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モンスターファミリー
過保護系スパルタ兄の暴走
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よりによって、数年ぶりの再会がこんな、よくわかんねえ男に抱きしめられてる図なんて。
辛うじてモロチンにならずには済んだが、倉庫内の室温がいくらか下がった。これは気のせいではないはずだ。
なにか、なにか言わなければ。
この最悪事態を回避する言葉を。
「いや、あの、俺は、ただの通りすがりの……」
「久し振りだな、佳那汰」
バレた。なんなら秒だった。
ひゅ、と息を飲む。伸びてきた兄の手に腕を掴まれ、服の山から引きずりあげられた。
「お、お兄ちゃ……」
あの、と口を開いたとき。
騒がしい足音とともに店長がやってきたのはほぼ同時だった。
「お義兄さん! お待たせしまし……」
瞬間、パン、と乾いた音を立て、目の前が真っ赤になる。大きくよろめき、俺はそのまま床へへたり込んだ。
顔を上げれば、冷たい目で俺を見下ろす兄。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
「……え?」
じんじんと火照り始める頬を抑え、俺は呆然と兄を見上げた。
一部始終を見ていた四川たちは目を丸くし、翔太はこの世の終わりのような顔をし、丁度乱入したばかりだった店長は何が起こったのかわからない顔をしていて。
――殴られた。
そう、理解するのに然程時間はかからなかった。
「うっわ……」
「あーあ」
溜息混じり、呆れたような野次の声。
憐れむような向けられた複数の視線に、動けなくなる。
そんな俺に対し、ただ兄は蔑むようにこちらを睨む。そして「立て」と、腕を引かれ強引に立たさ
れた。
「なんだその髪の色は。なんだその男は。なぜ嘘をついた。お前がここまで阿呆とは思わなかったぞ、この愚弟が」
「ぉ、お兄ちゃ……っ」
「来い、これ以上野放しにして悪影響を受けられ手は堪ったものではない」
「その性根から叩き直してやる」じんじんと痺れる頬。兄は眉一つ動かさず、そのまま俺を引っ張って部屋から出ていこうとした。
「ちょっ、ちょっと、ちょっと待って下さい! 未奈人さん!」
抵抗する力もなく兄に引きずられる俺。そんな俺たちの前に立ちふさがったのは翔太だった。
「そこを退いて頂けませんか、中谷君。君には長い間面倒をお掛けしましたが、それもこれまでです。今後のことについてはまた改めて追って連絡しましょう。それならば問題はないでしょう?」
「問題はあります。取り敢えず落ち着いてください、佳那汰から手を離して……」
「落ち着く? 君は随分と面白いことを言う。このような猥雑な空間で落ち着けと?」
その遠慮ない言葉に、黙って聞いていた面々も僅かに不快感を顔に出す。
――そして中でも、あの睫毛が。
「お義兄さん、少々待っていただきたい」
聞き捨てならないとでも言うかのような勢いで仲裁に入ってきたのは案の定店長だった。
こうして兄と店長が並ぶと同じ高級感漂うスーツを着ている二人でも店長がやはりホストにしか見えなくなってしまうのは内面の問題なのかもしれない。
しかし、今日の店長はいつもに増して真剣な顔をしていて、そのお陰で八割増凛々しく見えた。
「貴方にとってはいくら可愛い弟さんだとしてもあくまでもこの店の大切な店員でもあります。それもまだ勤務中、いきなり来られてシフトに穴を空けられてはうちの店としても困ります。せめて事情くらい説明していただいてもいいのではありませんか? 社会人のマナーとして」
「ほう? その勤務中、人目を盗んでいかがわしい事をしているバイトを取り締まることすら出来ない店のマナーですか」
「い、いかがわしい事だと?! おい、どういうことだ時川!」
指摘を受け、狼狽える店長に司は「実は赫々然々」となんとも投げやりな説明をするがどうやら伝わったらしい。
「なに?! け、けしからん……っ!四川貴様減給だ!」
舌打ちをする四川に内心ざまあみろ!と思ったが、今は人を笑える状況ではない。寧ろ減給どころかもう給料貰えることがなくなる可能性の方が高いわけだ。
その場に一触即発の空気が広がる。
なにか考えるように店長をじっと見つめていた兄だったが、やがてゆっくりとその口を開いた。
「なるほど、貴方がこの店の責任者ですか。……お名前を聞かせていただいても」
「ああ、これは失敬。自分は井上利人と申します。」
「井上――井上君?」
店長の言葉を遮る兄。そんな兄の言葉に、店長は「え」と目を丸くした。
対する兄は相変わらず冷ややかな眼差しで店長を見下ろしていた。
「なるほど、どこかで見たことのある睫毛と思いきや……貴方でしたか。十年ぶりですね、井上君」
「え、え」
「覚えてませんか、俺ですよ――原田未奈人。高校の時は随分とお世話になりました」
あくまでも淡々とした調子で続ける兄に、みるみるうちに青褪める店長は「あ……あぁ……」と兄を指差す。
「ミナト、先輩……っ!」
え、なにこの展開。
兄が店長の先輩で、店長は兄の知り合いで……。
そういうことなのだろうが、その事実を呑み込むのにはやや時間が掛かった。
確かに、同い年か近くだろうなとは思っていたが、まさか、本当に。
「……えーっと、取り敢えず、どういうことなんですか。これ」
ようやく俺の真似を止めた司は、相変わらずの無表情のまま店長と兄を交互に見る。
司も司で戸惑っているようだが、それ以上に戸惑っている男が一人。
「と、言われてもな……」
先程までの勢いはどこへいったのか、困惑する店長は苦虫を噛み潰したような顔をして唸る。
しかし、翔太はというと兄と店長の関係には興味ないようだ。
「店長、店長の知り合いならなんか言ってやって下さいよ!」
「面白いこと言いますね、中谷君。井上君がなにか言ったところで私には全く微塵も響きませんよ。それに、下劣で姑息な品性の欠片もない男が経営している店なら尚更、うちの佳那汰を置いておくわけにはいかない」
相変わらず遠慮ない毒舌がグサグサと店長に突き刺さる。
しかも言い返せないようだ。無理もない。「うぐぐ」と精神的ダメージ受ける店長に自業自得だと思う反面、浴びせられる容赦ない兄の罵詈雑言には同情せざるを得ない。
「店長、学生時代あの人に何したんですか」
「人聞きの悪いことを言うな! なにもしていない!」
「そう、なにもしていないですね。君は我慢ということを知らず、遊び呆け、あまつさえ何も知らない私の佳那汰に…」
まさかここで自分の名前が出てくるとは思わず、「え?」と目を丸くしたときだった。
顔を引き攣らせた店長が慌ててその言葉を遮る。
「おい、なにを言ってるんですか!」
そして、焦りで口調があべこべになっていた。
「とにかく一分一秒でも佳那汰にこんな汚れた空気を吸わせるわけにはいかない。佳那汰は引き取らせてもらいます。これは決定事項であり、勿論佳那汰にも貴方にも選択権はありません。以上!」
反論する隙を与えない断固とした態度の兄だが、それでも店長は諦めない。
無駄に高いプライドがそうさせるのか。俺を引っ張り、歩き出す兄の腕を掴んで無理矢理足を止めさせた。
「ちょっと待てと言っているだろう!」
響く声。緊張した空気。
これほどの修羅場があっただろうか。……あったな。
そんな中ぱしゃりとシャッター音が響く。
おい誰だ生修羅場を携帯に収めようとしているやつは。司と四川お前らひそひそ話しながらどっちが勝つか賭けてんじゃねえよてめえ空気読め馬鹿助けろ。
「なんですか、井上君。その目は」
しぶとい店長に折れたのは兄だった。
「随分とうちの佳那汰を気に入っているようですが、君まさか佳那汰にまた手を出していないでしょうね」
兄の地を震わせるような低い声、そして絶対零度の視線を前にも怯まない店長。そんな店長の手首を取った兄は目を細め、笑う。
それは俺には見せたことのない凶悪な笑みだった。
「もし佳那汰に指一本触れたら、その時はこの指ごとたたっ斬ってあげますよ」
冗談には聞こえない兄のその言葉に、店長は冷や汗をだらだらと流す。心当たりしかない。
店長も、旧知というだけあって兄の性格を理解しているようだ。そのまま店長の手を振り払った兄は今度はガヤに徹していた四川に向き直った。
「そしてそこの君も、夜道にはくれぐれ気をつけることだな」
四川の顔が引きつる。いつもの俺ならばざまあみろとなるのだが、今回ばかりはまじで笑えない。
四川から目線を外した兄は今度はこっちを見た。やべえ、と思うよりも先に兄に腕を引っ張られる。
「佳那汰、なにをボサっとしている。さっさと歩け!」
「あっ、や……」
歩く準備をしてなくて、強引に兄に引き摺られる。ふらつく足元。
「店長……っ」
咄嗟に助けを求めるように近くにいた店長に手を伸ばすが、兄に引き摺られそれは叶わない。
そのまま俺は引き摺られるようにして店内を後にした。「カナちゃん!」と翔太の叫ぶ声が聞こえてくるが、兄は振り返るなとでもいうかのように俺の肩を抱き、そしてそのまま開けっ放しの扉からその場を後にした。
帰りたくない。
いくら暴れ、逃げようとしたところであの男から逃れることは出来なかった。
――店を出た路地裏。
狭く、薄暗いその店の前には眩いほど磨かれた兄の愛車が停められていた。
「っちょ、お兄さん! 待ってください!」
「翔太……っわぷ!」
慌てて地下から上がって店の外まで追いかけてきた翔太。慌ててそちらを振り返ろうとした矢先、助手席へと俺を詰め込んだ兄はそのまま無視して運転席へと乗り込んだ。
「っ、ちょっと待て、翔太がなにか言ってるって!」
「そうか」
「そ、そうかって……」
「窓に指紋は付けるなよ」
そう兄は構わず発車させるのだ。
スモーク張りのリアガラス越し、翔太を振り返る。
追いかけることは無謀だと悟ったようだ。店の前、携帯端末を取り出してどこかへ電話かけている翔太の姿を最後にその姿はあっという間に見えなくなった。
兄と二人きりの車内は酷く静かだった。
兄が苛立っているのは明白だったし、俺も呑気に世間話をする気分にはなれなかった。
それに、この車がどこへ向かおうとしているのか分かってしまっているからこそ余計。
俺は助手席で震えて縮こまることしかできなかった。
それからどれほど経っただろうか。
いきなり車は急停車し、その勢いを殺せず俺は数センチほど浮き上がった。
「い゛……ッ」
「着いたぞ、降りろ」
頭を抑えてると、兄はそう助手席から出ていくのだ。
くそ、心配くらいしたらどうなんだ。
と、思ったが、あの兄がよしよしなんてしてきた日には天と地がひっくり返ると思うので兄らしいといえば兄らしい。
再び助手席の扉が開き、兄に首根っこを掴まれそのまま「降りろ」と猫かなにかのように引きずり降ろされる。
そして、そのまま荷物かなにかのように小脇に抱えられるのだ。
「っ、やだ、降ろせって、降ろせってばっ!」
「喚くな、お前は一から躾けなければならないのか?」
「……っ」
兄はつまらない冗談を口にするタイプの人間ではない。つまり、これは本気ということだ。
本気で躾られ兼ねない、兄の性格を嫌ってほど知らされていた俺はそれだけはなんとしてでも避ける必要があった。
くそ、どうする。どうにかして、兄から逃げなければ、このままでは本当に――。
『原田』と書かれた厳つい表札を掲げた石門を潜ってすぐ、手入れの行き届いた日本庭園を抱えられるように歩いていけばその建物は確実に近付いてきて。
広い庭に負けじと無駄に大きなその建物の前、スーツ姿の老若男女がずらりと並んでいた。
「「「お帰りなさいませ、ミナト様、カナタ様」」」
そして、兄(と抱えられた俺)がやってくると一斉に頭を下げた。
見事な九十度。
揃った声と深く折られた腰はなんら昔と変わっていない。
――相変わらず、居心地は悪い。
兄の腕の中だ。良いも悪いもクソもないのだが。というか抱えられたままなのでなにをいったところで決まらないのが更になんかもういたたまれないというか、いっそのこと指を指されて笑われた方がましだ。因みに俺はマゾではない。
……多分。
黒服たちのお迎えを通り抜け、やってきた実家の本邸。
俺は相変わらず兄に持ち運ばれていた。
「風呂は」
「用意出来てます」
「そうか。使うぞ。一人たりとも入ってくるな」
「承知しました」
使用人の一人は頭を下げる。
ピカピカに磨き上げられた床板には、情けない俺の顔が反射して映し出されていた。
そして、対する兄は変わらず無表情のままだった。
――というか、待て。風呂ってなんだ。
そう青褪めたときだった。
「中谷様、ようこそおいでくださいました」
「ああ……どうも、お構いなく」
たった今通り抜けたばかりの玄関口の方から聞き慣れた声が聞こえてきて、俺は咄嗟に顔を上げる。
そして、すぐにバタバタと足音が近付いてきた。縁側を歩いていると、「お兄さん!」と翔太が現れたのだ。
どうやら俺たちの後を着けていたようだ、現れた翔太に兄は立ち止まった。
「……騒々しいと思えば君ですか、中谷君」
「お兄さん、話が違うじゃないですか。佳那汰は連れ戻さないという約束でしょう!」
「約束?」そう、翔太を前に兄の眉がぴくりと動いた。
「……ほう、最初に破った君がそれを口にしますか」
それは静かな問いかけだった。
辺りに冷たい空気が流れる。
通路の真ん中で向かい合う二人、担がれた俺。
なんだこの図は。
辛うじてモロチンにならずには済んだが、倉庫内の室温がいくらか下がった。これは気のせいではないはずだ。
なにか、なにか言わなければ。
この最悪事態を回避する言葉を。
「いや、あの、俺は、ただの通りすがりの……」
「久し振りだな、佳那汰」
バレた。なんなら秒だった。
ひゅ、と息を飲む。伸びてきた兄の手に腕を掴まれ、服の山から引きずりあげられた。
「お、お兄ちゃ……」
あの、と口を開いたとき。
騒がしい足音とともに店長がやってきたのはほぼ同時だった。
「お義兄さん! お待たせしまし……」
瞬間、パン、と乾いた音を立て、目の前が真っ赤になる。大きくよろめき、俺はそのまま床へへたり込んだ。
顔を上げれば、冷たい目で俺を見下ろす兄。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
「……え?」
じんじんと火照り始める頬を抑え、俺は呆然と兄を見上げた。
一部始終を見ていた四川たちは目を丸くし、翔太はこの世の終わりのような顔をし、丁度乱入したばかりだった店長は何が起こったのかわからない顔をしていて。
――殴られた。
そう、理解するのに然程時間はかからなかった。
「うっわ……」
「あーあ」
溜息混じり、呆れたような野次の声。
憐れむような向けられた複数の視線に、動けなくなる。
そんな俺に対し、ただ兄は蔑むようにこちらを睨む。そして「立て」と、腕を引かれ強引に立たさ
れた。
「なんだその髪の色は。なんだその男は。なぜ嘘をついた。お前がここまで阿呆とは思わなかったぞ、この愚弟が」
「ぉ、お兄ちゃ……っ」
「来い、これ以上野放しにして悪影響を受けられ手は堪ったものではない」
「その性根から叩き直してやる」じんじんと痺れる頬。兄は眉一つ動かさず、そのまま俺を引っ張って部屋から出ていこうとした。
「ちょっ、ちょっと、ちょっと待って下さい! 未奈人さん!」
抵抗する力もなく兄に引きずられる俺。そんな俺たちの前に立ちふさがったのは翔太だった。
「そこを退いて頂けませんか、中谷君。君には長い間面倒をお掛けしましたが、それもこれまでです。今後のことについてはまた改めて追って連絡しましょう。それならば問題はないでしょう?」
「問題はあります。取り敢えず落ち着いてください、佳那汰から手を離して……」
「落ち着く? 君は随分と面白いことを言う。このような猥雑な空間で落ち着けと?」
その遠慮ない言葉に、黙って聞いていた面々も僅かに不快感を顔に出す。
――そして中でも、あの睫毛が。
「お義兄さん、少々待っていただきたい」
聞き捨てならないとでも言うかのような勢いで仲裁に入ってきたのは案の定店長だった。
こうして兄と店長が並ぶと同じ高級感漂うスーツを着ている二人でも店長がやはりホストにしか見えなくなってしまうのは内面の問題なのかもしれない。
しかし、今日の店長はいつもに増して真剣な顔をしていて、そのお陰で八割増凛々しく見えた。
「貴方にとってはいくら可愛い弟さんだとしてもあくまでもこの店の大切な店員でもあります。それもまだ勤務中、いきなり来られてシフトに穴を空けられてはうちの店としても困ります。せめて事情くらい説明していただいてもいいのではありませんか? 社会人のマナーとして」
「ほう? その勤務中、人目を盗んでいかがわしい事をしているバイトを取り締まることすら出来ない店のマナーですか」
「い、いかがわしい事だと?! おい、どういうことだ時川!」
指摘を受け、狼狽える店長に司は「実は赫々然々」となんとも投げやりな説明をするがどうやら伝わったらしい。
「なに?! け、けしからん……っ!四川貴様減給だ!」
舌打ちをする四川に内心ざまあみろ!と思ったが、今は人を笑える状況ではない。寧ろ減給どころかもう給料貰えることがなくなる可能性の方が高いわけだ。
その場に一触即発の空気が広がる。
なにか考えるように店長をじっと見つめていた兄だったが、やがてゆっくりとその口を開いた。
「なるほど、貴方がこの店の責任者ですか。……お名前を聞かせていただいても」
「ああ、これは失敬。自分は井上利人と申します。」
「井上――井上君?」
店長の言葉を遮る兄。そんな兄の言葉に、店長は「え」と目を丸くした。
対する兄は相変わらず冷ややかな眼差しで店長を見下ろしていた。
「なるほど、どこかで見たことのある睫毛と思いきや……貴方でしたか。十年ぶりですね、井上君」
「え、え」
「覚えてませんか、俺ですよ――原田未奈人。高校の時は随分とお世話になりました」
あくまでも淡々とした調子で続ける兄に、みるみるうちに青褪める店長は「あ……あぁ……」と兄を指差す。
「ミナト、先輩……っ!」
え、なにこの展開。
兄が店長の先輩で、店長は兄の知り合いで……。
そういうことなのだろうが、その事実を呑み込むのにはやや時間が掛かった。
確かに、同い年か近くだろうなとは思っていたが、まさか、本当に。
「……えーっと、取り敢えず、どういうことなんですか。これ」
ようやく俺の真似を止めた司は、相変わらずの無表情のまま店長と兄を交互に見る。
司も司で戸惑っているようだが、それ以上に戸惑っている男が一人。
「と、言われてもな……」
先程までの勢いはどこへいったのか、困惑する店長は苦虫を噛み潰したような顔をして唸る。
しかし、翔太はというと兄と店長の関係には興味ないようだ。
「店長、店長の知り合いならなんか言ってやって下さいよ!」
「面白いこと言いますね、中谷君。井上君がなにか言ったところで私には全く微塵も響きませんよ。それに、下劣で姑息な品性の欠片もない男が経営している店なら尚更、うちの佳那汰を置いておくわけにはいかない」
相変わらず遠慮ない毒舌がグサグサと店長に突き刺さる。
しかも言い返せないようだ。無理もない。「うぐぐ」と精神的ダメージ受ける店長に自業自得だと思う反面、浴びせられる容赦ない兄の罵詈雑言には同情せざるを得ない。
「店長、学生時代あの人に何したんですか」
「人聞きの悪いことを言うな! なにもしていない!」
「そう、なにもしていないですね。君は我慢ということを知らず、遊び呆け、あまつさえ何も知らない私の佳那汰に…」
まさかここで自分の名前が出てくるとは思わず、「え?」と目を丸くしたときだった。
顔を引き攣らせた店長が慌ててその言葉を遮る。
「おい、なにを言ってるんですか!」
そして、焦りで口調があべこべになっていた。
「とにかく一分一秒でも佳那汰にこんな汚れた空気を吸わせるわけにはいかない。佳那汰は引き取らせてもらいます。これは決定事項であり、勿論佳那汰にも貴方にも選択権はありません。以上!」
反論する隙を与えない断固とした態度の兄だが、それでも店長は諦めない。
無駄に高いプライドがそうさせるのか。俺を引っ張り、歩き出す兄の腕を掴んで無理矢理足を止めさせた。
「ちょっと待てと言っているだろう!」
響く声。緊張した空気。
これほどの修羅場があっただろうか。……あったな。
そんな中ぱしゃりとシャッター音が響く。
おい誰だ生修羅場を携帯に収めようとしているやつは。司と四川お前らひそひそ話しながらどっちが勝つか賭けてんじゃねえよてめえ空気読め馬鹿助けろ。
「なんですか、井上君。その目は」
しぶとい店長に折れたのは兄だった。
「随分とうちの佳那汰を気に入っているようですが、君まさか佳那汰にまた手を出していないでしょうね」
兄の地を震わせるような低い声、そして絶対零度の視線を前にも怯まない店長。そんな店長の手首を取った兄は目を細め、笑う。
それは俺には見せたことのない凶悪な笑みだった。
「もし佳那汰に指一本触れたら、その時はこの指ごとたたっ斬ってあげますよ」
冗談には聞こえない兄のその言葉に、店長は冷や汗をだらだらと流す。心当たりしかない。
店長も、旧知というだけあって兄の性格を理解しているようだ。そのまま店長の手を振り払った兄は今度はガヤに徹していた四川に向き直った。
「そしてそこの君も、夜道にはくれぐれ気をつけることだな」
四川の顔が引きつる。いつもの俺ならばざまあみろとなるのだが、今回ばかりはまじで笑えない。
四川から目線を外した兄は今度はこっちを見た。やべえ、と思うよりも先に兄に腕を引っ張られる。
「佳那汰、なにをボサっとしている。さっさと歩け!」
「あっ、や……」
歩く準備をしてなくて、強引に兄に引き摺られる。ふらつく足元。
「店長……っ」
咄嗟に助けを求めるように近くにいた店長に手を伸ばすが、兄に引き摺られそれは叶わない。
そのまま俺は引き摺られるようにして店内を後にした。「カナちゃん!」と翔太の叫ぶ声が聞こえてくるが、兄は振り返るなとでもいうかのように俺の肩を抱き、そしてそのまま開けっ放しの扉からその場を後にした。
帰りたくない。
いくら暴れ、逃げようとしたところであの男から逃れることは出来なかった。
――店を出た路地裏。
狭く、薄暗いその店の前には眩いほど磨かれた兄の愛車が停められていた。
「っちょ、お兄さん! 待ってください!」
「翔太……っわぷ!」
慌てて地下から上がって店の外まで追いかけてきた翔太。慌ててそちらを振り返ろうとした矢先、助手席へと俺を詰め込んだ兄はそのまま無視して運転席へと乗り込んだ。
「っ、ちょっと待て、翔太がなにか言ってるって!」
「そうか」
「そ、そうかって……」
「窓に指紋は付けるなよ」
そう兄は構わず発車させるのだ。
スモーク張りのリアガラス越し、翔太を振り返る。
追いかけることは無謀だと悟ったようだ。店の前、携帯端末を取り出してどこかへ電話かけている翔太の姿を最後にその姿はあっという間に見えなくなった。
兄と二人きりの車内は酷く静かだった。
兄が苛立っているのは明白だったし、俺も呑気に世間話をする気分にはなれなかった。
それに、この車がどこへ向かおうとしているのか分かってしまっているからこそ余計。
俺は助手席で震えて縮こまることしかできなかった。
それからどれほど経っただろうか。
いきなり車は急停車し、その勢いを殺せず俺は数センチほど浮き上がった。
「い゛……ッ」
「着いたぞ、降りろ」
頭を抑えてると、兄はそう助手席から出ていくのだ。
くそ、心配くらいしたらどうなんだ。
と、思ったが、あの兄がよしよしなんてしてきた日には天と地がひっくり返ると思うので兄らしいといえば兄らしい。
再び助手席の扉が開き、兄に首根っこを掴まれそのまま「降りろ」と猫かなにかのように引きずり降ろされる。
そして、そのまま荷物かなにかのように小脇に抱えられるのだ。
「っ、やだ、降ろせって、降ろせってばっ!」
「喚くな、お前は一から躾けなければならないのか?」
「……っ」
兄はつまらない冗談を口にするタイプの人間ではない。つまり、これは本気ということだ。
本気で躾られ兼ねない、兄の性格を嫌ってほど知らされていた俺はそれだけはなんとしてでも避ける必要があった。
くそ、どうする。どうにかして、兄から逃げなければ、このままでは本当に――。
『原田』と書かれた厳つい表札を掲げた石門を潜ってすぐ、手入れの行き届いた日本庭園を抱えられるように歩いていけばその建物は確実に近付いてきて。
広い庭に負けじと無駄に大きなその建物の前、スーツ姿の老若男女がずらりと並んでいた。
「「「お帰りなさいませ、ミナト様、カナタ様」」」
そして、兄(と抱えられた俺)がやってくると一斉に頭を下げた。
見事な九十度。
揃った声と深く折られた腰はなんら昔と変わっていない。
――相変わらず、居心地は悪い。
兄の腕の中だ。良いも悪いもクソもないのだが。というか抱えられたままなのでなにをいったところで決まらないのが更になんかもういたたまれないというか、いっそのこと指を指されて笑われた方がましだ。因みに俺はマゾではない。
……多分。
黒服たちのお迎えを通り抜け、やってきた実家の本邸。
俺は相変わらず兄に持ち運ばれていた。
「風呂は」
「用意出来てます」
「そうか。使うぞ。一人たりとも入ってくるな」
「承知しました」
使用人の一人は頭を下げる。
ピカピカに磨き上げられた床板には、情けない俺の顔が反射して映し出されていた。
そして、対する兄は変わらず無表情のままだった。
――というか、待て。風呂ってなんだ。
そう青褪めたときだった。
「中谷様、ようこそおいでくださいました」
「ああ……どうも、お構いなく」
たった今通り抜けたばかりの玄関口の方から聞き慣れた声が聞こえてきて、俺は咄嗟に顔を上げる。
そして、すぐにバタバタと足音が近付いてきた。縁側を歩いていると、「お兄さん!」と翔太が現れたのだ。
どうやら俺たちの後を着けていたようだ、現れた翔太に兄は立ち止まった。
「……騒々しいと思えば君ですか、中谷君」
「お兄さん、話が違うじゃないですか。佳那汰は連れ戻さないという約束でしょう!」
「約束?」そう、翔太を前に兄の眉がぴくりと動いた。
「……ほう、最初に破った君がそれを口にしますか」
それは静かな問いかけだった。
辺りに冷たい空気が流れる。
通路の真ん中で向かい合う二人、担がれた俺。
なんだこの図は。
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