天国か地獄

田原摩耶

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√β:ep. 3『王座取りゲーム』

28【side:十勝】

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 明らかに歯車が噛み合わなくなりだしたのはいつからだろうか。
 ごく最近からのようにも思えるし、一年前から……俺たちが出会った頃からのようにも思えた。
 楽しければよかった。面倒なこともあったけど、それでも皆といる時間は楽しかったし自分の中では掛け替えのないものになっていた。
 今の会長に生徒会に誘われたとき、『なんで俺が』と思った反面、正直言うと嬉しかった。
 自分自身に出来ること、自分の存在とその必要性。
 幼い頃から定められた将来へと向かう途中、残り少ない自由な時間をどう使えばいいのか決め倦ねていた。
 暗中模索。どれだけ遊んでいても、胸の中の焦燥感は増すばかりで日に日に焦れったい思いに胸焦がしていた矢先に生徒会書記として誘われた。
 なぜ、俺が。勉強だって得意ではない、生徒の模範になれるような品行方正な人間でもない、それなのにそんな俺に声を掛けてきた会長が不思議で不思議で仕方なかった。

『お前の字が好きだ』

 疑義の念を抱く俺にそう会長はそれだけを告げた。
 お世辞を言うタイプではない、どちらかと言えば歯に衣着せぬ物言いをする会長に褒められただけで認められたような気がして、嬉しかった。

 生徒会役員となって様々な特権を手に入れると引き換えに、面倒なこともその倍増えた。
 それでもなんだかんだ上手く行っていたと思う。
 最初こそ慣れないことばかりで毎日のように会長たちに怒られてたし、全生徒会役員と比べられることも何度もあった。
 それでも危うかった均等を保ち、不安定だった足場も会長は実力と時間を掛けて強固なものへと作り変えていく。

 学園内で起きた問題に介入し、解決するような真似もした。困ってる生徒を見つければ積極的に声を掛け、学園に設置した生徒会宛ご意見箱に寄せられた意見一通一通読んではそれに応えるように動いた。
 慈善活動も生徒会の仕事になるのかと呆れたが、人から感謝されて悪い気はしない。そんなボランティアを繰り返して信頼関係を築き上げ、地盤を固めていった。そしてようやく今の状況が出来るのだ。

 いつからだろうか、慈善活動の真似事はしなくなった。ご意見箱も和真が定期的に確認してるようだが、その後どうなっているのかはわからなくなっていた。
 それでも、熱狂的なファンみたいな生徒は増えていく。
 今となっては慣れたものだが、当時の俺が今の状況を見たらどう思うのだろうか。引くのだろうか。喜ぶのかもしれない。けれど今の俺は何も感じることはなくなっていた。
 だから、今回のことは久し振りにガツンときた。頭を殴られたような衝撃と、足元が崩れるような感覚。

「生徒会を……リコール?」

 声が、無意識に震える。
 生徒会室内、五味さんと栫井、和真と……それから志木村さん、八木さん。主不在の生徒会室の中はいつもに増して静かで、それでいて酷く重苦しい。理由は分かっていた。

「リコールって、なんだよ、いきなり。……おかしいですよね、別に何もしてないってのに」
「まあ、あくまで一部の生徒でそういう声が上がってるということですよ。……規則を守れない生徒会長を携え、それを擁護している生徒会役員たちも同罪だと」

 志木村さんの声は優しいが、その分余計冷たく声が響く。
 咄嗟に、俺は他の皆の反応を見た。五味さんは目を瞑ったまま、何かを考えてるようだ。栫井はどこか床の隅を見てる。和真は、相変わらずの無表情のまま志木村さんを見ていた。
 八木さんは――。

「つか、この場に肝心な会長さんがいないってのがそもそも問題だからな。……随分とご執心のようだな。俺達よりも大切ってか?そりゃ苦言も呈されるわけだ」
「……あいつは、今日は具合が悪いから休むと連絡があった」
「仮病じゃないって証明もできないんだろ?」
「どちらにせよ彼の欠勤は今日に始まったことではないでしょう。生徒会長としての役割も果たせていないのなら指摘されても無理もない。……それに、部屋に『彼』もいるとなると……正直、疑ってくださいって言ってるようなものではありませんか」

 二人の指摘に、五味さんは「そうだな」と肩を竦める。言い返す言葉もないといった様子だ。その顔は酷く疲れているように見えた。

「齋藤のことは、俺の方からも何度か言っている。……とにかく、もう少し時間をくれ。ここ最近いろいろなことがあってあいつも色々なことに過敏になってるんだよ」
「過敏ねえ……別に僕たちは構いませんが、外野がどれほど待ってくれるかではありませんか?……何やら芳川君……会長さんの親衛隊から声が上がってると聞きましたけど。非公認とは言えど、数には僕たちでさえ適うことはできませんからね」
「確かにな。……飼い猫に手を噛まれるのが一番厄介だからな。……風紀にまでこんなものが届いてたぞ」

 言いながら八木さんは封筒から用紙の束を取り出し、置いた。
 それを手にした五味さん。その手元の書類を覗き込み、ぎょっとする。

「これって……」
「署名だよ。……生徒会長リコールの署名。そこに載ってる名前のやつら皆が芳川のリコールを望んでる。……それと、あんたらにはこっちのが堪えるだろうな」

 言いながら八木は別の書類を置いた。ぐしゃぐしゃになったそれをそっと手に取り、俺は言葉を飲む。

「生徒会リコール?」
「……騒ぎに便乗してる連中の仕業だろうが、それにしてもこれだけ集めてんだから大層なことだ。……よっぽど暇なのかもしれんな」
「……っ、なんだよ……これ……」
「この署名を理事長に提出するとなれば流石に芳川君が議会に掛けられるのを免れるのは難しいでしょうね」

 名前の中には見覚えのある名前もちらほらある。
 生徒活動の一環で慈善活動をしていたとき、何度か助けた連中の名前を見たときは腸が煮え繰り返りそうになった。
 会長への恩義もないのかこいつらは。そう思うと、無意識に署名を握る手に力が籠もってしまう。このまま破り捨てたいところだったが、この男のことだ、どうせコピーを取ってるのだろう。

「とにかく、身の振り方を考えろよ。……お互いな」

 本来ならばいないといけない人物がいない話し合いはすぐに終わった。
 けれど、志木村さんと八木さんが帰ったあと、暫く俺はその場から動けずにいた。何度も署名を見比べていた。筆跡も、同じ人間がただ書いたようには見えない。本当に、ここにある名前のやつらが会長のリコールに賛同している。その事実を俄受け入れることができなくて、粗を探そうとしたが見つからない。

「……っ、なんだよ、これ……クソ……っこいつら何考えてるんだ?誰のお陰でこの学園でまともに生活できてると……っ!」

 腹が立った。遣る瀬無い。他の生徒が過ごしやすいようにどうすれば問題がなくなるのか、そんなことを日夜話し合っては毎晩見回りしてたことがバカバカしくなって……肩を掴まれる。

「落ち着け、お前まで荒れてどうすんだよ」
「……っ、五味さんは……悔しくないんすか、こんな……」
「何も感じないって言えばそりゃ痩せ我慢になるだろうけどな、火のないところに煙は立たねえだろ。……連中が指摘するのも最もなんだよ。確かに今のあいつ――会長はまともじゃない」
「五味さんまで、そんなこと言うんですか?会長は、佑樹のことを心配して――っ!」
「別に心配するなとは言わねえ、その限度の話だろ。……以前のあいつなら生徒会長としての仕事を全うしていた。けれど、今はあまりにも偏ってる。それに、齋藤がまったく顔を見せないのも余計周りを不安にさせるんだろうな」

 栫井も、和真も俺たちの会話をただ聞いていた。否定も肯定もしない。
 ……五味さんの言ってることは変なことではないとわかってる。あくまでもそれは一般論だ。
 けれど、俺は会長の気持ちもわかった。
 佑樹がどんな目に遭っていたか俺は知ってる、見てきた、だからこそ、会長が恋人である佑樹を人前に出そうとしないのも分かる。だってそうだろう、俺だって好きな子が危ない目に遭うかもしれないと分かってて一人で出すような真似、絶対無理だ。
 けれど、五味さんはそれを理解してない。というよりも、やりすぎだという。
 きっとこれは実際に見て感じた人間にしか分からないのだろう。噛み合うことのない平行線のやり取りは不毛でしかない。

「……とにかく、あいつらの言っていた通りだ。今は下手な行動言動は控えろ。……芳川には俺から話をつけておく」
「分かりました」

「……」

 五味さんの一言でその場はお開きとなったが、胸の中にできた蟠りは燻ったままだ。俺は頷くことができないまま、生徒会室を出た。五味さんたちの視線が痛かったけれど、それでも、納得したくなかった。……しょうもない意地だと思う。
 その足で、会長に連絡した。電話には会長が出る。今日の話し合いの内容を告げれば、会長はあくまでも冷静だった。

『言わせたいやつに言わせておけばいい。……最低限のことはしているはずだ。それと十勝、後ででいいからその署名を持ってきてくれ』
「了解です。一応五味さんが持ってたと思うんで、後で借りてきますね」
『ああ、頼んだぞ』

 会長は、会長だ。何も変わってない。周りは会長は人が変わったと言ってるが、本質を見ていない連中ばかりだ。だからこそ、五味さんがそんなやつらと同じことを言うのがショックだったのかもしれない。
 けれど、会長が冷静でいてくれたおかげで俺も大分冷静になれたところはあった。

 会長に署名を渡し、それから数日経った日のことだ。
 いつもよりも早く生徒会室に訪れれば、既に中から声が聞こえてくることに気づく。
 聞き慣れない声に、そっと扉を開いて覗いた俺は息を飲む。
 亮太の兄、もとい元生徒会長の志摩裕斗と志木村さん、そして五味さんがいた。
 ソファーに向かい合って話していた三人の会話の断片が耳に入り、疑った。

「齋藤佑樹を保護した」
「明日の会議に掛ける」
「それまで齋藤佑樹は預かる」

 そんな不穏な会話が聞こえてきて、居ても立ってもいられなかった。

「どういうことっすか、今の話」

 扉を開き、五味さんに詰め寄れば、五味さんは面倒くさそうに溜息を吐いた。なんだその反応は。面倒なやつに見つかったと言いたげなその態度がムッと来て、五味さん、と詰め寄ろうとしたところを「まあまあ」と割って入ってきた志木村さんにやんわりと押さえられる。

「十勝君……勝手、というのは少し語弊がありますね。……僕たちは前々から忠告はしてたはずです。……このままでは自分の首を締めるだけだと」
「……っ、佑樹は、あいつはなんて言ってるんですか……本当に会長に暴力されたとか、そういうこと言ってるんですか?」
「本人は口では頑なに認めようとしないし、芳川に対するあの怯え方からして一目瞭然だ」
「っ、そんなの決めつけじゃ……」
「それと、彼の全身には夥しい数の生傷があった。……古傷ではない、ここ最近できたものだろうな。服を着てたら目につかないが、制服の下は蚯蚓腫れとアザで目も当てられない」
「待てよ……あんた、脱がせたのか?!」
「……」
「っ、最低だな……」
「……不本意だった。傷が目に入ったから念の為確認しただけだ。……彼には悪かったとは思ってる」

 少しだけ、痛いところを突かれたかのように表情を変える志摩裕斗。この男にも人間らしい感情があることに驚いたが、それ以上に良くも知らない男相手に体を見られる佑樹の気持ちを考えると酷く気分が悪かった。
 脳の奥で火が燻るように熱くなる。
 けれど、もし、志摩裕斗の言ってることが本当なのだとしたら……。考えてはいけないと思っていても、阿賀松伊織と芳川会長がダブって見えて、酷く気分が悪かった。

「ともかく、実際に彼の服の下には夥しい傷跡がありました。それは僕も見てます。……彼が芳川君に『軟禁』されていた時間を考えてそれが『誰が付けたものなのか』なんて自明の理。見事な役満ではありませんか」
「……っ、けど」
「……これでもまだ、彼を庇うつもりか?……生徒会ぐるみで生徒会長の行いを隠匿し、擁護する。それがどう意味するのか深く考え、発言した方がいい」

 志摩裕斗の言葉が、静かに胸の中に落ちる。
 五味さんは、何も言わない。先に聞かされていたのかもしれない。ただ二人の言葉を聞き、何かを考え込むように押し黙っていた。それが、余計もどかしかった。
 そんなことない。そう言い返したいのに、今の状況では会長が疑われても無理もない、というのが本音だった。
 違うと言いたいのに、あまりにも証拠が揃いすぎている。
 会長を庇えるような材料が、俺の手元には何一つなかった。



 それからは、すべてが一転した。
 会長のリコール問題が議会にかけられたことが発端となり、どこから漏洩したのか瞬く間に会長のことが学園中の噂となる。
 恋人思いで清廉潔白、全校生徒の代表者である会長が実際は裏で恋人であるはずの生徒を軟禁し、暴力を振るっていた。
 まるでそれは火をつけたかのように生徒たちの間であっという間に広がり、口々に話題されるそれには尾ひれはひれがついていく。そしてスキャンダラス好きによって面白おかしく誇張されていき、最早どれが事実でどれが虚像かもわからない。

 中には勿論会長を庇うような声もあった。
「そんなことをするわけがない」「勝手な噂だろう」そんな声は大きな声に掻き消されていく。
 最初は、一つ一つ訂正していったが最近ではキリがなくなっていた。「何も知らないくせに、部外者のくせに」と言い返す度に、その言葉が自分へと突き刺さるのだ。
 ……何も知らないのは、俺も同じだ。
 あの部屋で、会長と佑樹の間にどんなやり取りがあったかもしれない。知ろうと思えば知れたかもしれないが、実際、こうして問題が大きくなるまで俺は見てみぬふりをしていた。会長のすることに間違いがないと、会長に従うことが正しいことなのだと。そう、どこか他人事でいたからだ、行動に起こすことはしなかった。
 身から出た錆とはまさにこのことだろう。

「会長は裏で気に入らない生徒を自主退学まで追い込んだこともあったらしい」
「暴力を振っていたのは例の二年だけではない」
「中では生徒会も加担してたという」

 まことしやかに囁かれる噂は会長自身から生徒会へと広がっていく。流石に直接言われるわけではないが、嫌でも耳に入ってくるのだ。周りの見る目が変わる。
 その頃にはいちいち腹を立てることもなくなっていた。
 ただ、いくらどれほど身を費やして取得した信頼も全て呆気なく崩れていくの見て、バカバカしくなった。
 どうせこんなものかと。わかっていたことではあるけど、それでもどこか人の心を信じたい気持ちもあったのかもしれない。

 五味さんも和真も栫井も、腹を立てることはなかった。
 最初から三人はこうなることを分かっていたかのように諦めていた。勝手に言ってろとでも言うかのように、会長がいなくなった生徒会室で日々の業務をこなすだけだった。
 会話もない。元々他の奴らは喋る方ではなかったが、状況が状況なだけに呑気にお話する気にもなれなかったのだろう。

 生徒会の書類仕事はあまり好きではなかった。
 けれど皆といる時間は正直、楽しかった。変に気を張る必要もなくて、たまに会長に怒られたりもしたけれどそれでもダラダラと話すのは楽しかった。
 ……けれど今は。

 一人が不在なだけでここまで変わるものかと思った。
 まるで見えない分厚い壁に遮られてるかのようだった。まるで、他の皆が考えてることがわからない。

 五味さんは、志摩裕斗たちの話を信じてるのだろう。
 栫井はわからない。一番騒ぎそうなやつのくせに、まるで最初からこうなることを分かっていたかのように冷静を保っていた。……最低限の仕事を済ませてはすぐに生徒会室を出ていくようになり、裏でこいつが何をしてるのかは謎だ。
 ……ただ唯一、和真だけは。

「本当に加害者なのは会長なのでしょうか」

 五味さんと栫井が帰ったあとの生徒会室。
 そんなことを言い出す和真に思わず俺は顔を上げる。
 卓上に広がっていた書類を整頓していた和真と目があった。

「何、言ってんだよ……いきなり」
「齋藤佑樹が会長を陥れるために仕組んだ罠だという可能性がゼロではない、という意味です」
「待てよ、和真……それじゃあまるで佑樹が悪者みたいな言い方じゃないかよ」

 自分で言って、ハッとする。
 和真が何を考えてるのか、それを理解した瞬間嫌な汗が額から流れ落ちる。
 室内の温度が下がった気がするのは、冷房だけのせいではないだろう。

「齋藤佑樹は阿賀松伊織たちと通じている。そして現に何度も会長を裏切った。……ならばそう考えるのが通りではありませんか」

 和真の意見は、根本を覆すものだ。それを理解した瞬間、今度こそ自分が信じていたものが心の奥底で崩れていくような気がしてならなかった。

 全部が佑樹の策略で、会長を嵌めるための罠だった。
 和真はそう言うのだ。
 そんなわけがない、あいつはそんなやつではない。そう言いたいのに、口が動かない。最早、何を信じていいのかわからなかった。
 脳裏に阿賀松伊織に抱かれる佑樹が過り、咄嗟に口を抑えた。……吐き気がする。汗が止まらない。
 和真の言っていることが本当だとしたら。
 佑樹は最初から、会長を陥れるつもりだったとしたら。
 困ったように眉尻を下げ、目を伏せるだけの控え目な笑顔が過る。今ではもう見なくなっていたあいつの笑顔を思い出す。
 全部が、嘘だと……演技だとしたら。

「……あいつは、そんなやつじゃない」

 ようやく絞り出した声は、酷く震えていた。
 自分の声が自分のものではないように響いた。
 口にすれば確信できると思ったのに、寧ろその逆だ。

「……本当に、ないと言い切れますか」

 覗き込んでくる二つの黒い目に、心臓が締め付けられるようだった。
 疑いたくなかった。考えたくもなかった。
 けれど、和真の言うとおりだ。俺にはそう言い切れるほどの確証はなかった。

 実際、会長は言っていた。佑樹が阿賀松伊織に脅されていたことを知っていた。その上で佑樹に手を差し伸べ、協力するために表面上恋人を演じたという。

 それすらも阿賀松と佑樹の計画の一部だとすれば?
 軟禁させるように煽ったのが佑樹だとすれば?
 ……恋人のフリをしている内に、会長が一度も恋愛感情を抱かなかったという証拠は?
 だとすれば、状況は大きく変わる。
 全てを踏まえ、阿賀松伊織が会長を失脚させるために仕組んだ舞台だとすれば。
 そう考えた瞬間、寒気が走った。

「……和真は、佑樹が裏切ったって思ってるのか?」
「以前から会長は彼に固執していましたが、彼が戻ってきてから明らかに悪化してます。……この時点で彼に煽動されている可能性がありますと考えれば状況が違って見える」
「だとしても……机上の空論だ。そんなこと、あいつらに言ったところで『証拠がない』とか言って一蹴されておしまいだろ」
「証拠ならば、ここに」

 そう、静かに突き付けられる指先。それが自分に向いていることに気付いた瞬間、息を飲んだ。

「……っ、俺……?」
「……貴方はその目で見、聞いてきたのではないですか。……阿賀松伊織に捕らわれていた際の、彼らのやり取りを」

 呼吸が、浅くなる。頭の奥、忘れようと蓋をしていた記憶を抉じ開けられるような頭痛に思わず声を漏らす。

「思い出してください。……貴方は他に何かを聞いたのではありませんか」
「っ……和真」
「前々回の会議の様子からして、貴方の記憶は阿賀松伊織と齋藤佑樹の行為を見た衝撃で記憶が混濁しているようでした。……あのとき貴方が見たもの、聞いたもの、思い出して下さい。貴方の証言が手掛かりになります」

 鷹揚のない声が、脳を占める。無数の針が刺さるような痛みに、思考が乱される。
 ……俺が聞いたこと、見たこと。

 人質がいなくなった空の部屋の中。
「縁方人を探れ」そう言ったのは会長だった。
 佑樹がいなくなって、会長は日に日に荒んだ。いち早く安否を確認しなきゃ、そう奮起して俺は学園内たまたま見かけた縁方人を追った。
 そして。

『よぉ、直秀君』

 血糊のように真っ赤な髪。だらしない唇に携えた凶悪な笑み。
 痛みを感じる暇もなかった。

『こんないい天気にお出掛けか?……それとも、誰かと逢引の予定でもあんのか?』

 揶揄するような下卑た笑み。
 阿賀松伊織は、当たり前のように俺の目の前に姿を現し……そこで記憶が途切れる。
 ノイズがかった記憶を呼び起こす。
 顎が外れるくらいの痛みに、脳天揺さぶられてから記憶があやふやになっていた。

『佑樹君に会いたいのか?』

 霞む視界の中、革靴の先が目に映る。血が出てるのかもわからない。髪を掴まれ、乱暴に顔を挙げさせられる。阿賀松伊織は、笑っていた。

『……なら会わせてやるよ。お前らのお姫様に』

 そこで、一度記憶が途切れた。忘れかけていた、治りかけていた全身の傷が疼き出す。
 屈辱だった。あいつに何一つ傷を追わせることもできなかったことが、目の前で佑樹を痛めつけられることが。けれど、痛がる悲鳴も俺を庇う佑樹も全部偽物だとしたら。

「……ッ」

 認めたくはない。それは、事実と違うからなのか?それとも、自分が信じていたものをこれ以上壊されたくないからか?分からない。けれど、全てが嘘だとしたら。俺は……。

「無論、他の証拠も探ります。……あの男たちの周囲を探れば自ずと出てくるはずです」
「……」
「明日の会議で会長の処分が決定します。……今、齋藤佑樹の部屋には風紀委員が二名見張りをしているのみ。……突破は不可能ではない」
「……俺に、直接確認しろって言うのか?」
「貴方は人を疑うことが苦手な方です。自分の目で確認して、それから決断するのも手だと思います。……その必要があるのなら、俺が手引きしましょう」

 和真はあくまで冷静だった。
 迷いのない、目。
 全部が嘘だとして、それを暴くことで傷つくのは自分だけではないはずだ。それでも構わない、そう言い切るかのような和真が理解できなかった。

「どうしてそこまでするんだ」

 俺には、到底出来ない。疑うなんて真似、できることならしたくない。

「……大方貴方と同じです」

 そう一言、和真は告げる。
 誰を信じ、誰を切り捨てるか。
 取捨選択。どちらも選ぶことは許されない。

 そうなったとき俺が選んだのは、今まで一緒にやってきた仲間だった。
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