俺以外美形なバンドメンバー、なぜか全員俺のことが好き

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本編

平凡ボーカルの俺、美形バンドメンバー三人に絶賛愛され中です。

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俺の名前は神崎かんざき 瑪瑙めのう
インディーズロックバンド『DIAMONDダイアモンド』のボーカルをやっていること以外は、特に何の特徴もないごくごく平凡な大学生である。
極度の女性恐怖症、ゆえに恋愛対象は男性だけ、という厄介な性癖を抱えながらも、好きな歌を歌って信頼できるバンドメンバーにも恵まれ——俺なりに平穏な日々を過ごしていた。

そんな俺の日常が一変してしまったのは、バンドメンバー全員から告白されたあの日からだった。
俺は見た目も中身も平々凡々だけど、俺以外のメンバー三人はルックスも実力も最上級の、超絶ハイスペックイケメン揃い。もちろん三人とも女の子からモテモテで、わざわざ平凡男の俺なんかに言い寄らなくても相手なんて選びたい放題なはずなのに……何故か全員、俺のことを本気で好きだって言うんだ。本当に変わった人達だ。
それからなんやかんやで、週末限定でメンバー全員の『お試しの恋人』をすることになった俺。普段はいつも通りバンド仲間って感じだけど、週末の日曜日だけは俺はメンバーの誰かの恋人になる。週替わりで三人それぞれとデートをするのだが、みんな俺みたいな恋愛経験皆無の人間でも優しくエスコートしてくれて、本物の恋人みたいに扱ってくれて、ときめかせてくれる。そんな風に過ごすうちに、俺もメンバーのことを少しずつ知っていって、気付けば純粋に彼らとのデートの時間を楽しむようになって——

そして、あっという間に半年が過ぎた。

半年前から企画していたワンマンライブはもう目前。
本番が一週間後にまで迫っていた。
この半年間はワンマンライブの準備でずっとバタバタしていて大忙しだった。告知をしてフライヤーを作って、新曲を用意してセトリを組む。新曲も一曲だけではなく、俺は歌詞を書いたり、歌の練習をしたり、ギターを覚えたりレコーディングをしたり……それに加えて大学の講義やテスト、バイトなんかもこなしていたので、長期休暇を挟んだとはいえ結構ハードな日々だった。
当然、忙しかったのは俺だけではない。他のバンドメンバーも俺と同じくらい、もしかしたら俺以上に忙しかっただろう。メンバー全員、仕事や学業と両立しながらの準備期間。忙しくないわけがない。そんな中でもメンバーの誰一人として不満など言わなかったし、相変わらず週末には時間を作って俺とデートしてくれていた。
まあ、律儀に毎週末しっかり予定を空けている俺も俺なのだけど……。

……最近、困っていることがある。
メンバーの誰一人として、俺との恋人ごっこに一向に飽きる様子がないのだ。

俺は平凡でつまらない人間だから、少しすればすぐに飽きるだろうと思っていたのだ。メンバーの皆……クリス先輩も、透輝さんも、蛍も。彼らは全員とんでもなく美形だし、それぞれが魅力的な人だから、当然女の子にもめちゃくちゃモテる。俺と付き合っている間もそれは変わらず、それこそ引く手あまたな状態だった。それなのに、だ。
なんだかんだでもう半年になる。それなのに彼らは半年前と何一つ変わることはなく、デートのたびに俺を好きだと言って、手を繋いで、キスをしてくれる。
それ自体には困っていない。当初の約束通り、みんな俺にキス以上のことはしないでいてくれるし、俺は俺でキスされるのは、別に嫌じゃないわけで……。
そう、嫌じゃないのだ。
クリス先輩からの優しいキスも、透輝さんからの熱いキスも、蛍からのちょっと乱暴なキスも……全部、嫌じゃない。唇を合わせるたびに心臓がドキドキして、身体が熱くなって、どうしていいかわからず頭がくらくらする。

俺っておかしいのかな。
三人全員に、ドキドキしているなんて。

俺はいつか、あの三人の中から一人を選ばなければならない。そういう話ではあったけど、そもそも俺は最初から選ぶ気なんかなかった。選ぶまでもなく、皆すぐに飽きると思っていたから。
それなのに、気が付けば半年もこの関係性が続いてしまっている。これは俺にとって大きな誤算だった。
俺にとってバンドメンバーは三人とも同じくらいかけがえのない存在だ。そこに序列などない。一人でも欠けてはいけないと思っているし、誰もを大切に思っている。それは今も変わっていないけど、あれだけの美形と半年も甘いデートを繰り返してきたものだから、元より恋愛対象が男性のみである俺は少しずつ、少しずつ彼らに絆されてきてしまっていた。
自分でも自覚はある。うだうだ悩んで散々引っ張った挙句に三人全員が好きだなんて、最低だと。こんなの不誠実だと。
彼らはずっと俺の答えを待っていてくれている。ゆっくりでいいと何度も言ってくれるし、約束だって守ってくれる。それなのに、俺はいつまで経ってもどうしても選ぶことができないし、迷う気持ちとは裏腹に、日を追うごとにメンバーに対して尊敬や親愛以上の感情が大きくなっていく。もうどうすればいいのか全然わからなくなってしまった。

俺の気持ちが決まるまで、この恋人ごっこは続くだろう。
でも俺の気持ちが誰か一人に傾くことは今後ないかもしれない。ずっとこのまま三人に甘え続けて、曖昧な関係を続けてしまうかもしれない。もしそうなったとしたら、彼らが俺に費やしてくれている時間が無駄になってしまう。そうなる前に、できるだけ早く結論を出したほうがいいのだろうけど……。
ワンマンライブも目前だというのに、俺の頭の中はそんな葛藤でいっぱいになっていた。



✦✦✦



「瑪瑙、だいじょうぶ?」
「え……あっ!」

ふいに声をかけられてはっと我に返る。自分の目前にはすっかりぬるくなったホットココアのカップと、心配そうに苦笑しながらこちらを見つめるクリス先輩がいた。
そうだ、今日は週末の日曜日。俺はクリス先輩とカフェデートの真っ最中だった。
ああ、俺ってば最悪だ。俺のためにわざわざ時間を作ってもらって、せっかくこんなにお洒落なカフェにも連れて来てもらったというのに、デートの途中で考え事に耽ってしまうだなんて。

「す、すみません。ちょっと、ぼーっとしちゃって……」
「ううん、全然いいんだよ。でも最近よくぼんやりしてるなって思って……。何か悩み事?」

やはりクリス先輩は、俺をよく見ている。
俺が最近ずっと心ここにあらずな状態だということも、とっくに気付いているようだった。

「えっと、その……」

相談……できるわけ、ないよな。
先輩も含めた三人のうち、誰を選ぶのかなんて。
三人全員にドキドキするようになってしまっただなんて。
もし言ったら、クリス先輩は俺に幻滅するだろう。先輩はすごく温厚な性格だし、俺なんかのこともこうして気遣ってくれるくらい優しい人ではあるけれど……いくらなんでも、そんなことを言ってしまえば俺への気持ちだって冷めるに決まっている。先輩のことは尊敬しているし憧れてもいるし、大好きだから……絶対に嫌われたくない。言えない。

「……ごめんなさい。ライブ前なのに、こんな」

結局、相談することはできずただ謝るだけになってしまった。
来週末にはワンマンライブが控えている。半年かけて皆で準備をしてきた、今のメンバーになってから初めてのワンマン。絶対に成功させなければいけないのに、俺は三人との関係に思い悩むあまり最近は練習にも集中できなくなってしまっていた。

「謝らないで。瑪瑙も悩んだりとか、不安なことだっていっぱいあるよな。無理に打ち明けなくても構わないけど、俺に……俺たちに遠慮なんかしなくていいからね」

クリス先輩の、まるで全てを見通しているかのような優しい言葉に思わず泣きそうになって、俺は唇をぐっと噛み締めた。
先輩はいつも俺が一番欲しい言葉をかけてくれる。それは彼が常に周りをよく見ていて、他人に対する心配りを忘れない人だからなんだろう。でも俺は、そんな先輩の優しさにつけ込むようにしながらこんな関係をズルズルと続けてしまっている。いいや、クリス先輩だけじゃない、透輝さんや蛍に対しても同じことだ。
こんなことでうじうじ悩んでいる場合じゃない。とにかく今はワンマンライブに集中しなくてはいけない。わかってはいるけど、こうして俺に「好きだ」と惜しげもなく伝えてくれて、毎回デートのたびに心を尽くしてくれるメンバーを思うと、こんな生半可な気持ちでワンマンに挑んではいけない気がしてくるのだ。

「先輩……あの」
「うん?」

俺が口を開くと、クリス先輩は優しい表情のまま続きを促してくれる。その顔を見ていると何となく「話しても大丈夫」と思えてきて、彼は本当に人を安心させるのが上手いなぁと改めて感じた。

「もし……もしも俺が、その、……バンドの皆のこと裏切ったりしたら、先輩はどうしますか?」

デートで話すような内容ではないし、クリス先輩に言っていい話でもない。そんな気持ちから少し濁したようにそう言ってみる。それを聞いた先輩は少しだけ考える素振りを見せたあと、意外な返答をした。

「うーん、どうもしないかな」
「えっ……」
「もし本当にそういうことがあったとしても、瑪瑙のことだからきっと何か理由があるんだって思いそう。だから恨んだり怒ったりっていうのはしないかも。そもそも、瑪瑙になら何されてもいいってわりと本気で思ってるしなぁ」

それから微笑みと共に「好きだからね」と付け足して、先輩は俺の頭を優しく撫でてくれた。
なんで。なんでこの人はこんなに優しいんだろう。俺、先輩からそこまで信頼してもらえるような男じゃないのに……。

「そういう時は、ちゃんと怒ってくださいよ……」
「俺だって怒るときは怒るよ?」
「じゃあ俺にもそうしてください」

さすがに叱られるだろうと思っていたのに、あまりにも予想外の反応が返ってきたので逆に「怒ってくれ」なんて言ってしまった。
クリス先輩はこんなことを言っているが、本当かどうかわかったものではない。正味、俺は先輩が怒っているところなど今まで一度も見たことがなかったからだ。
先輩は誰かを頭ごなしに怒鳴ったりすることはまずない。何か間違いを犯した人に対してもゆっくりと優しく諭して、その道を正してくれるような、そんな人だ。そんな先輩の存在に俺も他のバンドメンバーもたくさん助けられてきたけど、それでも彼にだってエベレストよりも高いとはいえ沸点がちゃんとあるはずで。
俺はこの人にとても甘えてしまっている。その自覚はある。
大学に入学してから、人見知りと女性恐怖症のせいで全然友達ができなかった俺に初めて声をかけてくれたのがクリス先輩だった。人気者で皆の憧れの的でもある先輩が、いくら同じ学科の後輩とはいえ地味で平凡な俺の存在に気付いて、ことあるごとに目をかけてくれるようになったのはいつからだっただろう。先輩曰くそれに下心があったことは否めないそうだが、どんな理由であれ俺は先輩にとても救われたのだ。
それに、先輩からの……その、写真を撮られたりだとか、不思議と俺の居場所を把握していたりだとか、そういうちょっとストーカーっぽいところも、俺はそんなに嫌ではない。むしろ今は、大好きな先輩からそれほどまでに気にかけてもらえて嬉しいくらいで……。
だからこそ、ではないけれど。でも、クリス先輩になら……。

「先輩はいつもすっごく優しいですけど……俺が間違ったことしたり、嫌な思いさせたりしたら、ちゃんと怒ってほしいです」

先輩に叱ってもらったら、諦めがつくかもしれない。
そんな自分本位なことを考えてしまう俺は、やっぱり最低だと思うけれど。

「……そっか。うん、わかった」

クリス先輩は何かを感じとったのか、それ以上は何も聞かずに頷いてくれた。
その言葉がたとえ嘘でも気休めでもいい。そう思っている。
俺が何をしでかしたとしても、先輩が俺を説教しなければならない義務なんてあるわけもない。だけどそれでも、俺が一番安心できる答えをくれる彼の優しさに、また心が救われたのだった。

「君からのお願いだからね。必ず約束するよ」

先輩はそう言ってから、すっとテーブルから身を乗り出して右腕を伸ばす。その手が俺の頬に触れたかと思うとすぐに先輩の美しく整った顔が近付いてきて、そのままキスをされた。

「ぁ、ん……」

やわらかくて、あたたかくて、ふわふわと夢見心地になってしまいそうなくらい優しいキス。俺はそんな先輩からのキスを目を閉じて受け入れる。キスの時に目を閉じるとより気持ちよくなれるということは、この半年で知っていた。
カフェの店内で、隅の方の死角になっている小さな席とはいえ、誰に見られるかもわからない状況。もし見られてしまったらと肝が冷えないわけではないが、それでも俺はクリス先輩からのキスを拒むことはしなかった。
先輩にキスをされるのが、恋人として求められることが嬉しいから。——好きだから。
先輩はこんな俺のことを好いてくれて、いつも肯定してくれる。しかしそんな彼の信頼を裏切るような気持ちを俺は今抱いてしまっているのだ。そう思うと、甘いキスに溺れながらも胸の奥がずきりと痛むのだった。



✦✦✦



ワンマンライブはもう目前にまで迫っている。
既にほとんどの下準備は完了していて、あとは練習あるのみ。今週の土曜に本番を控えていることもあって、バンド練習にも一層熱が入っていた。
——はず、なのだが。

「あっ……。ご、ごめんなさい!」

また歌詞が飛んだ。
今日でもう二度目だ。何週間も自主練して完璧に覚えたつもりだったし、レコーディングの時は大丈夫だったのに……。
ボーカルの俺が止まったことで、メンバーの演奏もぴたりと停止する。
ここ最近の俺は絶不調だった。
歌詞が飛ぶ。リフが飛ぶ。ミュートを忘れる。エフェクターを踏み損ねる。
普段は難なくできているようなことが、ワンマンライブ直前というこのタイミングになって全然できなくなっていた。

「瑪瑙、大丈夫か?」

俺の横でベースを演奏していた透輝さんが訝しげに声をかけてくるが、俺は俯いたまま何も答えることができない。
調子が悪い、というレベルではない。ここまでミスを連発するのはさすがに尋常ではないと、メンバーも皆気付いているだろう。それでも俺自身ですら何故これほどまでの不調が続いているのか、皆目見当がついていなかった。
そりゃあメンバーとの“恋人ごっこ”にそろそろ終止符を打たねばと頭を悩ませているのは事実だ。それにより多少はワンマンライブの準備に集中できていない部分も確かにあるだろう。だけどたったそれだけで、ここまで歌えなくなるものなのか?
バンドに加入して以来いまだかつてないほど酷いスランプに、焦りの感情が大きくなる。今はワンマンライブ直前、バンドにとって最も大事な時期。よりにもよってどうしてこのタイミングで。

「すみません……ちょっと、体調が……」

心配そうにこちらを見ているリーダーに、喉に力を込めてなんとかそれだけ返した。
体調が良くないのは、真っ赤な嘘というわけでもなかった。不調によるストレスからだろうか、最近少し身体が重いし、夜もあまり眠れていない。日によっては片頭痛のような症状もあった。

「……そうか。教えてくれてありがとう。悪化したらいけないし、練習はここまでにしよう。みんな今日はゆっくり休んで大事をとってくれ」

きっと何かを察しているであろう透輝さんは、しかし俺に何も聞くことはなく練習を締めた。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。せっかくのワンマンライブ、みんな楽しみにしていて、半年かけてたくさん準備してきたのに、このままでは俺が全てを台無しにしてしまう気がしてならなかった。このまま本番まで不調が続いて、大事なステージで失敗してしまったらどうしよう。ライブ前なのに自己管理のひとつもできない奴だって失望されたら。嫌だ、嫌われたくない。このバンドは俺が一番自分らしくいられる場所で、バンドメンバーの皆は何よりも失いたくない、一番大切な人たちで……。

「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。ボーカルは特に身体のコンディションが重要だからな。こういう時に根を詰めすぎても裏目に出るだけだ」

涙目になりそうになりながら謝罪をするが、透輝さんは俺を責めることはせずにフォローの言葉をかけてくれた。
ライブ直前、メンバーは皆もっと練習したいはずだ。それなのに俺のせいで迷惑をかけてしまっている。足を引っ張ってしまっている。

「瑪瑙、ワンマンはこれから先何度でもできる。そんなことよりも、お前の体調のほうが大事だ。だからくれぐれも無理はしないでくれよ」

“そんなこと”、なんて、透輝さんが一番そう思っていないはずなのに。
何度メンバーが入れ替わっても、何度解散の危機に迫られても、そのたびにリーダーである彼が知恵を絞り人脈を駆使して存続させてきたバンド。それが『DIAMONDダイアモンド』だ。このバンドで歌えることを俺は誇りに思っているし、今回のワンマンライブでは今までにないくらい最高の歌を歌いたい。そう思っているのに、俺の身体は俺の思い通りに動いてくれない。それがとれも歯痒かった。

「大丈夫です。ライブはやります、絶対」

俺は透輝さんに向かってはっきりとそう言った。
ライブ本番まで、練習の機会はあと一回だけある。それまでに何がどうなろうとも必ず調子を取り戻さなければならない。俺は心の中でそう決心して、マイクスタンドを握っていた手にぎゅっと力を込めた。


そうして、予定よりも少し早めに練習は解散となった。
各々片付けをしてスタジオを出る。帰路につく間際、透輝さんもクリス先輩も俺を労う言葉をかけてくれた。焦らなくていい、無理をしなくていい、と。
そんな優しさも、今はちょっと痛い。俺の調子が悪いのは俺の問題で、俺に責任があるのに、二人にこれほどまでに気を遣わせてしまって心底申し訳ない気持ちになった。

「……あの、神崎先輩」

すぐに帰る気にもなれず、スタジオの入口でひとり俯いていると、最後に残った蛍が遠慮がちに声をかけてきた。おそらく話しかけるタイミングをずっと伺っていたのだろう。黙ったままの俺に、蛍は慎重に言葉を選ぶようにしながら言った。

「その……ほんとに、思い詰めないでくださいね? 先輩が頑張ってるのも、バンドのこと凄く大事に思ってるのも、俺、ちゃんと知ってますから」

ああ、蛍は優しい子だな。なんでこんな良い子が俺の後輩なんだろうって、たまに思ってしまうくらいに。
普段は口数が少なめの蛍がこうしてわざわざ練習後に声をかけてくれるということは、今の俺はそれくらい見ていて不安定だったのだろう。俺自身ですらそう思うくらいだから、俺と一番付き合いが長い蛍が同じように感じていてもおかしくはなかった。
そんな優しい彼に、助けてほしい……という気持ちはある。だけど相手は蛍だ。
高校時代からずっと俺を『先輩』と呼んで慕ってくれる蛍。可愛い後輩に弱味なんか見せたくない。俺なりに頼れる先輩でいたい。そうは思っているのだけど、今はもう蛍しか頼れる人がいないというのもまた事実だった。

「………ねえ、蛍」
「なんですか?」
「俺んち、泊まってかない?」

俺の言葉に、蛍は「えっ」と声を漏らして目を丸くする。

「で、でも先輩、体調。ちゃんと休まないと……」
「帰ったら休む。だけど、なんか今日は一人になりたくないんだ……。やっぱり、無理?」

俺がそう言うと、蛍は少し悩んだ様子を見せたものの、最終的には俺の家に来ることを了承してくれた。
……俺って本当にずるいな。
俺に対して蛍が好意を向けてくれているということを知っているが故に、急にこんな我が儘を言っても彼なら受け入れてくれるかも、なんて思っていたのだから。



✦✦✦



「お邪魔します」

俺の家に到着すると、蛍はいつものように丁寧に挨拶をしてから中に上がってくれる。そんな蛍を横目に、俺は部屋を明るくするとすぐさま夕食の準備に取りかかった。
バンド練習が早めに終わったとはいえ、そもそも開始時刻が既に夜だったから今は夕食にするには少々遅い時間になっている。しかし俺も蛍も昼以降何も食べておらず、かなり空腹だった。簡単なものでいいから何か作ろうと、俺は冷蔵庫を覗き込んで使えそうな食材がないか探す。

「んー、卵があるけど……。これなら帰りに何か買ってくるべきだったなぁ」
「先輩、いいですから。はやく休まなきゃ……」
「でも蛍も夕飯まだだろ? 俺が無理言って来てもらったんだし、食事くらい出させてよ」

正直言うと、最近ろくに食べられていない。
本当に何も食べなかったらライブ前に倒れてしまうから、気力が湧かない時でもコンビニ弁当やファストフードなんかを適当に買って食べてはいたけど……自炊は、そんなにしていないな。一人暮らしを始めて以降、節約のために普段から自分の食事は自分で作るようにと心がけていたはずなのに。
そんな食生活が続いていたのもあって、現在の俺の家の冷蔵庫の中はあまり賑やかとは言えなかった。あるものといえばあと数日で賞味期限が切れそうな卵と、玉ねぎなどちょっとした野菜の姿がちらほら。そして調味料がいくつか。ああ、あと戸棚のほうに缶詰が残っていたかもしれない。何の缶詰だったっけ……。
缶詰の具材にもよるけど、炊飯器でご飯を炊けば家にある材料だけで何かしら一品料理が作れそうな気がする。蛍を待たせるのも申し訳ないから、急がないと。

「たぶん、なんとかなると思う。ごめんな、すぐ用意するから……」
「待ってください、俺が作ります」
「えっ?」

立ち上がって準備に取り掛かろうとした俺に、蛍が信じられないことを言ったのでつい聞き返してしまった。
聞き間違いじゃなければ、俺が作りますって言った? 今まで幾度となく蛍をうちに泊めたことがあるけど、彼がこんなことを言ったのは初めてだ。蛍は実家暮らしだから、料理なんて普段全然しないだろうに……。

「大丈夫だよ、蛍は部屋で待ってて? お客さんなんだから」
「ダメです。先輩『帰ったら休む』って言いましたよね? 夕飯くらい俺が作るんで、先輩は休んでてください」

確かに、帰ったら休むとは言ったけど……。
蛍にキッチンを使わせること自体はまったく構わないけれど、練習で疲れているはずの彼にこんなことをさせてしまっていいのだろうか。そもそもその練習で皆に迷惑をかけたのは俺だし、家に呼んだのだって俺なのに。
そんな俺の心情を見透かしたかのように、蛍はこちらを真っ直ぐ見据えたまま更に追撃してくる。

「先輩が休むって言ったから来たんですよ。約束は守ってください」
「う……でも」
「いつもご馳走になってますし、今日くらいは……ね?」

うまく言い返せずにたじろく俺に追い討ちをかけるように、最後は上目遣いでおねだり。女の子も顔負け、男だとわかっていても可愛い。何を隠そう、俺は蛍のコレになかなか弱いんだ。

——結局、最終的に夕食の調理を蛍に任せるということで押し切られてしまった。
蛍曰く「大丈夫です!」とのことだったが、それでも俺は彼が料理をしている姿なんて今まで見たことがなかったゆえに、どんな物が出てくるのだろうと待っている間は気が気ではなかった。決して蛍を信用していないわけではない。でもやっぱり、申し訳ない気持ちが大きかったし。
慣れないことをして怪我をしないといいけど……。



「お待たせしました」

それから数十分後。食卓には二人分の食事が並んでいた。
どうやら買い置きの缶詰はトマト缶だったらしい。家にある数少ない食材で蛍が作ってくれたのは、トマトソースがたっぷりかかったオムライスだった。

「わ、おいしそう!」
「そうですか……?」
「うん。料理できるって本当だったんだな、すごいよ蛍!」

俺が手放しで称賛すると、蛍は「そんな大したことじゃ……」と口にしながら頬を赤くする。

「さ、冷める前に食べましょう」
「そうだね。いただきます」

蛍に促され、俺はテーブルについて両手を合わせた。蛍も向かい側に座ってスプーンを手に取る。
結論、オムライスはとても美味しかった。
卵は結構硬めというか火を通しすぎてちょっと焦げ目がついていたし、形も整っていなくてぐちゃぐちゃだった。チキンライスに入っている野菜も大きさがバラバラで、一体どんな切り方をしたのだろうと調理時の包丁捌きが気になってくる。それでも俺のために一生懸命作ってくれたのだと思うと、どれもこれも些細なことにしか感じなかった。味のほうは問題ない……というか、とても美味しいし!

「すっごくおいしいよ!」
「あ、ありがとうございます……出すの遅くなってすみません。その、卵割った時に殻が混ざっちゃって……取り除こうとしてたら、時間かかっちゃって」

照れ隠しなのか、蛍は少し俯きながらぼそぼそと言う。そんな彼に俺は微笑みを返した。

思えば、何週間かぶりにあったかいご飯を食べたなぁ。それに最近は胃に無理矢理詰め込むようにしてものを食べていたから、こんなにお腹も心も満たされる食事は久しぶりだった。蛍が作ってくれたから、蛍が一緒だから。きっとそれが理由なんだろうなと思うと、食事中だというのに少しドキドキしてしまった。
それから片付けも蛍がやってくれて、交代でお風呂に入って、寝る支度をする。俺の部屋のベッドはシングルサイズで、ここに男二人で寝るのは無理があるので、蛍が泊まりに来た時は床に予備の布団を敷いて片方はそちらで眠ることになっている。俺は別にどちらでもよかったんだけど、蛍が「ちゃんとベッドで休んでください」と譲らなかったので、今日は俺がベッドを使わせてもらうことになった。

「………蛍、まだ起きてる?」

部屋を暗くして、布団をかぶってから30分ほど。
静寂のみが続いていた空間に、俺の一言はやけに響いた気がした。

「……」

蛍からは何も返ってこなかったが、もぞ、と身じろぐ音がしたので、声は聞こえているのだと思われた。
いや、聞こえていなくても構わない。俺は彼の返事を待たずに言葉を続ける。

「今も、俺のこと好き……?」

囁くような声でそう問いかけてみると、しばしの沈黙の末に蛍から小さく返事が返ってきた。

「…………好き、です」

好き。その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓がとくんと高鳴る。
蛍が、俺を好きと言ってくれた。こんなに駄目なところを見せてもなお、まだ俺のことを好きでいてくれているんだ。
この半年で蛍とも幾度となくデートをしてきた。その過程で、蛍は高校時代から俺が好きだったということも打ち明けてくれた。俺は平凡で、歌くらいしか取り柄がなくて、その歌ですら物凄く上手いとかとてつもなく才能があるとか、決してそういうわけではない。それなのになんで俺なんかを、って思うけれど。
俺は先程よりもほんの少しだけ声量を上げて、蛍に言う。

「じゃあさ……俺のこと、抱いてみない?」
「っ……!?」

暗闇の中、蛍が息を呑んだのがわかった。
俺は身を起こしてベッドから降りると、布団に寝ている蛍の背中に触れる。彼の細い肩がビクリと揺れたのを見て、俺はその手をそっと離した。

「やっぱり、嫌……?」
「い、いやじゃ、ないです……でも」

半年前、俺と初めてデートをした日に蛍は言っていた。
俺のことをずっとそういう目で見ていたと。俺とそういうことがしたいのだと。
だから、蛍だったらこんな俺でも抱いてくれるかもしれない。
もしも今ここで蛍のものになってしまえば、もう三人のうち誰を選ぶのかと悩まなくてもよくなるし、三人といつまでも中途半端な関係を続けなくてもよくなる。——きっと、楽になれる。
もうバンドの皆に迷惑をかけたくない。ワンマンライブも絶対に成功させたい。でも、このままじゃメンバーの今までの努力が全て水の泡になってしまう。俺のせいで。俺が上手く歌えないせいで……。
そうなるくらいなら、もう全部壊してほしい。皆のことも、バンドのことも、考えれば考えるほどつらくて苦しくて。もう何も考えたくない。

「ダメ、かな……?」

何か温かいものが頬をつたった。それに気付いた途端、堰を切ったように次から次へと目から涙が溢れ出す。
俺って本当に最低だ。自分が楽になりたいからという何とも独りよがりな理由で、蛍に抱かれようとしている。蛍が俺を好きなことを逆手に取って、だ。こんなの蛍にも、クリス先輩にも透輝さんにも不誠実だ。
わかってはいるけど、もう色々と限界だった。

「……っ」

手の甲で目元を拭ってみるが、涙は止まってくれない。
抱いてくれと言ったと思ったら今度は泣き出した俺を、蛍はどう思っているだろうか。寝ようとしていたところに急にこんな姿を見せられて、わけがわからないかもしれない。戸惑っているかもしれない。でも後輩の前で涙を堪えて取り繕うことすらできないほどに、今の俺は精神的余裕がまったくなくなっていた。

「……せんぱい」

ついに嗚咽が漏れはじめた俺のそばで、蛍が布団からゆっくりと身を起こした。そして、優しい手つきで俺の涙で濡れてぐちゃぐちゃになってしまった頬に触れる。
このまま抱いてもらえるのかな、と一瞬思ったけれど。

「先輩、……ダメだよ」

蛍が発したその言葉が、先ほど俺が言った「ダメかな?」に対する答えなのだと理解したとき、俺の中で何かが決壊した。
純粋に俺を好いてくれている蛍とこんな形で、こんな理由で身体を繋げるなんて、ダメに決まっている。それをわかっていた上で蛍にこんなことを頼む自分はなんて酷い奴なんだろう。身勝手で、利己的で、先輩失格だ。もとから自分のことなんて大して好きではないけれど、今は心の底から自己嫌悪で死にたい気分だった。
しかし蛍は、泣き続けている俺の身体を細い腕でぐっと引き寄せて、そのまま抱きしめた。

「週末、ライブでしょ? ちゃんと自分の身体大事にして、安静にしよう?」

それはまるで幼子に話しかけるような、優しい口調だった。
……ライブ。

「先輩。俺……先輩のことも、バンドのことも、どっちも大切に思ってるよ。だからこそ今回のワンマンライブ、四人全員でちゃんと成功させたい。先輩も同じ気持ちだよね?」

俺は黙ったままこくりと頷いた。
そうだ。もうすぐ、とても大事なライブがある。もう全部どうでもいいって思ってしまいたいのに、たったひとつ、そのことだけはまだ諦めきれないでいた。
ライブはやり直しなんてできるわけがない。だから絶対に後悔がないように、万全の状態で臨まなければならない。俺が歌わないと。俺しかいない。俺が調子を取り戻さない限り、週末のワンマンライブは成功しないんだ。
でも、どうすればいいんだろう。全然わからない。

「……あのね、先輩。俺、先輩がすごく誠実な人だって知ってるよ。だからこそ、俺たちのことで先輩がいっぱい悩んじゃってることも」
「………」

蛍は俺の背中を落ち着かせるように撫でながら、ゆっくりとした口調で言葉を続ける。俺は何も考えることができないまま、蛍のいつになく優しい声音に耳を傾けていた。

「でも俺は……そうやって俺たち一人一人と真剣に向き合おうとしてくれる先輩のことが、すごく好きだ。だから先輩がどういう選択をしたとしても、先輩のこと嫌いになったりなんか絶対しない。きっと他の二人も同じこと言うと思うよ」

……蛍の言う通りだ。
俺は今、とてもとても悩んでいる。俺を好きだと言ってくれるメンバーの気持ちを、誰一人としてないがしろにはしたくない。だからここで投げ出すのは間違っている。ちゃんと向き合って、考えて……できれば、彼らがくれたのと同じだけの気持ちを俺も返したいと思っている。だけどそれが彼らにとって良い決断になるとは限らないから、答えを出すことにまだ迷いがあるのだ。
だけど……きっとメンバーの誰も俺を嫌いになったりしない、と言ってくれた蛍。
俺に何も聞かずに「瑪瑙になら何をされてもいい」と言ってくれたクリス先輩を、不調続きの俺を責めることなく気遣って心配してくれた透輝さんを、蛍のその言葉を聞いたときに思い出した。

「先輩のこと、大好きだよ。たとえ他の人のものになったって、俺は先輩が幸せでいてくれるならそれでいい。俺たちのために我慢しないで?」

その言葉を聞いて、俺はくすりと音を出して僅かに笑ってしまった。
嘘ばっかり。三人の中で蛍が一番、こと恋愛に関しては独占欲が強くて嫉妬深いんだって、半年も付き合っていればさすがにもう知ってるよ。
それなのに、俺がこれ以上悩まないようにと優しい嘘をついてくれる。そんな蛍のことが、俺は大好きだ。

「………うん。ありがとう」

俺はそう言って、俺の身体を抱き締めてくれていた蛍に寄りかかり、体重を預けた。それから「変なこと頼んでごめんね」と先程のことを謝罪すると。

「謝らないでください! む、むしろ俺にそういうこと言ってくれたの、むちゃくちゃ嬉しかったっていうか……。でもあの、今先輩のこと抱いちゃったら今度こそ約束破ることになるし、絶っ対に加減できないんで……!」

途端に頬を赤くして、あたふたとした様子でそんなことを言う蛍がとても可愛くて、俺は自然と笑みをこぼす。いつの間にか涙は止まっていた。
そんな俺の顔を見た蛍も、安心したように微笑んでくれる。

「だから今は、これだけ」

蛍はそう言ってから俺の後頭部をぐっと引き寄せて顔を近付けると、薄く綺麗な唇を俺のそれに押し付けるようにしてキスをした。
蛍からのキスはいつもちょっと強引だ。拒否などさせるものかと言わんばかりに身体をしっかりと押さえられて、唇を奪われる。そのたびに俺は蛍って意外と力が強いんだよなぁとしみじみ思うのだ。
でも俺は、そんなキスも好き。——そんな蛍も、好き。

俺がまだ迷っていること、蛍には見透かされていた。たぶん、クリス先輩にも。もしかしたら透輝さんにも。
それなのに皆は俺に何を言うでもなく、ただ答えが出るのを待ってくれている。今の俺を受け入れてくれて、その上で好きだと言ってくれる。スランプのことだってまだ何も解決していないけれど、皆俺を急かすようなことは言わないし、そればかりか俺の身体が何よりも大事だとまで言ってくれる。
……きっとそれは、俺ならできるって心の底から信じてくれているからで。
まだ不安はある。迷いだってある。だけど今は、俺を信頼して待ってくれているメンバーのために、今の俺にできうる精一杯で歌いたい。純粋にそう思ったのだった。



✦✦✦



——そして、ワンマンライブ当日。

会場入りして、ライブハウスの店長さんやスタッフさんに顔合わせと挨拶をさせてもらって、機材を組んでリハーサルをして、段取りや重要な演出の最終確認。……開場までの時間は目まぐるしく過ぎていった。
あのあと、最後の練習では少しだけ調子が戻っていたように思う。だけど一回の練習時間は限られていたし、そこでも全くミスをしなかったというわけではなかった。先程リハーサルもしたけれど、そこでは軽い音出しと機材の調整程度の確認しかしなかったため、しっかりと通しで練習ができたわけではない。だから今日のステージで自分の中の100%をちゃんと出し切ることができるのか、不安は大いに残っていた。

開場時間になり、ライブハウスにお客さんが入ってくる。俺たちは楽屋で最終チェックをしながら待機だ。
ステージの袖から観客席をちらりと覗いてみると、今までにないほどたくさんの人たちが来てくれていた。何人も、何十人も、見知った顔からまったく面識のない人まで。
この人たちは全員、俺たちの演奏を楽しみに今日ここに来てくれている。曲を聴いてくれて、チケットを買ってくれて、そして今日のワンマンライブという大舞台を見届けようと時間を作ってここまで来てくれている。この人たち全員を満足させられるような歌を、はたして今の俺は歌うことができるのだろうか。皆の期待を裏切らないような結果を残せるのだろうか。
そんなことを思えば、当日の忙しなさやアドレナリンにより薄れていた緊張が一気に襲ってきて、俺はこの上ないプレッシャーに苛まれた。

大丈夫。この数日間、なんとか調子を持ち直そうと出来る限りのことはしてきた。歌詞だって暗記しているし、ギターのコード進行も身体にしっかり刻み込んでいる。メンバーも俺のことを信じてくれている。観客の皆だって、多かれ少なかれ俺の歌を気に入ってくれて、だからこそライブで生歌を聴きたいと言って来てくれた人ばかりだ。
だから大丈夫。あとは本番、思いきりやるだけだ。
わかってはいても俺の緊張は一向に解けることはなく、心臓は張り裂けそうなくらいにドクドクとやや速い脈を刻んでいる。
じきに開演時刻になる。もう躊躇している場合ではない。俺はステージの袖で大きく深呼吸した。

「お、瑪瑙めのう。ここにいたのか」

その時、背後から俺を呼ぶ声がした。
振り返ってみると、そこには今回のワンマンライブの主催者であり、バンドリーダーでもある透輝さんの姿。
透輝さんは俺のそばまで近付くと、緊張のあまり無意識に強張っていた俺の両肩に軽く触れて、苦笑する。

「ガチガチだなぁ。肩に力が入ってるぞ」
「そ、そうですね……。すごく、緊張してます」

俺がそう返すと、透輝さんは「リラックス」と言ってその大きな手で俺の頭をぽんぽんと撫でてくれた。それにより俺の身体からほんの少し力が抜ける。
透輝さんに撫でてもらうの、好きだ。あったかくて、優しくて、頼りがいのある手。今まで何度も何度も俺を助けてくれて、背中を押してくれた手。……そんな手に触れられると、嬉しいのと同時にどうしようもなくドキドキしてしまう。

「まいったな。そんな可愛い顔されたら、こっちがどうにかなりそうだ」

柔らかく微笑んだ透輝さんにそんなことを言われて、熱くなっていた頬がもっと熱くなった。
可愛い、だなんて。こんなときにまで俺を口説かなくたっていいのに……。
透輝さんは俺をよく『可愛い』と言う。俺は平凡で目立たなくて、透輝さんみたいな才能やカリスマ性もない、ただ歌が好きなだけの普通の大学生だというのに。
だけどこれも彼なりの気遣いなのだと、俺は知っている。俺があまりにも緊張した様子だったから、少しでも気が紛れるようにとあえてこういうことを言ってくれたのだろう。
透輝さんは凄い人だ。ふざけているようでストイックだし、日頃からメンバーをのことをよく観察していて、必要以上に干渉はしてこないのに本当に困っている時には真っ先に手を差し伸べてくれる。そんな彼のことを、俺は心から慕っているし、尊敬している。

「あ、あの……透輝、さん」
「ん?」

だからこそ、ライブの前にちゃんと伝えておかないと。
俺は透輝さんとしっかり向き合うと、口を開いた。

「えっと……練習のとき、たくさん迷惑かけてすみませんでした。だけど、透輝さんが何も聞かずにいてくれたのは、俺のこと信じてくれてたからなんだって思ってます。今も正直、完璧にできるか全然わからなくて、不安ですけど……。でも俺、俺のこと信じてくれたメンバーのために、今日は全力で歌うつもりです! が、がんばりますから、その……」

謝らなきゃいけない。お礼も言わなきゃいけない。頑張りたいという思い。でも不安も残っていること。それでも最後までやり抜きたいこと。
伝えたいことが沢山あるのに、上手く言語化できない。しどろもどろになりながらも何とかここまで言うことができたが、俺は今の気持ちを彼にちゃんと告げることができただろうか。自分でも何を言っているのかよくわかっていなくて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
そんな俺の拙い言葉を受けた透輝さんは、ひと言。

「完璧じゃなくていい」

そう言った。

「えっ?」
「“完璧な歌”だったら音源を聴けば済む話だろ? 今日ここに来てくれている人は、皆そんなもの望んじゃいないよ。だから瑪瑙、好きにやれ。俺も好きにやる。失敗したっていい。何が起こっても一回きりだから、この瞬間が財産になるんだ。ライブってそういうもんだ。……と、俺は思ってる」
「……」

考えたこともなかった。
ライブだから。メンバー全員で一生懸命練習してきた上で本番を迎えるのだから、皆に迷惑をかけないように完璧にやらなければいけないと思っていた。一つのミスもなく段取り通りに全てをこなすことが、最善で最高の結果に繋がると思っていたのだ。
だけど、皆が俺に望んでいるのは“完璧な歌”じゃない。少なくとも透輝さんは、俺が好きに歌うことを望んでくれている。今日までに作ってきた大切な曲の数々をどう歌うのかを、俺に委ねてくれている。それがどれほどのことなのか、大して頭の良くない俺でも……わかる。

「不安に思うのも、失敗を恐れるのも、全然いいじゃないか。何が起こるかわからない方が面白いだろ?」

戸惑う俺にそう言って笑いかけてくれる透輝さんは、開演直前で薄暗いライブハウスの中でもとても眩しく感じた。
ああ、この人は本当に音楽が……ライブが好きなんだ。
バンド史上初めての規模のワンマンライブ、透輝さんにだって心配事がないわけではないだろう。でもそんな緊張もプレッシャーも全部楽しさに変わってしまうくらいに、彼は今この瞬間すべてを楽しんでいる。大舞台でライブができることを喜んでいる。
そんな透輝さんだから、俺は好きになったんだ。

「透輝さん、その……ありがとうございます」

俺が礼を述べると、透輝さんはまた嬉しそうに笑ってくれた。
この人の優しさに、信頼に、決して恥じることのない歌を。俺のことを、俺の歌を好きだと言ってくれたメンバーに、ファンの皆に、今まで積み重ねてきた全部を見せられるように。

「もう開演時間だな」

透輝さんのその言葉を聞いて時刻を確認すると、もう開演まで5分を切っていた。スタンバイの時間だ。
楽屋で待機していたメンバーもステージ袖に集まってきて、それぞれが透輝さんと俺に声をかけてくれる。といっても、お互いにもう語ることは殆ど何もなかった。このとき交わした言葉といえば「頑張ろう」とか、そのくらいだったように思う。でも、それで充分だった。ステージに上がる直前、クリス先輩は俺の背中をぽんと叩いて鼓舞してくれて、蛍とは片手でハイタッチをして。

「瑪瑙」

俺も二人に続こうとしたら、透輝さんに名前を呼ばれて身体を引き寄せられる。突然のそれに驚いて透輝さんの顔を見上げると、そのままぎゅっと抱き締められた。

「………すこしだけ、いいか?」

それから俺の目をまっすぐ見つめて、透輝さんが言う。
何が、とは聞かなかった。彼のその瞳が全てを語っていたから。
俺は透輝さんをしっかりと見つめ返すと、何も言わずに微笑む。言葉はなくとも彼にはそれで伝わったようで、気付けばどちらともなく唇を重ねていた。

「ん……」

ステージ上からも観客席からも死角になっている、ステージ袖のごく狭いスペース。そんな場所で今、俺は透輝さんとキスをしている。心地よさのままに目を閉じると、透輝さんの熱く蕩けるような舌遣いを過敏なくらいに感じ取れた。
いつまで経っても拙い俺とは違って、透輝さんはキスがとても上手い。これが恋愛経験の差なんだろうかと思いつつ、俺は無意識のうちに爪先立ちになって懸命に彼と唇を合わせていた。
そして……そのままどのくらいが経っただろうか。いや、時間にしてみればほんの数十秒程度だったと思う。それでも俺はまだそれだけの時間キスをし続けることに慣れておらず、そのせいか時間の流れもやけにゆっくりと感じた。

「……透輝さん」

ゆっくりと唇が離れていき、また彼と目が合う。
俺が呼吸を整えながらも名前を呼ぶと、透輝さんは少し顔を赤くしながらも、いつもの明るい調子で笑って。

「行こうか」

そう言って、俺の腕を引いてくれた。

——開演まであと2分。
ライブ直前の、隠しきれない高揚感と少し張り詰めた独特の空気に、ライブハウス全体が包まれている。
俺はドキドキと高鳴る心臓を抑えながら、透輝さんと共にステージへと足を踏み入れた。
不思議ともう怖くはなくなっていた。



✦✦✦

- side 透輝 -



バンド史上かつてない規模で開催されたワンマンライブ。
今日この日を迎えるまでに、本当に色々なことがあった。

バンドを結成したのは、俺がまだ学生だった頃。『DIAMONDダイアモンド』というバンド名もその結成当時の初期メンバーと考えたものだった。今はもう当時のメンバーは俺以外全員このバンドを去っていて、今でも付き合いがある奴からほとんど縁切り状態の奴まで様々だ。それぞれがそれぞれの道を選び歩んでいく中、結成から数年が経過した現在も俺だけはしつこくバンドを続けている。
やめる機会はいくらでもあった。
就職活動が始まった時。社会人になった時。メンバーが入れ替わり続けてバンドの原形がほぼなくなった時。
しかし結論を言うと、それでも俺はやめられなかった。
音楽が好きだった。曲を作るのも、楽器を弾くのも、ライブをするのも。俺がそれまでの人生で経験してきた何よりも、このバンドで音楽をやることが一番楽しいと思えたから。だから何があってもやめることはなかったし、出来る限り続けていきたいと思っていた。
しかし俺の周りは違った。結成当初付き合いのあった音楽仲間で、今も音楽を続けている奴はかなり少ない。就職して忙しくなったから、別の趣味を見つけたから、結婚の予定があるから……どれも納得のいく理由だ。俺も俺で、好きで続けてはいるものの何故そこまでしてバンドをやっているのか自分でわからなくなっていた。まだバンドやってるの?と聞かれることも多くなったように感じてきていて、それがまた拍車をかけるように俺を滅入らせた。
そろそろ潮時か、と思っていた矢先。
——彼と出会った。

一目惚れだった。
クリスに連れられておずおずとスタジオに入ってきた彼は、人見知りなのか俺と目を合わせようとはしなかった。それでも俺はついその姿を一方的に凝視してしまって、彼は余計に怯えていたように思う。
正直なところ、見た目だけでもモロタイプだったんだ。俺はバイだから過去には女とも男とも交際経験があったが、彼を一目見た瞬間、それまでに一度も感じたことがないくらいの衝撃を受けた。——そして、その衝撃を塗り潰すかのような、彼の歌声。技術はまだ荒削りだったものの、彼の歌はその心を映すかのように真っ直ぐでひたむきで、清廉だった。
俺は彼に……神崎瑪瑙に心底惚れ込んだ。すぐさまボーカルとして彼をバンドに迎え入れ、彼のためにいくつもの曲を書いた。バンドのリーダーとして彼にしてやれることは何でもしてきたし、一緒に過ごせる少ない時間の中で可能な限り彼に目をかけて、弟のように可愛がった。瑪瑙も最初は俺のことを怖がっていた様子だったが、ライブを重ねるごとにだんだんと懐いてくれて……。
そして、俺は告白した。完全にダメ元だった。それでも彼は大して付き合いの長くない俺の気持ちを真剣に受け取って、懸命に悩んでくれた。初デートで「大好き」と言われた時は心臓が止まるかと思った。

俺は同じステージで歌う彼に目を向ける。
今夜の彼の歌は、今までにないほどに情熱的だった。
色々なことで悩んでいたのを知っている。俺が無闇に口を挟むべきではないと、今日の日まであえて何も意見はしなかった。彼がどんな結論を出そうとも受け入れるつもりでいたから。
だが彼は、それでもこのバンドで歌いたいと言ってくれた。

普段から謙虚で大人しくて、自己主張が苦手な彼。そんな彼は今、ステージの中心で色とりどりの照明を浴びながら誰よりも輝いている。皆が彼の真摯な歌に聴き入って、彼の音楽に間近で触れて、そして虜になっていった。
その歌を聴きながら、俺は今日までの全てに感謝した。

神崎瑪瑙。お前はダイヤモンドの原石だ。
その唯一無二の輝きが俺の心を掴んで離さない。
願わくばこれからも……俺のそばでずっとずっとその歌声を聞かせてくれ。



✦✦✦



その時間は、思い返してみてもあっという間だった。
四人で音楽を奏でることが楽しくて、……あまりにも楽しすぎて。普段のライブよりも圧倒的に長かったはずなのに、20曲近くをほぼ休憩なしで歌ってもう体力も気力もくたくたなはずなのに。それでも堪らなく楽しくて、幸せな時間だった。
今日歌った曲すべてが、皆で作り上げた大切な曲だった。その曲たちを、俺は精一杯歌った。上手く歌えていたか、ちゃんと演奏ができていたか、全然わからないけど。
歌っている間のことは、今でもよく思い出せない。何を考えていたのか……いや、もはや何も考えていなかったかもしれない。ただただ今の時間が愛おしくて、幸せで。本当にそれだけだった。

「みんな、今日は本当にありがとう。俺たちの曲をこんなに沢山の人に聴いてもらえるなんて、バンドに入った時には全然想像できなかったです……」

そして、半年かけて準備してきたワンマンライブも気付けば終盤。俺は手元のダイナミックマイクをぐっと握りなおすと、緊張しつつも最後のMCを開始した。
MCは苦手だ。大勢の前で喋るくらいなら、ずっと歌を歌っていたほうが全然ましだと思うくらい、苦手だった。でも俺はボーカルだから……『DIAMONDダイアモンド』のボーカルだから。大好きなメンバーに恥じないよう、最後までしっかりと場を運ばなければいけない。
俺はファンの皆に感謝を述べた。今日こうしてライブに来てくれたこと。日頃から応援してくれていること。それからライブハウスのスタッフの方々にも、関わってくれた人達すべてに、ひとりずつ。
そして。

「最後に、メンバーの皆……クリス先輩も、透輝さんも、蛍も。こんな俺のことを受け入れてくれて、俺の歌を好きって言ってくれた。俺のことを信じて、どんな時も見捨てないでいてくれた」

俺にとってこのバンドは唯一の居場所だった。
絶対に絶対に失いたくない人たち。メンバー全員が俺にとっては等しく大切な存在で、誰が欠けるのも嫌だった。俺はこの先どんなことがあっても、このメンバーとずっと一緒にいたい。一緒に音楽がやりたい。それがどれだけ難しいことなのかは俺なりに理解しているつもりだけど、そう思わずにはいられないほどに、俺は皆のことが——。
俺は一度言葉を切ると、同じステージ上にいるメンバーの皆に向き直って、笑顔で言った。

「みんな本当にありがとう。ずっと大好き……です」

これが、俺の素直な気持ちだ。



✦✦✦



こうして、俺たち『DIAMONDダイアモンド』によるワンマンライブは幕を閉じた。
ライブ後は俺もメンバーも色んな人からねぎらいの言葉をもらって、新作のミニアルバムを含めた物販の売り上げはなんと過去最高を記録したらしい。ライブハウスの店長さんからも太鼓判を押されたほど、今回のワンマンは予想を遥かに上回る勢いで大成功に終わった。

ライブ後の物販が終わり観客が捌けた後は、出来るだけライブハウスに迷惑がかからないよう全員で手早く片付けをして、撤収する。普段のライブでは各々が自分の機材を持参していたし、俺は大概電車かバスでライブハウスまで行っていたのだが、今日はワンマンライブで持ち込みの機材が多いということで透輝さんが車を出してくれていた(レンタカー代とガソリン代は他三人で割り勘した)。なので今日はいつものような現地解散ではなく、皆で透輝さんの運転する車に乗せてもらって、そのまま四人で帰路を辿ることとなった。
車は夜の都心を迷いなく走って、しばらくするとある場所へ到着する。
その場所には見覚えがあった。前に来たことがある。

「あれ、ここって……」

クリス先輩の家だ。
初デートで来た時と何ら変わりなく、相変わらずびっくりするほど大きくて立派なタワマン。俺は後部座席で揺られるうちにライブ後特有の充足感と疲労感に襲われて、失礼だとは思いながらもついうとうとと船を漕ぎ始めていたので、車がどこに向かっているのか、道中は外の景色を見て確認する余裕もなかった。

「俺の家、広いから。打ち上げするなら丁度いいかと思ってさ」

頭上に疑問符を浮かべている俺に、クリス先輩がそう言った。
こんな時間だし泊まっていっていいよ、と言われたので、お言葉に甘えることにする。明日は日曜日だから大学も休みだし、この半年は毎週日曜にデートをしていたのでバイトも入れていない。泊まっても特に問題ないのは透輝さんも蛍も同じだったようで、結局全員でクリス先輩の家にお泊まりすることになった。
久しぶりにお邪魔したけど、相変わらずクリス先輩の家は広い。明らかに一人暮らしの広さではないなとは思っていたけど、大の男四人が一気に入っても全く狭苦しさを感じないほどにリビングは快適で、寝室もベッドもちゃんとあるので寝る場所にも困らなさそうだった。

そのままクリス先輩の家でみんなでお酒を飲んだ(蛍は未成年だからジュース!)。食べ物は何もなかったけど、見かねた透輝さんが冷蔵庫のありあわせで美味しいおつまみを作ってくれて……打ち上げも、すごくすごく楽しかった。
楽しかった、のだけど。

「え……」

夜も更けてきてそろそろ寝ようか、となったので寝室に移動したら、すぐに広くてふかふかのベッドに身体を押し倒された。
三人全員に。

「ねえ、さっきの『大好き』っていうのは、そういう意味ってことで……いいの?」

クリス先輩の端正な顔を目の前にして、俺は答えを迫られる。透輝さんも、蛍も、俺が返事をするまで寝かさないと言わんばかりにじっと俺を見つめている。
そう……だよな。皆の前であんな風に言うのはちょっとずるかったよなと、今更ながら反省した。あのMCでの俺の言葉がどういう意味だったのか、三人はなんとなく察してくれているみたいだけど、彼らの気持ちに誠実でいるためにもここでちゃんとはっきり伝えないと。

「そ、そう、です……っ! 俺、クリス先輩も、透輝さんも、蛍のことも、大好きなんです。バンドメンバーとしてだけじゃなくて、その、こいびと……として、好きになっちゃって」

声が震える。泣きそうだ。伝えることで、この関係が終わってしまうのが怖い。
だけどきっと、三人だってそうだった。彼らだって、あのとき勇気を出して俺に告白してくれたから。俺に拒絶されるかもしれないとか、幻滅されるかもとか、そんな不安を抱えながらも俺に好きだと伝えてくれたから。

「でもこんなの、納得してくれるわけないってわかってます。こんな欲張ったこと言う奴が、恋人になんかなれるわけないし、釣り合わないって……。だから……本当に、ごめんなさい……」

選べなかった、じゃない。俺は三人とも選んだ。選んでしまった。
考えて、考えて、そして結論が出てからも何度も考え直そうとした。でも無理だった。誰か一人じゃ嫌だった。本当はずっとこのままでいたい。この関係が終わったら、きっともう誰も俺のことを好きだなんて言わなくなるから。
それでも——だからこそ最後に、俺の正直な気持ちを伝えたかった。
俺はこの三人のことが何よりも大切で、そして。

「好きです……」

涙を堪えきれず泣きながらそう言った瞬間、唇に柔らかいものが触れた。ちゅっ、と可愛らしいリップ音がして、それがキスだったのだと認識する。俺は透輝さんにキスをされていた。

「もっと欲張ってくれ」

透輝さんが俺を見つめる目は、確かに熱を孕んでいた。

「嬉しいよ。俺、そのうち絶対にフラれると思ってたから……。俺のこと、クリスや蛍と同じくらい好きでいてくれるのか? 俺は、お前の恋人でいてもいいのか?」

俺がこくりと頷くと、透輝さんはまた「嬉しいなぁ」と言って今度は頬にキスをしてくれた。
そんな透輝さんに見惚れていると、横からクリス先輩の手が伸びてきて、俺の髪を撫でる。先輩は泣きそうな顔で笑っていた。

「ごめんなんて、謝らなくていいんだよ。瑪瑙が俺たちのこと真剣に考えてくれてたことも、序列なんかつけられないくらい全員を大切に思ってくれてることも、ずっと伝わってたから。俺の気持ち、受け入れてくれて……ありがとう」

クリス先輩も、そう言ってキスをしてくれた。
激しくはないのに、甘くて溶けそうなくらい優しいキス。泥酔するほど飲んではいないはずだけど、それでもお酒が回っているのもあって少し頭がぼうっとする。いやむしろ、酔っているのはお酒にじゃなくて、この空気の方かもしれない……。
キスの余韻でふわふわしていると、誰かにぐっと身体を引かれた。視線を向けるとそれは蛍だった。
なんと言っていいか迷ってしまって、俺は暫し逡巡する。
俺は蛍が好きだ。そして今までは蛍も俺を好きでいてくれた。これまで蛍が俺にかけてくれた言葉に嘘偽りはないということもわかっている。でも……こんな選択をした俺のことを、それでも蛍は好きでいてくれるのだろうか。

「蛍はもう……俺のこと嫌いになった?」

俺の言葉に、蛍はふるふると首を横に振る。

「俺、神崎先輩のこと、まだ好きでいていいんですか……?」

蛍は目に涙を溜めていた。戸惑いを隠せない瞳が不安げに揺れていて今にも溢れそうで、俺は思わず蛍を抱きしめて背中を撫でた。普段は年下であることをあまり感じさせない彼だけど、こうしていると子供みたいで、とても可愛い。

「俺は、好きだよ。だから蛍も……好きでいてくれたら、嬉しい」

俺がそう言うと、蛍は俺の身体をぎゅっと抱きしめ返してから、噛み付くようなキスを唇にくれた。


このあと俺は、三人にこれでもかというほど甘やかされた。それはもう、理性がなくなって身も心も蕩けてしまうほどに。
ゲイを自称してはいるものの実際に男性とそういった行為をするのが初めてだった俺は、慣れていないせいもあってそれはもうみっともない姿をたくさん見せてしまった。それでも三人は俺を好きだ、可愛いと言って、結局——空が白んで朝になるまで、俺は存分に愛されてしまったのだった。

思い出すだけでも恥ずかしくて死にそうだ!



end.
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