……」
「伊波様」
「……ごめん、その、呼び出して……もう大丈夫だから」
ただでさえ自由なこともできず、縛り付けてしまってる黒羽をこうしてくだらないことで呼び出してしまったことに罪悪感を覚え始める。
そうだよな、この世界ではそういうことも当たり前なのだ。慣れないと……。そう思うのに、指先は震える。そんな時だった。
「……やはり、今夜、今夜だけでいいので俺を部屋に置いていただけませんか」
そう、隻眼で俺を見詰め、黒羽は俺に申し込むのだ。
あくまで、自分から頼み込むという形をとって。
……部屋に、置く。その言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。
「自分を縛ってくれても構わないです」そう、黒羽は続けた。よほど昼間のことを気にしてるようだ。自分自身を卑下する黒羽に、胸が痛む。
「そ、そこまでしなくても……」
「しかし、もしも何かがあったときに」
「何か……って……」
顔が、熱くなる。知らないふりするのもおかしな話だ。恥ずかしさをごまかすように咳払いをする。
「俺は……黒羽さんのこと、信じてますので」
黒羽は、「分かりました」とだけ口にした。
というわけで、俺が眠るまで黒羽ご一緒についてくれることになったのだけれど、いつも一人で過ごしていたからか、この部屋に他人がいることが不思議な感じだった。
緊張はしないといえば嘘になる。けれど、それ以上に黒羽が緊張しているようにおもえた。
部屋の隅、座ろうとしない黒羽を長時間の説得の末、なんとか座布団に座らせることが出来た。
眠るにはまだ早い。座る黒羽、そして卓袱台を挟んで向かい側、俺は黒羽と向かい合う。
暫しの沈黙の末、俺は思い切って口を開いた。
「黒羽さんって一人のときって何してるの?」
それは純粋な疑問だった。いつも義務的な会話ばかりが多かっただけに、俺は黒羽のことを何一つわからなかった。
この機会に黒羽の色んなことを知りたい、そう思ったのだった。けれど。
「大して面白い話はありませんが」
「……黒羽さん、口調口調」
「……敢えて言うならば、伊波様の周囲に不審な陰が無いか探ることだろうか」
黒羽らしいと言えば黒羽らしいのかもしれないが、俺が求めていたものとはすこし違った。俺の聞き方が悪かったのだろうか、難しい。気を取り直して次の質問へとつなげる。
「じゃあ、俺と会う前とかは何をして時間を潰してたんですか?」
「時間を潰す……自分にはよく分からない感覚だが、手持ち無沙汰にならないよう常に己に試練を課しては鍛錬をしていた。気が付けば何十年も経っていたりということもあったな」
「………………」
次元が違った。今更だったが、目の前にいるこの男は俺の何十倍何百倍も長く生きてきた妖怪だ。しかし、興味深い。
「鍛錬……」
「それがどうかしたのか」
「一人のとき、どうしたらいいのか分からなくて参考にしようと思ったんだけど……俺には難しそうだな」
「その必要はない。自分が貴殿の剣となり盾になる。……それでは不服だろうか」
「そうだな、俺には難しそうだしやめておくよ」
「……」
黒羽は気難しい。ちょっとした言葉で相手のプライドを傷付けてしまったらと思うと不安だったが、特に気にしていないようだ。
黒羽との会話は主に学園のことだった。明日の授業はどうしようかとか段取りを決める。本当はもっと黒羽と個人的な話をしたかったのだけれど、黒羽はそうではないようだ。俺のこれからのことを案じてくれるので無下にもできない。
気が付けば部屋の片隅に置いていたろうそくが短くなっていた。一本丸々燃焼するのに三時間は掛かるものだという。
――そろそろ十二時になる。
「眠たいのならば寝床に行くべきだ。……人間の体は丈夫ではないと聞いた。自分に付き合って無理をせず、休めて下さい」
「黒羽さんは……」
「私はここにいる」
睡眠など必要ない、そう黒羽は言った。
ならば、無理に眠らせるのもおかしな話だ。それに、黒羽が一晩中見張ってくれるというのは心強い。前回とはまた違う状況ではあるが、同じ部屋にいることの安心感は大きい。
俺は黒羽に甘えることにした。「おやすみなさい」とだけ告げ、俺は寝室へと移動する。ちらりと黒羽の方を振り返れば、座敷の上、静かに正座をする黒羽の背中が見えた。
放課後ということもあってか、ビザール通りは既にたくさんの者たちで賑わっていた。
朝とはまた違う、楽しげな笑い声、様々な言葉が飛び交うそこは少しでも黒羽から離れたらそのままどこかへ流されそうなほどの人混みならぬモンスター込みで。
流石にこの群れに混ざる勇気はなかった。本通りから少し離れた路地裏、そちらを通り、俺たちは目的地に向かって歩いていた。
「黄桜の言っていた吸血鬼除けか」
「うん……やっぱり、今日みたいなことがまたあったら怖いし、念には念をって思って……」
「……自分が不甲斐無いばかりに、伊波様にそんな心配をさせてしまうとは」
「そ、そうじゃないって……」
相変わらず、黒羽はこんな調子だった。
それに、吸血鬼除けはついでみたいなところもある。
予め、業案の場所は巳亦に聞いていた。それをメモした紙を手に、石畳の道を歩いていく。
裏道には柄の悪い妖怪たちがいたが、それも黒羽が横に居るのを見ると直接関わってこようとはしなかった。
……心強いと思うのは、俺だけなのだろうか。辺りを警戒してる黒羽をちらりと見上げれば、ふいに黒羽と目があった。
「……伊波様」
「は、はい!」
「今の通路、右では?」
「……あ」
と、まあ、そんな感じで通りを彷徨うこと数十分。ようやく、それらしき建物が見えてきた。一言で例えるなら、オンボロの日本家屋だ。玄関口であろう扉の横には出入りの妨げにならない程度に骨董品やら箱やらなんやらが乱雑に積み上げられている。おそらく、『業庵』と木彫りされた看板がなければ見落としていた。
「……ここが、業庵……」
和洋折衷様々な造りの店が並ぶ中、業庵はどこか浮いていた。その理由はすぐに分かった。
どのお店も、形は様々だが共通して美味しそうな料理だったりはたまた珍味だったりといった食事処だった。けれど、この目の前のオンボロの店はメニューもなければサンプルもなく、料理が出て来る気配すらしない。それどころか、その店だけ周りに人がいないのだ。
原因は、近付いていなくても鼻につく独特の匂いのせいか。
俺は鼻呼吸を止め、扉を開く。ビンゴ。扉を開けた瞬間、外まで漂っていたその異臭は強くなった。例えるなら、様々な漢方を混ぜたような、そんな匂いだ。
「っ……う゛……」
「……これは、すごい匂いですね」
俺と黒羽は鼻を抑えながら、俺は店内へと目を向ける。中はあまり広くないだろう。それどころか、外に溢れていた骨董品やらが中でも山のように積み上がっているのだ。
おそらくカウンターらしき場所は見つけたが、ガラクタばかりが積まれてるばかりで人の姿はない。誰もいないのだろうか。
「……すみませーん」
恐る恐る、カウンターに近づく。それにしても、ここ何屋だ。壁には干からびた爬虫類が吊るされ、また一部では教科書で見たことがあるような古い水墨画も飾られている。天井には隙間なく御札が貼られてるし、なんか天井部分がミシミシと音立ててるし……。
と、辺りを見渡していたときだ。
傍にあったガラクタの山がガラガラと音を立て崩れた。
「……らっしゃい」
「うわっ!!」
いきなり現れた小さな老婆に、一瞬、口から心臓が飛び出しそうになる。
俺の膝ほどしかないのではないだろうか、分厚い座布団の上に座っていた老婆は、痩せ、その顔は骸骨のようにも見えた。
老婆は、俺の姿を見るなり「ん?」と細い目を更に細める。
「……おや、珍しいね、あんたみたいな人間の小僧が来るなんて」
「何の用だい、ここで取り扱ってるのは人間様には無縁のものばかりだよ」そう、裾口から煙管を取り出し、咥える老婆。嗄れたその声には棘があった。
けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「あの、ここに吸血鬼……が苦手なものがあるって聞いたんですけど……」
「……ああ、あれか。あるにはあるが……どうするつもりだい?」
「えっ、ええと……」
「あるなら出せ。言い値でそれを頂こう」
口籠る俺の代わりに前に出たのは、黒羽だ。
高圧的な物言いだが、老婆は機嫌を悪くするわけでもなく、自分の何倍もある黒羽を見上げ、そして口から真っ白な煙を吐き出した。
「……金なんかいらないよ、あんなもの店に置いてるだけで寝床まで臭くて仕方ないんだ。持ってってくれるならくれてやる」
「……えっ、いいんですか?」
「いいって言ってるんだ、ちょっと待ってな」
よいしょ、と立ち上がる老婆はそのまま、ガラクタを足蹴にしながら奥へと進んでいく。
そして暫くして、黒く塗られた箱を手に戻ってきた。
「ほら、これだろう」
「……ありがとうございます」
臭くて仕方ないと言うものだからどんなものがくるかと思えば、それほど臭わない、というか匂いが分からなかった。「開けていいですか」と尋ねれば、老婆は返事の代わりに煙を吐き出した。
そっと開ければ、中にはお守りが入っていた。
どこからどうみても普通のお守りに見えるが、黒羽の表情を見るにそれなりに効果はあるようだ。
「……これで満足かい?」
「……あの、本当にただでもらってよかったんですか?」
「くどい。……アタシの善意が信用できないってか?」
「い、いえいえいえ!」
「……フン! まあいい、それと言っちゃなんだ、……うちでは色々魔道具から薬品、調味料まで役立つものを取り扱ってる。……また何か欲しいものがあったらうちに来な」
「あんたが来てくれると、広告にもなる」そう、老婆はしわしわの顔を歪め、ニッと笑う。
なるほどな、と思ったが、怪訝にされるよりかは歓迎された方が嬉しい。俺は、「わかりました」と頭を下げ、木箱を手にそのまま店を立ち去ろうとした。
そのときだ。
「そこの黒いの」
老婆は、呼び止める。
それは俺ではなく、黒羽に向けられたものだということはすぐに分かった。
「……俺か?」
「ああ、おめえだよ、その目の傷、治す気はないのかね。……視力は戻らんだろうが、傷跡を消す薬ならいいものがある。もちろんそれなりのモノは貰うがな」
そう言って、老婆は厭らしく笑った。
黒羽の顔の傷。確かに、目立つなとは思っていたが、あまり触れてはいけないのだろうと思い、触れないようにしていた。
だからこそ、俺は足を止め、二人のやり取りを聞いていた。
「無用だ。……この傷を消したいと思ったこともない」
黒羽の態度は、昂然としたものだった。まるで証だ、とでも言うかのように、黒羽は笑う。
それは老婆とはまた違った感情を孕んだ笑みだった。
「ふん、変わりもんだね。まあいい、気が向いたらまた来な。そこらのやぶ医者よりもいい薬をやる」
老婆はつまらなさそうに手を振る。俺は、木箱ごと制服の内ポケットに仕舞い、黒羽とともに業庵を後にした。
「目的の品も手に入れたし、そろそろ……」
戻るか、と口を開く黒羽に俺は「あの!」と慌てて手を上げる。
「寮に戻る前に、ちょっと……食べていかない?」
「別に構わないが……私はその、巳亦のようにこの辺の良し悪しは分からないぞ」
「それは、いいんだ。行きたいところは決まってるし」
というわけで、黒羽からの許可を貰った俺は、一度大通りに戻ることにした。通りに出ると数体の妖怪たちがこちらを振り返り、そしてこそこそと道の端へと寄る。
あんなに混んでるのに、不自然に道が出来てることからするに、もしかしたら吸血鬼除けのお陰だろうか。
だとすると、申し訳ない気もするが、今はありがたさもある。俺は、朝の記憶を辿りながら、屋台を探した。
そして見つけた。
「……ここは……」
「黒羽さん、何か食べたいものとかある?」
変わらず頑固親父タイプのおじさんが無言でひたすらあらゆる肉を焼いているその屋台。そこは、朝黒羽が興味を示していたそれだ。
それに気付いた黒羽、左目を丸くさせる。
「…………もしかして、私のためにわざわざここを選んだのか?」
「黒羽さん、朝も昼もろくに口に入れてないですし……朝ここ通りかかったとき食べたさそうにしてたので、好きなのかなって思ったんだけど……あっ、えーと、それと俺も食べたかったし……」
あまり気遣わせるのもいけないと思い、咄嗟にそう手を叩けば、黒羽はなんとも言えない顔をする。自己嫌悪と、感動と、そんな相反する感情が同時に込み上げてきたような妙な顔だ。
「……申し訳ございません、自分なんかのために、余計な手間を」
「余計じゃないですって、あの、なんか食べたいのとかないんですか? あ、そうだ、お金とかって……」
店主にちらりと目を向ければ、店主は首を横に振る。顔パスか、それとも、もともとここでは金銭のやり取りをしないのか。と思ったが、他の店の様子からするに普通に金になるものはあるようだ。ここの学園内通貨の仕組みは未だに謎だ。
というわけで、黒羽は何かよくわからない生き物の姿焼きと、俺は食べられそうな焼き魚を購入することにした。
見た目は魔界の魚ということだけあってなかなか色がカラフルだが、匂いは普通の魚のようにも思える。
一度通りにあるベンチに移動し、俺と黒羽は隣り合って食事をとることにした。とはいえ、学校帰りの買い食いレベルで腹はそれほど満たされないが。
頭からまるごと食べる黒羽を眺めながら、俺はなかなか一口目に踏み出せずにいた。
「……? どうかされましたか?あまり食欲がないのでは……」
「いや、その……黒羽さん見てただけだから」
「私、ですか……」
「……美味しい?」
「……となりに伊波様がいるんです、不味いわけがありません」
そういう意味で聞いたのではなかったのだが、美味しそうに二口目を口にする黒羽を見て俺も嬉しかった。
最初は緊張してるようだったが、次第にそれも解れてくる。気付けば俺も、焼き魚を完食していた。因みに味は普通に美味しかった。
食べ終わって、黒羽は「ちょっと待っててください」といい席を立つ。そして数分もしない内に戻ってきた。
「伊波様、これをどうぞ」
それは水が入ったボトルのようだ。近くの店で貰ってきたのか、「ありがとうございます」とそれを受け取る。
俺が魔界のものに慣れていないことへの配慮か、ボトルには見慣れた文字が書かれている。日本製だ。俺はそれで喉を湿らせることにした。
「黒羽さん、もうお腹は大丈夫ですか?」
「ええ、元々何日も断食する生活を送ってましたし、三食取らずとも平気です」
「え、それは……」
詳しく聞きたいような、聞くのが怖いような……。
俺は敢えて聞かないようにする。元々妖怪は食事をしないのかと言えば、寮生たちの生活を見るに朝飯からちゃんと食べてる者も多い。本当に疎らなのだろう。
黒羽は性格が修行僧みたいなところあるとは思っていたが、本当、俺の護衛を任される前は何をしていたのだろうが。謎だ……。
「……黒羽さんって……」
「どうしましたか?」
「俺、黒羽さんのことなにも知らないなって思って」
「私の話を聞いても面白くもなんともありませんよ」
「それは、別に、楽しみたいわけではないので……黒羽さん、好きな食べ物とかないの?」
「特別好き嫌いはございません」
「そうなんだ……あ、でも確かに黒羽さん、嫌いなものなさそう。それじゃあ……」
と、何か聞いてみようと思うが、思い浮かばない。というか、どこまで聞いていいのかわからないのだ。家族構成、そもそも妖怪に家族意識があるのか、下手に地雷を踏んでしまうのも避けたい。そもそも、黒羽が自分から話し出さない内容を俺が聞いてもいいものか。急激に不安になってくる。「えーと」と悩んだとき。
「伊波様は、どういったものが好きなんですか?」
「俺?」
「……ええ、今後の参考にしようかと思いまして……。いえ、変な意味はないんですが、食事処を探す際にやはり伊波様が好きなものがある店がいいかと」
いつもとは打って変わって、しどろもどろと話し始める黒羽。業務的な内容だとしても、興味を持ってもらえることは進歩なのではないだろうか。……いや、前からか?
どちらにせよ、嬉しい。
「俺も、黒羽さんと同じで基本なんでも好きですけど一番って言われたらそうですね……ラーメンとか」
「拉麺、ですか……私は食べたことないですが、伊波様が美味しいと仰るならきっと美味しいのでしょう」
「食べたことないんですか?」
「はい」
「それじゃあ、今度一緒に……あ、でも、ここにラーメン屋ってあるのかな……」
「伊波様、私はお気持ちだけで充分です」
「うぐ……」
どうしてだろうか。ことごとくやんわりと避けられてる感があるのだが……。
やはり避けられてるのかと思ったが、普通に考えれば黒羽が俺に距離を置いても無理はない。けれど、これからの付き合いになる相手だ、少しでも仲良くできたらと思ったのだが……いや変な意味ではなく、純粋に。
いいや、巳亦にラーメンが食べれる場所がないかこっそり調べてもらっておこう。
気付けば時計台の時計の針は六時を回っている。巨大な嘴を持った複数の羽を携えた謎の鳥たちがガアガアと鳴きながら真紫色の空を飛んでゆく。
段々人混みは増し、先程まで閉まっていた一部の店が開店の準備をし始めた。女子供の姿は見えなくなり、昼間見掛けないような恐ろしい姿の魔物たちがよく目につくようになった。
魔の夜が来る。
ひたりと、冷たい風が首筋を撫でた。
俺と黒羽は寮へと戻ることにした。
夜だというのに明るいのは、いたる所にぶら下がる色とりどりの提灯のお陰だろうか。
夜の街へと繰り出す妖怪たちとすれ違い、時折会釈をしながらも戻ってきた楼閣。その頂上は綿飴のような濃い雲に覆われて見えない。
豪奢な出入り口を潜れば、外の世界とはまたガラリと代わった艶やかな内装が広がっていた。
「おう、随分と早いお帰りだな」
そんな俺達を出迎えてくれたのは巳亦だった。
丁度出かけようとしていたのか、制服の上から上着を羽織った巳亦は俺達に近付いてくる。
巳亦には予め業庵に行くことは伝えていた。「どうだった?」と聞いてくる巳亦に、俺は締まっていた木箱を取り出した。
「一応、店主のお婆さんに貰えたよ」
「……へえ、これが噂の……」
「……巳亦は平気なのか?」
「ま、俺は吸血鬼じゃないしな」
「それよりも」と、巳亦は黒羽の方をちらりと見て、それからこそこそと俺に耳打ちをする。
「黒羽さん、機嫌直ったみたいだな」
「まあ……うん、そうだな」
「……おい、何を人を見ながらこそこそ話してる」
「別になにも? ただ、美味そうな匂いするなって。飯食ってきたの?か」
「ああ、少しだけだけど……」
「なら良かったな。今日はここで出された飯食わない方が方がいいぞ」
「え? どういうこと?」
「今日の料理人は飯が不味いんだ。俺が言うんだから曜も無理だと思うぞ。……だから、ほとんどのやつは外に食いに行ってるみたいだしな」
なるほど、それで巳亦も出掛けようとしていたのか。
「舌が狂ってるやつらには涎垂ものだろうけどな」と巳亦は皮肉げに笑い、そして「それじゃあ、俺はこれで」とそのまま夜の風景へと消える。
「本当、落ち着きがない男だな」
「……そよっぽど不味いんだな……」
「どうだろうな。あの男の二枚舌はどうにも信用ならん」
なんて話しながらも、晩飯が用意されているであろう大広間の前を通りかかったときだ。閉め切られた襖の奥から溢れ出す異臭、まるで生ゴミを火で炙ったかのようなその悪臭に俺は思わず吐き気を覚えた。……これは、近付かない方がいいやつだ。襖の向こうから聞こえてくる賑やかな声の中に白梅の笑い声が聞こえてきたような気がしたが俺は聞こえなかったことにした。
何段もの階段を上がり、辿り着いた最上階。その階に踏み込んだ瞬間、今まで聴こえてきた他の者の声すらも聞こえなくなった。……ような気がする。
ひやりとした空気の中、俺と黒羽は異様に広いその通路を渡り歩いていた。
当たり前のように自室まで着いてくる黒羽に、今ではほっとすらした。一人だとこの広い空間は心細すぎるのだ。
「そういえば伊波様、部屋の崩壊した部分の修復はもう済んでるということだ」
崩壊というよりも、黒羽が蹴り壊したんだが……まあ、細かいことはさておきだ。
「……じゃあ、もうこっちで寝ても大丈夫なのかな」
「その件だが、もしものこともある。俺が一晩見ておこう」
見ておこうって、まさか。
「俺の部屋にずっといるということ……?」
「無論そういうことになるな」
……確かに、黒羽がいると心強いと思うけど。
思うけど、なんだろうか、24時間体勢でずっと黒羽が監視すると思うと……正直それもそれで休まらないのだが。
けどまあ、状況が状況だし……そういうものだろうか?
そう、思いながらちらりと黒羽を見上げたとき、視線がばちりとぶつかった。そして、黒羽がハッとする。
「……その、俺が気になるというのなら姿を消すことも可能だし、もし信用ならないのなら俺の手足を縛ってくれても構わないが……」
「っ、え……えええそれはそれで……」
というか、黒羽が危惧してるその言葉の意味を理解し、顔が熱くなる。確かに、昼間のことを思い出せば、俺も俺で危うく流されそうになってたわけだし……安心とは思えない。
「……やっぱり、外で待機しておく」
俺の気持ちを察したのか、苦虫を噛み潰したような顔をした黒羽はそう重々しげに口にした。
俺は敢えて何も言わなかった。心なしかまた黒羽が落ち込んでるような気がしたが、掛ける言葉が見当たらず、諦める。
そして、部屋の前に待機するということで黒羽と別れ、俺は自室へと入る。
部屋の中は誰が入った気配もない。寧ろ、昨日のままのように見えた。
壊れた箇所も、今ではどこが壊れたのかもわからない。それらしき壁の痕、ガラスに触れるが、壁を作り直した気配もないのだ。元に戻った、みたいだ。……それが現実に有り得る世界なだけに、あながち間違えではないかもしれない。
一通り部屋の中を確認した後は、制服から和服へと着替える。相変わらず帯を巻くのは上手くいかないが、締め付けられる制服に比べれば幾らかましだ。
机の上、俺は今日授業で使ったノートを広げた。それを読み返し、一日のことを思い返した。よく考えれば、ろくでもない一日だった。けれど、色んなことを見て、知って、出会った。……一日で何十年分の驚きを使い果たしたんじゃないか、そう思えるほど。
――親善大使として、人類代表として、何も出来ていない気もするが、まずは知らなければならない。
取り敢えず、明日も文学部に行くとして。時間割を確認する。この世界のことを知るには世界科も手っ取り早いが天文学も……。そんなことを考えながら、明日の日程を組み立てて、気が付けばうとうとと船を漕いでいた。
……布団で寝ないと、明日が辛いぞ。思いながら、立ち上がる。そのまま寝室へと移動し、敷かれた布団の中へと移動しようとしたとき、視線を感じた。
――……なんだ?
昨夜のこともある、警戒して辺りを見渡した。が、薄暗い部屋の中、人の影すら見当たらない。……考え過ぎなのか、それとも神経質になってるだけなのか。リューグに噛まれた跡がじぐりと熱を持って疼き始めた。
やっぱり、気のせいだったか。思いながら窓、それを覆い隠す襖を開いたときだった。
全身から冷たい汗が吹き出した。本来ならば真紫の夜空が広がるはずのそこには、濁った巨大な目玉が無数窓ガラスに張り付いていたのだ。
思わず、息を飲んだ。声すら出ず、思わず襖を閉めたときだ。扉が叩かれる、「伊波様!いかがされましたか!」と響く声、黒羽だ。俺は慌てて黒羽の元へ向かう。
扉を開けば、顔色を変えた黒羽がいて、安堵する。
「っ、く、黒羽さん、窓に、窓の外に目玉が……おっきな目玉が……いっぱい……ッ」
「……目玉……?」
扉を閉め、黒羽は俺の部屋へと上がる。
その奥、寝室の奥の襖を指差せば、近付いた黒羽は思いっきりそれを開いた。
そして。
「……目玉……ですか……」
先程まで無数の目玉が張り付いていたはずのそこには、本来あるべきはずの夜空が広がっているだけだった。――目玉の一つすらない。
「……あれ……? うそ、さっきまで、確かに……」
「……もしかしたら通りすがりの物の怪だったのかもしれませんな。……気配も感じないし、恐らくもう大丈夫かと」
もう、大丈夫。そう言って窓を隠す黒羽。
本当に大丈夫なのだろうか。俺は、釈然としなかった。あの目玉の大きさに数からして、すぐに隠れることが出来るとは思えないからだ。本当にいなくなったのか?
得体の知れない恐怖だけが残った。
「……大丈夫、か……そっか……」
「伊波様」
「……ごめん、その、呼び出して……もう大丈夫だから」
ただでさえ自由なこともできず、縛り付けてしまってる黒羽をこうしてくだらないことで呼び出してしまったことに罪悪感を覚え始める。
そうだよな、この世界ではそういうことも当たり前なのだ。慣れないと……。そう思うのに、指先は震える。そんな時だった。
「……やはり、今夜、今夜だけでいいので俺を部屋に置いていただけませんか」
そう、隻眼で俺を見詰め、黒羽は俺に申し込むのだ。
あくまで、自分から頼み込むという形をとって。
……部屋に、置く。その言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。
「自分を縛ってくれても構わないです」そう、黒羽は続けた。よほど昼間のことを気にしてるようだ。自分自身を卑下する黒羽に、胸が痛む。
「そ、そこまでしなくても……」
「しかし、もしも何かがあったときに」
「何か……って……」
顔が、熱くなる。知らないふりするのもおかしな話だ。恥ずかしさをごまかすように咳払いをする。
「俺は……黒羽さんのこと、信じてますので」
黒羽は、「分かりました」とだけ口にした。
というわけで、俺が眠るまで黒羽ご一緒についてくれることになったのだけれど、いつも一人で過ごしていたからか、この部屋に他人がいることが不思議な感じだった。
緊張はしないといえば嘘になる。けれど、それ以上に黒羽が緊張しているようにおもえた。
部屋の隅、座ろうとしない黒羽を長時間の説得の末、なんとか座布団に座らせることが出来た。
眠るにはまだ早い。座る黒羽、そして卓袱台を挟んで向かい側、俺は黒羽と向かい合う。
暫しの沈黙の末、俺は思い切って口を開いた。
「黒羽さんって一人のときって何してるの?」
それは純粋な疑問だった。いつも義務的な会話ばかりが多かっただけに、俺は黒羽のことを何一つわからなかった。
この機会に黒羽の色んなことを知りたい、そう思ったのだった。けれど。
「大して面白い話はありませんが」
「……黒羽さん、口調口調」
「……敢えて言うならば、伊波様の周囲に不審な陰が無いか探ることだろうか」
黒羽らしいと言えば黒羽らしいのかもしれないが、俺が求めていたものとはすこし違った。俺の聞き方が悪かったのだろうか、難しい。気を取り直して次の質問へとつなげる。
「じゃあ、俺と会う前とかは何をして時間を潰してたんですか?」
「時間を潰す……自分にはよく分からない感覚だが、手持ち無沙汰にならないよう常に己に試練を課しては鍛錬をしていた。気が付けば何十年も経っていたりということもあったな」
「………………」
次元が違った。今更だったが、目の前にいるこの男は俺の何十倍何百倍も長く生きてきた妖怪だ。しかし、興味深い。
「鍛錬……」
「それがどうかしたのか」
「一人のとき、どうしたらいいのか分からなくて参考にしようと思ったんだけど……俺には難しそうだな」
「その必要はない。自分が貴殿の剣となり盾になる。……それでは不服だろうか」
「そうだな、俺には難しそうだしやめておくよ」
「……」
黒羽は気難しい。ちょっとした言葉で相手のプライドを傷付けてしまったらと思うと不安だったが、特に気にしていないようだ。
黒羽との会話は主に学園のことだった。明日の授業はどうしようかとか段取りを決める。本当はもっと黒羽と個人的な話をしたかったのだけれど、黒羽はそうではないようだ。俺のこれからのことを案じてくれるので無下にもできない。
気が付けば部屋の片隅に置いていたろうそくが短くなっていた。一本丸々燃焼するのに三時間は掛かるものだという。
――そろそろ十二時になる。
「眠たいのならば寝床に行くべきだ。……人間の体は丈夫ではないと聞いた。自分に付き合って無理をせず、休めて下さい」
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俺は黒羽に甘えることにした。「おやすみなさい」とだけ告げ、俺は寝室へと移動する。ちらりと黒羽の方を振り返れば、座敷の上、静かに正座をする黒羽の背中が見えた。
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