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クソザコお荷物くん
06
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どこから間違えていたのか。
ずっと理解していたつもりだったのは俺だけだったのか。恐らく最初から、俺はあいつのことを何一つ理解できてなかったのか。
考えれば考えるほど吐き気がした。
ずっと、何をされても耐えられた。それはまだ俺はあいつを信じれたからだ。
けれど、今は。
「…………」
どうやって自分の部屋へ戻ってきたのかすら覚えていない。あいつがシャワー浴びに行った隙に部屋を飛び出した。体は死ぬほど痛い。けれどそれ以上に体を洗い流したかった。
熱湯をいくら頭から浴びても気分が晴れることはない。
情けない、悔しい、腹立たしい。それ以上に、胸にぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感は誤魔化すことすらできない。
誰とも顔を合わせたくなかった。部屋にいたら勇者が来るかもしれない。そう思うと耐えられなかった俺は、体を無理矢理動かして宿屋を出ようとする。一階には勇者を待ってるらしいシーフたちがロビーで話していた。最悪だ。
「あれ、お前一人かよ」
「勇者はまだ上か? ……って、おい!無視かよ!」
誰にも会いたくない。話したくない。顔も見られたくなかった俺はそのまま宿屋を飛び出した。
とにかくここから離れたくて、誰も来ないような場所を目指して走る。体が痛い。
後先のことを考える余裕すら俺にはなかった。
気付けば俺は教会へとやってきていた。
祈りたいわけでも、神に縋りたいわけでもない。けれど、自然と足が向かっていたのだ。
寂れた教会の中は静まり返っていた。
教会にいるのは助けを求める人間だけだ。誰も、自分のことしか見ていない。俺が来たことに気付く人間もいなかった。
ステンドグラスが青く照らす教会内部。
祈るわけでもなく、俺はただそこにいた。
帰りたくない。顔も見たくない。こんな風に思ったのはあの日、勇者に追放を命じられたあの夜以来だ。俺はあの時から何も変わっていない。
膝に顔を埋め、座る。何も見たくない、聞きたくない、考えたくない。
こんなとき、あいつがいつも隣にいてくれたから耐えられた。けど、今あいつはここにはいない。
不意に音が止む。
腰を下ろしていた長椅子、その隣に誰かが座る気配がした。顔を上げる気力もなかった。こんなにガラガラに空いてる寂れてる教会の中でなんで、なんていちいち気にする気にもなれなかった。
「駄目だな、それじゃあお祈りにならない」
「神に祈るときは顔を上げるんだよ、じゃないと天まで伝わらないからな」聞こえてきた声に、俺は息を飲む。顔を上げれば、そこにはローブを羽織った魔道士が足を組んで座っていた。
そして、横目で俺を見ていたやつは笑うのだ。
「酷い顔だな。勇者と喧嘩でもしたのか。あいつも酷い顔をしていたぞ」
「……何しに来たんだよ」
「勇者がお前を探し出せとさ」
「……ッ!」
「ハッ、本当にわかり易いやつだな。……帰りたくないって顔に描いてあるぞ」
背筋が冷たくなる。
俺は立ち上がろうとするが、伸びてきた手に手首を掴まれ、再び座らせられるのだ。
「待てよ」
「離せ……ッ! 俺は帰らない……ッ!」
「帰らない? ……出ていくつもりなのか?」
「……ッ」
魔道士の問い掛けにハッとする。
……帰りたくないのは本心だ。けど、いずれ俺は戻らなければならない。そうしなければ悲願を達成することが叶わないからだ。
そう思っていた。けれど、俺はそれを拒もうとしている。心と体が噛み合わないのだ。
言葉に詰まる俺に、魔道士はただうっすらと笑みを浮かべたまま俺を見つめるのだ。
「なあ、俺が言っていた言葉覚えてるか?」
「……なにが」
「俺は別に今のパーティーに執着してるわけじゃない。出ていっても構わないって」
何食わぬ顔して続ける魔道士。
……忘れられるわけがない。こいつの腹の奥を知ったあの最低な日まだ記憶に新しい。
「それが、なんだよ」
「お前が帰りたくないっていうならこのまま二人で抜けるか?」
一瞬、俺はやつの言葉の意味を理解できてなかった。
あいつは相変わらず底意地悪そうな顔をして俺を見下ろしていた。
「な、に言って」
「このまま帰る必要はないって話。俺も、お前と一緒なら別に構いやしないし」
「……っ……」
「言っとくが俺は本気だ。お前がその気なら別に構わない。……というか、俺にとってはそっちの方が都合がいい」
この男と二人で逃げる。
そんなこと、考えたこともなかった。考えたくもなかった。
冗談じゃない、この男が俺にしてきたことを思い出せ。本性を思い出せ。そう以前の俺なら即座に断っていただろう。けれど、今、それを即答することができない俺がいたのだ。
迷っていること自体がおかしい。何が大切なのか、俺はわかってるはずなのに。
「お前は魔王をぶっ殺したいんだろ? ……それならまた新しいパーティー組めばいいだろ。なんなら、俺の知り合い呼んでもいいし。別にここに拘る必要はないはずだ」
「……っ、俺は……」
「それとも、やっぱ喧嘩しても大好きな勇者からは離れ難いか?」
「……ッ!」
顔がカッと熱くなる。俺は、力を振り絞って魔道士の手を振り払った。
「馬鹿にするなよ……ッ! お前と組むくらいなら俺一人の方がましだ!」
「おいおい、教会ではお静かにって知らないのか?」
「ぁ……っ」
慌てて口を抑える。何事かと数人の信者たちがこちらを振り返った。居たたまれなくなり立ち上がれば、魔道士も続いて立ち上がる。
「帰るのか?」
「……俺の勝手だろ、お前には関係ない」
「いーや、関係あるな。俺と来ないならお前を勇者のところに連れ帰るだけだ」
そう、魔道士に腕を掴まれる。手袋越し、触れられただけで体が反応しそうになった。
「……っ! 離せ!」
「駄目だ。お前みたいな雑魚、ほっとくと弱小モンスターにやられて死に兼ねないからな」
「……っ、痛……」
引っ張られる拍子に下腹部が痛み、堪らずバランスを崩しそうになったとき、魔道士がこちらを向く。
「怪我してるのか?」
「お前には……関係ないだろ」
「何年お前のヒーラーやってると思ってんだよ。……ったく、ほら、ちょっと待て」
「っいい、いらねえ!」
「いらねえってなんだよ、良いから傷見せろ。どこ怪我してんだ」
そう教会の中で問い詰められ、俺は「やめろ」と必死に魔道士を押し退ける。顔を掴んで引き剥がそうとしたとき、魔道士はなにかに気付いたらしい。舌打ちをし、「わかったよ」と立ち上がった。けれど、俺の手は離さないままだ。
「っ、おい、メイジ……」
「場所を変える」
「は……っ、おい離せって……!」
メイジ、と何度も声をかけるがやつは俺から手を離すことはなかった。
そして半ば強引に教会から引っ張り出されるのだ。
「おい、メイジ……ッ!」
結局、教会の外まで引っ張られてきた。
教会裏までやってきてようやくやつは俺から手を離した。
「なんなんだよ、いきなり……」
「脱げよ。怪我、見せてみろ」
「……っ、嫌だ」
「なんで?」
「別に大した怪我でもねえし、お前なんかに治してもらわなくても……」
いらねえ、と答えるよりも先に掴まれたままの腕ごと壁に体を押し付けられる。
ぶつかる痛みに堪らず呻いたとき、一瞬怯んだその隙を狙ったやつに服を大きく巻くし上げられた。
「……ッ、な……!」
「なるほど? ……朝からお楽しみだったってわけだ」
「昨日はなかったよな、これ」と上半身、くっきりと残った勇者の指の痕を撫で上げられ息を飲む。
「ッ、違う」
「お前、俺に隠し事できると思ってんのか?……なるほどなぁ、こりゃ人に見せられないな」
すり、と腫れ上がった胸を撫でられただけで刺すような痛みが走り、堪らずやつの腕を掴む。けど、魔道士は離さない。
手袋越し、やつに触れられた箇所が暖かくなり、次第に痛みしか感じなかったそこから痛みが引いていく。
「……っ」
「これも勇者サマか?」
ぐ、と下着ごとずらされそうになり、慌てて抵抗しては「違う」と声を上げるがやつはそれを無視して俺の下着ごと下を脱がすのだ。
「おい……ッ!」
「ここもか? ……可哀相に、痣になってんじゃねえか」
「っ、やめろ、誰か来たら……ッ!」
「お前が余計な真似しなきゃすぐ済むんだよ。……ほら、大人しく手退けろ、治癒できねーだろ」
まるで俺のせいだと言わんばかりの言い草に顔が熱くなる。腹立たしかった。もし教会の子供が通りかかったらと思うと生きた心地がしない。
けれど、この男は本気だとわかった。そして、この場合恥を掻くのは俺だけだ。
「……っ、俺は治してくれなんて一言も頼んでなんか……っ、ん、ぅ……ッ! や、めろ、触るな……ッ!」
人の言葉なんて無視して、魔道士はそのまま俺の下腹部に手を伸ばすのだ。まだ感触の残っているそこを指で撫でられ、腰の奥、勇者のものを咥えさせられていたそこにきゅっと力が籠もる。
「っ、メイジ……」
「いいからじっとしてろ」
「……っ」
なんでこんなやつの言うことを聞かなきゃいけないのか。腹がたった。けど、やつに触れられる箇所から痛みが引いていく。
普段わざわざ脱がずとも衣類の上から治癒していたくせに、なんでこんなときばかり余計なことをするのだ。……わかりきったことだ、俺を辱めたいのだろう。傷が薄くなる。鬱血痕も、爪の痕もみるみるうちに癒えていく。
腹を撫でられるだけでその中、奥に見えない何かが入ってくるみたいに裂傷を癒やしてくれるのだ。
やつの言うとおり、抵抗しなければすぐに終わった。さっきまで歩くことすら辛かった体が元に戻る。それでも、気分は変わることはない。余計、それもこの男に体の状態を知られたことが何よりも屈辱だった。
「ありがとうございました、は?」
「……っ、俺は、頼んでない、こんな……」
「じゃ、俺がまた同じ傷付けてやろうか」
服を着直させながらそんなことを言い出すやつに固まれば、魔道士は笑う。まるで可哀想なものでも見るかのように憐れみを孕んだその目で。
「お前は本当全部顔に出るな。分かりやすくて助かるよ」
「……っ、最低だ、お前……」
「じゃあ、実際に傷付けたあいつはなんだ?」
クソ野郎か?と、耳元で笑う魔道士に指先が冷たくなっていく。思い出したくもなかった。知られたくもなかった。
……この男だけには。
「はは、お前があいつのこと庇わないって相当だよな。愛想尽きたか? それとも、余程ショックだったのか?」
「……お前には、関係ないだろ」
「あるよ。なんなら、このままお前らが仲違いしてくれた方が俺にとっては都合がいいんだけどな」
「……ッお前……」
「そんな面して戻れんのか?」
首の付け根から頬を撫で上げるその指に息を飲んだ。
「記憶消してやろうか」
革手袋越し、唇に触れる指先の感触がやけにくっきりと頭に残っていた。誰の、とはやつは言わなかった。けど、反射的に俺はやつの胸倉を掴んでいた。
「余計な真似するな、これは、俺とあいつの問題だ……っ」
「お前には関係ない」そう、声を絞り出す。
怒りかわからなかった、声が震えてしまい、やつはただ笑って肩を竦めるのだ。
「お前って可哀想なやつだな。俺に甘えればいいのにつまらない見栄で自分で自分の首を締めてる。……理解出来ないな、俺がこれほど優しいことなんてないぞ?」
不合理だろうが、分かってる。それでもその理由は単純明快だ。
「お前に借りを作りたくない」
そう言い返せば、魔道士は「クソガキが」と笑う。そして、俺から手を離した。
「勝手に苦しめばいい。そんで、さっさとあいつから捨てられてこい。そうしたら俺が拾ってやるよ」
返事する気にもならなかった。
俺は服を着直し、やつの前から逃げ出すように教会を後にした。
魔道士は追いかけてくることはなかった。
相変わらず、いけ好かないやつだ。最低で、人徳の欠片もないやつ。けど、そんなあいつにまで同情される自分がなによりも腹立った。
痛みは引いた。残ったのはどろりとしたどす黒い感情だけだ。
魔道士と二人でパーティーを抜ける。考えたこともなかった。……考えたくもなかった。
けど、あいつの言葉が頭にやけにはっきりと残っていた。それを振り払い、俺は近くの路地に飛び込んだ。
帰りたくないという気持ちは変わらない。このまま逃げ続けるのか、あいつが諦めるまで。
自分でもわからなかった。ずっと混乱してるみたいに思考がまとまらない。ただ、あいつに会いたくないという気持ちだけは自分でも理解できた。
……こんなことしたってどうにもならないとわかってるのに、あいつに会うのが怖い。
あいつがというよりも、あいつを信じられなくなった自分がだ。
薄暗い路地に身を隠す。息を潜め、近くの木箱に腰を下ろした。このまま夜を待つわけにもいかないとわかっていたが、それでもこの状態で帰ってもきっと俺はまともにあいつと話せないとわかった。
魔道士はどうするのだろうか、俺を見つけたと勇者に言うだろうか。同じ街にいる以上逃げ隠れするのも時間の問題だ。
――もう少ししたら、戻ろう。もしかしたらあいつの頭も冷えているかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、蹲る。
あいつと喧嘩したときはいつもそうだった。小さい頃、まだ平和だった頃は些細なことでしょっちゅう俺はあいつと喧嘩して、そして泣かせていた。その度に親から俺が怒られ、なんで俺ばかりと拗ねては村から離れた秘密基地に身を隠してたのだ。その都度、あいつは俺を探しにやってきた。『もう会えないかと思った』と泣きじゃくって謝ってくるのだ。まだ幼い頃の話だ。
それでも俺はよく覚えていた。
目を瞑れば昨日のことのように思い出す。それが、どうしてこんなことになったのか。あいつは俺が勇者と呼ぶのを嫌がっていた。
そんなことを考えていたときだった。
「おい、ガキ。こんなところで寝てんじゃねえ。邪魔だ!」
いきなり叩き起こされる。そこで自分がうとうとしていたことに気付いた。顔を上げればそこには柄の悪い男たちが数人いた。身なりからして商人とその用心棒か。どちらにせよあまり関わらないほうが良さそうだ。
「悪い、気付かなかった」
そう木箱から降り、素直に謝る。そしてさっさとその場を後にしようとしたときだ、「おい待てよ」と首根っこを掴まれた。
「その箱に入っていたのはうちの大事な商売道具なんだよ。お前がベッドにしてたお陰で駄目になってやがる、どうしてくれんだ?」
「…………」
ああ、と思った。予め木箱が廃材なのも空なのも確認していた。面倒なのに絡まれた。内心舌打ちをする。
「そりゃ悪かったな。廃材置き場にあったからいらねーもんかと思ったんだよ。まさかこんなゴミで商売してるやつがいるとは思わなかったもんでね」
「このガキ……」
「今度から気を付ける」
じゃあな、とそのまま大通りに抜けようとしたときだ。向かおうとしたその先、道を塞ぐように現れる男たちが現れる。
「……ッ!」
「お前、勇者様御一行の仲間だろ。……金持ってんだろ? 人の商売邪魔した分弁償すんのが筋だろ」
ああ、こいつら俺のこと知ってんのか。だから絡んできたってわけか。面倒だな、と腰に携えていた短剣に手を伸ばす。
そして、にじり寄ってくる連中から一歩引いたときだ。俺が短剣を抜くのとほぼ同時だった。
「お前ら何をしている!」
路地裏に響くその声に驚いて連中の視線が通りに向いた瞬間、確かに出来た隙きを狙って俺はリーダー格の商人の腹を短剣の柄で殴った。
「ぐっ!」と呻き、倒れるその男を味方のチンピラに向かって投げ付ける。そのとき、手首を掴まれた。大きくがっしりとした分厚い掌。
「こっちだ!」
――騎士だ。
道を塞いでいたチンピラを殴り倒したらしい騎士は俺の腕を掴み、そのまま通りへと引っ張っていく。咄嗟のことに俺は逃げるということを忘れていた。
「ここまで来たら追ってこないだろうな」
「……」
「……怪我はないか?」
「……ぁ、ああ……」
心臓がまだバクバクしてる。
長距離走ったわけでもない、それに相手はあんな素人みたいな連中だ。俺一人でもどうにかできた
それなのに、なんでこんなに心臓が煩いのか自分でも理解できなかった。
離れる騎士の手、そこでようやく自分がほっとするのがわかった。
「なんで、アンタがあそこに……」
「それはこっちのセリフだ。……姿が見えないと聞いたから皆で貴殿を探していたのだ」
そこにたまたま通りかかったというわけか。咄嗟に辺りを見渡した。大通りの脇、大勢の人間が通りかかる中、勇者たちの姿はない。
「勇者殿なら宿にいるはずだ。……貴殿がいなくなったとわかってから酷い取り乱しようだったからな、シーフ殿が『縛っておいた方がいいな』と」
「……そうなのか」
「勇者殿と何かあったのか」
向けられた目を俺は直視することができなかった。
「別に、大したことじゃない」
「なら何故そんな顔をする。……それに、勇者殿も辛そうだった」
「……それは」
「もしかして、自分のせいか」
一瞬、息が詰まりそうになった。
驚いて顔を上げれば、すぐ目の前に騎士の顔があって息を呑む。
「……シーフ殿から聞いた。その、勇者殿と貴殿が……親密な仲だと」
「っ、違う!」
気付いたら叫んでいた。人の目がこちらに向こうが、どうでもよかった。手足から血の気が引いていくようだった。
何故自分がこんなに動揺してるのか、俺自身もわからない。
「っ、ち……違うのか?」
「……違う、アンタが何を聞いたか知らないが、俺は……っ」
「……っ、わかった。……済まない、良くも知らないで口を挟んで」
適当なことを抜かすシーフに対する怒りもだが、それ以上にこの男に勘違いされたくなかった。
怒られた犬みたいにしゅんとする騎士に俺は何も返す言葉がなかった。おかしいと思われてるだろう。いくら鈍感とはいえ勘付かれてるかもしれない。そう思うとただ背筋に冷たいものが走るのだ。
「……勇者殿が心配をしている。そろそろ戻らないか」
それは子供を嗜めるときのそれだ。叱るわけでもなくそう優しく声をかけられ、ささくれだっていた心に僅かながらも平穏が戻ってきた。
それでも「嫌だ」と返せば、騎士は益々困ったような顔をした。
「……理由を聞いてもいいか?」
「……言いたくない」
「そうか、なら無理して言わなくてもいい」
騎士の手が離れる。釣られて顔を上げたとき、「少し待ってろ」と騎士が離れた。
まさかこのまま勇者を呼びに行くのではないかと思ったが、数分もしない内に騎士は戻ってきた。その手には子供用の焼菓子が入った袋が握られている。
「そこの屋台で買ってきた。……そろそろ小腹が減ってきたのではないか?」
「少し休憩しないか」と騎士は笑うのだ。
この男はやはり妙なやつだ。恐らく俺が駄々っ子に見えてるのだろう。けれどその気遣いが今は俺を余計息苦しくさせるのだ。
――落ち着ける場所で少し休もうか。
そういう騎士に連れられてやってきたのは町外れの広場だ。子供で賑わうそこは落ち着けるとは言えないが、きっとこの男からしてみれば落ち着ける場所なのかもしれない。
「美味いか?」
「……ん」
もらった焼き菓子を食いながら俺はただぼんやりと広場を眺めていた。
ありがとうというべきか俺は迷っていた。そもそもこのお節介男が全部勝手にやったことだ。そう思うのに断れない。この男の言動が全て善意からだとわかってるからこそ、余計。
「……あんたは、食べないのか?」
「ああ、俺はあまり甘いのは……。貴殿の口に合うのならよかった」
「勇者に突き付けないのか? 俺のこと」
「帰りたくないのだろう。ならば、貴殿が満足するまで自分はそれに付き合おう」
「……変なやつだな、あんた。お人好しだって言われないか?」
そう尋ねれば、「う」と騎士は言葉に詰まる。……わかりやすい男だ。
「騎士団に入りたての頃、お前は甘すぎると何度も叱られた。……あの頃からは大分変わったと自負していたのだが」
「だとしたら、昔のあんたはもっとお節介だったのかもしれないな」
「……貴殿までそう言うか」
項垂れる騎士。騎士の美徳だと思うのだが、それ故に苦労もしてきたのかもしれない。騎士には悪いが、少しだけ安堵した。この男が変わらずこうして接してくれることが有難かった。
「あんたは変わってるな。……こんなことバレたら勇者に……あいつに怒られるだろ」
「確かに、勇者殿は貴殿がいなくなってから大分憔悴しきっていた。……しかし勇者殿の側にはシーフ殿もついている。そう心配する必要はないだろう」
「それよりも、自分は貴殿の方が心配だ」それはあまりにもストレートな言葉だった。
「……それは、そうだな。アンタたちには迷惑を掛けた。……巻き込んで悪い」
「そういうことではない。……その、なんだ、以前にも貴殿は他の者とあまり上手く行っていないと言っていたから気になったんだ」
「……」
魔道士に聞かれていたあの会話のことだろう。
この男には新参者だからとつい愚痴ばかり言ってしまっていた。けれどそんな言葉まで気にしていたとは。申し訳なくなる反面、その言葉だけでここまで探しに来てくれたこの男に胸がざわついた。
「あんたには変な話ばかり聞かせて悪かったと思ってる。けど、そこまでして俺のことを気にする必要はないからな。……それで、他の奴らに見つけられる前にと探しに来てくれたんだろ?」
自惚れだと笑われるかもしれないが、出会ってまだ間もないがそれでもこの男の本質を知ってしまった。責任感が強く、真面目だと。魔道士には見つけられたあとだったが、それでも決して狭くはない街の中を探し回らせてしまったのだ。
罪悪感がないわけではない。
「悪かった」
「何故謝る」
「……俺とあいつの問題だ。あんたは巻き込まれただけなのに、無駄な真似をさせてしまった」
そうだ、これは俺とあいつの問題なのだ。
――そんな子供の喧嘩に俺はこの人を巻き込んでる。この男だけではない、他の奴らもだ。
そう思うと途端に恥ずかしくなった。純粋に心配かけたことに、余計。顔を上げることもできず俯いたとき、膝の上に置いていた手を取られた。驚いて顔を上げれば、騎士と目が合う。
「っ……自分は、確かに勇者殿に言われて探しに来たが……それだけではない」
「……っ、え……」
「き……き、貴殿のことが、心配だったから」
「それは、悪かった。けど、大丈夫だ。……あんたのお陰で決心着いたよ」
ちゃんと戻ってあいつと話す。
……どうなるかわからない。けど、これ以上逃げたところで余計悔しさが残るだけだ。それならばいっそのこと言いたいことはぶち撒けるしかない。それでもわかり会えなければ、そのときだ。
そういう風に思えたのはきっと騎士のように純粋に心配してくれる人間がいるからだろう。
けど、騎士の手は離れない。手首を覆うように掴むその大きな掌は離れないのだ。
「……騎士?」
なんとなく不審に思って相手を見上げたときだった、熱を持った手のひらは更に強く俺の手を掴んだ。そして。
「貴殿には、無理をしてほしくない」
「……っ」
「妙なことを言ってる自覚はある。……が、本心だ。俺は、貴殿が無理して笑うのを見ると――辛い」
どくん、と心臓が跳ねる。熱い。
子供たちの声が遠く聞こえた。まるで世界が切り離されたみたいに音が止んだのだ。聞こえるのは俺の鼓動と、この男の脈だけだ。
「スレイヴ殿」と、名前を呼ばれた瞬間、全身の血液が一気に熱くなる。
「っ、あんたは、やっぱ変だ」
「……そうだとしても、放っておけない」
「あんたのそれはお節介だ、……俺に負い目を感じてるからそう思うだけだ。あんたがそこまで俺のことを気にする必要は……っ」
ないはずだ、という言葉は遮られた。背中に回された腕。抱き締められていると気付いたのは体が動かなかったからだ。アホのガキが遠巻きにこちらを見て指差してるのが見え、咄嗟に「騎士」と胸を叩くが分厚い胸元はびくともしない。
けれど、先程よりも近くなった鼓動は確かに激しくて。
「……っ、ぉ、おい、何やって……」
「負い目とか、そうではない。……俺は、っ……」
「っ、騎士……?」
「……俺は……ッ」
肩を掴んでくるその指先に力が籠もる。
痛いというよりも、それどころではなかった。目を反らすことすらできなかった。全身に騎士の熱を浴び、感じ、息が苦しくなる。
見詰められ、名前を呼ばれると甘いものがゾクゾクと背筋に流れるのだ。
「――……スレイヴ殿」
辛そうに何度も俺の名前を呼ぶ。唇に吐息がかりそうなほどの距離だった。穏やかな陽気が包み込む中、がっしりと抱きしめられたまま俺は動けなくなっていた。そんなときだった。
「お熱いねえ、お二人さん。……けど、そういうのはこんなところじゃなくて宿屋じゃないと駄目だろ?」
騎士の唇が動くよりも先に、背後から声が聞こえてきた声に背筋が凍った。振り返ればそこにはニヤニヤと笑うシーフが立っていた。
俺の体を離した騎士は真っ赤になって「シーフ殿」とやつを呼ぶ。
「いやー場所は考えねえと危ねーぞ。……それとも、周りが見えなくなるほどだったか?」
「す、済まない……その」
「あー、皆まで言うなよ。安心しろ、俺は別に邪魔しに来たわけじゃねえんだ。けど、あいつがいなくてよかったな。今の見られてたらきっとまたあいつ怒り狂ってただろうな」
……最悪だ。最悪だ。よりによってこの男に見つかるなんて。別に、やましいことなどない。――ないはずなのだ。
そうわかってても、ニヤニヤと笑うやつの目が嫌だった。騎士から離れ、逃げようとすればいつの間にかに側にまでやってきていたシーフに「おっと」と腰を抱かれる。
「逃げるなよ、雑用ちゃん」
「っ、離せ……」
「そうしてやりたいのは山々なんだが、本格的にうちのリーダーが使えなくなりそうなんだ。そろそろ機嫌直して帰ってきてもらうぞ」
「……ッ!」
「シーフ殿、いくらなんでそれは強引では……」
「おっと。ナイト、悪いがこれはうちのパーティーの決まりなんでな。……ま、こいつもガキじゃねえんだ。あとのことは当人たちに任せりゃいいんだよ」
「だが……」
「良いんだ」
もう、良いんだ。そう口の中で繰り返す。
騎士は何か言いたそうだったが、俺は観念することにした。
元よりこれ以上逃げられるとは思っていなかった。
「もう十分頭は冷ました。……迷惑かけたな」
「……スレイヴ殿」
「おーおー随分と物分りいいじゃねえの。……新しい彼氏にいっぱい甘えて欲求不満が解消されたのか?」
耳元で下卑たことを繰り返すシーフに頭にカッと血が上った。お前、と掴みかかろうとしたとき、騎士に見えないところで尻を揉まれるのだ。
「……ッ!」
「まあいいや、あとでちゃんと聞かせろよ」
引き剥がそうとすればすぐにやつの手は尻から離れた。けれど、再度腰を抱かれる。
「それじゃ帰るか。……ほら、歩けよ」
「なら手を退けろ。……歩きにくいんだよ」
心配そうにこちらを見てる騎士。余計なことを気取られたくなかった俺は、シーフが調子に乗り出す前にさっさと宿屋に向かって歩き出した。
最悪だ。最悪だ。最悪だ。繰り返す。
そうでもしなければ自分を保つことができなかった。
ずっと理解していたつもりだったのは俺だけだったのか。恐らく最初から、俺はあいつのことを何一つ理解できてなかったのか。
考えれば考えるほど吐き気がした。
ずっと、何をされても耐えられた。それはまだ俺はあいつを信じれたからだ。
けれど、今は。
「…………」
どうやって自分の部屋へ戻ってきたのかすら覚えていない。あいつがシャワー浴びに行った隙に部屋を飛び出した。体は死ぬほど痛い。けれどそれ以上に体を洗い流したかった。
熱湯をいくら頭から浴びても気分が晴れることはない。
情けない、悔しい、腹立たしい。それ以上に、胸にぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感は誤魔化すことすらできない。
誰とも顔を合わせたくなかった。部屋にいたら勇者が来るかもしれない。そう思うと耐えられなかった俺は、体を無理矢理動かして宿屋を出ようとする。一階には勇者を待ってるらしいシーフたちがロビーで話していた。最悪だ。
「あれ、お前一人かよ」
「勇者はまだ上か? ……って、おい!無視かよ!」
誰にも会いたくない。話したくない。顔も見られたくなかった俺はそのまま宿屋を飛び出した。
とにかくここから離れたくて、誰も来ないような場所を目指して走る。体が痛い。
後先のことを考える余裕すら俺にはなかった。
気付けば俺は教会へとやってきていた。
祈りたいわけでも、神に縋りたいわけでもない。けれど、自然と足が向かっていたのだ。
寂れた教会の中は静まり返っていた。
教会にいるのは助けを求める人間だけだ。誰も、自分のことしか見ていない。俺が来たことに気付く人間もいなかった。
ステンドグラスが青く照らす教会内部。
祈るわけでもなく、俺はただそこにいた。
帰りたくない。顔も見たくない。こんな風に思ったのはあの日、勇者に追放を命じられたあの夜以来だ。俺はあの時から何も変わっていない。
膝に顔を埋め、座る。何も見たくない、聞きたくない、考えたくない。
こんなとき、あいつがいつも隣にいてくれたから耐えられた。けど、今あいつはここにはいない。
不意に音が止む。
腰を下ろしていた長椅子、その隣に誰かが座る気配がした。顔を上げる気力もなかった。こんなにガラガラに空いてる寂れてる教会の中でなんで、なんていちいち気にする気にもなれなかった。
「駄目だな、それじゃあお祈りにならない」
「神に祈るときは顔を上げるんだよ、じゃないと天まで伝わらないからな」聞こえてきた声に、俺は息を飲む。顔を上げれば、そこにはローブを羽織った魔道士が足を組んで座っていた。
そして、横目で俺を見ていたやつは笑うのだ。
「酷い顔だな。勇者と喧嘩でもしたのか。あいつも酷い顔をしていたぞ」
「……何しに来たんだよ」
「勇者がお前を探し出せとさ」
「……ッ!」
「ハッ、本当にわかり易いやつだな。……帰りたくないって顔に描いてあるぞ」
背筋が冷たくなる。
俺は立ち上がろうとするが、伸びてきた手に手首を掴まれ、再び座らせられるのだ。
「待てよ」
「離せ……ッ! 俺は帰らない……ッ!」
「帰らない? ……出ていくつもりなのか?」
「……ッ」
魔道士の問い掛けにハッとする。
……帰りたくないのは本心だ。けど、いずれ俺は戻らなければならない。そうしなければ悲願を達成することが叶わないからだ。
そう思っていた。けれど、俺はそれを拒もうとしている。心と体が噛み合わないのだ。
言葉に詰まる俺に、魔道士はただうっすらと笑みを浮かべたまま俺を見つめるのだ。
「なあ、俺が言っていた言葉覚えてるか?」
「……なにが」
「俺は別に今のパーティーに執着してるわけじゃない。出ていっても構わないって」
何食わぬ顔して続ける魔道士。
……忘れられるわけがない。こいつの腹の奥を知ったあの最低な日まだ記憶に新しい。
「それが、なんだよ」
「お前が帰りたくないっていうならこのまま二人で抜けるか?」
一瞬、俺はやつの言葉の意味を理解できてなかった。
あいつは相変わらず底意地悪そうな顔をして俺を見下ろしていた。
「な、に言って」
「このまま帰る必要はないって話。俺も、お前と一緒なら別に構いやしないし」
「……っ……」
「言っとくが俺は本気だ。お前がその気なら別に構わない。……というか、俺にとってはそっちの方が都合がいい」
この男と二人で逃げる。
そんなこと、考えたこともなかった。考えたくもなかった。
冗談じゃない、この男が俺にしてきたことを思い出せ。本性を思い出せ。そう以前の俺なら即座に断っていただろう。けれど、今、それを即答することができない俺がいたのだ。
迷っていること自体がおかしい。何が大切なのか、俺はわかってるはずなのに。
「お前は魔王をぶっ殺したいんだろ? ……それならまた新しいパーティー組めばいいだろ。なんなら、俺の知り合い呼んでもいいし。別にここに拘る必要はないはずだ」
「……っ、俺は……」
「それとも、やっぱ喧嘩しても大好きな勇者からは離れ難いか?」
「……ッ!」
顔がカッと熱くなる。俺は、力を振り絞って魔道士の手を振り払った。
「馬鹿にするなよ……ッ! お前と組むくらいなら俺一人の方がましだ!」
「おいおい、教会ではお静かにって知らないのか?」
「ぁ……っ」
慌てて口を抑える。何事かと数人の信者たちがこちらを振り返った。居たたまれなくなり立ち上がれば、魔道士も続いて立ち上がる。
「帰るのか?」
「……俺の勝手だろ、お前には関係ない」
「いーや、関係あるな。俺と来ないならお前を勇者のところに連れ帰るだけだ」
そう、魔道士に腕を掴まれる。手袋越し、触れられただけで体が反応しそうになった。
「……っ! 離せ!」
「駄目だ。お前みたいな雑魚、ほっとくと弱小モンスターにやられて死に兼ねないからな」
「……っ、痛……」
引っ張られる拍子に下腹部が痛み、堪らずバランスを崩しそうになったとき、魔道士がこちらを向く。
「怪我してるのか?」
「お前には……関係ないだろ」
「何年お前のヒーラーやってると思ってんだよ。……ったく、ほら、ちょっと待て」
「っいい、いらねえ!」
「いらねえってなんだよ、良いから傷見せろ。どこ怪我してんだ」
そう教会の中で問い詰められ、俺は「やめろ」と必死に魔道士を押し退ける。顔を掴んで引き剥がそうとしたとき、魔道士はなにかに気付いたらしい。舌打ちをし、「わかったよ」と立ち上がった。けれど、俺の手は離さないままだ。
「っ、おい、メイジ……」
「場所を変える」
「は……っ、おい離せって……!」
メイジ、と何度も声をかけるがやつは俺から手を離すことはなかった。
そして半ば強引に教会から引っ張り出されるのだ。
「おい、メイジ……ッ!」
結局、教会の外まで引っ張られてきた。
教会裏までやってきてようやくやつは俺から手を離した。
「なんなんだよ、いきなり……」
「脱げよ。怪我、見せてみろ」
「……っ、嫌だ」
「なんで?」
「別に大した怪我でもねえし、お前なんかに治してもらわなくても……」
いらねえ、と答えるよりも先に掴まれたままの腕ごと壁に体を押し付けられる。
ぶつかる痛みに堪らず呻いたとき、一瞬怯んだその隙を狙ったやつに服を大きく巻くし上げられた。
「……ッ、な……!」
「なるほど? ……朝からお楽しみだったってわけだ」
「昨日はなかったよな、これ」と上半身、くっきりと残った勇者の指の痕を撫で上げられ息を飲む。
「ッ、違う」
「お前、俺に隠し事できると思ってんのか?……なるほどなぁ、こりゃ人に見せられないな」
すり、と腫れ上がった胸を撫でられただけで刺すような痛みが走り、堪らずやつの腕を掴む。けど、魔道士は離さない。
手袋越し、やつに触れられた箇所が暖かくなり、次第に痛みしか感じなかったそこから痛みが引いていく。
「……っ」
「これも勇者サマか?」
ぐ、と下着ごとずらされそうになり、慌てて抵抗しては「違う」と声を上げるがやつはそれを無視して俺の下着ごと下を脱がすのだ。
「おい……ッ!」
「ここもか? ……可哀相に、痣になってんじゃねえか」
「っ、やめろ、誰か来たら……ッ!」
「お前が余計な真似しなきゃすぐ済むんだよ。……ほら、大人しく手退けろ、治癒できねーだろ」
まるで俺のせいだと言わんばかりの言い草に顔が熱くなる。腹立たしかった。もし教会の子供が通りかかったらと思うと生きた心地がしない。
けれど、この男は本気だとわかった。そして、この場合恥を掻くのは俺だけだ。
「……っ、俺は治してくれなんて一言も頼んでなんか……っ、ん、ぅ……ッ! や、めろ、触るな……ッ!」
人の言葉なんて無視して、魔道士はそのまま俺の下腹部に手を伸ばすのだ。まだ感触の残っているそこを指で撫でられ、腰の奥、勇者のものを咥えさせられていたそこにきゅっと力が籠もる。
「っ、メイジ……」
「いいからじっとしてろ」
「……っ」
なんでこんなやつの言うことを聞かなきゃいけないのか。腹がたった。けど、やつに触れられる箇所から痛みが引いていく。
普段わざわざ脱がずとも衣類の上から治癒していたくせに、なんでこんなときばかり余計なことをするのだ。……わかりきったことだ、俺を辱めたいのだろう。傷が薄くなる。鬱血痕も、爪の痕もみるみるうちに癒えていく。
腹を撫でられるだけでその中、奥に見えない何かが入ってくるみたいに裂傷を癒やしてくれるのだ。
やつの言うとおり、抵抗しなければすぐに終わった。さっきまで歩くことすら辛かった体が元に戻る。それでも、気分は変わることはない。余計、それもこの男に体の状態を知られたことが何よりも屈辱だった。
「ありがとうございました、は?」
「……っ、俺は、頼んでない、こんな……」
「じゃ、俺がまた同じ傷付けてやろうか」
服を着直させながらそんなことを言い出すやつに固まれば、魔道士は笑う。まるで可哀想なものでも見るかのように憐れみを孕んだその目で。
「お前は本当全部顔に出るな。分かりやすくて助かるよ」
「……っ、最低だ、お前……」
「じゃあ、実際に傷付けたあいつはなんだ?」
クソ野郎か?と、耳元で笑う魔道士に指先が冷たくなっていく。思い出したくもなかった。知られたくもなかった。
……この男だけには。
「はは、お前があいつのこと庇わないって相当だよな。愛想尽きたか? それとも、余程ショックだったのか?」
「……お前には、関係ないだろ」
「あるよ。なんなら、このままお前らが仲違いしてくれた方が俺にとっては都合がいいんだけどな」
「……ッお前……」
「そんな面して戻れんのか?」
首の付け根から頬を撫で上げるその指に息を飲んだ。
「記憶消してやろうか」
革手袋越し、唇に触れる指先の感触がやけにくっきりと頭に残っていた。誰の、とはやつは言わなかった。けど、反射的に俺はやつの胸倉を掴んでいた。
「余計な真似するな、これは、俺とあいつの問題だ……っ」
「お前には関係ない」そう、声を絞り出す。
怒りかわからなかった、声が震えてしまい、やつはただ笑って肩を竦めるのだ。
「お前って可哀想なやつだな。俺に甘えればいいのにつまらない見栄で自分で自分の首を締めてる。……理解出来ないな、俺がこれほど優しいことなんてないぞ?」
不合理だろうが、分かってる。それでもその理由は単純明快だ。
「お前に借りを作りたくない」
そう言い返せば、魔道士は「クソガキが」と笑う。そして、俺から手を離した。
「勝手に苦しめばいい。そんで、さっさとあいつから捨てられてこい。そうしたら俺が拾ってやるよ」
返事する気にもならなかった。
俺は服を着直し、やつの前から逃げ出すように教会を後にした。
魔道士は追いかけてくることはなかった。
相変わらず、いけ好かないやつだ。最低で、人徳の欠片もないやつ。けど、そんなあいつにまで同情される自分がなによりも腹立った。
痛みは引いた。残ったのはどろりとしたどす黒い感情だけだ。
魔道士と二人でパーティーを抜ける。考えたこともなかった。……考えたくもなかった。
けど、あいつの言葉が頭にやけにはっきりと残っていた。それを振り払い、俺は近くの路地に飛び込んだ。
帰りたくないという気持ちは変わらない。このまま逃げ続けるのか、あいつが諦めるまで。
自分でもわからなかった。ずっと混乱してるみたいに思考がまとまらない。ただ、あいつに会いたくないという気持ちだけは自分でも理解できた。
……こんなことしたってどうにもならないとわかってるのに、あいつに会うのが怖い。
あいつがというよりも、あいつを信じられなくなった自分がだ。
薄暗い路地に身を隠す。息を潜め、近くの木箱に腰を下ろした。このまま夜を待つわけにもいかないとわかっていたが、それでもこの状態で帰ってもきっと俺はまともにあいつと話せないとわかった。
魔道士はどうするのだろうか、俺を見つけたと勇者に言うだろうか。同じ街にいる以上逃げ隠れするのも時間の問題だ。
――もう少ししたら、戻ろう。もしかしたらあいつの頭も冷えているかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、蹲る。
あいつと喧嘩したときはいつもそうだった。小さい頃、まだ平和だった頃は些細なことでしょっちゅう俺はあいつと喧嘩して、そして泣かせていた。その度に親から俺が怒られ、なんで俺ばかりと拗ねては村から離れた秘密基地に身を隠してたのだ。その都度、あいつは俺を探しにやってきた。『もう会えないかと思った』と泣きじゃくって謝ってくるのだ。まだ幼い頃の話だ。
それでも俺はよく覚えていた。
目を瞑れば昨日のことのように思い出す。それが、どうしてこんなことになったのか。あいつは俺が勇者と呼ぶのを嫌がっていた。
そんなことを考えていたときだった。
「おい、ガキ。こんなところで寝てんじゃねえ。邪魔だ!」
いきなり叩き起こされる。そこで自分がうとうとしていたことに気付いた。顔を上げればそこには柄の悪い男たちが数人いた。身なりからして商人とその用心棒か。どちらにせよあまり関わらないほうが良さそうだ。
「悪い、気付かなかった」
そう木箱から降り、素直に謝る。そしてさっさとその場を後にしようとしたときだ、「おい待てよ」と首根っこを掴まれた。
「その箱に入っていたのはうちの大事な商売道具なんだよ。お前がベッドにしてたお陰で駄目になってやがる、どうしてくれんだ?」
「…………」
ああ、と思った。予め木箱が廃材なのも空なのも確認していた。面倒なのに絡まれた。内心舌打ちをする。
「そりゃ悪かったな。廃材置き場にあったからいらねーもんかと思ったんだよ。まさかこんなゴミで商売してるやつがいるとは思わなかったもんでね」
「このガキ……」
「今度から気を付ける」
じゃあな、とそのまま大通りに抜けようとしたときだ。向かおうとしたその先、道を塞ぐように現れる男たちが現れる。
「……ッ!」
「お前、勇者様御一行の仲間だろ。……金持ってんだろ? 人の商売邪魔した分弁償すんのが筋だろ」
ああ、こいつら俺のこと知ってんのか。だから絡んできたってわけか。面倒だな、と腰に携えていた短剣に手を伸ばす。
そして、にじり寄ってくる連中から一歩引いたときだ。俺が短剣を抜くのとほぼ同時だった。
「お前ら何をしている!」
路地裏に響くその声に驚いて連中の視線が通りに向いた瞬間、確かに出来た隙きを狙って俺はリーダー格の商人の腹を短剣の柄で殴った。
「ぐっ!」と呻き、倒れるその男を味方のチンピラに向かって投げ付ける。そのとき、手首を掴まれた。大きくがっしりとした分厚い掌。
「こっちだ!」
――騎士だ。
道を塞いでいたチンピラを殴り倒したらしい騎士は俺の腕を掴み、そのまま通りへと引っ張っていく。咄嗟のことに俺は逃げるということを忘れていた。
「ここまで来たら追ってこないだろうな」
「……」
「……怪我はないか?」
「……ぁ、ああ……」
心臓がまだバクバクしてる。
長距離走ったわけでもない、それに相手はあんな素人みたいな連中だ。俺一人でもどうにかできた
それなのに、なんでこんなに心臓が煩いのか自分でも理解できなかった。
離れる騎士の手、そこでようやく自分がほっとするのがわかった。
「なんで、アンタがあそこに……」
「それはこっちのセリフだ。……姿が見えないと聞いたから皆で貴殿を探していたのだ」
そこにたまたま通りかかったというわけか。咄嗟に辺りを見渡した。大通りの脇、大勢の人間が通りかかる中、勇者たちの姿はない。
「勇者殿なら宿にいるはずだ。……貴殿がいなくなったとわかってから酷い取り乱しようだったからな、シーフ殿が『縛っておいた方がいいな』と」
「……そうなのか」
「勇者殿と何かあったのか」
向けられた目を俺は直視することができなかった。
「別に、大したことじゃない」
「なら何故そんな顔をする。……それに、勇者殿も辛そうだった」
「……それは」
「もしかして、自分のせいか」
一瞬、息が詰まりそうになった。
驚いて顔を上げれば、すぐ目の前に騎士の顔があって息を呑む。
「……シーフ殿から聞いた。その、勇者殿と貴殿が……親密な仲だと」
「っ、違う!」
気付いたら叫んでいた。人の目がこちらに向こうが、どうでもよかった。手足から血の気が引いていくようだった。
何故自分がこんなに動揺してるのか、俺自身もわからない。
「っ、ち……違うのか?」
「……違う、アンタが何を聞いたか知らないが、俺は……っ」
「……っ、わかった。……済まない、良くも知らないで口を挟んで」
適当なことを抜かすシーフに対する怒りもだが、それ以上にこの男に勘違いされたくなかった。
怒られた犬みたいにしゅんとする騎士に俺は何も返す言葉がなかった。おかしいと思われてるだろう。いくら鈍感とはいえ勘付かれてるかもしれない。そう思うとただ背筋に冷たいものが走るのだ。
「……勇者殿が心配をしている。そろそろ戻らないか」
それは子供を嗜めるときのそれだ。叱るわけでもなくそう優しく声をかけられ、ささくれだっていた心に僅かながらも平穏が戻ってきた。
それでも「嫌だ」と返せば、騎士は益々困ったような顔をした。
「……理由を聞いてもいいか?」
「……言いたくない」
「そうか、なら無理して言わなくてもいい」
騎士の手が離れる。釣られて顔を上げたとき、「少し待ってろ」と騎士が離れた。
まさかこのまま勇者を呼びに行くのではないかと思ったが、数分もしない内に騎士は戻ってきた。その手には子供用の焼菓子が入った袋が握られている。
「そこの屋台で買ってきた。……そろそろ小腹が減ってきたのではないか?」
「少し休憩しないか」と騎士は笑うのだ。
この男はやはり妙なやつだ。恐らく俺が駄々っ子に見えてるのだろう。けれどその気遣いが今は俺を余計息苦しくさせるのだ。
――落ち着ける場所で少し休もうか。
そういう騎士に連れられてやってきたのは町外れの広場だ。子供で賑わうそこは落ち着けるとは言えないが、きっとこの男からしてみれば落ち着ける場所なのかもしれない。
「美味いか?」
「……ん」
もらった焼き菓子を食いながら俺はただぼんやりと広場を眺めていた。
ありがとうというべきか俺は迷っていた。そもそもこのお節介男が全部勝手にやったことだ。そう思うのに断れない。この男の言動が全て善意からだとわかってるからこそ、余計。
「……あんたは、食べないのか?」
「ああ、俺はあまり甘いのは……。貴殿の口に合うのならよかった」
「勇者に突き付けないのか? 俺のこと」
「帰りたくないのだろう。ならば、貴殿が満足するまで自分はそれに付き合おう」
「……変なやつだな、あんた。お人好しだって言われないか?」
そう尋ねれば、「う」と騎士は言葉に詰まる。……わかりやすい男だ。
「騎士団に入りたての頃、お前は甘すぎると何度も叱られた。……あの頃からは大分変わったと自負していたのだが」
「だとしたら、昔のあんたはもっとお節介だったのかもしれないな」
「……貴殿までそう言うか」
項垂れる騎士。騎士の美徳だと思うのだが、それ故に苦労もしてきたのかもしれない。騎士には悪いが、少しだけ安堵した。この男が変わらずこうして接してくれることが有難かった。
「あんたは変わってるな。……こんなことバレたら勇者に……あいつに怒られるだろ」
「確かに、勇者殿は貴殿がいなくなってから大分憔悴しきっていた。……しかし勇者殿の側にはシーフ殿もついている。そう心配する必要はないだろう」
「それよりも、自分は貴殿の方が心配だ」それはあまりにもストレートな言葉だった。
「……それは、そうだな。アンタたちには迷惑を掛けた。……巻き込んで悪い」
「そういうことではない。……その、なんだ、以前にも貴殿は他の者とあまり上手く行っていないと言っていたから気になったんだ」
「……」
魔道士に聞かれていたあの会話のことだろう。
この男には新参者だからとつい愚痴ばかり言ってしまっていた。けれどそんな言葉まで気にしていたとは。申し訳なくなる反面、その言葉だけでここまで探しに来てくれたこの男に胸がざわついた。
「あんたには変な話ばかり聞かせて悪かったと思ってる。けど、そこまでして俺のことを気にする必要はないからな。……それで、他の奴らに見つけられる前にと探しに来てくれたんだろ?」
自惚れだと笑われるかもしれないが、出会ってまだ間もないがそれでもこの男の本質を知ってしまった。責任感が強く、真面目だと。魔道士には見つけられたあとだったが、それでも決して狭くはない街の中を探し回らせてしまったのだ。
罪悪感がないわけではない。
「悪かった」
「何故謝る」
「……俺とあいつの問題だ。あんたは巻き込まれただけなのに、無駄な真似をさせてしまった」
そうだ、これは俺とあいつの問題なのだ。
――そんな子供の喧嘩に俺はこの人を巻き込んでる。この男だけではない、他の奴らもだ。
そう思うと途端に恥ずかしくなった。純粋に心配かけたことに、余計。顔を上げることもできず俯いたとき、膝の上に置いていた手を取られた。驚いて顔を上げれば、騎士と目が合う。
「っ……自分は、確かに勇者殿に言われて探しに来たが……それだけではない」
「……っ、え……」
「き……き、貴殿のことが、心配だったから」
「それは、悪かった。けど、大丈夫だ。……あんたのお陰で決心着いたよ」
ちゃんと戻ってあいつと話す。
……どうなるかわからない。けど、これ以上逃げたところで余計悔しさが残るだけだ。それならばいっそのこと言いたいことはぶち撒けるしかない。それでもわかり会えなければ、そのときだ。
そういう風に思えたのはきっと騎士のように純粋に心配してくれる人間がいるからだろう。
けど、騎士の手は離れない。手首を覆うように掴むその大きな掌は離れないのだ。
「……騎士?」
なんとなく不審に思って相手を見上げたときだった、熱を持った手のひらは更に強く俺の手を掴んだ。そして。
「貴殿には、無理をしてほしくない」
「……っ」
「妙なことを言ってる自覚はある。……が、本心だ。俺は、貴殿が無理して笑うのを見ると――辛い」
どくん、と心臓が跳ねる。熱い。
子供たちの声が遠く聞こえた。まるで世界が切り離されたみたいに音が止んだのだ。聞こえるのは俺の鼓動と、この男の脈だけだ。
「スレイヴ殿」と、名前を呼ばれた瞬間、全身の血液が一気に熱くなる。
「っ、あんたは、やっぱ変だ」
「……そうだとしても、放っておけない」
「あんたのそれはお節介だ、……俺に負い目を感じてるからそう思うだけだ。あんたがそこまで俺のことを気にする必要は……っ」
ないはずだ、という言葉は遮られた。背中に回された腕。抱き締められていると気付いたのは体が動かなかったからだ。アホのガキが遠巻きにこちらを見て指差してるのが見え、咄嗟に「騎士」と胸を叩くが分厚い胸元はびくともしない。
けれど、先程よりも近くなった鼓動は確かに激しくて。
「……っ、ぉ、おい、何やって……」
「負い目とか、そうではない。……俺は、っ……」
「っ、騎士……?」
「……俺は……ッ」
肩を掴んでくるその指先に力が籠もる。
痛いというよりも、それどころではなかった。目を反らすことすらできなかった。全身に騎士の熱を浴び、感じ、息が苦しくなる。
見詰められ、名前を呼ばれると甘いものがゾクゾクと背筋に流れるのだ。
「――……スレイヴ殿」
辛そうに何度も俺の名前を呼ぶ。唇に吐息がかりそうなほどの距離だった。穏やかな陽気が包み込む中、がっしりと抱きしめられたまま俺は動けなくなっていた。そんなときだった。
「お熱いねえ、お二人さん。……けど、そういうのはこんなところじゃなくて宿屋じゃないと駄目だろ?」
騎士の唇が動くよりも先に、背後から声が聞こえてきた声に背筋が凍った。振り返ればそこにはニヤニヤと笑うシーフが立っていた。
俺の体を離した騎士は真っ赤になって「シーフ殿」とやつを呼ぶ。
「いやー場所は考えねえと危ねーぞ。……それとも、周りが見えなくなるほどだったか?」
「す、済まない……その」
「あー、皆まで言うなよ。安心しろ、俺は別に邪魔しに来たわけじゃねえんだ。けど、あいつがいなくてよかったな。今の見られてたらきっとまたあいつ怒り狂ってただろうな」
……最悪だ。最悪だ。よりによってこの男に見つかるなんて。別に、やましいことなどない。――ないはずなのだ。
そうわかってても、ニヤニヤと笑うやつの目が嫌だった。騎士から離れ、逃げようとすればいつの間にかに側にまでやってきていたシーフに「おっと」と腰を抱かれる。
「逃げるなよ、雑用ちゃん」
「っ、離せ……」
「そうしてやりたいのは山々なんだが、本格的にうちのリーダーが使えなくなりそうなんだ。そろそろ機嫌直して帰ってきてもらうぞ」
「……ッ!」
「シーフ殿、いくらなんでそれは強引では……」
「おっと。ナイト、悪いがこれはうちのパーティーの決まりなんでな。……ま、こいつもガキじゃねえんだ。あとのことは当人たちに任せりゃいいんだよ」
「だが……」
「良いんだ」
もう、良いんだ。そう口の中で繰り返す。
騎士は何か言いたそうだったが、俺は観念することにした。
元よりこれ以上逃げられるとは思っていなかった。
「もう十分頭は冷ました。……迷惑かけたな」
「……スレイヴ殿」
「おーおー随分と物分りいいじゃねえの。……新しい彼氏にいっぱい甘えて欲求不満が解消されたのか?」
耳元で下卑たことを繰り返すシーフに頭にカッと血が上った。お前、と掴みかかろうとしたとき、騎士に見えないところで尻を揉まれるのだ。
「……ッ!」
「まあいいや、あとでちゃんと聞かせろよ」
引き剥がそうとすればすぐにやつの手は尻から離れた。けれど、再度腰を抱かれる。
「それじゃ帰るか。……ほら、歩けよ」
「なら手を退けろ。……歩きにくいんだよ」
心配そうにこちらを見てる騎士。余計なことを気取られたくなかった俺は、シーフが調子に乗り出す前にさっさと宿屋に向かって歩き出した。
最悪だ。最悪だ。最悪だ。繰り返す。
そうでもしなければ自分を保つことができなかった。
応援ありがとうございます!
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