天国か地獄

田原摩耶

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√α:ep.3『守りたかったもの』

08

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 肌に張り付いた濡れたシャツが段々冷たくなっていく。
 灘がいなくなった仮眠室内、立ち上がった芳川会長は壁の棚へと歩いていく。そして白いフェイスタオルを手に会長は俺の元へと戻ってきた。

「ぁ……っ、の……」

 なにも言わず、ベッドへと乗り上げてくる芳川会長はそのままタオルで俺の口元を柔らかく拭った。
 そして顔、首筋、胸元まで溢れた水で濡れた身体を丁寧に拭っていく。
 優しい手付きが逆に恐ろしかった。

「ん、ぅ……っ」

 こそばゆさと恐怖に身じろぎをし、必死に会長の腕から抜け出そうとして「暴れるな」とベッドへと押し倒される。
 大きな水溜まりが出来ていたベッドシーツの上、ぐっしょりと濡れたシーツが身体に触れ、その冷たさに堪らず震えた。
 そしてそんな俺に構わず、芳川会長の手が襟首に伸びた。骨張った指が第二ボタンをぷつりと外す。

「じ、自分でします……っ」
「その体では無理だろ」
「……っで、も」

 この拘束さえ解いてくれればいいだけの話だ。
 この人はまだ俺を解放つもりはないということが分かってしまい、目の前が暗くなる。
 それでも、このままではまずい。頭の中でガンガンと警笛が鳴り響く。

 身を捩り、会長の手から逃れようとシーツの上をはいずったとき。

「かいちょ……」
「聞こえなかったか? ――俺は抵抗するなと言ったんだ」

 視界の済でなにかが銀色に輝く。首筋に押し当てられた無駄な装飾のないナイフ。それを手にしたまま芳川会長は「齋藤君」と抑揚のない声で俺を呼んだ。

 これはお願いでも頼みでもなく、脅迫だった。
 会長がつまらない冗談を口にする人ではないと俺自身がよく知っている。
 だから、会長にナイフの刃を突きつけられた瞬間『この人は本気だ』と悟った。


 会長は俺の拘束を外さず、そのままナイフでシャツの前を切り裂いた。少しでも動けば体に当たるほどの際際の距離を走るナイフの刃から目を反らすことができないまま、俺は会長に脱がされる間じっとすることしかできなかった。
 辛うじて袖に通ったままのシャツだが、前を留めることは二度とできないだろう。会長はそのまま固まる俺の体に触れる。その手には先程持ち出した白いタオルが握られていた。

「少し肌寒いかもしれないが、室温調整してある。この格好にも直慣れるだろう」

 俺の体に視線を落とす会長は、濡れた肌を拭っていく。
 ――会長に見られている。
 それが分かったからこそ、いたたまれなかったし恥ずかしかった。
 打撲痕とキスマーク、指の形をした痣が散らばった体。そんな俺の体を見て、確かに会長は眉間に皺を寄せた。

「……酷いな」

 今度は柔らかなタオルではなく、硬い指先が腹部に触れる。壱畝に殴られた痕だろう、腹部に集中した大きめの痣の上、すうっと滑るその乾いた感触に体がぴくりと震えた。
 恥ずかしいし、惨めだった。それも、今俺にナイフを突き付けてくる人に同情されるなんて。

「……会長、も、いいですから……っ」
「やはり、君を自由にさせておくべきではなかった。俺の判断ミスだ」

 会話が噛み合っていない。俺の声が会長に届いているのかすら怪しい。
 臍の上、うっすらと浮かんだ筋を伝うように胸まで這い上がってくる手にどくんと心臓が脈打つ。レンズ越し、俺の体を凝視していたその冷めた目が俺を見上げた。

「しかし、もう大丈夫だ。
 あと数日もしない内に邪魔者はいなくなる」

 ――君を痛め付ける者も、皆。

 形のいい、薄い唇はそう低く口にした。
 俺は最初阿賀松のことを指しているのだと思った。けれど、すぐにそれだけではないと悟ってしまった。
 どくどくと、心臓から血液が押し出されていく。それ以上その言葉の真意を確かめることは俺にはできなかった。



 会長は、本当に俺の体を拭うだけだったらしい。
 それでも新しい服へと着替えさせるつもりはないらしい。濡れたベッドシーツ、そしてシャツとスラックスを俺から剥ぎ取った芳川会長はそれを抱え、一度仮眠室を出ていった。

 それからどれほど経っただろうか。
 下着一枚という惨めな姿のまま、俺は取り替えられた真新しいシーツのベッドの上に転がっていた。

 ――こんなこと、している場合ではないのに。

 会長にナイフを突き付けられた事実が怖かった。初めてだった、芳川会長に明確な敵意を向けられたのは。
 覚悟はしていた。それでも、会長が部屋からいなくなってようやく呼吸が出来るようだった。

 そして更に暫く時間が経過した頃だった、仮眠室の扉が開いた。

「どうだ、まだ寒いか」

 聞こえてきたのは芳川会長の声だった。
 その声に、条件反射で全身がぶるりと震える。
 そのまま俺の寝ているベッドの側までやってきた芳川会長はサイドテーブルの上、既に冷めきっていた料理を見下ろす。

「部屋の温度をいくらか上げた。暑かったらすぐに言ってくれ」
「……」
「そろそろ腹が減ったんじゃないのか」

 そう問いかけられたとき、腹の奥が小さな音を立てる。しまった、と凍りつく俺を他所に食事にするか、と芳川会長はサイドテーブルの上、既に冷めきった料理を乗せたトレーから取り皿を手に取った。

 固形料理ばかりでスープ類が見当たらないのは俺の手が使えないのを配慮したつもりなのかもしれない。それでも、今この状況で食欲なんて湧くはずはなかった。体がいくら空腹を訴えようともだ。

 けれど、

「口を開けろ」

 俺の体を抱き起こした会長はそのまま箸を使い、唐揚げを掴んだ。
 それを口先まで持って来られるが、とてもじゃないがそんな脂っこいものを食べる気にすらなれない。首を横に振り、拒絶する。
 なのに、

「このまま何も食べずに餓死でもするつもりなのか」

 その会長の声は確かに苛ついていた。その声に吃驚して硬直する。それでも、やはり食べる気にはなれなかった。
 頑なになって口を開けようとしない俺に、芳川会長は溜め息を吐く。そして渋々その揚げ物を皿に戻した。そして、代わりにカットフルーツがもられたデザート皿を手に取った。

「ならば、これはどうだ? フルーツくらいなら入るだろう」

 栄養もたっぷりだぞ、と笑う会長は小皿に盛られた桃を箸で持ち上げる。滴る汁。
 何を持ってこられたところで俺にとって何も変わらない。無言で俯けば、眉間を寄せた会長は「これも嫌なのか」と溜め息を吐いた。

 明らかに会長がイライラし始めているのがわかった。怖かったが、それでも志摩の安否も分からない今、自分だけのうのうと食事を取る気になれない。

 早く諦めてくれ、と唇を硬く結んだときだった。

「――いい加減にしろ」

 ガシャン、と音を立ててボードの上に叩きつけられる皿に肩が跳ねた。
 中身がこぼれそうになっても会長はそれらに目を向けることはなかった。ただ、真っ直ぐに俺を睨んでいた。

「君はまだ自分の立場が分かっていないらしいな」
「ッなら、この縄を外して下さい……俺、自分で食べますから」
「それはできない」
「なら――」

 無理です、と続けるよりも先に、顎を掴まれる。
 先程、口移しされたときと同じ状況だ。嫌な予感がして全身が冷たくなる。

「これは全て君のためだ」
「か、いちょ……」
「口を開けろ」

 そう、フォークを手に取った会長はそのまま片手で唐揚げに先端を突き刺した。がしゃ、と金属と陶器がぶつかる音が響く。
 そしてそのまま会長は目の前でその唐揚げを一口で頬張ったのだ。
 ――まさか。まさか、この人は。冗談だろう。水とはわけが違う。
 目の前で咀嚼する芳川会長に俺は血の気が引いていくのを覚えた。
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