人類サンプルと虐殺学園

田原摩耶

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第一章【烏と踊る午前零時】

応急処置も忘れずに

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「っ、かえ、せよ……」
「……ん? この印って……」

 そして、リューグが何かを言い掛けたときだった。懐中時計を握ったリューグの手が黒い炎に包まれる。

「ッ、な……」

 リューグが燃やしたのかと思ったが、そうではないらしい。顔を引き攣らせたリューグの手から懐中時計が落ちる。俺は、躊躇いなくそれを受け止めた。

「……っ、くろ、はさん……ッ助けて……」

 そう、口にしたときだった。
 音が、消えた。異変は、音だけではない。まず、リューグが動かない。リューグの手の炎も、窓の外の鳥の形した魔物たちも、何もかもが静止していた。……俺を除いて。

「っ、これ……は……」

 何が起こったのか、理解するのに時間は掛からなかった。懐中時計を開ければ、その秒針は固まっていた。
 時間が停まっている。
 どういう原理かは知らない。けれど、逃げるなら今しかない。ろくに力の入らない体を動かし、リューグから離れる。そのまま部屋から出ようとしたら、ドアノブの部分に蔦が絡まっていることに気付いた。蔦を剥がさなければ扉が開かないらしい。出入り口はそこしか見当たらない。指で必死に蔦を引き剥がすが、針金のように硬いそれはちょっとやそっとでは外れない。
 リューグが言っていたのはこのことだったか。
 体当たりしたところで破れるはずがない。

「っ、くそ……」

 どうしたらいいんだ。そう、辺りを見渡したときだ。
 棚の中、ドクロマークが書かれた瓶を見つける。絶対に使うな……そういう意味なのだろうか。中には真っ黒なおどろおどろしい液体が入ってるようだ。魔界の劇薬などどんな効果か分からない。けれど、何もしないよりかは、ましだ。ヤケクソになって、その瓶を掴む。俺は出来る限り扉から離れ、そのままそれを扉に向かって投げつけた。瞬間、甲高い音ともに小瓶は割れ、中の液体が扉にまともにぶつかった。
 けれど、扉が吹き飛ぶわけでも溶けるわけでも燃えるわけでもはたまたドアノブの蔓が消えるわけでもなかった。
 それどころか、少しだけ懐かしい匂いがするだけで。つまり、効果なし。
 そのときだ。時計の針がかちりと進む音が聴こえた。

「あれ、イナミ、いつの間に……」

 背後でリューグが動き出した。まずい、と振り返ったときだった。

「う゛ッ!!」

 いきなり、リューグは鼻と口元を抑える。その顔色は見たことないくらい青褪めていて。

「っ、お前、何をした……ッ!!」

 見たこともない血相のリューグ。もしかして今投げた液体のせいか?と思ったが、どうやら辺りのようだ。リューグは部屋の奥へと後ずさる。扉付近にいる俺に詰め寄ろうとしないのだ。
 足元に転がった小瓶に気付いたのか、リューグは更に青ざめる。

「……ッ、人間のくせに……」

 そして、次の瞬間、リューグを紫色の霧が包み込む。何をするつもりなのかと身構えたが、攻撃がくることはなかった。霧散し、消えたリューグ。気付けば、ドアノブの蔦も消え失せていた。
 ……っ、助かった、のか?
 まだ確信が持てず、恐る恐るドアノブに触れる。すると、今度はすんなりと扉が開いた。
 そして、

「っ、伊波様?!」

 すぐ目の前には黒羽がいた。青褪めた黒羽は、現れた俺を見るなりぎょっとする。

「伊波様、この傷は……ッ! 血が……! ……って、うッ……この匂いは……」

 リューグ同様顔を顰めた黒羽だったが、それでも構わず、転びそうになる俺を抱き留めてくれる。

「申し訳ございません、伊波様、助けると言っておきながら、こんな……」

 今にも泣きそうな顔をする黒羽を見て、心底ほっとする。助かったのだと。一まずは。

「……黒羽さん」
「……はい」
「……そんなに俺、臭い?」
「……そうですね、訓練されていないものでしたら耐えられないでしょう」

 ……なるほど、慣れていない人にはニンニクの匂いも猛毒なのか。ラーメン屋でニンニクラーメン食いまくっててよかった。

「……伊波様、あの男は……」 

 怒りを抑えてるのだろうが、滲み出るそれは肌に突き刺さるほどだった。問いかけてくる黒羽に俺は「どっかに行った」とだけ答えた。すぐに黒羽は後を追おうとしたが、俺の状態に気付いたのか、それをぐっと堪え、「すぐに手当をしましょう」と俺の肩を支えてくれた。
 ただ、支えてくれただけにも関わらず、腰が大きく震える。恥ずかしくなって「一人で歩けるから」と黒羽に申し出れば心配そうな顔をしながらも、渋々黒羽は「分かりました」と俺から手を離した。

「……取り敢えず、ここを離れましょう。……ここでは目立ちます」

 いつもの業務モード。けれど、今の俺にはその距離感が丁度良い。
 黒羽には一人で歩けるなんて言ったものの、正直、素直に甘えておけばよかったと後悔した。
 壁伝えに歩くが、どこもかしこが過敏になった今、全身が微かな摩擦に対しても反応してしまう。
 それ以上に、血が抜けて、足元が。

「……伊波様!」

 足がもつれてそうになったとき、黒羽に抱き止められる。

「っ、すみません……」
「……っ、伊波様、失礼します」
「っ、く、ろはさん……待っ……わ……ッ」

 腕を掴まれ、肩を抱かれる。あまり触れないように気を付けてくれているのか、接触は少ない。「すみません、少しだけ我慢してください」そう、黒羽はそっと耳打ちした。
 体重を預けるような姿勢のお陰が、負担が少なくなり歩きやすくなる。というよりも殆ど黒羽に運ばれてるようなものだ。申し訳ないが、助かったというのが本音だ。

「……詳しい話は後から聞かせていただきます」

 怒ってるのだろうか、それもそうだ、黒羽はあれだけ俺に注意しろと言ったのにこの始末だ。怒っても無理ない。
「はい」と答えた声が黒羽に届いたかもわからない。長い通路、すれ違った妖怪たちが何か話していたが今の俺には聞こえなかった。


 別室に移る。そこは、先程の教室とは違い片付いていて、資料室だろうか。ぎっしりと壁を埋め尽くした本棚には古ぼけた紙を糸で縛っただけの書物や魔術書のような分厚い革装丁本などがずらりと並んでる。部屋の中央には机と椅子がいくつか乱雑に置かれていた。
 黒羽は俺を椅子に座らせる。

「一先ず、傷の手当をします。……これ以上出血しては大変です。少し痛むかもしれませんが、我慢してください」

 見たことのない小瓶を取り出した黒羽は「止血剤です」とだけ口にし、それを滲ませた手ぬぐいで首筋の傷口を優しく抑える。

「痛みますか」
「……痛くはない、です。けど、なんか、ふわふわしてるっていうか」
「申し訳ございません。私が結界を破るのに手間取ったせいで」
「黒羽さんのせいじゃないです。自業自得なんで」

 慌てて否定するが、余計黒羽は気負いしてるように思えた。俺の全身の傷口を見て、まるで自分が大怪我したみたいな顔をするのだ。

「……ここにも傷が」
「い……ッ」
「申し訳ございません、すこし、我慢してください」

 黒羽は切れた唇の縁の血を拭う。止血剤がついた箇所は酷く冷たく感じたがそれもすぐに止む。
 本当は舌も噛まれたのだが、流石にそこまで言ったら今度こそ黒羽が怒り狂いそうだったので黙っておくことにした。

「……っ、黒羽さん、ごめんなさい」
「……リューグ・マーソンは、見つけ次第地下に幽閉します。恐らくまた近付いてくるでしょう。何かあればすぐに自分に……いえ、私が傍にいます」

 安心してください、とは黒羽は口にしない。
 黒羽だけが警戒してもいけない。俺が気を付けないと。 

「うん、分かった」
「伊波様、傷は此処だけですか?」
「えっと……うん。多分そう、噛まれたのは」

 あの時はワケが分からなくて何をされたのかすら覚えていないが、大体見て分かるところの流血してた箇所は全て黒羽が止血してくれた。
 それにしても、怖かった。自分の体が自分のものでなくなるような感覚。大分熱は収まってきたが、それでも、あの時懐中時計がなかったらと思うとぞっとする。
 俺はあのままリューグが満足するまで血を吸われていたというこか。

「吸血鬼は、特に気をつけてください。奴らは餌となる人間の心を掌握することに長けている。日常的に相手を騙すような連中です」
「……はい」

 本当にそうなのだろうかと思ったが、まさにリューグがそれだ。当たり前のように嘘をつき、俺を誘い込んだ。騙される俺も大概だが、そう思ってしまっても仕方ない。

「あの、黒羽さんに貰った時計のお陰で助かったんだ。……ありがとう」
「役に立てたのならよかったです」
「……これをリューグに取られそうになったときリューグの手が燃えたんだけど、何か関係あるのか?」
「あの時計は、時計自身が認めた者以外が触れるとその者に危害を加えます。炎もあれば針ボテへと変化し、手を貫くこともあると聞きました」

 ということは、俺も認められなかったらそうなっていたということか?
 そう思うと途端に恐ろしくなるが、今認めてもらえてると思うと嬉しくもなる。それに、そのお陰で助かったのだから。

「この時計って、時間を止められるんだな」
「はい、この魔界でも貴重な魔具です。強い意思に反応して時計の針を止めます。それを伝えるのに一番確実なのは誰かに助けを求めることです。なので、私の名前を念じるようにと伝えていたのですが……説明不足でしたね」

 申し訳ございません、と黒羽は項垂れる。貴重な時計に貴重な手袋。つくづく優遇されてることに有難くもなるが、それ同様にそれほどのモノを与えなければならない状況下に陥る危険性があるということだ。

「念のため、傷口から菌が入らないように包帯を巻かせていただきます。服を脱いで貰っていいですか」
「っ、え」
「……どうしました?」
「い、いや、なんでもない……」

 手当をすると言っていたのだから可笑しくはないはずだ。
 けれど、さっきの今。散々リューグに触られた体を黒羽の前に晒すのには躊躇われた。
 けれど、変に意識してしまっては黒羽に対して失礼だし……。ええい、ヤケクソだ。俺は、「分かった」とだけ答え、制服に手を掛ける。残りのボタンを外し、するりとシャツごと上着を脱いだ。

「……あ、あの……背中、向けた方がいいかな」

 顔が、酷く熱い。顔だけではない。全身がまだ熱を持っていて、黒羽に見られてると思うとじわりと汗が滲んだ。

「……いえ、そのままで結構です」

 それでは失礼します、と黒羽は俺の首に締め付けない程度の包帯を巻く。ゴツゴツとした指の感触に、体が震える。それを悟られないよう、俺は必死に息を殺した。
 丁寧に首の包帯を巻くその指から目が離せなかった。
 固くなった指先の皮膚。その太く長い男の指で触れられればどんな感触がするのだろうか。そこまで考えて、ハッとする。俺は、何を馬鹿なことを考えてるのだ。
 リューグのやつが何か妙な術を掛けたのか。自分で自分の考えが理解できず、慌てて顔を逸した。
 本気で心配してくれてる相手に俺は、何を。

「伊波様?」
「っ、え、あ、何?」
「いえ……手当が終わったので、もう制服着てもいいですよと言っていたのですが……聴こえてなかったみたいだったので」
「あ、ありがとう……ございました」
「…………」

 恥ずかしい。俺は、黒羽の視線から逃げるように制服を着た。さっきからなんか変だ。やっぱり、リューグのやつが言ってたあれだろうか、リューグの体液を口にすると気がおかしくなるとかいう。
 とにかく、どうにかしないと授業どころではなくなる。
 かといって、どうすればいいのか分からない。

「伊波様、先程から様子がおかしいですがいかがなされましたか」

 単刀直入。悩んでる俺に、黒羽の方から声を掛けてくれる。
 というか、そんなにわかり易かったか、俺。

「……黒羽さん」
「あの男に他に何かされたのですか」

 恥ずかしい。情けない。けれど、黙っていたところで一人では何もできない。俺は、恥を忍んで黒羽に事情を説明することにした。
 リューグとキスをしたこと。そして、リューグの体液には人を変な気分にさせる作用があるということ。……その作用か知らないが、体が落ち着かないこと。
 黒羽は終始真剣な顔をして聞いてくれた。そして、俺が話し終えた後。「事情は分かりました」と黒羽は口を開く。

「吸血鬼の血には興奮剤が含まれてます。……そして、それに充てられた人間は性獣たちの恰好の餌になってしまう。その状態で人前に出ることは極めて危険です」

「でも、どうしたら……」
「………………」
「……黒羽さん?」
「……ひとつだけ、確実な方法はあります」

 言うなり、黒羽は俺から顔を逸す。確実な方法と聞いて、大人しくしていられなかった。
「何だ?」と黒羽を覗き込んだとき、耳まで真っ赤になった黒羽とまともに視線がぶつかった。
「え」と、見たことのない黒羽の表情につられて硬直する俺。黒羽は、すごい悩んでいた。言いにくいことなのか、やがて、重々しく口を開く。

「……伊波様が満足するまで、私が相手をします」

 それを、俺よりもでかくて体格のいい男に真っ赤な顔で言われてみろ。正常ではない状況下、俺は、心拍数が跳ね上がるのを感じた。
 黒羽が相手って、つまり、そういう?……そういう、あれを、黒羽と、俺が平気になるまでするってこと……なのか?
 混乱した頭がどんどん冷静になっていき、それとともに全身の血液が一気に熱くなる。
 想像してしまい、嫌悪感や恐怖を覚えるよりも先にずぐりと腰が疼く。
 これも、それも、リューグのせいだ。俺と黒羽が変な空気のまま動けなくなるのも、そして、黒羽に抱かれてる自分を想像してしまって萎えないのも、全部リューグのせいだ。

「あ、いて……って……」
「……」
「え、あ……あの……」

 まさか、ではなくともそういうことなのだとわかったが、状況が状況なだけにすんなりと受け入れることができなかった。声が震える。
 俺が、黒羽と?そんな、まさか。それは。

「もちろん、無理強いするつもりはありません。けれど、伊波様が辛いと言うのなら……自分は、楽になっていただきたいと、その……」

 言葉に詰まる黒羽。薄暗い部屋の中、月明かりで照らされた黒羽の表情はどんどん赤くなる。
 黒羽も、自分がなにを言ってるのか理解したのだろう。
 固まる俺と、その沈黙に耐えきれなくなった黒羽は「申し訳ございません」と言葉を漏らした。

「……私は、伊波様を困らせるつもりでは……出過ぎた真似をしました。今のは、忘れてください」

 そう言って、黒羽は「申し訳ございませんでした」ともう一度頭を下げ、そして俺の視線から逃れるように顔を逸した。耳まで朱は広がっている。
 黒羽は、俺の事を心配してくれているのだろう。そして、それが最善だとも考えて、恥を忍んで、提案してくれた。
 そう思うと、急にじんわりと胸の奥が熱くなる。嬉しい。確かに恥ずかしくもあるが、考えられないが、この状況下だ、黒羽の気遣いはありがたかった。
 それに、黒羽ならばきっと、助けてくれる。そんな確信が、俺にはあった。

「……ッ、……」

 トクトクと、脈打つ心臓はどんどんと血液を送り出す。その熱は全身へと広がった。
 制服の上からでも分かる、逞しい背中。俺なんかとは比にもならない、鍛えたあげられた無駄のない背中に俺はそっと手を伸ばした。指先が触れたとき、驚いた顔をした黒羽がこちらを振り向いた。

「っ、伊波様」
「……黒羽さん、っ、その……あの……」

 熱い。喉が酷く乾くようだった。汗が流れ落ちる。
 黒羽も、恥ずかしいのを堪えてくれたんだ。それなら、俺も、と、ぐっと拳を握り締める。

「お願いしても、いいですか?」

 魔物の仕業でこうなったのなら、魔物に頼んだ方が早い。
 頭ではいくらでも言い訳を並べるが、俺が黒羽に頼んだことはつまりは、そういうことだ。信用できる黒羽ではなければ、絶対、死んでもそんなことを口にできないだろう。

「よろしいのですか?」

 固唾を飲んだ黒羽はそう、こわごわと俺に再確認してくる。
 ここまできて、引くことはできない。それに、このままでいるのが辛いのは事実だ。
 俺は、応える代わりに小さく頷く。
 黒羽は、少しだけ考え、それからゆっくりと口を開いた。

「……辛くなったらいつでも言ってください。すぐに止めますので」

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