天国か地獄

田原摩耶

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√β:ep. 4『日は沈む』

16※

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 どれ程の時間が経っていたのだろうか。
 荒く扉が開かれる音が聞こえ、体が震えた。阿佐美はこんな乱暴に扉を開けない。
 ならば、今入ってきたのは……。

「いつまで寝てんだ、さっさと起きろよ」

 ユウキ君、と髪を掴まれ、半ば強引に体を引き上げられる。突然体を起こされ、腹部に走る突っ張るような激痛に耐えられず腰を引くが、やつはそれを無視して俺を立たせたのだ。

「う……ッ」
「ひでぇ面だな。あんだけ寝てんのにまだ寝たりねえのか」

 阿賀松伊織は珍しく機嫌がよかった。
 その理由なんてわかってるくせにわざとらしいその言葉に俺は何も答えることはできなかった。
 その代わり、きゅるる、と情けない腹の音が響く。
 血の気が引いた。いくら阿賀松の前だとしても体ばかりはどうにもならない。内臓と腹の皮がくっついてしまったかと思うほどの空腹に耐え切れずにいると、その音はばっちりと阿賀松の耳にまで届いていたようだ。

「……なんだぁ?腹減ったのか?ユウキ君」

 質問に答えないでいるとこの男はキレることは分かっている。恐る恐る頷けば、阿賀松はふ、と破顔するのだ。

「詩織ちゃんから何も食わせてもらってねえのかよ。可哀想に。……仕方ねえな、食わせやるよ」

 ニヤニヤと笑う阿賀松。
 背筋に嫌なものが走ったが、空腹には逆らえうことができなかった。
「ちょっと待ってろ」とだけ言うと、阿賀松は部屋から出ていく。その後を追おうとして、やめた。体力もない、体にはろくに力も入らない。こんな状態で逃げ出したところで阿賀松に見つかってしまうのが関の山だ。
 ……利用できるものは利用しなければ。
 そう自分に言い聞かせ、俺は阿賀松が戻ってくるのを待った。

 数分後。
 部屋の扉が再び開き、阿賀松が戻ってきた。
 その手には紙袋が握られてる。そしてもう片方の手には大きめの銀皿だ。

「よおしよし、ちゃんと大人しく『待て』してたみてえだな」

 鼻歌交じり、上機嫌に笑う阿賀松は手にしていた銀皿を俺の目の前に置いた。そして、手にしていた袋から何かを取り出した。
 犬の写真が映り込んだパッケージ、それを破いて開けた阿賀松は中に入っていたそれを俺の目の前でざらざらと皿に出すのだ。
 それがなんなのか、俺はわかった。わかってしまった。

「腹、減ってんだろ?……ほら、食えよ」

 犬の餌を差し出され、目の前が真っ暗になる。
 少しでも本当に阿賀松が、と信じた数分前の自分をぶん殴ってやりたかった。

「どうした?……人がせっかく用意したのに食えねえってか」
「っ、……」

 食べられるわけがない。乾燥してるとは言えど匂いも人間のものとは思えない獣のような生臭さに耐えられず息を止める。
 動けなくなる俺に、阿賀松は苛ついたように俺の頭を掴む。食い込む指にぎょっとした次の瞬間、半ば強引に餌入れに頭を押し付けられるのだ。

「っ!ぅ、ぐ……ッ!」
「ほら、さっさと食えよ。……テメェは犬だろ?犬らしく口で食べろ」

 一粒でも残したら許さねえぞ、と阿賀松は笑う。鼻先に当たる硬い固形の感触に、息を止めてても貫通して臭うその生臭さに吐き気を覚える。山のように盛られたそれを感触する。
 想像しただけでも胃が苦しくなる。嗚咽までも堪えることができなかった。

「……早くしろ。それとも俺に食べさせろってか?」

 動けないでいると、ドッグフードを鷲掴みした阿賀松はそのまま俺の口元に押し付けてくるのだ。口を開けないでいると、もう片方の手に無理矢理口を抉じ開けられる。拒否しようとしても駄目だった、開いた口の中、ぼろぼろとドッグフードを落としながらも半ば強引に押し込められるそれに息が止まる。
 臭い。酷い匂いだ、動物の匂い。それなのに、味がしない。硬いそれを吐き出そうとする暇もなく太く長い阿賀松の指に喉奥まで押し込まれた。

「ぉ゛ッ、う゛ぇ……ッ!」
「ちゃんと噛めよ?じゃねえと、すーぐ腹いっぱいになんだろうが」
「ぎ……ッ!」

 顎を押さえられ、強制的に咀嚼を促される。どんどんと口の中に放り込まれるドッグフードに吐くどころか、俺が飲み込むまで顎を閉ざされてしまえば飲み込むことも吐くこともできずただ止めどなく溢れそうになる吐き気に耐えられずに生理的な涙が滲む。無理だ、これ以上は。そう舌で喉を塞いで堪えようとすれば、こちらを見下ろしていた阿賀松の目が冷たくなっていることに気付く。そして。

「お前……俺の飯が食えねえってか?」

 まずい、と思ったときには遅かった。鼻を塞がれ、口も塞がれ、呼吸が止まりそうになる。逃げ場のないその悪臭に嗚咽しそうになるが、新鮮な空気を求めることすらも許されない。阿賀松の腕を掴み、藻掻く俺にただ阿賀松は冷たい目を向けるのだ。

「ぅ゛……ッ、ぐ、……ッ!ぉ゛う゛ッ!

 ざり、としたものが舌の上を転がる。苦しい。これ以上は、本当に……。
 俺は生きることに必死だった。これ以上阿賀松の機嫌が悪くなる前に、俺は口の中の異物をなるべく意識しないように唾液と一緒に丸呑みするのだ。それでも一気に飲み込むには無理な量だ。ごろごろとした小石のようなそれらが舌の上を転がり、器官を刺激しながら胃に落ちていくのを堪えた。俺の喉仏が上下するのを見て、阿賀松は満足そうに笑うのだ。そして、やつは俺から手を離す。

「まだまだお代わりはあるぞ。……たくさん食えよ?ユウキ君」

 犬の匂いが口に広がる。涙を拭うこともできなかった。
 口を閉じることも出来なかった。
 胃の中では固形が擦れ合う感触がする。無理矢理喉へと流し込み、目の前の犬の餌を完食した俺を見て阿賀松は満足げに笑うのだ。

「まじで食いやがった。そんなに美味かったか?」

 そんなわけがないだろう。阿賀松さえいなければ今すぐ喉奥に指を突っ込んで全てを掻き出したいぐらいだ。それでも、そんなことを言えるわけがない。
 震える指先をぎゅっと握り締め、数回小刻みに頷けば阿賀松は笑う。
 そして、顎を掴まれた。

「じゃあ笑えよ」
「……っ」
「俺がわざわざ飯用意してやったんだぞ、お前なんかのために。なら、もっと嬉しそうにしろよなぁ?……ユウキ君」

 顎の下、食い込む指先にひくりと喉が震えた。
 吐き気を堪えることで精一杯で、表情のことなど気にする余裕などあるはずもない。
 それでも笑えというのだ、この男は。

「……っ、お……いしい……れす」

 強張ったように突っ張った表情筋を無理矢理動かし無理矢理笑みの形に歪める。
 びりびりと痺れるような違和感を覚える舌。あまりの口内の異臭に耐えられず、閉じることもできない口の中からは唾液がたらりと溢れた。
 それで満足したのかはわからないが、ふん、と鼻を鳴らして口元を緩めた阿賀松は俺を振り払うように手を離した。

「……つまんねえな」

 あ、とひやりと背筋が凍りついた。
 満足したわけではない。この男。そう理解した瞬間、俺は無意識に後退った。けど、遅い。
 いきなり前髪を掴み上げられ、全身の筋肉が硬直する。目の前には冷めた阿賀松の目。そして。

「お前プライドねえのか?それとも、よっぽど死にたくねえのかよ」
「……っ、ぅ、ぐ……っ!」
「イライラすんだよなぁ、そういうやつ。……少しくらい楽しませようって気はねえのかよ」

 ぶちぶちと頭皮から髪が引き抜かれる音が聞こえてくる。痛みよりも恐怖で引き攣った体。殴られる、咄嗟に腹部の傷を庇おうとしたとき。阿賀松の視線が落ちる。
 そしてやつは笑った。

「っ、は……おい、何隠してんだよ」
「……っ、ご、ごめんなさ……」
「腹の傷、見せろよ」
「…………っ、ぇ……」
「早くしろ」

 なんで、意味が分からない。
 それでも、従わなければ何されるかわからない。でも、阿賀松は言うことをなんでも聞く俺に苛ついている。それに、これ以上腹の傷が開くような真似をされればどうなるかわからない。汗が滲む。腹を庇ったまま動けなくなる俺に、阿賀松は舌打ちをした。
 瞬間、視界が大きくぶれる。遅れて音が遠くなり、頬に焼けるような痛みが走った。
 殴られたのだと気付いたときには遅かった。
 前髪を離した阿賀松。その指の隙間からぱらぱらと落ちる髪の毛を見てただ血の気が失せていく。

「早くしろ。……苛つかせんじゃねえよ」

 取り出した煙草を咥え、火を着ける阿賀松にどんどん体の熱が引いていくのがわかった。ぶるぶると手足が震える。力が入らない。
 舌を焼かれたときの記憶が蘇り、下腹部にじんわりと嫌な熱が集まるのだ。

「ぁ……っ、は……」

 口の中が乾く。怖い。誰か。助けてくれ。阿賀松が吐き出した煙で部屋の中は白く濁っていく。空気も、何もかもが淀んでいく。

「何もたついてんだ」
「ゃ、やります……っ!やりますから……」

 ぶたないで下さい、という言葉は声にならなかった。
 促されるがまま、俺はもたもたと着ていたシャツの裾を持ち上げる。
 露出する腹部。両手も塞がった今、無防備も同然だ。
 俺を見下ろしていた阿賀松は深く煙を吸い、そして鼻から煙を吐き出し笑った。

「もっとだ」
「……っ!」
「そんなんじゃ見えねえだろ。……さっさとしろ」

 頭の奥がじんじんする。
 殴られたことだけが原因ではないはずだ。玉のような脂汗が流れ落ちるのを拭い去ることもできないまま、俺はゆっくりと裾を持ち上げる。肋が見えるほどの位置でも阿賀松は促す。「まだだ」と。言われるがまま恐る恐ると持ち上げ続ければとうとう腹を越えて胸までが見える位置まで露出する結果になる。

「っ……」
「…………」

 こう、ですか。という言葉すら声にならない。
 煙草を咥えたまま、俺の体を舐めるように見ていた阿賀松にただ汗が止まらなかった。
 そしてやつは片方の手で俺の腹部に触れるのだ。
 包帯越し、傷口に触れる阿賀松の指先に恐怖のあまり上半身が跳ね上がる。
 バクバクと脈打つ心臓はまるなで時限爆弾のようだった。

「……痛いか?」

 そう訪ねてくる声は酷く優しく聞こえたのは恐らく錯覚だろう。痛くないわけがない。阿佐美が様子見ついでに薬をくれたが、それも今はその効果は薄れている。
 先程殴られた頬がじんじんと頬が腫れるのを感じながら俺は「はい」と頷いた。阿賀松は笑う。そして何を思ったのか阿賀松は咥えていた煙草を手に持つのだ。まるで印鑑を手にしたようなその持ち方に、条件反射で飛び退こうとするが俺の腰を掴んだ阿賀松によってそれすらも妨げられる。

「……なあ、ユウキ君。なんで逃げんだ?お前は俺の言うことなら犬の餌でもなんでも食えんだろ?」
「っ、ご、めんなさいっ、先輩……ごめんなさい……っ」
「謝んなよ、お前のその声うぜえから」
「……っ!ぁ、ひ……っ!」

 数ミリ単位、少しでもぶれれば傷口に触れるほどの至近距離。タバコの先端を向けられ、ぱらぱらと落ちる灰に包帯が焼けるような匂いが広がる。
 震えが止まらない。心臓も、壊れそうだった。
 そんな俺を見て阿賀松は楽しそうに笑うのだ。

「おい、まーた漏らしてんのか?……最近緩くなんてんじゃねえのか?お前の下半身」

 じんわりと熱が溢れる。自分が漏らしていると気付いたのは下腹部から足元まで腿を伝い流れ落ちる液体が水溜りを使っていたからだ。
 最早下半身に感覚などなかった。
 広がる薄黄色の水溜りを見て阿賀松は笑うのだ。

「ご、めんなさ……っ」
「……くっ、はは、そうか。そんなに怖えのか?……こんなもんが。そりゃ悪いことしたな」

 再びタバコを咥えた阿賀松は笑う。
 嫌な笑みを携えたまま、俺を見下ろすのだ。

「今のお前の面で勃起した。なあ、しゃぶれよユウキ君」

「お前がちゃーんとよくしてくれたら、今度は焼かないでやるよ」そう嗜虐に溶け切ったその目でこちらを見下ろす阿賀松に、俺は逆らうことなどできなかった。
 薬品の匂い、アンモニア臭、ヤニ、獣の匂い。汎ゆる悪臭に吐き気を覚える暇もなかった。
 しがみつくように阿賀松の前にしゃがみ込み、ただ俺は夢中になって性器を取り出すのだ。口いっぱい喉まで頬張ろうとする俺を見て、「がっつきすぎだ」と笑う阿賀松の声が口の中に響く。
 こんな姿、裕斗や芳川会長に見せられるわけがない。
 それでも、無様だろうがみっともなかろうがこんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
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