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第一章【烏と踊る午前零時】
窓の外からご挨拶※
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食事を終え、俺と黒羽は巳亦と別れた。
もう少し巳亦と話していたかったのだが、どうやら用事があるそうだ。たくさんの妖怪たちでごった返した広間をあとにする。大分腹が膨れていた。
「伊波様、あの巳亦と言う男、あまり信用してはならない」
「黒羽さん、またそんなことを……」
「あの男からはきな臭い匂いがする」
「きな臭い……」
俺は、何も感じなかったが、黒羽の言葉には妙な重みを感じるのは常に俺の周囲に気を張り巡らせていると分かってるからか。
確かに、気になることがないといえば嘘になる。
巳亦は最後まで種族を教えてくれなかったが、だからといってきな臭いとは思えない。
それとも黒羽の嗅覚は何かに反応したというのか。
「伊波様のお役目が他者と親交を深め、模範となることというのは重々承知してるつもりだが……相手には充分気をつけていただきたい。……今まで人間を餌として過ごしてきた連中だ」
「……分かった」
適度な距離感を保つこと。黒羽の目に届かないところへいかないこと。そう、黒羽と約束する。
外は先ほどと変わらず月が浮かんでいた。けれど、心なしか空の紫は色濃くなっている。
懐中時計を確認すれば、表示された月は先程よりも太く、満ちていた。
午後七時半。午前に比べ、塔内で出会う妖怪たちの印象は大分代わっていた。鬼に獣、大柄なものたちが通路を塞いでいた。
いずれも柄が悪く、俺の姿を見て何かを話し合っていたが、その口元にイヤな笑みを浮かべては与太話を続ける。感じ悪いな。と思いながら、俺と黒羽は一度部屋へと戻ることにした。
一階には広間、二階には女部屋、三階から四階は男部屋で最上階、五階には中でも特殊な部屋の造りになっているということを黒羽に教えてもらった。
妖かしの中でも特定の者しか入れないという強力な結界が張られているというのだ。
そんな階に自分の部屋があるということは、やはりそれ程重要視されているのだろうか、この立場は。
それと同時に、あの京極とか言う男のことを思い出す。確かあの男も、五階の部屋から現れたんだ。
不安になるが、黒羽の部屋も五階に用意されているとのことだった。それを聞いただけで安心する。
「伊波様、何かあればすぐに俺を呼べ。俺は四六時中、貴方の傍に居る。懐中時計を握り、強く念じてくれるだけで十分だ」
五階、自室前。
部屋へと戻ろうとする俺に、黒羽はそう告げた。そんな状況にはなりたくないものだが、万が一もあるということだ。
「わかった。けど、黒羽さんも部屋に戻って休んだりとかしなくて……」
「不要だ」
「でも」
「自分はあなたのような人間とは違う。……睡眠などせずとも、問題ない」
強い口調には強固なる意志すら感じる。人間とは違う、と言われてしまえばそれ以上何も言えなくなる。
「わかった」とだけ答え、俺は黒羽と別れ、自室へと戻った。
扉に触れれば、俺の生体認証を認識した扉が開く。部屋の奥には出ていったときと変わらない、静かな空間が広がっていた。
今日一日だけでも色々なことがあったが、明日からが本番だ。みんなと仲良くできるかな、と日和ったことを言うつもりはないがせめて、穏便に、生きて帰ることができれば御の字だ。
黒羽から貰った懐中時計を取り出す。盤面の針が示すは午後十時。
――そろそろ零時か。
黒羽からあんな風に言われていただけに、胸の奥がざわついてくる。けれど、この部屋は持ち主以外には簡単に開かない造りのようだし、一先ず扉を壊されることはないだろう。何かあれば黒羽に助けを求めることも出来る。
変に気にしてしまっても仕方ない。
俺は時計から一旦意識を逸らすため、部屋に付属していた風呂に入ることにした。
風呂というよりもちょっとした温泉気分が味わうことができるような、大理石で出来た浴槽と常に丁度いい湯加減を維持するお湯という贅沢なものだった。
一面ガラス張りの窓からは月が覗く。最初は外から丸見えなのではないかと心配だったが、どうやら外部からは見えない特殊なガラスになってるそうだ。因みにこれは巳亦情報だ。あいつも五階に部屋があると言っていた。
早速服を脱ぎ、備え付けの手桶を使い頭からお湯を被る。熱いくらいの温度がなんとも丁度いい。
これが毎日いつでも好きなときに入れるということが唯一魔界に来ていいと思えたことだろうか。一旦体を温め、つま先からゆっくりと浴槽へと浸かっていく。
窓の外で怪しく浮かぶ月は夕刻見たときに比べ大きく、赤くなっているような気がした。俺は、なるべくそれを目に入れないように、天井を眺め、息を吐く。
窓の外ではたくさんの蝙蝠が群れをつくり、空を覆っていた。羽撃き音、聞いたことのないような鳥の声や何者かの悲鳴・断末魔、それらが聴こえなければもっとよかったのだが……この世界では難しそうだ。
風呂から上がり、寝間着代わりの浴衣に着替える。そしてそろそろ眠ろうかとしたときだ。
扉がノックされ、息を飲む。咄嗟に卓上に置いていた懐中時計を手にし、開く。時間は丁度、零時。二本の針がぴしゃりと重なっていた。
黒羽……では、ないだろう。何よりも零時には気をつけろと言っていた黒羽だ。こんな時間に訪れるはずがない。
知らないふりをしよう。俺は寝室の奥、座敷に敷かれた布団へと移動する。
横になり、布団を頭までかぶるが聴こえてくるノック音は続く。それどころか、次第に強くなるその音に、体が震えた。扉が壊されそうな程の音。俺は、念のため寝床まで持ってきていた懐中時計を握りしめた。
――黒羽さん、黒羽さん……ッ!
念じる。これで良いのかわからないが、何度も黒羽の名前を口の中で繰り返した。
その時だ、扉の外、通路側で壁に何かがぶつかるような音がした。そして、先程まで扉を激しく叩いていたものがなくなったのだ。
もしかして、黒羽が来てくれたのだろうか。タイミングといい、そう思うには十分だった。
慌てて布団から這い上がり、居間を抜け、玄関口の扉に駆け寄る。扉をそっと開けば、扉のすぐ前、真っ赤な漆塗りの床の一部がドス黒く変色していた。
そして、そこには。
「……黒羽さん!」
こちらに背を向け、幽鬼のように佇む黒い影。その背中に向かってその名前を呼ぶと驚いたようにこちらを見た。
「……っ、伊波様、いけません、扉を……」
鮮血のように赤く光る黒羽の左目を見た瞬間、ドクリと心臓が跳ねる。
収まりかけていたざわつきが、一斉に全身へと広がった。
自分の身に起きた明らかな違和感、異変に、早く扉を閉めなければと思うが、思考に体が追い付かない。
満月には不思議な魔力がある。どこかの本でそんな一文を見かけたことがある。
その魔力に取り憑かれるのは、決して妖かしだけではない。文章のあとには、そう続いていた。
そのことを思い出したのは、もっと後になってからだった。
濃厚な血の匂い。照明の消えた、薄暗い通路の下。
俺は、手にしていた懐中時計をぎゅっと握りしめた。手のひらに食い込む装飾部分、その痛みにより、鈍りかけていた思考を取り戻す。
「黒羽さん、ありがとう……ございました。ごめん、それだけを言いたくて……」
このままではいけない。本能がそう警報を鳴らしていた。
早く、黒羽から離れないと。血管の下、巡る血は熱したかの如く熱く湧き上がる。
汗が滝のように流れた。
「そ、それじゃあ……」
おやすみなさい、と、扉を閉めようとしたときだった。
足元、濡れていた床の上で何かが動いた。
咄嗟に視線を下に向けるが、変わりない。もしかしたら自分たちの影を見間違えたのかもしれない。思いながら、俺は改めて黒羽に別れを告げ、部屋の扉を閉める。
「……はぁ……」
なんか、変だ。原因は恐らく、満月のせいだろう。
ドクドクと脈打つ心臓は収まらない。怖くて堪らなかったはずなのに、おかしな話だ。その恐怖すらも心地よく思えてしまうのだ。
黒羽の血走った目、その赤い視線を思い出し、腰がずぐりと重くなる。なんだか、自分の体が自分のものではないみたいだ。
あんな濃い血の匂いを嗅いだから気が立っているのだろうか。
俺は、深呼吸を何度か繰り返し、そして、再び寝床へと戻った。
扉を開けたのは間違いだったかもしれない。
それにしても、何があったのか。やはり、扉の外には何かがいて、黒羽はそれを切り捨てたのか。
やめよう、明日もあるんだ。今日は早く寝て、充分に休養を取らなければ……。
自分に言い聞かせ、布団に潜る。そして枕に頭を落ち着かせ、目を瞑ったときだった。
どこからか、鉄のような匂いがした。
先程通路で嗅いだ匂いが鼻に残っていたのだろうかと思い、特に変に思うこともなくそのまま俺は目を瞑っていた。けれど、すぐにそれが異変だと気付くことになる。
ぽたり、と頬に何かが落ちたのだ。
気のせいではない。ぎょっとし、目を見開けば天井ではなく、真っ黒な影が俺を見下ろしていた。影からはひたひたと血が溢れ、俺の顔を濡らす。
見間違いではない、何かが『いる』。
咄嗟に起き上がろうとするが、体の上に跨ったその影により体がびくともしない。
心臓が張り裂けそうなほど痛くなる。
いつの間に、どうやってここに、どうして。混乱する頭の中、先程扉を閉める前に足元で何かが動いた気配がしたのを思い出した。
「……っ、退け、よ……ッ! 退け!」
怖い、と思うよりも先に体が動いていた。枕を掴み、咄嗟に人影に向かって投げつける。けれど、まるで感触がなかった。
薄暗い室内、血で濡れた影の指先が腕を掴み上げる。ぬちゃりとした粘ついた感触とともに濃厚になる血の匂いに、吐き気が込み上げた。体を捻り、なんとか布団から抜け出そうとするが、金縛りにあったみたいに体が反応しなくなった。
近づく影に、頬の汗を舐められる。這う舌の感覚は、本物だった。濡れた生暖かな肉の感触に、全身が鳥肌立った。
「ッ、や、めろ、離せッ、……クソッ、黒羽さん……! 黒羽さん!」
名前を呼ぶ、けれど、辺りは静まり返ったままだった。
聞こえないのか、そんなはずはない。
そこまで考えて、この部屋の構造のことを思い出した。
俺でなければ扉は反応しない。ということは、扉までいって開けないと、黒羽は入ってこれないのではないかと。だとしたら、どうやって。と、そこまで考えていたとき、細く長い舌がねちょりと音を立て唇に触れる。
「っ、ん、っ、ぐ……ッ」
吐き気がした。唇を硬く結んでいても、血を塗り付けられるような舌の動きに濃厚な鉄の味が染み込んできて、嗚咽が漏れそうになる。
早く、黒羽を呼びに行かなければ。そう思うのに、体がいうことを利かない。
せめて、懐中時計を、と手を動かそうとするが、布団の傍、落ちた懐中時計に手が届かない。
こじ開けようと唇を舐める舌先に、俺は必死に逃れようと首を動かした。けれど、力の差がありすぎた。
固定された顎先、その唇を大きく指で抉じ開けられ、その隙間から強引に舌を捩じ込まれた。直接粘膜へと触れてくるその舌に、血の気が引く。
「ん゛ッ、ん、ぐッ、ぅぐッ!」
なんで、とかそんなことを考える暇がなかった。
喉の奥まで入り込んでくる舌に器官をねじ開かれ、何かを流し込まれる。濃厚な鉄の味に混ざって奇妙な味が喉奥から胃へと浸透していく。吐き出したいのに、それすらも儘ならない。怖くなって、バタついて影を押し退けようとした。けれど、暴れようとすればするほど体の力は抜け、そして、先程まで全身を駆け巡っていた熱が腹の奥で一気に弾け飛ぶ。
早鐘打つ心臓。力は入らないにせよ先程までは確かに機能していた全身の筋肉が弛緩し、腕も、足も、糸が切れたみたいに布団の上で横たわることしかできなくなってしまう。
舌を引き抜いた影。先程飲まされたものが、毒に等しい何かだったのだろうか。麻痺し始める思考の中、俺は、必死に眼球を動かし、枕元、懐中時計の位置を確認しようとする。
薄暗い部屋の中。提灯の薄明かりに照らされ、影に隠れていたその二つの目が真っ赤に染まっていることに気付く。
怪しく光るその目に睨まれ、脈が、弾む。息が浅くなった。体の輪郭を確認するかのように、開けた浴衣の上からその骨ばった手が脇腹から腰、そしてそのまま腿へと滑り落ちた。
殺すなら、食うのなら、早くすればいい。まるでこちらの反応を楽しむかのような手付きが余計気持ち悪くて、それ以上に何一つ抵抗できない自分の非力さが情けなくて、耐えられない。
「ッ、……か、は……ッ」
黒羽、と呼ぼうとするが声が出ない。掠れた吐息だけが溢れる室内、衣擦れ音がやけに大きく響いた。
乱れた裾の下、直接腿へ触れる濡れた指の感触にびくりと腰が震える。
黒羽さん、黒羽さん、黒羽さん……。助けて、黒羽さん。
腿の付け根へと徐々に上がってくる指先、やがて、下腹部まで這い上がってきたそれは徐に下着の中の膨らみに触れた。
くにくにと指の腹で刺激され、嫌なのに、気持ち悪いのに、されるがままに揉みしだかれてしまえば熱が下腹部に一点集中してしまう。何故、どうして、こんなことをする必要があるのか。分からない。けれど、訳がわからないまま好きにされるのはもっと、耐えられない。
「っ、く……ろ、は……」
喉の奥から声を絞り出した、そのときだった。
凄まじい破裂音とともに、部屋の窓ガラスが一気に吹き飛ぶ。そして、降り注ぐガラスの雨の中、満月を背にした黒羽がそこに立っていた。
俺は、夢でも見ていたのだろうか。
黒羽がいる、と思った次の瞬間、覆いかぶさっていた男の首が吹き飛んだ。と、同時に大量の黒い血が噴き出し、胸元から顔へと吹き掛かる。マグマのように熱い血を避けることも出来ず、それをまともに被った。熱、そして匂い。どろどろとした液体に、せめて目に入らないようにと瞑っていた恐る恐る開けたときだ、覆いかぶさっていた影は塵になり、割れた窓から吹き込む風に流され消えた。
「っ、伊波様、大丈夫ですか!」
それも束の間、短刀を仕舞い、駆け寄ってきた黒羽は最初と同じ敬語に戻っていた。けれど、俺も俺でそれに突っ込む余裕もなかった。血を被ったまま動けない俺に察したのだろう、顔を青くした黒羽は自分の服の袖で俺の血を拭ってくれる。
「……っ、伊波様、口が利けないのですか……」
頷くこともできなかった。ただ、切羽詰まった顔をした黒羽を見上げることしかできなくて、悔しそうに歯噛みした黒羽は、そのまま俺の体を抱き抱える。
そして、落ちていた懐中時計を拾い上げ、そのまま玄関に向かって歩き出した。
まるでお姫様でも抱きかかえるかのような丁寧な抱き方に驚く暇もなかった。その間も体の中を巡る毒は健在しており、血すらも、皮膚を爛れさせるかのように這いずり回るのだ。痛み、よりも、しびれ、疼きが強かった。無数の小さな虫が皮膚の下を這い回るような気持ち悪さに、腹の底がぞわぞわと震える。
「もう少し、辛抱してください。……今、安全な場所へと移動しますので」
聴こえてくる黒羽の声が、心地よかった。
どこへ向かってるのか、認識することも出来ぬほど思考力は低下していた。
扉が開く音がする。部屋の中へと移動した黒羽は、そのまま俺をどこかへと寝かした。硬い床の感触。眼球を動かせば、黒い天井と、そこに取り付けられた小さな照明が視界に入った。
――黒羽の部屋なのだろうか。
「伊波様、……失礼します」
黒羽は、俺の唇に触れ、そして、そのまま指をねじ込んできた。
「っ、ぅ、ぶ、ぇッ」
「貴方の中に侵入した毒を全て吐き出させます。我慢してください」
「ぅ、お゛、ぇ゛えッ」
言いながらも、躊躇なく喉の奥、口蓋垂を指で刺激してくる黒羽。その刺激に大きく縮小した器官。同時に、大量の唾液とその奥、溜まっていたあらゆるものが溢れ出してくる。まだ消化もしきっていない形の残った晩飯が最初に溢れた。吐瀉物で手も部屋も汚れることも構わず、黒羽は尚口蓋垂を指の腹で挟み、柔らかく刺激する。顎が外れそうだった。
続いて第二波とともに胃液に混じった固形物がびちゃびちゃと床を濡らす。噎せた拍子に別の器官に入ってしまったせいで酸味の刺激と痛みに堪らず涙が滲む。
それでもまだ、黒羽の手は止まらなかった。
ひりつく喉の奥、今度は胃液のみが溢れる。次第に唾液の量は多くなり、黒羽の指は俺の吐瀉物と唾液でどろどろに汚れていた。
「伊波様、もう少しの辛抱です……大丈夫です、すぐに、すぐに楽にしますから……」
優しい声だった。ビクビクと震える背中を擦りながら、黒羽は囁きかけてくる。ぐっと喉奥を抉られたときだ、空になっていたと思っていたそこからはごぽりと音を立て、真っ黒な血の塊みたいな吐瀉物が口から溢れ出した。それを見た黒羽の顔色が変わる。
それと同時に、ようやく指を引き抜きた黒羽は咳き込む俺の背中を擦ってくれた。「よく頑張りました」「これでもう大丈夫です」と、何度も口にする黒羽に、俺はなんだかほっとして、つい、堰き止めていた涙がボロボロと溢れてきた。
「助けるのが遅くなってしまい、貴方に怖い思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」
そんな言葉が聞きたかったわけではないが、黒羽の声に、心底ホッとするのだ。怖かった。痛くて、それ以上に気持ち悪くて、なのに、手も足も出ない自分が情けなくて、これほどまでに今まで自分の無力さを呪ったことがあっただろうか。
服が汚れるのも構わず、黒羽は俺の体を抱き締め、頭を撫でてくれて。不器用で、ぎこちない手付きだが、そのぬくもりは確かだった。
「っ、は、……ぅ……」
「伊波様……」
大丈夫ですか、と、黒羽は聞かない。
体の震えも収まり、今度急激な口渇感が襲い掛かってくる。喉がひりつく。嘔吐したせいなのか、分からない。けれど、今までに感じたことのないほどの乾きだった。舌の根から乾き、固まるような感覚に焦燥感すら憶えた。
「喉が、渇きますか」
静かに、尋ねる黒羽に、俺は、辛うじて感覚が戻ってきた体を動かし、頷いた。黒羽は、「少し待っててください」と言って、そっと俺から体を離し、その場を離れる。
黒羽がいなくなる。それだけで不安になり、行かないでくれ、と堪らず手を伸ばしかけたときだ。黒羽はすぐに戻ってきた。その手には湯呑みが握られていた。中には、白湯が入っていた。
「これを」
黒羽は俺の上半身を軽く抱き抱えると、唇にそっと湯呑みのフチを押し付ける。黒羽の湯呑みが汚れるのではないかと首を横に振ったが、勘違いした黒羽は「何も入ってません」と続ける。
そして、それでも躊躇う俺に業を煮やしたのか、黒羽はいきなり湯呑みの中を自ら口に含めた。
「っ、ぅ、んん……っ」
それは、キスというよりももっと無機質で、事務的な動作だった。開いた口に水を流し込んでくる黒羽。躊躇いも内動作に、俺は、頭が真っ白になる。同時にあれほどまでの口渇感は水を得、一気に回復していった。
俺が水を飲んだのを確認して、黒羽は俺から唇を離す。何も言わずに、呆けたまま固まる俺に、そっと手拭いで口を拭ってくれた。心臓の音が、煩くなる。
「っ、くろ、は……さん……」
他意はない、この行為にはなにもない。
分かっていたが、それでも、触れ合う感触に全神経が反応してしまう。
「……もっと……」
自分が何を口にしたのかも分からなかった。けれど、ただ喉を通るその感触が気持ちよくて、無意識にその言葉を口にしていた。
黒羽は、何を思ったのか分からない。浅ましいと思ったか、馬鹿げてると思ったのか、それとも。
「わかりました」と一言、再度それを口にした黒羽は、濡れた俺の唇に自分の唇を押し当てる。熱が、粘膜越しに触れ合った瞬間、体が恐ろしいほど反応する。至近距離、こちらを見据える赤い眼から目が逸らせなかった。
腰に、力が入らない。黒羽の冷たい指の感触が気持ちよくて、気が付けば、俺は黒羽の手を握り締めていた。
「……伊波様」
鼓膜を揺するのは、静かな声。低く、落ち着いたそれは心地がいい。けれど、今はその声すら甘く聴こえてしまうのだ。
正常ではなかった。それは、分かっていた。
黒羽は、あくまで冷静だった。
瞬間、視界が、遮られる。黒羽の手で覆われた視界には光一つも入らない。
「っ、く、ろはさ……」
「……私は、自分の力も、理性もコントロールすることができると思ってました」
黒羽の声が、頭上から降り注ぐ。
「……ですが、貴方は……そうではない」
何も見えない。けれど、指の感触、声のする場所からして、近い位置にいるであろう黒羽の気配に心臓の音はバクバクと鳴りっぱなしで。
「貴方の側にいるのが私で良かった」
そう一言、黒羽が口にしたと同時に唇に何かが触れる。錠剤だ。二粒の錠剤が口の中へと追いやられ、そしてすぐ、水を飲まされる。
ごくごくと流し込まれる水。口から溢れた雫は浴衣の襟をも濡らしたが、構わなかった。
ソレはとても苦い薬だった。通った箇所が酷く疼く。吐き出してしまいたかったが、唇を塞ぐ黒羽にそれを邪魔された。
「っん、ん、ぅ……」
吐き出したいほどの苦味。けれど、どうしたことか。薬を飲んで一分もしないうちに先程あれほど体の中を食い潰していた異様な熱が引いていくのだ。
まるで、霧が買ったかのような視界が一気に晴れ渡る、そんな感じだった。
「……今のは、制御剤です。……本来ならば満月時の破壊衝動を抑えるための妖かし専用の薬なのですが……どうやら効いたみたいですね」
氷が溶けるが如く浸透していくそれに、視界が晴れやかになる。俺から手を離した黒羽は、「無礼をお許しください」と口にする。明るくなった視界の先、黒羽は俺の髪を撫でる。
「……っ、苦い……」
「やはり、人の口にも合わぬのですか。それは申し訳ないことをしました」
妖怪でも苦いらしい。
黒羽は、どうぞ、と白湯の入った湯呑みを手渡してくる。今度は口移しはしないようだ。
薬が効いてきたのか、麻痺していた思考を取り戻し、同時に先程あんなに強請ってしまったことがとにかく恥ずかしくなってきた。俺は、それを紛らすように一口白湯を押し流す。
「……貴方を守ると言っておきながら、この体たらく。……言い訳もございません」
そんな俺に、黒羽は頭を下げた。
「……黒羽さん、さっきのは……何だったんですか」
「恐らくあれは、血液を媒体にした分身です。……自らの血に意識を流し込み、自在に変幻し、貴方の部屋へと侵入した。……自分の判断不足です、申し訳ございませんでした」
寧ろ、黒羽は助けてくれた恩人だ。
それにしても、やはり血溜まりの上で何かが動いた気がしたのは気のせいではなかったということか。
今までなら分身と言われても漫画やアニメの世界とでしか受け取れなかったが、今は別だ。俺は、疑いもしなかった。
「……俺は、黒羽さんが来てくれたお陰で、助かったんです。けど、どうやって……」
「あくまで、限られた人物にしか開けられないというのは扉だけだったようです。壁も確かに濃い結界が張られていましたが、壊せないものではありませんでした」
当たり前のように黒羽は言うが、普通は壊せないものではないか。だから外に移動した、そう黒羽は続ける。
その判断力と行動力のお陰で助けられたといっても過言ではない。
そう思うと、安心したのか急激に睡魔が襲ってくる。というよりも、辛うじて残っていた意識を結ぶそれが音を立てて切れたかのような感覚だった。俺は、まだ黒羽に聞きたいことがあったのに、なんて思いながらもその睡魔に逆らうことができず、意識を手放した。
「伊波様……ゆっくりと、お休みください」
遠くで黒羽の声を聞こえる。
あの黒い影は、誰の分身だったのか。
そして、あの時扉の前にいた訪問者は誰だったのか。
気になることは多々ある。けれど、今はとにかく休んで英気を蓄えることにした。
もう少し巳亦と話していたかったのだが、どうやら用事があるそうだ。たくさんの妖怪たちでごった返した広間をあとにする。大分腹が膨れていた。
「伊波様、あの巳亦と言う男、あまり信用してはならない」
「黒羽さん、またそんなことを……」
「あの男からはきな臭い匂いがする」
「きな臭い……」
俺は、何も感じなかったが、黒羽の言葉には妙な重みを感じるのは常に俺の周囲に気を張り巡らせていると分かってるからか。
確かに、気になることがないといえば嘘になる。
巳亦は最後まで種族を教えてくれなかったが、だからといってきな臭いとは思えない。
それとも黒羽の嗅覚は何かに反応したというのか。
「伊波様のお役目が他者と親交を深め、模範となることというのは重々承知してるつもりだが……相手には充分気をつけていただきたい。……今まで人間を餌として過ごしてきた連中だ」
「……分かった」
適度な距離感を保つこと。黒羽の目に届かないところへいかないこと。そう、黒羽と約束する。
外は先ほどと変わらず月が浮かんでいた。けれど、心なしか空の紫は色濃くなっている。
懐中時計を確認すれば、表示された月は先程よりも太く、満ちていた。
午後七時半。午前に比べ、塔内で出会う妖怪たちの印象は大分代わっていた。鬼に獣、大柄なものたちが通路を塞いでいた。
いずれも柄が悪く、俺の姿を見て何かを話し合っていたが、その口元にイヤな笑みを浮かべては与太話を続ける。感じ悪いな。と思いながら、俺と黒羽は一度部屋へと戻ることにした。
一階には広間、二階には女部屋、三階から四階は男部屋で最上階、五階には中でも特殊な部屋の造りになっているということを黒羽に教えてもらった。
妖かしの中でも特定の者しか入れないという強力な結界が張られているというのだ。
そんな階に自分の部屋があるということは、やはりそれ程重要視されているのだろうか、この立場は。
それと同時に、あの京極とか言う男のことを思い出す。確かあの男も、五階の部屋から現れたんだ。
不安になるが、黒羽の部屋も五階に用意されているとのことだった。それを聞いただけで安心する。
「伊波様、何かあればすぐに俺を呼べ。俺は四六時中、貴方の傍に居る。懐中時計を握り、強く念じてくれるだけで十分だ」
五階、自室前。
部屋へと戻ろうとする俺に、黒羽はそう告げた。そんな状況にはなりたくないものだが、万が一もあるということだ。
「わかった。けど、黒羽さんも部屋に戻って休んだりとかしなくて……」
「不要だ」
「でも」
「自分はあなたのような人間とは違う。……睡眠などせずとも、問題ない」
強い口調には強固なる意志すら感じる。人間とは違う、と言われてしまえばそれ以上何も言えなくなる。
「わかった」とだけ答え、俺は黒羽と別れ、自室へと戻った。
扉に触れれば、俺の生体認証を認識した扉が開く。部屋の奥には出ていったときと変わらない、静かな空間が広がっていた。
今日一日だけでも色々なことがあったが、明日からが本番だ。みんなと仲良くできるかな、と日和ったことを言うつもりはないがせめて、穏便に、生きて帰ることができれば御の字だ。
黒羽から貰った懐中時計を取り出す。盤面の針が示すは午後十時。
――そろそろ零時か。
黒羽からあんな風に言われていただけに、胸の奥がざわついてくる。けれど、この部屋は持ち主以外には簡単に開かない造りのようだし、一先ず扉を壊されることはないだろう。何かあれば黒羽に助けを求めることも出来る。
変に気にしてしまっても仕方ない。
俺は時計から一旦意識を逸らすため、部屋に付属していた風呂に入ることにした。
風呂というよりもちょっとした温泉気分が味わうことができるような、大理石で出来た浴槽と常に丁度いい湯加減を維持するお湯という贅沢なものだった。
一面ガラス張りの窓からは月が覗く。最初は外から丸見えなのではないかと心配だったが、どうやら外部からは見えない特殊なガラスになってるそうだ。因みにこれは巳亦情報だ。あいつも五階に部屋があると言っていた。
早速服を脱ぎ、備え付けの手桶を使い頭からお湯を被る。熱いくらいの温度がなんとも丁度いい。
これが毎日いつでも好きなときに入れるということが唯一魔界に来ていいと思えたことだろうか。一旦体を温め、つま先からゆっくりと浴槽へと浸かっていく。
窓の外で怪しく浮かぶ月は夕刻見たときに比べ大きく、赤くなっているような気がした。俺は、なるべくそれを目に入れないように、天井を眺め、息を吐く。
窓の外ではたくさんの蝙蝠が群れをつくり、空を覆っていた。羽撃き音、聞いたことのないような鳥の声や何者かの悲鳴・断末魔、それらが聴こえなければもっとよかったのだが……この世界では難しそうだ。
風呂から上がり、寝間着代わりの浴衣に着替える。そしてそろそろ眠ろうかとしたときだ。
扉がノックされ、息を飲む。咄嗟に卓上に置いていた懐中時計を手にし、開く。時間は丁度、零時。二本の針がぴしゃりと重なっていた。
黒羽……では、ないだろう。何よりも零時には気をつけろと言っていた黒羽だ。こんな時間に訪れるはずがない。
知らないふりをしよう。俺は寝室の奥、座敷に敷かれた布団へと移動する。
横になり、布団を頭までかぶるが聴こえてくるノック音は続く。それどころか、次第に強くなるその音に、体が震えた。扉が壊されそうな程の音。俺は、念のため寝床まで持ってきていた懐中時計を握りしめた。
――黒羽さん、黒羽さん……ッ!
念じる。これで良いのかわからないが、何度も黒羽の名前を口の中で繰り返した。
その時だ、扉の外、通路側で壁に何かがぶつかるような音がした。そして、先程まで扉を激しく叩いていたものがなくなったのだ。
もしかして、黒羽が来てくれたのだろうか。タイミングといい、そう思うには十分だった。
慌てて布団から這い上がり、居間を抜け、玄関口の扉に駆け寄る。扉をそっと開けば、扉のすぐ前、真っ赤な漆塗りの床の一部がドス黒く変色していた。
そして、そこには。
「……黒羽さん!」
こちらに背を向け、幽鬼のように佇む黒い影。その背中に向かってその名前を呼ぶと驚いたようにこちらを見た。
「……っ、伊波様、いけません、扉を……」
鮮血のように赤く光る黒羽の左目を見た瞬間、ドクリと心臓が跳ねる。
収まりかけていたざわつきが、一斉に全身へと広がった。
自分の身に起きた明らかな違和感、異変に、早く扉を閉めなければと思うが、思考に体が追い付かない。
満月には不思議な魔力がある。どこかの本でそんな一文を見かけたことがある。
その魔力に取り憑かれるのは、決して妖かしだけではない。文章のあとには、そう続いていた。
そのことを思い出したのは、もっと後になってからだった。
濃厚な血の匂い。照明の消えた、薄暗い通路の下。
俺は、手にしていた懐中時計をぎゅっと握りしめた。手のひらに食い込む装飾部分、その痛みにより、鈍りかけていた思考を取り戻す。
「黒羽さん、ありがとう……ございました。ごめん、それだけを言いたくて……」
このままではいけない。本能がそう警報を鳴らしていた。
早く、黒羽から離れないと。血管の下、巡る血は熱したかの如く熱く湧き上がる。
汗が滝のように流れた。
「そ、それじゃあ……」
おやすみなさい、と、扉を閉めようとしたときだった。
足元、濡れていた床の上で何かが動いた。
咄嗟に視線を下に向けるが、変わりない。もしかしたら自分たちの影を見間違えたのかもしれない。思いながら、俺は改めて黒羽に別れを告げ、部屋の扉を閉める。
「……はぁ……」
なんか、変だ。原因は恐らく、満月のせいだろう。
ドクドクと脈打つ心臓は収まらない。怖くて堪らなかったはずなのに、おかしな話だ。その恐怖すらも心地よく思えてしまうのだ。
黒羽の血走った目、その赤い視線を思い出し、腰がずぐりと重くなる。なんだか、自分の体が自分のものではないみたいだ。
あんな濃い血の匂いを嗅いだから気が立っているのだろうか。
俺は、深呼吸を何度か繰り返し、そして、再び寝床へと戻った。
扉を開けたのは間違いだったかもしれない。
それにしても、何があったのか。やはり、扉の外には何かがいて、黒羽はそれを切り捨てたのか。
やめよう、明日もあるんだ。今日は早く寝て、充分に休養を取らなければ……。
自分に言い聞かせ、布団に潜る。そして枕に頭を落ち着かせ、目を瞑ったときだった。
どこからか、鉄のような匂いがした。
先程通路で嗅いだ匂いが鼻に残っていたのだろうかと思い、特に変に思うこともなくそのまま俺は目を瞑っていた。けれど、すぐにそれが異変だと気付くことになる。
ぽたり、と頬に何かが落ちたのだ。
気のせいではない。ぎょっとし、目を見開けば天井ではなく、真っ黒な影が俺を見下ろしていた。影からはひたひたと血が溢れ、俺の顔を濡らす。
見間違いではない、何かが『いる』。
咄嗟に起き上がろうとするが、体の上に跨ったその影により体がびくともしない。
心臓が張り裂けそうなほど痛くなる。
いつの間に、どうやってここに、どうして。混乱する頭の中、先程扉を閉める前に足元で何かが動いた気配がしたのを思い出した。
「……っ、退け、よ……ッ! 退け!」
怖い、と思うよりも先に体が動いていた。枕を掴み、咄嗟に人影に向かって投げつける。けれど、まるで感触がなかった。
薄暗い室内、血で濡れた影の指先が腕を掴み上げる。ぬちゃりとした粘ついた感触とともに濃厚になる血の匂いに、吐き気が込み上げた。体を捻り、なんとか布団から抜け出そうとするが、金縛りにあったみたいに体が反応しなくなった。
近づく影に、頬の汗を舐められる。這う舌の感覚は、本物だった。濡れた生暖かな肉の感触に、全身が鳥肌立った。
「ッ、や、めろ、離せッ、……クソッ、黒羽さん……! 黒羽さん!」
名前を呼ぶ、けれど、辺りは静まり返ったままだった。
聞こえないのか、そんなはずはない。
そこまで考えて、この部屋の構造のことを思い出した。
俺でなければ扉は反応しない。ということは、扉までいって開けないと、黒羽は入ってこれないのではないかと。だとしたら、どうやって。と、そこまで考えていたとき、細く長い舌がねちょりと音を立て唇に触れる。
「っ、ん、っ、ぐ……ッ」
吐き気がした。唇を硬く結んでいても、血を塗り付けられるような舌の動きに濃厚な鉄の味が染み込んできて、嗚咽が漏れそうになる。
早く、黒羽を呼びに行かなければ。そう思うのに、体がいうことを利かない。
せめて、懐中時計を、と手を動かそうとするが、布団の傍、落ちた懐中時計に手が届かない。
こじ開けようと唇を舐める舌先に、俺は必死に逃れようと首を動かした。けれど、力の差がありすぎた。
固定された顎先、その唇を大きく指で抉じ開けられ、その隙間から強引に舌を捩じ込まれた。直接粘膜へと触れてくるその舌に、血の気が引く。
「ん゛ッ、ん、ぐッ、ぅぐッ!」
なんで、とかそんなことを考える暇がなかった。
喉の奥まで入り込んでくる舌に器官をねじ開かれ、何かを流し込まれる。濃厚な鉄の味に混ざって奇妙な味が喉奥から胃へと浸透していく。吐き出したいのに、それすらも儘ならない。怖くなって、バタついて影を押し退けようとした。けれど、暴れようとすればするほど体の力は抜け、そして、先程まで全身を駆け巡っていた熱が腹の奥で一気に弾け飛ぶ。
早鐘打つ心臓。力は入らないにせよ先程までは確かに機能していた全身の筋肉が弛緩し、腕も、足も、糸が切れたみたいに布団の上で横たわることしかできなくなってしまう。
舌を引き抜いた影。先程飲まされたものが、毒に等しい何かだったのだろうか。麻痺し始める思考の中、俺は、必死に眼球を動かし、枕元、懐中時計の位置を確認しようとする。
薄暗い部屋の中。提灯の薄明かりに照らされ、影に隠れていたその二つの目が真っ赤に染まっていることに気付く。
怪しく光るその目に睨まれ、脈が、弾む。息が浅くなった。体の輪郭を確認するかのように、開けた浴衣の上からその骨ばった手が脇腹から腰、そしてそのまま腿へと滑り落ちた。
殺すなら、食うのなら、早くすればいい。まるでこちらの反応を楽しむかのような手付きが余計気持ち悪くて、それ以上に何一つ抵抗できない自分の非力さが情けなくて、耐えられない。
「ッ、……か、は……ッ」
黒羽、と呼ぼうとするが声が出ない。掠れた吐息だけが溢れる室内、衣擦れ音がやけに大きく響いた。
乱れた裾の下、直接腿へ触れる濡れた指の感触にびくりと腰が震える。
黒羽さん、黒羽さん、黒羽さん……。助けて、黒羽さん。
腿の付け根へと徐々に上がってくる指先、やがて、下腹部まで這い上がってきたそれは徐に下着の中の膨らみに触れた。
くにくにと指の腹で刺激され、嫌なのに、気持ち悪いのに、されるがままに揉みしだかれてしまえば熱が下腹部に一点集中してしまう。何故、どうして、こんなことをする必要があるのか。分からない。けれど、訳がわからないまま好きにされるのはもっと、耐えられない。
「っ、く……ろ、は……」
喉の奥から声を絞り出した、そのときだった。
凄まじい破裂音とともに、部屋の窓ガラスが一気に吹き飛ぶ。そして、降り注ぐガラスの雨の中、満月を背にした黒羽がそこに立っていた。
俺は、夢でも見ていたのだろうか。
黒羽がいる、と思った次の瞬間、覆いかぶさっていた男の首が吹き飛んだ。と、同時に大量の黒い血が噴き出し、胸元から顔へと吹き掛かる。マグマのように熱い血を避けることも出来ず、それをまともに被った。熱、そして匂い。どろどろとした液体に、せめて目に入らないようにと瞑っていた恐る恐る開けたときだ、覆いかぶさっていた影は塵になり、割れた窓から吹き込む風に流され消えた。
「っ、伊波様、大丈夫ですか!」
それも束の間、短刀を仕舞い、駆け寄ってきた黒羽は最初と同じ敬語に戻っていた。けれど、俺も俺でそれに突っ込む余裕もなかった。血を被ったまま動けない俺に察したのだろう、顔を青くした黒羽は自分の服の袖で俺の血を拭ってくれる。
「……っ、伊波様、口が利けないのですか……」
頷くこともできなかった。ただ、切羽詰まった顔をした黒羽を見上げることしかできなくて、悔しそうに歯噛みした黒羽は、そのまま俺の体を抱き抱える。
そして、落ちていた懐中時計を拾い上げ、そのまま玄関に向かって歩き出した。
まるでお姫様でも抱きかかえるかのような丁寧な抱き方に驚く暇もなかった。その間も体の中を巡る毒は健在しており、血すらも、皮膚を爛れさせるかのように這いずり回るのだ。痛み、よりも、しびれ、疼きが強かった。無数の小さな虫が皮膚の下を這い回るような気持ち悪さに、腹の底がぞわぞわと震える。
「もう少し、辛抱してください。……今、安全な場所へと移動しますので」
聴こえてくる黒羽の声が、心地よかった。
どこへ向かってるのか、認識することも出来ぬほど思考力は低下していた。
扉が開く音がする。部屋の中へと移動した黒羽は、そのまま俺をどこかへと寝かした。硬い床の感触。眼球を動かせば、黒い天井と、そこに取り付けられた小さな照明が視界に入った。
――黒羽の部屋なのだろうか。
「伊波様、……失礼します」
黒羽は、俺の唇に触れ、そして、そのまま指をねじ込んできた。
「っ、ぅ、ぶ、ぇッ」
「貴方の中に侵入した毒を全て吐き出させます。我慢してください」
「ぅ、お゛、ぇ゛えッ」
言いながらも、躊躇なく喉の奥、口蓋垂を指で刺激してくる黒羽。その刺激に大きく縮小した器官。同時に、大量の唾液とその奥、溜まっていたあらゆるものが溢れ出してくる。まだ消化もしきっていない形の残った晩飯が最初に溢れた。吐瀉物で手も部屋も汚れることも構わず、黒羽は尚口蓋垂を指の腹で挟み、柔らかく刺激する。顎が外れそうだった。
続いて第二波とともに胃液に混じった固形物がびちゃびちゃと床を濡らす。噎せた拍子に別の器官に入ってしまったせいで酸味の刺激と痛みに堪らず涙が滲む。
それでもまだ、黒羽の手は止まらなかった。
ひりつく喉の奥、今度は胃液のみが溢れる。次第に唾液の量は多くなり、黒羽の指は俺の吐瀉物と唾液でどろどろに汚れていた。
「伊波様、もう少しの辛抱です……大丈夫です、すぐに、すぐに楽にしますから……」
優しい声だった。ビクビクと震える背中を擦りながら、黒羽は囁きかけてくる。ぐっと喉奥を抉られたときだ、空になっていたと思っていたそこからはごぽりと音を立て、真っ黒な血の塊みたいな吐瀉物が口から溢れ出した。それを見た黒羽の顔色が変わる。
それと同時に、ようやく指を引き抜きた黒羽は咳き込む俺の背中を擦ってくれた。「よく頑張りました」「これでもう大丈夫です」と、何度も口にする黒羽に、俺はなんだかほっとして、つい、堰き止めていた涙がボロボロと溢れてきた。
「助けるのが遅くなってしまい、貴方に怖い思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」
そんな言葉が聞きたかったわけではないが、黒羽の声に、心底ホッとするのだ。怖かった。痛くて、それ以上に気持ち悪くて、なのに、手も足も出ない自分が情けなくて、これほどまでに今まで自分の無力さを呪ったことがあっただろうか。
服が汚れるのも構わず、黒羽は俺の体を抱き締め、頭を撫でてくれて。不器用で、ぎこちない手付きだが、そのぬくもりは確かだった。
「っ、は、……ぅ……」
「伊波様……」
大丈夫ですか、と、黒羽は聞かない。
体の震えも収まり、今度急激な口渇感が襲い掛かってくる。喉がひりつく。嘔吐したせいなのか、分からない。けれど、今までに感じたことのないほどの乾きだった。舌の根から乾き、固まるような感覚に焦燥感すら憶えた。
「喉が、渇きますか」
静かに、尋ねる黒羽に、俺は、辛うじて感覚が戻ってきた体を動かし、頷いた。黒羽は、「少し待っててください」と言って、そっと俺から体を離し、その場を離れる。
黒羽がいなくなる。それだけで不安になり、行かないでくれ、と堪らず手を伸ばしかけたときだ。黒羽はすぐに戻ってきた。その手には湯呑みが握られていた。中には、白湯が入っていた。
「これを」
黒羽は俺の上半身を軽く抱き抱えると、唇にそっと湯呑みのフチを押し付ける。黒羽の湯呑みが汚れるのではないかと首を横に振ったが、勘違いした黒羽は「何も入ってません」と続ける。
そして、それでも躊躇う俺に業を煮やしたのか、黒羽はいきなり湯呑みの中を自ら口に含めた。
「っ、ぅ、んん……っ」
それは、キスというよりももっと無機質で、事務的な動作だった。開いた口に水を流し込んでくる黒羽。躊躇いも内動作に、俺は、頭が真っ白になる。同時にあれほどまでの口渇感は水を得、一気に回復していった。
俺が水を飲んだのを確認して、黒羽は俺から唇を離す。何も言わずに、呆けたまま固まる俺に、そっと手拭いで口を拭ってくれた。心臓の音が、煩くなる。
「っ、くろ、は……さん……」
他意はない、この行為にはなにもない。
分かっていたが、それでも、触れ合う感触に全神経が反応してしまう。
「……もっと……」
自分が何を口にしたのかも分からなかった。けれど、ただ喉を通るその感触が気持ちよくて、無意識にその言葉を口にしていた。
黒羽は、何を思ったのか分からない。浅ましいと思ったか、馬鹿げてると思ったのか、それとも。
「わかりました」と一言、再度それを口にした黒羽は、濡れた俺の唇に自分の唇を押し当てる。熱が、粘膜越しに触れ合った瞬間、体が恐ろしいほど反応する。至近距離、こちらを見据える赤い眼から目が逸らせなかった。
腰に、力が入らない。黒羽の冷たい指の感触が気持ちよくて、気が付けば、俺は黒羽の手を握り締めていた。
「……伊波様」
鼓膜を揺するのは、静かな声。低く、落ち着いたそれは心地がいい。けれど、今はその声すら甘く聴こえてしまうのだ。
正常ではなかった。それは、分かっていた。
黒羽は、あくまで冷静だった。
瞬間、視界が、遮られる。黒羽の手で覆われた視界には光一つも入らない。
「っ、く、ろはさ……」
「……私は、自分の力も、理性もコントロールすることができると思ってました」
黒羽の声が、頭上から降り注ぐ。
「……ですが、貴方は……そうではない」
何も見えない。けれど、指の感触、声のする場所からして、近い位置にいるであろう黒羽の気配に心臓の音はバクバクと鳴りっぱなしで。
「貴方の側にいるのが私で良かった」
そう一言、黒羽が口にしたと同時に唇に何かが触れる。錠剤だ。二粒の錠剤が口の中へと追いやられ、そしてすぐ、水を飲まされる。
ごくごくと流し込まれる水。口から溢れた雫は浴衣の襟をも濡らしたが、構わなかった。
ソレはとても苦い薬だった。通った箇所が酷く疼く。吐き出してしまいたかったが、唇を塞ぐ黒羽にそれを邪魔された。
「っん、ん、ぅ……」
吐き出したいほどの苦味。けれど、どうしたことか。薬を飲んで一分もしないうちに先程あれほど体の中を食い潰していた異様な熱が引いていくのだ。
まるで、霧が買ったかのような視界が一気に晴れ渡る、そんな感じだった。
「……今のは、制御剤です。……本来ならば満月時の破壊衝動を抑えるための妖かし専用の薬なのですが……どうやら効いたみたいですね」
氷が溶けるが如く浸透していくそれに、視界が晴れやかになる。俺から手を離した黒羽は、「無礼をお許しください」と口にする。明るくなった視界の先、黒羽は俺の髪を撫でる。
「……っ、苦い……」
「やはり、人の口にも合わぬのですか。それは申し訳ないことをしました」
妖怪でも苦いらしい。
黒羽は、どうぞ、と白湯の入った湯呑みを手渡してくる。今度は口移しはしないようだ。
薬が効いてきたのか、麻痺していた思考を取り戻し、同時に先程あんなに強請ってしまったことがとにかく恥ずかしくなってきた。俺は、それを紛らすように一口白湯を押し流す。
「……貴方を守ると言っておきながら、この体たらく。……言い訳もございません」
そんな俺に、黒羽は頭を下げた。
「……黒羽さん、さっきのは……何だったんですか」
「恐らくあれは、血液を媒体にした分身です。……自らの血に意識を流し込み、自在に変幻し、貴方の部屋へと侵入した。……自分の判断不足です、申し訳ございませんでした」
寧ろ、黒羽は助けてくれた恩人だ。
それにしても、やはり血溜まりの上で何かが動いた気がしたのは気のせいではなかったということか。
今までなら分身と言われても漫画やアニメの世界とでしか受け取れなかったが、今は別だ。俺は、疑いもしなかった。
「……俺は、黒羽さんが来てくれたお陰で、助かったんです。けど、どうやって……」
「あくまで、限られた人物にしか開けられないというのは扉だけだったようです。壁も確かに濃い結界が張られていましたが、壊せないものではありませんでした」
当たり前のように黒羽は言うが、普通は壊せないものではないか。だから外に移動した、そう黒羽は続ける。
その判断力と行動力のお陰で助けられたといっても過言ではない。
そう思うと、安心したのか急激に睡魔が襲ってくる。というよりも、辛うじて残っていた意識を結ぶそれが音を立てて切れたかのような感覚だった。俺は、まだ黒羽に聞きたいことがあったのに、なんて思いながらもその睡魔に逆らうことができず、意識を手放した。
「伊波様……ゆっくりと、お休みください」
遠くで黒羽の声を聞こえる。
あの黒い影は、誰の分身だったのか。
そして、あの時扉の前にいた訪問者は誰だったのか。
気になることは多々ある。けれど、今はとにかく休んで英気を蓄えることにした。
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