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本編
それでも君に俺を選んでほしい。
しおりを挟む「ラビ、ごめん。明日からしばらく、帰りが遅くなるかもしれない」
アルがそんなことを言い出したのは、彼と出会ってから何度目かの冬が訪れようとしていたある日だった。
相変わらず俺もアルも平穏に過ごしている。アルと一緒だったらどんな小さなことでも楽しくて、そんな日常が何より幸せで。俺と出会うまでは奴隷として生きてきたアルも、今ではちゃんとした仕事に就いて立派に頑張っている。
アルが言ったのは、その仕事からの帰宅時間について、だった。
俺とアルはそれぞれ別に仕事を持っている。俺はバーテンダー、アルは工房の見習いだ。主な勤務時間はアルは朝から夕方、俺は昼から夜までなので、普通だったら帰りはアルが先になる。だが、わざわざ「遅くなる」と伝えてきたということは、俺よりも遅くなる可能性があるっていうことか……? それって、めちゃくちゃ長時間働くことになるんじゃないのか。
「遅くなるって、毎日? どのくらいになるの?」
「当分の間は、毎日だと思う。日によってはラビより遅くなるかも」
「それは……」
アルはまだ見習いとは言いつつ、最近では任せてもらえる作業が増えてきたのでとても嬉しい、と言っていたのを思い出した。仕事に一生懸命なのはいいことだと思う。やり甲斐も感じているみたいだし、アルが頑張りたいと言うのなら応援したい。でも、身体を壊しかねないほど働くというのはさすがに喜べない。彼の同居人として……何より恋人として、止めなくてはいけない。
「それって、大丈夫なの? 頑張るのはいいと思うけど、働きすぎは良くないぞ」
「それは大丈夫。仕事じゃなくて、普段の仕事が終わった後に、残って勉強させてもらえることになったんだ。だから、その分遅くなるって感じ」
アルのその言葉を聞いて少しだけ安心したものの、俺はまだ心の底から賛成できないでいた。
工房の仕事は多岐に渡る。主な作業は職人である主人が行なっているそうだが、全てではない。弟子の職人たちや、アルのような見習いはやはり学ぶべきことも沢山あるだろう。アルが真面目で勉強熱心なのはもちろん知っているから、彼の学びたいという意欲を邪魔したくはない。でも、家に帰ってアルがいないのはちょっと寂しくなるな、と思ってしまった。
……いや、野暮だよな。寂しいって、子供じゃないんだし。俺の些細な感情よりも、アルのことを応援しなければ。
「……わかった。でも、絶対無理はしないこと。これだけ約束して」
「ありがとう。うん、約束する」
少し悩んだものの、最終的に俺はアルの申し出を了承した。
アルがもっと頑張りたい、勉強したいと言うのなら、出来るだけそうさせてあげたい。それに、帰りが遅くなるだけで朝は一緒に過ごせるし、夕食も遅めにはなるけど俺が待っていればいいし。きっと疲れて帰ってくるだろうから、俺がたくさん労ってあげないと……。アルの言う「当分の間」がどのくらいなのかは分からないけど、きっと落ち着いたら今まで通りに戻ってくれるはずだ。そうしたら、また二人でゆっくりできる時間も作れるだろう。
大丈夫、アルと過ごせる時間はたくさんある。だから寂しくなんかならないし、面倒臭いことも言わないようにしよう。
そう心の中で呟いて、俺はその感情にそっと蓋をした。
✦✦✦
——それから一ヶ月。
決心しておいて何だけど、俺は早くも寂しさで音を上げそうだった。
アルの帰りは思っていたより遅かった。日によっては俺より遅くなるかも、とは言っていたが、実際はそれがほぼ毎日といった感じ。俺も仕事の時間は遅くて、場合によっては日付を跨ぐこともあるから、そういう日はさすがにアルの方が早いけど。
アルの仕事は夕方には終わるはずだ。それからずっと、毎日残ってこんな時間まで勉強しているのだろうかと思うと心配になる。
「アルのご飯が食べたいなぁ……」
俺一人しかいないダイニングで、ついそんなことを呟いてしまう。
今日もアルの帰りは遅かった。俺が帰宅してから作った夕食は既に冷めてしまっている。最近はこんな感じで俺が夕食を用意しているけど、そろそろアルの作ったご飯も恋しくなってきた。
別に料理をすること自体は苦じゃない。だけどアルが作ってくれる食事は、どれもとても美味しかったから。
アルは物覚えがよく、俺が少し調理を教えるとすぐに覚えてしまった。彼は頭で理解するよりも、実際に手を動かして覚えるのが得意なようだ。うちに来るまでは料理などしたことがなかったらしいが、今や俺よりも上手くなっていた。
なので一緒に暮らすようになってからは、料理はアルが担当することが多かった。もちろん俺も時間があるときは作るけど、正直なところアルの料理のほうが数倍おいしい。紅茶を淹れるのも上手だし、本当に器用だなぁと常々思う。
以前までは俺の方が帰りが遅かったから、家に帰るとアルが夕食を作って待っていてくれて、二人で会話しながらそれを食べて……というのが常だったのだが、今は違う。俺が帰っても大体アルはまだ帰ってきていないし、一緒に夕食を食べたくて食事を作って毎日待っているけど、やっと帰ってきた頃には既に俺が船を漕ぎ始めていて……といった感じで、すれ違う生活が続いていた。
アルは「待ってなくてもいいよ」と言うけど、俺がアルに会えないと寂しくて眠れないから……なんてことは流石に言えないが、とにかく毎日待っている。ちゃんとアルが帰ってきたのを確認したいし、一緒にご飯も食べたいし、一緒のベッドで眠りたい。短い時間でも、アルが傍にいてくれるだけで俺は幸せなんだ。俺が寝落ちてしまった日も翌朝はベッドでちゃんと隣にいてくれるので、それだけで安心するし、嬉しくなる。そういう時、やっぱり俺はアルのことが誰よりも好きなんだ、と実感する。
だから、ちゃんと愛されてるって自覚はある。それでも寂しいと感じてしまうのは単なる俺の我儘だ。
仕事だったら仕方がないし、むしろ今までアルはかなり時間を作ってくれていた方だと思う。俺がアルに甘え過ぎていただけ。こういう時こそ俺がしっかりして、アルを支えないといけないのに。
「ただいま」
「……アル!おかえり!」
そんな事を考えながらしばしテーブルで項垂れていた俺だったが、玄関の扉が開く音がしてアルの声が聞こえた途端、うだうだ悩んでいたことも忘れて勢いよく立ち上がった。もし俺に尻尾がついていたら、ブンブンと千切れんばかりに振っていたことだろう。本当に我ながら分かりやすいというか、現金だ。
「まだ起きてたんだ。無理して待ってなくても大丈夫だよ?」
「一緒にご飯食べたくて。アルこそ大丈夫? ここのところ、毎日この時間だけど……」
やはりアルのことは心配だった。
俺は8時間くらいは寝ないと次の日ちゃんと動けないので、夜はわりとすぐ眠くなってしまう。反してアルは奴隷時代の生活の名残なのかショートスリーパーの気があるらしく、日によっては3時間程度の睡眠でごり押していることもある。加えてここしばらくは帰りも遅いので、俺はアルの身体がことさら心配になっていた。工房の仕事は体力も使うだろうし、こんな生活ではもたないんじゃないだろうか。いくら応援するとは言っても、アルに倒れたりはしてほしくない。
「大丈夫。ちゃんと休憩もとってるし……それに、ラビの顔見たら元気出た」
アルはそう言うと、俺を抱きしめてキスをしてくれた。嬉しい。
つい先程まで外にいたからかアルの身体は少し冷えていて、俺はそれを温めようとぎゅっと抱きしめ返す。そろそろコートも必要な時期になってきているから、きっと外は寒かっただろう。俺は自分の体温を少しでも分け与えられるようにと身体を密着させながら、彼からのキスに精一杯応えていた。
そんな感じでしばしお互いキスに夢中になっていたが、ふとここが玄関であることを思い出し、俺は我に返って慌てて身体を離す。
「……あっ、と、アル。夕食にしよう! ちょっと待っててね、いま温め直すから」
「うん。ありがとう」
アルの腕を引いて部屋の中へと促し、俺はせわしなくキッチンに立つとスープの入った鍋を火にかけた。もう少しキスを堪能していたかった気持ちもあるけど、アルは仕事で疲れているんだから俺がちゃんとしなきゃ。名残惜しさから無意識に唇に触れそうになる指をすんでで抑えて、俺は急いでテーブルに二人分の食事を並べにいく。
アルと二人で食卓を囲んでいると、先程まで感じていた寂しさなど吹き飛んでしまった。やっぱり俺、アルが好きだなぁ。恋人同士になってからだいぶ経つけど、気持ちが変わることなんてない。むしろアルと過ごせば過ごすほど、どんどん彼への「好き」が大きくなっていく。俺はこれからもずっとアルのことが大好きなんだろうな。心からそう思った。
✦✦✦
「それって浮気じゃないの?」
仕事中。いつも通ってくれている常連さんから思いがけない言葉が飛び出してきて、俺は思わず「えっ」と声を上げてしまった。
あれからまたしばらく経ったが、相変わらずアルの帰りは遅い。
そりゃあ寂しくないのかと言われれば嘘になる。でも、俺からは何も言わないようにしている。出来るだけ態度にも出さないように……できていると思いたい。
それでもやっぱり少しだけ愚痴りたくなってしまって、常連さんとのトーク中にぽろっと漏らしてしまった。
この人は俺がこの店に入った当初からずっと常連で、俺にとっては店長や同僚と同じくらい気の置けない顔馴染みである。ここはバーだから出会いの場として利用する人も少なくないけど、この人はそういうわけではないらしく、いつも一人で飲んでいるタイプだ。そんな彼は何故か俺を気に入ったようで店に来るたび話しかけてくれて、今ではそれなりに話す仲になった。今は開店したてでまだ彼一人しか店にいないので、カウンター越しに少し雑談していたんだけど。
「もうすぐ二ヶ月でしょ? しかもほとんど毎日だなんて、おかしいよ。仕事だって言って実は他の人と会ってるとか……」
「そ、そんなことはないと思います」
咄嗟に否定したけど、確かにそういう話はよく聞くかもしれない。アルはそんなことしないとわかっていても、ちょっと不安になる。だって、アルは女性からも男性からもめちゃくちゃモテるから。……あれだけの美形だから、当然といえば当然なんだけど。
「確かに、俺よりいい人なんていっぱいいるだろうけど……」
出会った当初は俺以外の人とあまり関わらなかったアルも、今では色んな人と交流するようになっていた。街ですれ違うと挨拶を交わすくらいの仲の人は結構できたし、きっと仕事でもたくさんの人と関わっているだろう。一緒に出かけた時ですら、誰かに声をかけられたり連絡先を渡されたりしている姿はよく見るから、もしかしたら俺の知らないところでも言い寄られたりとか……しているだろうなぁ。
「もしそういう人がいるんだとしたら、俺、勝てる自信ないな……」
「何言ってんの。ラビくんは充分魅力的だよ」
「あはは。ありがとうございます」
お世辞だと分かっていても嬉しい。アルに言い寄る人は男女問わずみんな綺麗な人ばかりだから、俺が魅力で上回るなんてことは有り得ないんだけど。それでも常連さんのそのフォローに少し励まされた気がした。
「いやもちろん、浮気って決まったわけじゃないよ? ただ俺の両親が別れるとき、そんな感じだったからさ……」
そう言って彼は軽く目を伏せた。お客さんと深く話し込むことなんてほとんどないから、初めて身の上話をされて少し驚く。
俺はただの店員だから、客である彼の素性はもちろん知らない。服装や立ち振る舞いからそれなりに身分の高い人なのではないかなぁとは感じているけど、詮索したことはない。だから浮気が原因で両親が別れていただなんて初めて知った。まだ若そうに見えるけど、彼もそれなりに苦労してきたのかもしれない。
「まぁその、なんだ。何かモヤモヤしてることあるんだったら、手遅れになる前にちゃんと言ったほうがいいと思うよ」
「……そうですね」
そこで店の扉のベルがカランと鳴って、お客さんが入ってくる。俺はすぐに声をかけてオーダーを取りに行ったので、そこで常連さんとの会話は終わった。
彼は自分のことを話したがるタイプではないのに、あんなことを言うだなんて。心配してくれているんだろうなあ、と感じる。俺は店員なのに、お客さんに心配されるだなんて不甲斐ない。でも気持ちは嬉しかった。
だからといって、それじゃあアルに俺の気持ちを正直に伝えられるのかというと、やっぱり難しい。「寂しい」って? 「もっと早く帰ってきてほしい」って? 言いづらいよなぁ。もし言ったら、アルは俺のために無理をしてでも早く帰ってくる気がする。それは申し訳ないし……。
——仕事だって言って実は他の人と会ってるとか
「……ううん、絶対違う。そんなわけない」
頭の中でさっき常連さんに言われた言葉が反芻する。そんなわけない、アルに限ってそんなことするわけない。俺は不安をかき消すかのように口に出して呟いていた。
アルが誠実なやつだってことは、俺が誰よりも知っている。だからそう簡単に浮気なんかしないって言い切れる。でも……俺はちゃんとアルを繋ぎ止められているんだろうか。それだけの魅力があるんだろうか。わからない。
アルは俺のことをよく可愛いと言ってくれるけど、実際のところそんなことはない。容姿はどこからどう見ても平凡そのものだし、恋愛経験も少ないし、不器用だし、甲斐性もない。せめて身体くらいは……って思うけど、俺は昔から運動をしても全然筋肉がつかない体質で、全体的に身体も薄っぺらくて抱き心地もあまりよくないと思う。
アルは俺のどこが好きなんだろう。
本当に俺でいいのかな。
アルのことは信用しているけど、自分のことが信用できない。
一度気にしてしまうとそればかり考えてしまって、あまり仕事に集中できなかった。それでも何とか仕事を終えて、帰路につく。
大通りを突っ切って自宅へと歩を進める。この通りは街灯があるお陰で夜でも明るいので、一人でも安心して歩ける。加えて今日は比較的早い時間に上がったから、まだ街中にもちらほらと人の姿が見受けられた。
帰ったらまずシャワーを浴びて、今日はたぶん俺の方が帰りが早いだろうから夕食の準備をしないと。アルは今日も遅い帰宅になるだろうけど、できれば一緒に食事をしたい。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと、通りの隅に見覚えのある姿が見えた。
「……アル?」
アルだ。しかも一人じゃない。
身なりのいい、綺麗な女性と二人並んで歩いていた。
「————ッ!」
それを見た瞬間、俺は頭から冷たい水をぶっかけられたかのようにショックで動けなくなった。
暗いしそこそこ距離があるので二人はこちらに気付いておらず、そのまま通り沿いにある店に入って行った。その時、俺は見てしまった。アルが一緒にいる女性に微笑みかけているのを。
「……」
二人の姿が見えなくなってからも、しばらく俺はその場に呆然と立ち尽くしていた。
——アル、なんで? あの女の人は誰? 仕事だって言っていたのに、どうしてここにいるんだ?
頭の中が混乱していて、色んな疑問でぐちゃぐちゃになっている。ちゃんと考えないといけないのに、全然思考が回らない。何も考えられない……否、何も考えたくなかった。今見た光景を現実だと信じたくなかった。
……ただ、一つ言えることは。
俺はもうアルの一番ではなくなったのかもしれない、ということだった。
✦✦✦
あれから一週間経つが、俺はアルに何も問いただすことができないでいる。
聞いたところで、アルの答えを聞くのが怖かった。何て返ってくるのか分かりきっていたからだ。
ほんとに浮気していたんだ、と悲しくなったが、それと同時に仕方ないと思う自分もいた。やっぱりアルみたいな人に俺は釣り合わないし、勿体無さすぎたんだ。何も取り柄がないくせにずっとアルの恋人でいたいだなんて、過ぎた夢だった。むしろ今までたくさん幸せな時間を過ごさせてもらえただけ、感謝するべきだ。……そうわかってはいるけど、どうしても落ち込んでしまう。
……あの女の人、すごく綺麗だったな。
美人だったし、身に纏っていた服やアクセサリーも高価そうだった。平凡でお金もろくに持ってない、何より男である俺じゃ、あの人になにひとつ敵わない。敵うわけもない。
「……はぁ」
一人きりのダイニングで本日何度目かの溜め息を吐く。今日もアルの帰宅は遅い。
何か食べないとなとは思うけど、まったく食欲がわかない。仲が良さそうに二人並んで歩いていたあの姿を思い出すと、食事も全然喉を通らなくて、ここ3日ほどはアルの分の食事だけ用意して俺は先に寝る……みたいなことが続いていた。
アル、遅いな。今日もあの人と会っているんだろうな。
きっと俺なんかより、あの人のほうが大事になったんだ。
考えるだけで辛くなる。たぶん俺、今かなり酷い顔していると思う。
一人で泣きそうになっていると、玄関の扉が開いてアルが帰ってきた。
「ただいま」
「あっ、アル……おかえりなさい」
アルが帰ってきてくれて嬉しいはずなのに、顔を見ることができない。脳裏にあの女性の姿がちらついてしまう。俺は逃げるようにダイニングの椅子から立ち上がった。
「ごめん、俺もう夕食済ましたから……先に寝るね」
「うん、わかった。おやすみ」
ちゅ、と音を立ててアルが額にキスをしてくれる。すごく嬉しいのに……あの人にも同じことをしているんだろうか、と思うと心臓のあたりが苦しくなって、俺は何も言うことができなかった。
「……ラビ?」
様子がおかしい俺を見て、アルが心配そうな声音で名前を呼んでくる。
ダメだ。ちゃんと聞かなきゃいけないのに、やっぱり聞けない。このままじゃいけないと分かっているけど、今の関係を壊したくなくて何もすることができない。どれだけ時間が経っても俺はずっと臆病なまま。そんな自分がすごく嫌いだ。
結局俺は何も問いただすことができずに、別の質問を投げかけた。
「ね、ねぇアル。帰り遅くなるの……あとどのくらい?」
アルは申し訳なさそうに眉尻を下げて答えた。
「ごめんね。……もう少しで終わるから」
もう少しで終わる。
アルの答えを聞いて俺は悟ってしまった。それが終わったら……俺はきっと振られるんだ。
「そっか。あの、帰り道暗いと思うから……事故とか、気を付けて」
いつの間にかカラカラに渇いていた喉から何とかそれだけ絞り出すと、俺は早々に寝室に逃げた。
もう少し。もう少しって、どのくらいだろう。あと数日かもしれないし、何十日も後かもしれない。だけどきっと、それがアルと一緒にいられるタイムリミットだ。
冷たいベッドに寝そべりながら、俺は決心した。アルと恋人でいられるあと少しの時間を、目一杯楽しんで過ごそう。そしてアルから別れを切り出されたら、何も聞かずに身を引こう。最後の最後で面倒臭い奴だって思われたくないし、アルと過ごした幸せな思い出だけで、俺はこの先もきっと生きていけるから。
眠ろうとして目を閉じると、またあの女性の顔が浮かんでくる。
俺がもし女の子だったら。彼女と同じくらい美人だったら。もっとお金持ちだったら。どれか一つでも持っていれば、目移りされることはなかったんだろうか。飽きられることもなかったんだろうか。
ただでさえ何も持ち合わせてはいないのに、アルに捨てられた後の俺に一体何が残るんだろう。わからない。もしかしたら何も残らないかもしれないし、心まで空っぽになってしまうかもしれないけど。
……それでも。
✦✦✦
それからの日々はあっという間だった。
俺はアルのために出来る限りのことをした。これまで以上に家事を頑張ったし、どれだけ帰りが遅くても毎日夕食を作って待っていた。遅い時間まで起きているのはやはり眠かったし、相変わらず食欲もなかったけど、それでも食事のたびにテーブルについてアルと他愛もない話をした。アルと過ごせる時間を精一杯作った。
あの日のことについては、俺は何も聞かなかった。怖くて聞けなかった。何も知らないふりをして、残り少ないであろうアルとの時間をただ噛み締めていた。
そして、ついにその日がやってきた。
その日もアルの帰りは遅くて、俺はソファでうとうとしながら彼の帰りを待っていた。眠る前に一目だけでもいいからアルの顔を見たい。もうすぐ見られなくなるんだから、ちゃんと焼き付けておかないと……。そんな事を考えながら微睡んでいると、玄関を開ける音がしてアルが帰ってきた。
「ただいま……ラビ、大丈夫? 眠かったらベッドに……」
「だ、大丈夫!全然! 今日もお疲れ様。一緒にご飯食べよ?」
心配してくれるアルの言葉を遮るようにして、俺はソファから起き上がりアルのもとへ駆け寄る。俺が傍に来ると、アルは微笑んで俺の髪を梳くように撫でてくれた。それだけでとくんと俺の心臓は高鳴る。アルはコートを脱ぎながらダイニングへと足を運び、椅子に座った。俺も向かいの椅子に腰掛ける。
「そうだ。あのねラビ、帰り遅くなるの、今日で終わったんだ」
「っ……!」
和やかな空気から一転、続いたアルの言葉にびくりと肩が震える。
ついに。ついに来てしまった。
「それで、ラビに話したいことがあるんだけど……」
「ま、待って!!」
言葉を続けようとしたアルを、思わず制止してしまった。これから俺はアルに振られるんだ。心の準備も、別れる覚悟もとっくにできているって思っていたのに、いざその瞬間になると俺は怖気づいてしまった。嫌だ、別れたくない。でもアルの一番じゃなくなった俺には、もうアルを引き留められるような口実なんかない。
「お、俺もアルに話があるんだ……!」
俺がそう言うと、アルは首を傾げて「なに?」と聞いてくる。そんな仕草も好きだ。結局のところ、飽きられようが浮気されようが俺はアルのことが好きだった。嫌いになれなかった。だから、どうしてもその言葉をアルの口から聞きたくなくて。
だったらいっそ、俺から。
「アル、俺たち別れよう」
「……え?」
アルは俺の言った意味がわからないという風に、怪訝な面持ちでこちらを見ていた。なんでそんな顔をするんだろう。あの人と一緒になるにはどのみち俺は邪魔なんだから、俺のほうから話を持ちかけられるのなら都合がいいだろう。アルから振る手間が省けて良かったじゃないか。
「俺がアルの恋人で居続けるなんて、やっぱり無理な話だったんだよな。こんな何の取り柄もない俺じゃ、いつか飽きられるに決まってるって薄々わかってた。だから……」
「待って! 何言ってるのか全然わからない」
アルはそう言いながら、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。俺もそんなアルから逃げるように立ち上がる。アルの顔はさすがに見ることができなかった。ここで見てしまったら、ちゃんと最後まで言える自信がなかったから。
「……俺、見ちゃったんだ。この間、アルが綺麗な女の人と店に入っていくところ……。仕事だって言ってたけど、本当はずっとあの人と一緒にいたんだろ? 俺じゃなくてあの人のほうがよくなったんだろ?」
「っ! それって……」
「大丈夫……俺、面倒臭いことは言わないから。アルが本当に好きな人と幸せになれるんだったら、それでいいよ。だから、別れよう」
俺は俯きつつもなんとかそこまで言い切った。後半は明らかに声が震えていたけど、ちゃんと言えた。それでも言った後に涙が溢れてきそうになって、俺は慌てて踵を返してその場から逃げ出した。
「ラビ!待って!!」
アルが叫んでいたけど、待てるわけない。俺は奥の書斎に逃げ込み素早く鍵をかける。家の中で唯一鍵のかかる部屋だから、何かあると俺はついここに閉じ籠る癖があった。
アルが扉を叩いているけど、開けられない。俺の顔はもう涙で酷いことになっていたから。こんなことで泣くなんて重たいって思われるかもしれないし、みっともないけど、アルの前で泣かなかったことだけは自分を褒めたいと思う。
「ラビ、話を聞いて」
「……」
アルがドア越しに話しかけてくる。俺は何も答えることができない。
しばらく一人にしてもらわないと落ち着けそうになかった。そもそも、今さら何を話すことがあるっていうんだ。何がどうなったって、俺に仕事だって嘘をついて女の人と会っていたのは事実で。
……別に嘘を吐かれたから怒っているんじゃない。浮気のことだって、恋人が俺じゃあ仕方ないよなと思う。ただ自分が情けないだけだ。どうしたってアルの気持ちを繋ぎ止められない、駄目な自分が。
「……お願い、少しでいいから話を聞いてほしい。ラビが聞いてくれるまで、ずっと待ってるから」
「………」
話を聞いてくれと言いつつ、アルはドア越しに一方的に喋ることはしなかった。俺が出てくるまで待つ気らしい。その言葉以降、ドアを叩かれることも声をかけられることもなかった。
しんと静まりかえった部屋でひとり息を吐く。
言っちゃったな。別れよう、って。こんなこと言う日が来るなんて考えたくなかったけど、もう覚悟は決めていたから。涙は相変わらず止まってくれないものの、今は頭の中はなんとか冷静でいられている。
もともと不釣り合いだったんだ。アルは優しいから、俺に告白されて絆されてくれていたんだと思う。でもやっぱり駄目だった。俺なんかが好きな人と幸せになるだなんて、到底できるわけなかったんだ。
わかっていたことだ。俺は男の人しか好きになれないけど、アルはたぶん違う。ゲイというわけでもないだろう。だから平凡で冴えない俺よりも、綺麗な女性に魅力を感じるのは当たり前だった。
……もう少し落ち着いたら、アルとちゃんと話をしよう。
アルは悪くないから、これは仕方のないことだから、俺に対して罪悪感とか感じなくていいよと言っておいた方がいい。それから今までありがとうって伝えて……アルの前から消えよう。泣かないようにしなければ。せめて綺麗な思い出のまま、この関係を終わりにしたい。
大丈夫、こういうのは初めてじゃない。アルと出会う前から何度も経験したことじゃないか。好きになった人が他の人と結ばれて幸せになっていく姿、それをただ見ているだけの俺。
アルみたいに、告白して恋人同士になれたのは初めてだったから……傷は大きいかもしれないけど、きっといつか癒えてくれると思いたい。だから大丈夫。ちゃんと話せる。どうせ終わるなら、最後にちょっとは良い奴だったなってアルに思ってほしいから。
✦✦✦
結局それからほとんど眠れなかった。
寝たほうがいいのはわかっていても、目を閉じると色々考えてしまい、逆に目が冴えてしまった。
時計の針は5時を指している。この時期は日の出が遅いから、まだ夜明けまでは一時間ほどあった。それでもどうしても眠る気にはなれずに、俺は水でも飲んで落ち着こうと施錠したままだった書斎の鍵を開ける。この時間だからアルもさすがに寝ているだろう。起こさないよう、出来るだけ音を立てないようにしてそっと扉から出た。
「……ラビ」
部屋から出た瞬間、下の方から声がして思わずビクッと肩を揺らす。そちらに目を向けると、アルが書斎の扉の横に蹲るようにして座っていた。俺は信じられないものを見て、思わず大きな声を出してしまう。
「——アル!?寝てないの……!? ていうか、こんなとこでじっとしてたら風邪引くだろ、馬鹿!」
アルは昨日帰ってきた時の格好そのままだった。こんな寒いところで長時間動かずにいたら確実に風邪をひいてしまう。確かに昨日「ずっと待ってる」とは言っていたけど、まさか本当にここからまったく動かずに待っているとは思わなかった。むしろ朝になったら居なくなっていてもおかしくないって、少し思っていたくらいだったのに。
「待って、何か温めるもの……っ」
「いい。いらない」
寝室に毛布を取りに走ろうとしたところで、アルに手首を掴まれてその場に引き留められる。俺はそれだけで何もできなくなってしまって、そこから動くこともできずに固まってしまう。
そうだ、アルとちゃんと話をするって決めたんだった。今度こそ言わないと……。唇から漏れそうになる嗚咽をなんとか喉の奥に押し込んで、俺は口を開いた。
「その……大丈夫だよ。アルは悪くないし、責任も感じなくていい。気持ちが変わるのは、仕方ないことだし……。もともと、俺が勝手にアルを好きになっただけだった、から……っ」
「……ラビ」
「わかってるんだ。俺じゃ駄目だって。俺みたいな男じゃアルのこと満足させてあげられないって、わかってるけど……でも俺、アルのことが好きで! 浮気されたって、嘘つかれたって、それでも大好きで……!」
ダメだ、大人しく身を引きたいのに、感情が昂ぶってつい本音が出てしまいそうだ。頭ではちゃんと考えていたのに、なんでアルを前にすると全然上手く喋れなくなるんだろう。言いたいことの半分も言えていない気がするのに、余計なことばかり口走ろうとしてしまう。何もうまくいかない。あれだけ泣かないって決めていたのに俺の顔は既に涙でぐちゃぐちゃだし、理性では言ったら駄目だって思っていても、もう何も制御がきかなかった。
「……っ、ほんとは、アルと別れたくない……! アルのこと、好きだから。二番目でも三番目でも……い、一番最後でもいいから、アルの恋人でいさせてほしい……! ご、ごめん。おれ、ほんとめんどくさくて、ごめんなさい……」
言わないようにしていたのに、口から出てしまった言葉。
言ってしまった。面倒臭いことは言わずにすっぱり別れようって決めていたのに、そんなことすら俺はできなかった。言ったからには、もう嫌われても仕方がない。何を言ったところで、どのみち今のアルにとって俺は邪魔でしかないんだから。
「……」
俺の必死の懇願を受けたアルは、その場に座り込んだまま俺の手首を掴む手にぐっと力を込めた。そしてずっと俯いていた顔を上げると、その蜂蜜色の瞳で俺の目を真っ直ぐ見つめて、口を開く。
「……ごめん。ラビにこんなこと言わせるなんて、自分が情けなくて仕方がない。だけど……僕の話も、聞いてくれる?」
彼のいつになく真剣な表情と声音に、俺は黙って頷くことしかできなかった。
「ラビが見た女性は、工房と提携してるジュエリーショップのオーナーだよ。あの日は、厚意で宝石を売ってもらえることになって……店に案内してもらってた。彼女と二人で歩いたのはあの一回きりで、連絡先も交換してないし、やましいことも一切してない」
「……ジュエリーショップ?」
「僕の職場、何の工房か覚えてる?」
アルからそう問われて、俺は「あっ」と声を出す。
アルの職場は、確か銀細工の製造を専門にしている工房だったはず。雑貨や食器など、色々なものを作っているけど、その中にアクセサリーもあって、作ったものはジュエリーショップやシルバーアクセを取り扱う店に卸しているって、以前言っていたっけ。
あのとき一緒にいた女性は、取引先のオーナー……? 仕事で会っていただけ? じゃあ、本当にアルとは何もない?
「で、でも……アル、そのひとに笑いかけてた……」
「仕事でお世話になってるんだから、愛想笑いくらいしないと……。あの人は以前からうちの工房と懇意にしてもらってて、今回のこと話したら、ぜひうちの店で宝石を選んでくれって。僕は宝石とか全然わからなかったから、種類とか教えてもらったりしたし」
「今回のこと、って……?」
「……これ、なんだけど……」
俺が聞くとアルは立ち上がり、服のポケットから何かを取り出して俺に見せてくれた。
それは小さな宝石が嵌め込まれた、シンプルなデザインのシルバーリングだった。サイズと宝石が違っているものがふたつ、ペアになっている。これって……。
「ラビにプレゼントしたくて……仕事の後に残って、作り方を教わってたんだ。本当は僕はまだこういう作業を任せてもらえるような立場じゃないんだけど、どうしても自分で作りたくて、無理言って教えてもらってた……」
俺は何も言葉が出なかった。
指輪は本当に綺麗だった。対になっているリングには、中心にそれぞれイエローとグリーンの石が嵌めてあり、よく見ると内側に俺とアルの名前も彫ってあった。これだけのものを作るのに、一体どれほどの努力を要したことだろう。
アルは俺に内緒でずっとこれを作っていたのか。アルが俺のために? 2ヶ月以上も、たくさんの時間をかけて、宝石まで探して、俺のために作ってくれたって? それなのに俺は浮気しているんじゃないかと疑ったり、一方的に別れを切り出したり……アルの気持ちに対してなんて酷い事をしてしまったんだろう。
「ラビをこんなに泣かせておいて、言っていいことじゃないかもしれないけど……よければ貰ってほしくて……」
アルがちらりと控えめに俺を見る。俺は自分が心底嫌になって、泣きながら首を横に振った。
「アル……俺、受け取れないよ。アルはこんなに俺のこと想ってくれてたのに、俺は勝手に勘違いして、別れようとか言って……最低だ。俺なんかがこんな……こんなに素敵な指輪、貰う資格ない……っ!」
ずっと涙が止まってくれない。俺はアルからこんなにも愛されていたのに、全然わかってなかった。
俺のためにここまでしてくれたこと、本当に嬉しかった。アルが俺のために作ってくれた指輪。売り物みたいに完璧じゃなくても、俺にとっては世界一綺麗で大切な指輪だ。でも、俺じゃ受け取れない。俺を一途に想ってくれるアルの気持ちを踏み躙るようなことをしてしまったのだから。
指輪を見つめたままぼろぼろと涙を流し続ける俺に、アルは優しく微笑んだ。そして俺の左手を取ると、ぎゅっと握ってくれる。
「謝るのは僕のほうだ。浮気はしてないけど、誤解させるようなことはしたし……何より、仕事だって言ってラビに嘘ついてたのは事実だから」
「そんなこと……」
そんなことない、と返そうとした俺を制して、アルは「最初からちゃんと言っていればよかったんだ」と言った。
「僕はね……自分がこうしたいって理想ばっかり考えていて、ラビの気持ちを全然考えられてなかった。だから君がここまで思い詰めてることにも気付けなかった。……ダメな恋人で、本当にごめん。でも僕は、ラビが好きだ。ラビ以外の人を愛するなんて考えられない。君がもし、こんな僕でも選んでくれるなら……受け取ってほしい」
アルの言葉に、俺は何度も頷いた。それで精一杯だった。俺もアルのことが大好きだって、たくさんたくさん伝えたいのに、言いたいことは全て嗚咽になってしまい何も伝わらない。俺はせめてもとアルにぎゅっと抱き着くと、背伸びをしてその唇を奪った。
俺からキスをすることは滅多にない。いつもしたいけどなんだか恥ずかしくて、どうしたらいいかわからなくなるからだ。でも、アルが俺にここまでしてくれたんだ。俺もちゃんと返したい。愛してるって、こんな俺を好きでいてくれてありがとうって、少しでも伝わるといい。
「アル、アル……ありがとう。俺、アルを何よりも愛してる。世界でいちばん大好きだ……!」
俺がそう伝えると、アルは微笑んで俺の左手の指——薬指に指輪をはめてくれた。アルの名前が刻印されたその指輪は、俺の指にぴったりだった。
いつの間にか夜が明けていて、窓から朝日が差し込んでくる。日の光を受けるとリングに嵌め込まれた宝石が蜂蜜色に美しく輝いた。アルの色だ。俺の心を射止めて離さない、アルの瞳と同じ色。
「ラビ、僕の指にも嵌めてくれる? ラビにつけてほしい」
アルがそう言ったので、俺は頷いてもうひとつの指輪を受け取った。アルの指のサイズに合わせて作られたシルバーリング。俺の名前が刻印してあって、中心に明るいグリーンの宝石がきらきらと輝いている。ああ、こんなに素敵なものを本当に俺なんかが触っていいんだろうか。緊張で手が震える。……いいや、アルは俺を選んでくれたんだ。俺がいいって言ってくれた。だから、自信をもたないと。
俺はアルの細くて綺麗な指に、そっと指輪を嵌めた。左手の薬指。この指にアルが俺のためだけに指輪をつけてくれるだなんて、俺はなんて幸せ者なんだろう。
「アル……愛してるよ」
指輪が嵌まったその指にキスを落として、俺はアルに言った。ちょっと照れくさいけど、ちゃんと伝えるって決めたから。
アルはそんな俺を見て息を呑んだかと思うと、次の瞬間俺の身体を引き寄せて強く抱き締めた。
「っ……ちょっと待って、ラビ。可愛い上にかっこいいとか、それ、反則……!」
ちらりとアルの顔を見上げると、普段ポーカーフェイスな彼にしては珍しく、耳まで真っ赤になっていた。その激レアな赤面顔がもうめちゃくちゃ可愛くて、俺までつられて赤くなってしまった。
俺を苦しいくらいの力でぎゅうぎゅうと抱き締め続けるアルだったけど、もしかしたらこれ、アルなりの照れ隠しなのかもしれない。本当に珍しいし、彼がこんな姿を見せてくれるのはきっと俺だけかもしれない。そうであったら嬉しいから、今はそう思うことにしよう。
✦✦✦
「なんかごめんな。俺があんなこと言ったせいで、変に勘繰らせちゃったよね」
数日後。いつも通り仕事をしているとあの時の常連さんが顔を見せに来てくれた。あれからどうなった?と訊かれたので、俺は恋人から指輪をもらったこと、帰りが遅かった理由なんかをかいつまんで話した。そうしたら、なんと謝罪されてしまった。
「い、いえ! そんなことは……。俺が勝手に勘違いしただけなので……」
既に盛大に勘違いしましたって墓穴を掘ってしまっているけど。
でも決して彼のせいではない。俺がちゃんとアルに聞いていれば誤解なんてなかったわけだし……むしろ彼が言っていた通り、不安なことはちゃんと伝えていればよかったなと思う。
「言わずに溜め込むのって、俺のよくないとこですね……」
「そうかもね。まぁ、その分ラビくんは顔に出るからわかりやすいけど」
常連さんにそう言われて頬が熱くなる。俺自身、考えていることが顔に出やすい自覚はあるから、今の俺はもう幸せすぎてすごく浮き足立っているって、とっくにバレちゃってるんだろうな。わかっていてもどうすることもできないから、余計に恥ずかしい……。そう思いながら左手の薬指にそっと触れた。
あれから毎日、俺はアルから貰った指輪をつけている。
というか、外せない。外したくない。こうして触れるとまるでアルが一緒にいてくれているみたいで、いつでも心があったかくなる。俺の一生の宝物だ。
それでもこの指輪を作ってくれている間、アルと過ごせる時間が減って本当は寂しかった。身体も心配だった。……って、あのあとちゃんとアルに言った。せっかく俺のために頑張ってくれていたのに、嫌な気持ちになったかな……と思ったけど、アルはごめんねと言って俺を抱きしめてくれた。
自分の感情を素直に伝えるのは、いつまで経っても怖い。でもアルに察してもらうばかりじゃ情けないし、ちゃんと伝えた方がアルも安心してくれるんだってわかったから。
俺はアルが好きだ。この先どんなことがあってもずっと大好きだ。この指輪を見るたびに、アルも同じ気持ちなんだと感じることができて、お客さんの前なのに自然と頬が緩んでしまう。
「シルバーリングか。いいね、似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます……」
「でも、何かあれだ……“男避け”って匂いもするなぁ。ラビくん、彼氏に凄く大事にされてんだね」
「えっ! あっ、……え!?」
常連さんが俺の手元を見ながら言った『彼氏』という言葉に、俺はびっくりして狼狽える。
常連さんには俺がゲイであることも、俺の恋人が男であることも言ったことはない。そもそもアルとのことも、普段の雑談の中でたまに触れる程度でそれほど詳しく話していたわけでもないし。それなのに、なんでバレてるんだ!? もしかして今までの事とかも全部バレてる……!? いやさすがにそれはないよな? ……ど、どうなんだろう。
顔を赤くしたり青くしたりしながら慌てている俺を見て、常連さんはくすくすと笑った。
「見てればわかるよ。……でも、ほんとに良かった。俺、ラビくんのことは勝手に弟みたいに思ってるからさ、変な男に引っ掛らないか心配だったんだよね」
「え……」
そんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。彼はちょっと掴みどころがない性格をしているけど、その実すごく良い人だ……。俺、ほんとに恵まれているなぁ。
俺は自分にあまり自信がない。平凡だし、面白いことも言えなくて、誰と接していてもなんだか申し訳なく感じてしまうところがある。こんな俺がアルに釣り合っているとはやっぱり思えないけど、それでもアルは俺を選んでくれた。
自分に自信がなさすぎると、アルや周りの人の優しさにも気付けなくなる。俺は今までそうだった。だからこれからは、ほんの少しでいいから前を向こう、ちゃんと話してみようって、アルのお陰で思えるようになったんだ。
「嬉しいです……ありがとうございます」
俺が素直にそう言うと、常連さんはにこりと微笑みを返してくれた。
✦✦✦
「アル、ただいま!」
「おかえり。外寒かったでしょ、あったかいシチューできてるよ」
「わぁ。やった、ありがとう!」
仕事が終わって家に帰るとアルがいて、俺を出迎えてくれた。アルの言う通り、食卓からはシチューの良い匂いがする。夕食の準備をして待っていてくれたらしい。
あの日以降、アルの帰宅時間は元に戻った。そのお陰でまたアルと一緒にゆっくり食事ができるようになったし、家に帰るとアルがいてくれるのはやっぱり嬉しい。俺もアルに早く会いたくて、心なしか早足で帰路を急いでしまっている。
「そういえば今日、嬉しいことがあったんだ」
「へえ、何?」
アルと一緒にいると自然と笑顔になる。アルが作ってくれた夕食を二人で食べながら、俺は今日あったことをアルに話した。常連さんに指輪を褒めてもらえたこと、弟みたいに思っているって言ってもらえたこと。
俺が話し終えると、アルは何か考え込むような様子で、すっと俺から目線を逸らした。
「その常連さんって男?」
「え、うん。男の人だけど」
「ふーん、そう……」
俺の答えを聞いたアルはなんだか不機嫌そうだ。ん? もしかして、何か勘違いしてないか?
「……って違う違う! その人は本当にただの常連さんで、アルが心配してるようなことは絶対ないから!」
「ほんと? ラビ、鈍いからなぁ……。ラビはそうでも、向こうは違うかも……」
ぶつぶつと独り言のように呟いているアルに思わず苦笑する。そんなことあるわけないし、俺はずっとアルしか見えていないっていうのに。
もともとアルは俺の人間関係について結構気にするところはあったけど、あの一件以来それがより強くなった気がした。束縛みたいなことはしてこないけど、俺がこういう話をするとちょっと拗ねたりとか、妬いたりする。でも俺はそんなアルも可愛いなと思うし、愛されてるって実感するからそれもわりと嬉しかったり…なんて。
「そんな心配しなくても、俺はアルが一番だよ。ずっと一緒にいてくれるんだろ?」
そう言って左手のシルバーリングをアルに見せる。
もちろん、アルの指にも俺のと対になったリングが嵌まっていて。
「……うん。ずっと一緒にいるよ。今までも、これからも」
アルは大切そうに自分の指輪に触れると、そう言って俺に微笑みかけてくれた。そんな顔が見られるだけで俺は胸がいっぱいになってしまうんだってこと、彼は知っているんだろうか。
アル、本当にありがとう。俺は心の中でそっと感謝を述べた。
俺は今、君のおかげでとっても幸せだ!
end.
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