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親友だと思ってた完璧幼馴染に執着されて監禁される平凡男子俺

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どうして。
なんで、こんなことになったのか。

じゅん、疲れてる? 一緒にシャワー浴びようか」

何時間も身体を繋げて疲弊しきった俺の髪を撫でながら、生まれた時から一緒だった幼馴染が整った笑みを見せる。
俺の両腕は革製の頑丈な拘束具でがっちりと固定され、ろくに動かすことができない。そんな俺に、幼馴染のあいつは食事から風呂から、何から何まで、決して拘束具を外さずに自らの手で俺の世話をする。

「自分の身体くらい自分で洗えるから……いい加減、これ外してくれよ」
「それは駄目」

俺の言葉を笑顔で即却下すると、あいつは俺が気絶する前そうしたように、また俺の下半身にするりと手を伸ばし指で秘部を広げる。連日の行為ですっかり緩んだそこは、つい先日まではまったくの未開発であったはずだった。

毎日必ず俺を求めてくる、たった一人の幼馴染。
まるで今までとは別人のようなそいつの猛りを受け入れながら、俺は今に至るまでの経緯を思い出していた——



✦✦✦



俺、和泉いずみ じゅんは、我ながらごくごく平凡な人生を歩んできたと思う。
平凡な容姿、平凡な性格、平凡な成績、平凡な家庭、平凡な交友関係。
特技や取り柄などもあまりなく、好きなことに打ち込んでも、楽しいけれどそれほど成果はあがらない。結局、普通の成績で普通に大学を卒業して、良くも悪くもない普通の企業に就職した。
要するに、特に特筆すべきことなどない、まさに『人並み』。それが俺だった。

だが、俺の幼馴染であるあずま 康臣やすおみは違った。
まず、整った顔立ち。そして成績優秀、品行方正。一般家庭な俺とは違って家は裕福で、おまけに小さい頃から習っているピアノは、プロのピアニストも顔負けなんじゃないかというくらいの凄い腕前だった。

だった、というのは、今は康臣はピアノを弾いていないからだ。
人当たりがよくて何をするにも天才少年だった康臣は、その実誰よりも真面目で努力家だった。特に昔から続けていたピアノは本当に大好きだったようで、毎日何時間も夢中で練習している姿を、俺はいつも見ていた。それに加えて学校の宿題や予習なんかも完璧にやっていて、勉強よりも外で日が暮れるまで遊びほうけることのほうが好きだった俺には、康臣は同い年でもとても大人っぽく感じていた。

そんな康臣がピアノを弾けなくなったのは、俺たちが中学三年生の時。
日頃の無理がたたって、康臣は重度の腱鞘炎になってしまった。
一時期はピアノだけでなく、ペンを持って勉強することもできないほどに悪化してしまった。
その後治療の甲斐あって、「日常生活を送るには問題ない。ピアノも趣味で弾く程度であれば続けられるだろう。けれどプロのピアニストを目指すのは諦めるしかない」と医者に言われるまでに回復したものの、ピアニストになりたくて毎日練習していた康臣には、それを諦めろと言われたことは大きなショックだったようだ。そんな状態では当然受験勉強にもろくに身が入らず、俺よりも随分と頭が良いはずの康臣は、翌春俺と同じ高校に進学した。

それから色々あって大学も一緒になり、中学の時にあんなことがあったというのに、それほど時間もかけずに康臣はすっかり立ち直った。高校、大学では常にトップクラスの成績をキープし、好きな分野の勉強を続けて資格も取得したらしい。
そして一流企業に就職し、結構な高給とりになった途端、凄まじい勢いで女の子にモテだした。今までもかなりモテていたけど、以前にも増してモテるようになったみたいだ。康臣のケータイには女の子のアドレスがたくさん入っているし、俺と一緒にいる時もよく電話やメールがくる。康臣は「仕事で関わるから連絡先を交換したけど、関係ない内容の電話やメールが多くてうんざりしている」って言っていたけど。

……とまあ少し長くなったけど、俺の幼馴染は、俺とは違ってかなりドラマティックな人生を歩んでいるわけだ。
不思議と俺は、そんな嫌味なくらい完璧な幼馴染がいても、嫉妬や劣等感に苛まれたことはない。きっと次元が違いすぎたからだろう。むしろ、何でもできて女の子にもモテモテな幼馴染は、俺の自慢だった。
平凡で頭も良くはない俺と、康臣がなぜ飽きもせずに一緒にいてくれるのかは分からない。誘えば野球やサッカーで遊んでくれたし、俺の好きだったカードゲームの話も延々と聞いてくれていたけど、そもそも康臣は昔から、俺や同年代の男子よりもずっとずっと大人だった。だからきっと、野球やサッカーなんて好きじゃなかったし、カードゲームなんて遊んだことすらなかったのだと思う。それでも家が隣同士というだけで、俺と康臣は生まれた時から今まで、ずっと一緒だった。

そんな日々も、お互いに別々に就職して忙しくなってきてから、俺は「そろそろ終わりかもなぁ」とか思っていた。
康臣だったらきっと、そのうち綺麗で頭の良い女の人と幸せな結婚をするのだろうなと、容易に想像ができたからだ。
俺はそれに何の疑問も抱いていなかった。そうなるだろうと、信じて疑っていなかった。



✦✦✦



そんな俺が唐突に職を失ったのは、27歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。

ホワイトでもブラックでもない、普通という言葉がぴったりの中小企業。もともと赤字よりのギリギリな経営だったのだろう。平凡で特別仕事ができるわけでもない平社員の俺は、そりゃあリストラして切り捨てるにはちょうどいいかもなと、無職になってからどこか他人事のように思った。

無職になったところでこのご時世、再就職先なんてそう簡単に見つかるものではない。俺は前の職で何か専門的なキャリアを積んでいたわけではないし、特に学歴がいいというわけでもなかった。大卒から数年会社員を務めたわりには、俺の履歴書の中身は虚しいほどにスカスカだった。
まだ少しの間は貯金を切り崩しながら生活していけるけど、それもそう長くは続けられないだろう。どのみち近いうちに今のアパートは引き払わなくてはならないし、再就職先が見つかるまで実家に戻るというのも勿論考えた。けれど俺が就職してからも毎月仕送りをしてくれる両親のことを思うと、生活苦を理由に家に帰るというのは、なんだかそんな優しい両親に金の無心をしに行くようで、どうしても気が進まなかった。俺にも息子として、長男として、男としての意地みたいなものが、この時はまだあったのだ。
この時は。

「だったら次の仕事が決まるまで、俺のところにおいでよ」

就職して一人暮らしになって、『家が隣同士の幼馴染』ではなくなってからも、康臣はたまに電話やメールを寄越してくる。再就職先がなかなか見つからず精神的にまいっていた俺は、いつものように電話をしてきた康臣につい弱音を吐いてしまった。
すると、返ってきたのが康臣のこの言葉だったのだ。

俺は断った。つまり仕事が見つかるまでは実質ヒモということじゃないか。誰に対してだってそんなことはしたくないけど、幼馴染で親友の康臣だったら尚更、甘えるわけにはいかない。大事な親友に借りなど作りたくない。
それなのに康臣は俺の話もろくに聞かず強引に電話を切り、家に直接訪ねてきたかと思えばこれまた強引に俺を自分の家に来るよう促し、その翌日には俺は本当に康臣の家で暮らすことになってしまったのだ。

「いいんだよ、一人暮らしも退屈になってきたとこだったんだ。少しの間だけでも、純が家にいてくれたら嬉しい」

そう言われると悪い気はしなかったし、康臣がそう言うのなら……と最終的に押し切られてしまった俺も俺だ。

そんなわけで康臣との生活が唐突にスタートしたが、はっきり言って俺たちは上手くいっていた。「何もしなくていい」「好きにしてていいから」と康臣は言うものの、やはり世話になりっぱなしでは悪い気がして、俺は康臣が仕事に行っている間、就職活動の合間を縫って毎日家事をした。といっても几帳面な康臣は常に家を綺麗にしていたので掃除のし甲斐はあまりなかった。俺が毎日することといえば、せいぜい料理くらいだ。
もともと料理は得意でもなんでもない。所詮「食えればいい」程度の平々凡々な腕前だ。けれど康臣の家に来てからは、康臣も食べるのだし……と結構頑張るようになった。今夜の献立は何にしようか、レシピを調べて少し凝った料理でも作ってみようか、と昼間のうちからあれこれ思案するようになった。

「純は俺の好きな物も嫌いな物もわかってるし、味付けも俺好みにしてくれるから良いな。純の作った料理が一番美味しいよ」

ここまで褒めてもらえると、そりゃあがぜんやる気にもなるだろう。何より世話になっている身なのだから、このくらいはやらせてもらわないと申し訳ない。俺は康臣が会社に持っていく弁当まで作るようになった。普段は外で適当に済ましていると言ったので、どうせならば昨晩の残り物を持って行けと。ありがた迷惑だろうけど、意外にも康臣はむしろ嬉しそうに俺の作った弁当を受け取ってくれた。


「なんか俺、康臣の奥さんみたいだなぁ」

自分の現状を再認識してつい小さく吹き出してしまう。

「ホントだな。ていうか純、もう就職しないでいいよ。俺が養うから、ずっとうちにいて専業主夫やってくれよ」
「ははっ、何言ってんだよ。それじゃマジで奧さんじゃん!」

そんな冗談も交わしつつ、俺は康臣との生活をとても楽しんでいた。
でもそれも、俺が無事に再就職できたら終わってしまう。せっかく充実しているのに、それは勿体ない気がした。もちろん、この生活がずっと続けばいいのに、というのは俺の勝手な気持ちだけれど。
でも、もし仕事が決まって生活が落ち着いたら……康臣にルームシェアを申し出てみようかなと、俺は密かに考えていた。



✦✦✦



ところで康臣のケータイには、女の子からのメールや電話が頻繁にくる。
それは俺が居候させてもらっている間も例外ではなく、康臣が風呂に入っている間に着信が来ようものなら、俺は代わりに出ることもできずに何分も忍耐強く鳴り続ける着信音をただ聞き続けるしかなかった。

「康臣、さっき電話きてたぞ。かけ直した方がいいんじゃない?」
「え? あぁ……またか。いいよ、ほっといて大丈夫」

俺に言われてケータイの着信履歴を見た康臣の表情が辟易としたものに変わる。何分も呼び出し続けていたから、何か大事な用とか至急の話だったのでは?と一応言ってはみたが、「この人、いつもこうなんだ」と溜め息まじりに漏らした康臣の様子を見てなんとなく察する。また女の子からの連絡、しかもどうやらその子は康臣狙いらしい。

康臣は昔から女の子にモテた。見た目がよくて、勉強もできて、人当たりもいい、そりゃあ当たり前にモテた。だから別にこれも『いつものこと』だった。俺は平凡だからろくにモテたためしもないけど、康臣を見ていると「モテすぎるのも大変そうだな」とつくづく思う。

俺と同い年だから康臣も今年で27のはずだけど、いまだにモテているんだな。昔と何も変わらない、むしろ大人の男になって余計魅力的になった気もする。同性の俺ですらそう思う。
ケータイの電源を切りながら疲れた表情をしている康臣を見る。どう見ても相手をするのが面倒くさいと言わんばかりの顔だった。こんなに女の子に言い寄られているのに、俺は学生時代、康臣が誰かと付き合ったり彼女といるところを見たことも聞いたこともない。

「康臣さ、俺がいて邪魔じゃない?」
「は? 何だよ急に」
「いや……女の子からのアプローチをそんなに嫌がるってことは、もしや既に心に決めた彼女がいるんじゃないか……っていう、俺の推理」

結婚を考えるくらい真剣にお付き合いしている彼女がいるのだとしたら、他の子からどれだけアタックされたって面倒なだけだもんな。

「もう27だろ? 康臣は昔っからモテたけど、そろそろ時期的にもさ、決まった相手でも見つけたのかなーと思って」
「……別に、そんなんじゃない」

俺がそう言うと、康臣はあからさまに嫌な顔をした。俺はそれも慣れっこだ。康臣は昔からこういう話題は好きじゃなかったし、自分からは絶対に振ってこなかった。だから俺は康臣がどんな子と付き合っていたのか全く知らないし、恋愛トークといえば俺が康臣に一方的に話を聞いてもらっていただけだ。

「彼女なんていないよ」
「ほんとに~? まあ、教えたくないなら無理に聞かないけど。俺、思ってたんだよな。康臣だったらきっと、すんごい賢くてすんごい綺麗な人と結婚するんだろうなーって。そんで、そういう人と並んでも康臣だったら完璧につり合っちゃうんだろうなって」
「……」
「康臣は真面目だし努力家だし、優しくていいやつだし、かっこいいんだからさ。幸せになってほしいと思ってるよ。……俺、康臣が昔、ピアノが弾けなくなったときに、すっごい落ち込んでボロボロになってたの、いまだに覚えてるんだ。それでも立ち直って、こうやって仕事頑張っててさ、本当に凄いよ。」

……って、何を真面目に語っているんだろう。なんだか恥ずかしい。
だけど、康臣が凄い奴なのは本当だ。常に先を見据えていて、どんな努力も惜しまない。特別なことなど何もできない俺にはそれが眩しいくらいで。

「だから……さ、俺に遠慮すんなよ? 幼馴染じゃん。康臣は全然話してくれないけど、俺、康臣が誰かに恋してたら全力で応援するし! 俺がここにいる間に彼女連れて来たくなったら、一晩くらい家空けるし!」
「何度も言うけど彼女なんていないし、連れて来ないし、何より家に帰って純がいないなんて嫌だよ」
「今はいなくても、もしそうなったらの話な。ここは康臣の家なんだから、俺に気つかわなくていいってこと!」
「あぁ……ありがとう」

俺が笑って言うと、康臣は苦笑しつつもそう返してくれた。
俺は康臣のことを、幼馴染以前に親友だと思っている。親友の恋は応援したいし、もし好きな子とうまくいったとか、結婚するとか、康臣がそうなった時は心から祝福したい。だから何も教えてくれないのは水くさいと勝手に感じてしまうし、いきなり報告されるよりは、ずっと傍で見守りながら応援したいのだ。

「……ていうか、俺のことはどうだっていいだろ。ああほら、純は最近どうなんだよ。前言ってた彼女と」

珍しく突っ込んだ恋愛話を振った報いなのか、康臣からブーメランが飛んできた。

「彼女な~。結構いいカンジで、そろそろプロポーズしてもいいかなぁって思ってたんだけどさ~。仕事なくなったって言ったら速攻でフラれちゃった」
「あ……」

俺が言うと案の定、康臣は「しまった」という顔をする。解雇されてからすぐの話だし、俺はもうそんなに気にしてないから、康臣には言わなかったんだけど。余計に気を遣わせるだろうなとわかっていたし。

「いや別に、全然怒ってないんだ。仕方ないって思うし。彼女の立場だったらやっぱそうするかなあって。ふつう、無職の彼氏と結婚なんて嫌だよな~。見た目も平凡だし、いいとこなしじゃん俺。そりゃフラれるよな」
「純……」
「こないだは普通に誕生日祝ってくれてさ、プレゼントまで選んでくれて……俺すげー嬉しかったのに、こんなあっさり終わったんだよ。かっこ悪いなー俺。一人で舞い上がってさぁ」

もう全然落ち込んでない。それは本当だ。けれど、相手が康臣だからか、だんだん話の内容がネガティブになってしまう。
可愛くて気の合う彼女と、うまくやれていると思っていた。俺は彼女のことがそれなりに好きで、だから職を失った時も隠さずに言った。彼女だったら、それでも俺のことを見捨てずに、次の仕事が見付かるまで応援して支えてくれるのではないかと、期待していた。
それなのに、と、勝手に裏切られた気分になっていたんだ。

俺は別段ネガティブな性格でもないと思うけど、好きで、信頼していた相手にこうもあっさりフラれてしまったことは、少し心に刺さった。

「……あ、なんかごめんな。そういうわけでさ、仕事とか恋愛とかに疲れてきたとこだったから、今はフリーで気楽に過ごせていいなって話!」

ある意味、ちょうど良かったかもなあと思う。いつまでもこんな生活続けられるわけないけど、仕事に追われず、彼女もいない今、思いがけず何年かぶりに羽休めができていると感じていた。
それもこれも全部康臣のおかげなんだけど。



✦✦✦



「まあ、結構懲りたから、しばらく彼女はいらねーかなぁ。なんか、平凡でろくに出世もしない俺を選んでくれる子なんてそうそういないっぽいし。一人でも、たまにこうやって友達と近況語り合えりゃそれで楽しいし」
「……じゃあもう、ホントにしなくていいじゃん。就職」
「は?」

再就職できたらしばらくは仕事一筋で頑張るぞ、と続けようとしたところで、康臣がよく分からないことを言った。恋人はともかく仕事もないままだと、俺いよいよ食い詰めるんですけど?

「俺が養うから、純はずっと俺んとこにいればいい」
「そのネタ、この間も言ってたぞ」
「ネタじゃないよ。彼女もいらないし、仕事も見つからないなら、俺の傍にいてくれよ。俺は、お前に家にいてほしい。常に目の届くところにお前を置いておかないと不安でしょうがない。……本当は仕事でだって外になんか出したくないんだ。だって外に出たらどうせまた彼女ができて、そればっかになって」
「は、待って、どういうこと」

普段は落ち着いている康臣の語調が強くなっていく。ただならぬ雰囲気だった。こんな康臣は初めて見たかもしれない。こんなに俺のことに必死になって……何をそんなに必死になっているんだ? わからない。

「なんで? 康臣は俺のこと応援してくれてたんじゃないの? 俺にもわかるように、ちゃんと言ってくれよ」
「ちゃんと言っていいのか?」

ほとんど間髪入れずにそう返してきた康臣の射抜くような視線に、思わず言葉に詰まった。なんだろう。聞いてはいけない気がした。聞いたら、康臣と親友のままではいられなくなる……康臣を失ってしまうような気さえする。
いいや、でも、康臣が何を言ったって、俺が康臣を大事な幼馴染で親友だと思っている気持ちは揺るがないはずだ。俺は康臣を裏切らないし、裏切りたくない。俺をあっさり捨てた元カノと同じにはなりたくない。
俺はしばし考えて、そして頷いてみせた。

「純が好きだから」

康臣から返ってきた言葉は、思いのほかシンプルで。
その声は震えてなんかいなくて、康臣の心地のよい、よく通る声で、まっすぐと。

「純のことが好きだから、誰にも取られたくない。本当はずっと、彼女なんて作ってほしくなかった。就職してなかなか会えなくなって、寂しかった。俺の隣からいなくなってほしくなかった」
「な、なんで……? 康臣は、だって、いつも俺のこと応援してくれて……」

好きな女の子とのことも、付き合っている彼女とのことも、受験も、就職も、康臣は俺のことならば何でも応援してくれた。笑顔で「がんばれ」って言ってくれた。俺はそれが嬉しかった。康臣が心から応援してくれていると思っていたから。

「じゃあ……違ったのか? 本当は俺に彼女なんてできてほしくなかったし、就職もしてほしくなかった? 今もそう? 再就職なんてしなけりゃいいのにって、彼女にフラれて良かったって思った?」
「……否定はしない」

康臣のその言葉が、告白よりもショックだった。
この世で一番、たぶん血の繋がった肉親よりも信頼していて、生まれた時からずっと一緒の、大切な存在で、自慢の幼馴染で。俺は何があっても康臣だけは裏切らないし、裏切りたくないのに。

「純、誤解しないでほしい。確かにそう思ってたけど、純に言った言葉で嘘なんかひとつもない。俺は純に幸せになってほしくて、本当にただそれだけで」
「でも、俺は康臣のこと、大事な幼馴染で親友だって思ってて……でも康臣はそうじゃないんだって……」

康臣が俺を好きだって。いうのは。
好きって、俺だって康臣のことは好きだけど、康臣が言っているのは多分。

「そうだよ。ずっとお前のことが好きだった。だからお前のことは、ただの幼馴染とも、親友とも思えない。どういうことかわかるだろ?」
「ま、待って。混乱してる」

なんで?
康臣が俺を好きだって?
ずっと好きだったって?

そんなこと、俺は知らない。
何も知らなかった。康臣は何も言わなかったし、そんな素振りすらなかった。康臣は康臣につり合うような、綺麗な女の人といつか結婚するんだろうって、当たり前のようにそう思っていて。
俺と康臣が親友だということも、当たり前だと思っていて。
だけど違った。そう思っていたのは俺だけだった。

「俺は……親友だと思ってた。康臣のこと、親友以上には思えない……」

というか、考えたこともない。自分が康臣と恋人同士になるなんてまったく、想像すらできない。俺は男で、康臣も男で……男同士で? 好きになって、付き合って、何になるっていうんだ?

「康臣、は、大事な親友で、幼馴染だよ。俺には康臣の気持ちがわからないし、わかっても応えられない。だからごめん」
「そう言うと思ってたよ」

俺の返事に康臣は苦笑すると、そっと俺の手を取った。あたたかい手。

「俺はさ、純。一生言うつもりなかったよ。純は俺のこと絶対好きにならないってわかってたから。だから純に彼女ができても、俺から離れていっても止めなかった。俺の気持ちは純を縛りつけて、苦しめる。だったら一生親友のままでいいって思ってたんだ」
「や、康臣……」
「けど言わせたのは純、お前だ」

康臣の声音が普段より低いものに変わった。俺の手を掴む力がぐっと強くなる。このとき俺は生まれて初めて、康臣に対して背筋の凍るようなぞっとする何かを感じた。

「え、なん……」
「どうせもう戻れない、だからお前が俺のこと嫌いでも、恋愛対象でなくても、もうどうだっていい」

両手首を掴まれて、腕の動きを封じられる。こんな康臣は見たことがなかった。こんな投げやりで、自暴自棄になったような、康臣らしくない康臣。
本能的に身の危険を感じた。なにがどうとか分からない、とにかくこのままここに居続けたらいけないような嫌な予感がした。

「ご、ごめん康臣。お、おれ、今日は別んとこ行くよ。ちょっと時間置いたら、きっとお互い冷静になれるから。だから……」
「駄目だ。今までさんざん、俺から離れるチャンスはあっただろ? さっさと彼女と結婚して、俺を置いて幸せになればよかったんだ。それをしなかった純が悪い。絶対、俺のものになってもらうから」
「やっ……やだよ! 俺はお前のじゃない!」

足で康臣の腹を蹴った。痛みに怯んだ康臣の手の力が弱くなった隙に、震える身体を叱咤して玄関へと走る。
逃げないと、と思った。康臣が落ち着くまででいい。落ち着きさえすれば、康臣は話が通じるはずだ。だから、それまでどこかに消えないと。
俺をものって言う康臣が怖いと思った。そんなこと今まで一回も言わなかったのに。俺と康臣は、どっちがどっちの所有物でもない。幼馴染って、親友って、そういう対等な関係のはずだ。
俺はどうしたって康臣の所有物に……“もの”に成り下がりたくない。俺は康臣の恋人になんてなれない。

「逃がすかよ」
「ひっ……!」

玄関の鍵を開けようと施錠部分に手をかけるも、焦って震える指では単純な操作も上手くできない。そうこうしているうちに追いつかれて、玄関を背に追いつめられてしまった。
怖い。逃げたい。でも康臣の腕の力はびっくりするほど強くて、俺は恐怖で身体がすくんで動けなくて、どうしようもなくて涙が出てくる。

「ンッ、んんーっ!」

冬の夜は冷え込む。背中に当たる玄関の扉は冷たかった。けれど、逃げ場のない俺に無理矢理キスをする康臣の表情のほうがもっともっと冷たく感じて。

「え……う、うそだろ。やだっ!やだよ!! 康臣、康臣!」

俺が何を言っても康臣は一切聞いてくれなかった。
それから康臣は、そのまま一晩中俺を犯した。



✦✦✦



最初に犯された日は、何をされたかあまり覚えていない。痛くて苦しくて、ただそれだけしか記憶に残らなかった。
康臣は無言で俺を犯した。俺が何度も何度もやめろと言っても聞いてくれなくて、名前を呼んでも返事すらしてくれなかった。

何度達しても体力が尽きても、康臣はお構いなしだった。結局最後は俺が気絶してしまって、次に目覚めた時はベッドに拘束されて動けなくなっていた。
そして、今に至る。

「純、ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」

康臣は昼間は仕事に行っているはずだけど、この状態になってから俺は時間感覚がほとんどない。部屋のカーテンは常に閉め切られているし、セックスした後はたいてい体力が限界に陥って眠ってしまう。そのセックスもタイミングが不定期で、法則性は今のところ掴めない。

俺は腕を拘束されていて、康臣はそれを決して外してくれないので、俺は何をするにも康臣の手からされるしかない。食事もそうだった。けれど、こうなってからというもの、食べ物はろくに喉を通ったためしがなかった。胃に何も入っていないのは実感できるのだけど、食べる気になれなかった。
康臣もそれを心配して、最近では俺が食べやすいようにとスープや粥にして食事を持ってきてくれるようになった。自分でも栄養不足を自覚してはいるので、頑張って少しは食べるようになったけど、それでも無理して食べるとセックスで揺さぶられているときに逆流してきて戻してしまう。
そんななので、俺はどんどん体力がなくなっていく一方だ。セックスをし始めてから気を失うまでの時間が、最初よりも随分短くなった気がする。

「純、お願い」

眉尻を下げて俺に食事を差し出してくる康臣を見ると、これから俺を犯そうとする奴の顔にはとても見えない。本当に心配そうに、俺を見ている。
それでも康臣は毎日必ず俺を酷く犯す。こうして身の回りのことをしてくれている時は優しいけど、セックスの時は乱暴だった。固い表情のまま、ろくに慣らしもせず一気に突っ込んでガンガン動く。終わったらまた優しくなるけど、最中はほとんど無言で、ただただ回数だけを重ねて。

俺はセックスで気絶して、疲れて眠って、それの繰り返し。食欲なんて沸くわけもない。それでも食べないと行為中しんどいのは俺だし、それにやっぱり、心配そうな康臣を悲しませたくはない……この期に及んで俺はまだそんなことまで考えて、少しでも食べようと努力してしまう。

「ありがとう。純はいい子だね」

俺の頭を撫でながら微笑む康臣は、俺たちが幼馴染で親友だった……いや、俺がそう思い込んでいた頃と、何も変わらない。
けれど俺は思う。康臣は、あの日から確実におかしくなってしまった。

俺は自分がどんな気持ちで康臣に抱かれているのか、それすらもう分からなくなっていた。康臣に何度抱かれてもドキドキとかときめきなんてものは感じなくて、ただ強制的に叩き込まれる快感に喘ぐだけ。それでいいのだろうか。康臣はこんな関係を望んでいたのだろうか。俺はやっぱり、元の関係に戻りたいと思う。

「……っ」

拘束されている腕に力を込めてみる。
ぐっ、と革の擦れる音がするものの、抜け出す隙まではない。手首のあたりにある留め紐は常にきつく縛られていて、日が経っても緩むことはなかった。足は拘束されていないので、これさえ外れれば自由に動くことができるのに。

「康臣……」

俺がおかしくしたんだ。康臣は本当は、こんなことをするような奴じゃない。俺は康臣に元に戻ってほしい。そのためには、きっと俺が傍にいないほうがいいのに、俺はここから動けない。

俺のせいだから、俺が何とかしてやりたいのに。
俺以外誰もいないベッドの上で、ただ考えた。康臣のことを考えた。
康臣が帰ってくるまでずっと考えていた。



✦✦✦



「純、ただいま。会いたかった」

部屋のドアを開けるなり、帰宅したばかりでまだスーツ姿のままの康臣が笑う。愛おしそうにぎゅうっと抱きしめられると、ほんのり煙草のにおいがした。
康臣って煙草、吸うのかな。俺の前では吸っているところなど見たことがない。

「いつも一人にしちゃってごめんな。すぐに食事……あ、昨日シャワー浴びないで寝たから、今日は先にしとこうか」

俺が何も答えなくても、康臣は楽しそうに俺に話しかける。
こうなってから毎日そうだった。康臣は俺がなにか言おうと言うまいと、俺のことを勝手に決めて勝手に動く。
毎日することといえばセックスだけなのに、康臣はちゃんと俺に服を着せる。風呂に入るたびに脱がせて、新しい服を着せて、それをセックスするときにまた自らの手で脱がす。着せ替え人形になった気分だった。
俺をどうするか、康臣が全て決める。俺が何も言わなくてもそうなる。康臣がそうするからだ。俺の意思なんか関係ないんだ。

「純?」

こんなのもう完全に、康臣のものだ。
俺は康臣の“もの”にされてしまった。

「純……なんで泣いてるんだ?」

いやだ。元の関係に戻りたい。
けれど多分、もう戻れない。康臣には俺の声なんかきっと届かない。

「……ごめん」

がさがさになった声で、やっと口にできたのは謝罪の言葉だった。

「康臣、ごめん……俺のせいだ」

康臣のこと、なんでも分かっていると思っていた。幼馴染でずっと一緒にいたから、誰よりも知っている自信があった。でも俺は何もわかってない、康臣が今までどんな思いでいたかなんて、何もわかっていなかった。わかっていないと、考えもしなかった。
そのせいで康臣はこんなことをしてしまうくらい、苦しんで悩んで、一人で。

「なんで謝るんだ?」

俺の涙を指で拭いながら康臣が怪訝な顔を見せる。ああ、わかってない。こんなこと本当は望んでいないんだって、康臣自身すらわかってない。
康臣がまるで別人みたいだ。こんな奴じゃなかった。いや、俺が知らなかった。俺に見せたくない顔を、康臣が持っていたことに俺が気付かなかった。
悔しくて申し訳なくて、涙が止まらなくて何度も鼻を啜った。久しぶりに泣くと頭が痛くなった。そんな俺を康臣は優しく抱きしめて、あやすように頭を撫でる。

「大丈夫……? きっと疲れてるんだな。今日はこのまま寝ようか」

康臣は、こんなこと俺にしなかったのに。こんな、まるで恋人にするようなことなんて。
そんな康臣に俺が困惑していることすら、康臣は気付かない。

「やす、おみ……」
「……ん? 何?」

康臣が怖い。今までは康臣のことが怖いなんて思ったことなかったけど、今はとても怖い。口答えしたら何か酷いことをされるんじゃないかとか、思う。
でも、康臣に言わなきゃ。康臣にこのままでいてほしくない。康臣はもっと、俺とは違って、立派な人間だったんだから。俺たちの関係は元に戻らなくても、せめて康臣には、元に戻ってほしい。

「康臣、もうやめよう」

俺が掠れて出づらくなった声でそう言うと、途端に康臣の顔から表情が消え失せた。

「……こんなこと続けても何にもならないって、康臣もわかってるんだろ。こうやってずっと俺のこと閉じ込めてても、俺は康臣のこと好きにはなれないよ」
「……」
「一人で俺のこと抱きまくって、楽しい? 幸せ? 俺は康臣がこんな状況を望んでたようには見えないよ。だって康臣、こうなってからずっと変だ。すごく無理してて、康臣じゃないみたいだ」
「……うるさいな。純、久しぶりに喋ってくれたと思ったら、そんな話をするのか」

無表情でそう言った康臣の声音が冷たい。びくりと肩が震える。けど、拘束されている以前に、康臣に抱きしめられているので逃げ場がない。

「純のせいだ。俺だってこんなことしたくなかった、けどもう駄目なんだ。こうでもしないとお前は俺から逃げる。だから捕まえておかないと、ずっと」

康臣がぶつぶつとうわごとのように呟いている。純のせいだとしきりに言っている。

「そうだよ、俺のせいだよ。俺がいるから、康臣はおかしくなるんだ。だから俺たちは一緒にいちゃいけない。しばらく距離を置くべきなんだよ」
「嫌だ!!!」

康臣が珍しく大きな声を出したのでびっくりする。

「それだけは嫌だ。純は、俺のそばにおいておかないと嫌だ」

康臣がどうしてそんなに必死になるのか分からない。俺はこんなふうに閉じ込めてまで独占しなければいけないほどの存在でもないのに。どうして。きっと俺がいなくても康臣は普通に生きていけるし、俺は平凡などこにでもいるような男なのだから、ここまで俺一人に固執しなくったっていいはずだ。

「頼むから、もうそんなこと言わないでくれ。純……」

俺を抱きしめながら震える声でそう言う康臣が、なんだか小さく感じた。

「康臣、ごめんな。でも俺はやっぱり、康臣はもう俺といない方がいいと思うよ。俺は平凡だからさ、俺みたいな奴でお前のこと心から好きになってくれる奴、他にもいっぱいいるだろうし」
「何言って……」
「つっても、康臣に言い寄ってくる子はみんな美人だけどさあ。見た目でも中身でも、『俺みたいな奴』ってそんなにハードル高くないはずだし、な。康臣のこと好きになれない俺のことなんか、何度抱いたってつまんなかったろ。だから」

……だから?

「康臣は、俺以外の人と一緒になったほうがいいよ」

何故かほんの一瞬それを言うのを躊躇ってしまったけど、俺は言った。

俺のことを好きだと言った康臣には酷かもしれないけど。
恋愛で、そんな簡単に気持ちが切り替えられないことはわかっている。でも俺だぞ? 康臣。俺がバカで平凡で、康臣のことを親友以上には見ていないってことは、お前がよく知っているじゃないか。こんなことしたって、俺が康臣のことを好きになるわけないって。
康臣は、ちゃんとわかっているんだろ?

「あぁ、わかってる。わかってるけど……それでもどうしようもないことだって、あるんだよ」

康臣のそんな顔、見ているだけで苦しくてたまらなくなる。
どうしてそう思ったんだろう? ……幼馴染だからだ。親友だからだ。昔からずっと一緒の、たった一人の大事な親友だから。

でも、本当にそれだけなんだろうか?



✦✦✦

- side 康臣 -



幼い頃、俺はピアノが大好きだった。

毎日毎日、ピアノしか頭になかった。ピアノが弾きたくて、でもピアノを弾くのは宿題が終わってからねと母が言うから、文句がつけられないくらい完璧に宿題をやって、それから時間の許される限りずっとピアノを弾いていた。

俺はピアノに対して、常に真摯に向き合ってきた。
練習を怠った日など一度もなかった。レッスンを休んだこともなかったし、ピアノを弾くのが億劫だとか、嫌だと思ったこともなかった。
小さかった俺は既に、ピアノに一生を誓っていた。将来は絶対にプロのピアニストになるんだと、心に決めていた。そのための努力は1ミリも惜しまない。どんなに難しい曲でも弾けるようになるまで練習して、出場したコンクールでは年上を圧倒する技術力で賞を取る。俺は絶対にピアノを裏切るようなことはしなかった。

なのに、ピアノは俺を裏切った。

中学三年のとき、手が思うように動かなくなって、もう駄目だと思った。いや、思い知らされた。
嘘みたいに動かない指に苛立って、ピアノなんかとても弾けなくなった。必死に勉強して目指していた国立音楽大学の附属高校も、この手では諦めざるを得なかった。

何もやる気が起きなかった。
ピアノのために何もかもやってきた。それなのに、ピアノを失った今、俺にとって意味のあることなどない。ピアノが大嫌いになった。周囲の人間が、物が、環境が……この世界すべてが嫌いになった。ピアノが弾けないのなら今すぐ死んだほうがいいとさえ思っていた。

そんな俺に対して、みんな物凄く気を遣っていた。腫れ物に触るように接し、誰も俺にピアノの話など振らなかった。しかし俺にとってそれまでの人生はピアノが全てで、それをまるでなかったことのようにされているようで、結局辛かった。

『康臣……もうピアノ弾かないの?』

そんな全身が腐ったかのような日々に、唯一あいつだけは。

『俺、康臣がピアノ弾いてるのを見るのが好きなんだ。だから、やめてほしくないな……』

あの時の純は、俺に気を遣うとか、考えていたのだろうか。多少はそうだったかもしれない。けれどあいつだけは、ピアノに背を向けようとした俺に「やめるな」と言った。

『康臣にとってはさ、プロになれなきゃ、ピアノ弾く意味なんかないのかもしんないけど……でも、プロじゃなくったって、康臣のピアノが聴きたい人はいるよ』

純とは家が隣同士だったから、小さい頃から一緒に遊んでいた。広い俺の家でひとしきり遊んだあとは、俺の大好きな大きなピアノがある部屋で、俺がピアノを弾いた。そのとき、純はピアノを弾く俺をいつもじっと見つめていた。純にとっては退屈な、興味もなかったであろうクラシック音楽ばかり練習する俺を見ていた。
そして弾き終わると、純はすごく喜んで拍手をしてくれた。よくわかんないけどすげー!とよく言っていた。そういう正直な感想が純らしくて、可愛かった。本当に嬉しかった。レッスンの合間を縫って、純に聴かせたら喜んでくれそうな、純が好きそうな曲をこっそり練習していたくらいだ。
純だけに俺の演奏を聴いてもらえるあの時間が、俺は大好きだったのだ。
多分もう、この頃には既に、俺にとって純は幼馴染以上の特別な存在になっていたのかもしれない。

『俺、好きなものに夢中になってる康臣が好きだ。だから、また聴かせてくれる……?』

純がここまでしてくれるのは全部、ピアノを失ってボロボロになっていた俺のために他ならなかった。純本人は大したことないと思っているかもしれない。純は明るくて、人見知りもせず、そして友達想いの優しい奴だった。だから幼馴染が落ち込んでいたら手をさしのべるのは、純にとっては当たり前のことなんだ。
だから純は、俺がそれにどれだけ救われたかなんて知らない。大嫌いになったピアノをまた好きになれたのも。俺が今もピアノを好きでいられるのは、純のおかげだ。
全てを拒絶する俺にどれだけ冷たい言葉や八つ当たりの罵倒を浴びせられても、純だけは決して俺を見捨てなかった。俺の弾くピアノが好きだからと、たったそれだけの理由で。

「純……」

愛しい名前を呼ぶ。今俺の目の前には、気を失って眠る純の寝顔があった。
純が俺から離れていくようなことを言うので、結局今日も酷くしてしまった。純が俺の前から消えるなんて考えたくもない。

「好きだ」と口にした途端、長年堪えてきた恋心が、どろどろと全身から溢れたようだった。
一度決壊してしまったものは、もう戻らない。純に想いを告げられたら……なんて、甘酸っぱいことを思えたのも最初の数年だけだ。そんな想いは毎日俺の中で溜まっていって、血のように黒く固まり続けた。そうしたら、いつの間にか俺の純に対する恋心は、重くてどす黒い醜いものになってしまっていた。

『こんなこと続けても何にもならないって、康臣もわかってるんだろ』


「……わかってる……」

わかっているけど、俺は純が欲しいんだ。俺だけ見て、俺を一番に想ってほしいんだ。
純をこうして閉じ込めてからというもの、純はすっかり口数が減って、笑顔がなくなってしまった。それまでは俺が何も言わなくたって次から次へと楽しそうに色々な話をしてくれたのに。会うときはいつも笑顔で、彼女にフラれた話をするときすら、へらへらと笑っていたのに。
純からそれらを奪ったのは、他ならない俺だ。でも俺には、こうするしか純を手に入れる方法なんてなかった。

自分の性格が悪いのはとっくに自覚している。嫉妬深くて、執念深くて、それを取り繕うように猫被りばかり上手くて。 
それでも純は、俺に嫌気がさして離れていくことはなかった。正直でまっすぐな自分とは正反対の、ひねくれた俺とずっと一緒にいた。趣味嗜好も違うし、普段付き合っている友達のタイプも違った。けれど俺と純はずっと一緒にいて、俺はずっと純のことが好きだった。

「ごめん、純」

純は苦しんでいる。俺のせいで、俺が純を好きで放さないせいで、苦しんでいる。純を苦しめたくない。けど、純が俺の前から消えてしまうのは嫌だ……。

「ごめん。……純、ごめんね。大好きだよ」

俺は何度も何度も謝りながら、眠っている純の腕の拘束をゆっくりと解いた。



✦✦✦



目が覚めると、俺は自由になっていた。
腕の拘束具が外れている。代わりに別の場所を拘束されたわけでもなく、正真正銘、自由に動き回れる状態だ。昨日俺の言葉にあれだけ怒っていた康臣は、家のどこにもいなかった。

どういうことだ?

俺の拘束を解いたのは十中八九康臣だと思う。だけど、今まで散々縛り付けておいて何故急に解放したのかわからなかった。何かの間違いだろうか。自由になったものの、あまりにも唐突すぎてこのまま立ち去ってもいいものかと困惑してしまう。

「……いや。出て行かないと、だよな」

俺は康臣と距離を置くべきだ。そう思うし、康臣にもそう言った。この状況がどういうことであれ、自分の意志で動けるようになった俺が取るべき行動は一つだ。俺は服を着替えて、康臣の家に来たときに持ってきた荷物を探す。

康臣の家に来てから……特に拘束監禁されてから、どのくらい経ったのだろう。久しぶりにリビングルームに足を踏み入れ、テーブルの上にある小さなカレンダーを見る。俺が最後に見たときと月のページが違っていた。
こんなに何週間も俺を抱き続けて、康臣もよく飽きなかったな、と他人事のように思った。いくら好きだとしても、俺は平凡で決して美人ではないし、身体つきだって貧相な色気の欠片もない男だというのに。

「……おじゃましました」

誰もいない部屋に向かって締まらない挨拶を投げかけてから、俺はひっそりと康臣の家を出た。
しばらく前にもらっていた合鍵で玄関を施錠する。この鍵も返さないとなぁ、と思うけど、この先返せる機会が巡ってくるのかどうかもわからなかった。
黙って出て行ったほうがいいのかもしれないが、世話にもなったので一応書き置きは残してきた。書いたのはごめん、という謝罪の言葉だけだけど。帰ってきて俺がいなかったら康臣、心配するかな……なんて、少し罪悪感はあるけれど。康臣の気持ちを知って、これでもかというほど執着された数週間、俺は康臣の前から消えるべきだと思っていたんだ。

だいぶ酷いこともされたけど、不思議と康臣を恨む気持ちはなかった。普通に居候させてもらっていた時は康臣は凄く優しかったし、何より康臣は大事な幼馴染だ。幼馴染としては大好きだし、あんなことをされてもそう簡単に嫌いになれないくらいには、俺は康臣を大切な存在だと思っている。

……なんて、変かな。俺。
康臣だったら許してしまいそうな自分がいる。実際、怒ってなんかいなかった。ただ康臣の気持ちには応えられないし、これ以上一緒にいたら、康臣はどんどんおかしくなっていってしまうような気がしたんだ。

マンションを出て、久しぶりに太陽の下に立った。あまりにも久しぶりすぎて軽く立ちくらみがする。これからどうしようか。どこに行こうか。俺が一人暮らししていた部屋は少し前に解約してしまったし、仕事もまだ決まってない。康臣に甘えていたツケが回ってきたなぁと苦笑するけど、なんとなく暗い気分にはならなかった。
やっぱり俺は一人で平凡に生きていくほうが性に合っているんだ。
だから康臣も、次は間違えないでほしい。

俺は康臣の恩人だなんてことはないし、特に凄い奴でもないってこと。
ピアノのことだって、今の康臣がきちんと立っていられることだって、全部俺のお陰なんかじゃなくて、康臣自身の強さなんだってこと。
康臣は本当は、俺がいなくたってちゃんと生きていけるってこと。

俺と離れて、それに気付いてほしい。



✦✦✦



「先輩、お疲れ様です」
「お疲れ。今日は誕生日だっけ? おめでとう。祝ってやりたいけど俺まだ連絡待ちで残らないとだからさ。今日は早く帰って楽しめよ。」
「ありがとうございます! それじゃ、お先に失礼します」

数ヶ月後。
運のいいことに俺はあれからすぐに再就職先が見つかり、住む部屋も新しく決まった。
最初は何もかも不慣れで大変だったけど、同僚や上司は良い人ばかりだし、前の会社より色々条件もいいし、なんとか気持ちよくやっていけている。

新しい環境にも少しずつ慣れてきた。
そして、今日は俺の28歳の誕生日だ。

今から約一年前……27歳の誕生日を迎えてすぐの頃に職を失って、どうすればいいかわからなくなって、幼馴染の康臣のところに転がり込ませてもらったんだっけな。
色々あって大したお礼もできないまま康臣の元を去ってしまったけど、どうしているだろうか。元気にやってくれているといい、と思う。もっとも、俺が心配なんかしなくったって、康臣ならば今まで通り仕事もプライベートも完璧にこなしているだろうけど。

康臣とは会わないほうがいい。
俺が傍にいないほうが、康臣は上手くやっていけるんだ。

「……ケーキでも買って帰ろうかな」

今年の誕生日は俺一人だ。
去年は当時付き合っていた彼女が一緒に祝ってくれたんだっけ。そのすぐ後にフラれたんだけど……。
再就職したりなんだりで、ここ数ヶ月はとてもバタバタしていて、新しい仕事に慣れるので手一杯だった。だから当然、彼女を作っている余裕もなかった。
恋愛もいいけど仕事は大事だから、仕方ないよなと思いつつ途中寄ったコンビニでケーキと酒を買う。今日はこの後予定はないし、明日は休みだけどやっぱり特に予定はない。我ながら寂しい誕生日だなぁと思うけど、コンビニ袋に入った小さなケーキと缶ビールが、平凡な俺には身の丈に合っていてぴったりな気がした。

一人暮らしで誰もいない家に帰って、ケーキとビール、それと簡単なつまみを作ってささやかに自分の誕生日を祝う。ケーキにこれでもかと塗りたくってある生クリームの甘さに顔を顰めてから、それを誤魔化すように一気にビールを煽った。おっさんっぽいかな、俺。でももうその通りな年齢になったわけだ。アラサーだ。

「もう28かぁ……」

あんたももういい歳なんだから、いい加減彼女の一人でも紹介しにきなさいよ、とは年末に実家に帰った時に母から言われた言葉だ。
要するに「そろそろ結婚したらどう?」って意味なんだろうなぁ。結婚かぁ。アルコールが回ってきてぼんやりとしてきた頭で考える。俺、お酒好きだけど弱いんだった。普段は悪酔いしないように少しずつ飲むんだけど、今日は一人だからって調子に乗って飲みすぎたかもしれない。

結婚。去年の今頃まではそこそこ真面目に考えていたことだった。それなりに長く付き合っていた彼女がいて、この子と結婚するかもなぁ、そろそろプロポーズしてもいいかもなぁ、なんて本気で思っていた。
だけど、そんな彼女にも職を失った途端あっさりと見限られ、「彼女にとって俺はその程度だったんだな」と思うと同時に俺の気持ちも冷めていった。やっぱり俺は平凡だから、遊びで付き合うには楽だけど、真剣に交際して結婚するとなるとつまらない男なのかもしれない。大して稼ぎがあるわけでもないし、甲斐性?もないし、俺みたいなのが誰かと結婚して……だなんて難しいのかも。
現に今は恋人もなく、こうして一人で28歳の誕生日を迎えているのだから、結婚できるのはもうしばらく先になりそうだなぁ。母さんごめん。

そんな俺に比べて、康臣はすぐに結婚できそうだ。というか、すぐに結婚できそうなのにこの歳まで結婚していないのが不思議なくらいだった。イケメンだし稼ぎもいいし、頭も良くて優しい。女の子なら誰だって惹かれる男だと思う。
それなのに俺みたいなのが好きだなんて言うのだから、康臣は残念なやつだ。俺のことが好きだから、今まで康臣からは結婚の噂も聞かなかったし、交際相手がいる気配もなかったのだと思う。康臣は自分のことはあまり自ら口に出したりしない奴だから、俺に言わないだけで本当は彼女がいたりデートしてたり……ってしているのかと思っていた。昔からずっとそう思っていたから、まさか康臣が一途に俺だけを想い続けていて、本当に彼女もいたことがないとは思っていなかった。

「康臣、どうしてるかな」

一人きりの部屋でぽつりと呟く。
あれから康臣とは会っていないし、康臣からも連絡はない。連絡がないことから、やっぱりあのとき俺の拘束を解いていったのは康臣自身だったのだと確信した。
俺といたことでおかしくなってしまっていたけど、康臣は本当は優しいし頭の良い奴だ。だから、あんなこと続けても何もならないって、最初からわかっていたんだ。それでもやめられなくて、だけど最終的には俺の為を思って逃がしてくれた。……のだと思う。
あの康臣なんだから、大丈夫。このまま俺のことは忘れて、康臣と釣り合うような魅力的な女の人と恋愛して、結婚するだろう。それがいいんだ。

そもそも康臣は勘違いしている。ピアノが弾けなかった時に、康臣を想った俺の言動が励みになったのかもしれない。それで俺に恩か何かを感じていて、だから俺に一層思い入れがあるのだろうと薄々わかっていた。
けれどあの時康臣を励まそうと一生懸命になっていたのは俺だけじゃない。ご両親も、学校の友達も、康臣のファンの女の子たちだって、みんなみんな康臣が大好きで、心から心配していた。
俺だって、そうだ。俺だって康臣が大好きだった。そんな康臣はピアノが大好きで、だけどあの時康臣はピアノを嫌いになりかけていて……辛そうで見ていられなくて、何かしてやりたかった。そして周りのみんなもそう思っていた。
だから、俺が特別すごいことをしたわけじゃないんだ。

俺は普通だ。人と同じようなことしかできないし、努力しても『平凡』の域を出ない。そんな自分が嫌いなわけではないけど、だからこそ『特別』だなんて言葉は俺から一番遠いものなのだということも知っている。
そんな俺が、才能もあって努力も惜しまない康臣の『特別』になれるわけがない。なったとしたら、それは何かの間違いだ。間違いは、正さなくちゃいけない。

「これでよかったんだよな……」

俺が自分から離れたのだから覚悟はしているけど、康臣とはこれから一生会うこともないのかもしれない。
間違いなく康臣は俺にとって大切な存在だった。恋愛的な意味がないにしても、大切なことに変わりはなかった。それでも突き放したのは俺だし、最後まで康臣の気持ちを拒否し続けたのも俺。全部俺の意志でしたことだから、仕方のないことだ。

俺を好きだと言った康臣はいなくなって、別の誰かと幸せになって、俺はずっと一人。

「ははっ……」

なんでだろ。今更、康臣が俺の傍にいないことがどうしようもなく辛くなるなんて。おかしくて笑ってしまう。自分から距離を置いたのに、それでも康臣には俺の一番近くにいてほしいだなんて思ってるんだから。
康臣の気持ちを受け入れなかったのは他ならない俺なのに、我ながらすごく身勝手だ。すっかり酒が回って熱くなった目頭に、じわりと涙がにじんだ。


ピンポーン。

と、ふいに、インターホンの電子音が部屋に響いた。

「だっ、誰……?」

独り身の俺に来客なんて珍しい。慌てて袖で目元を拭ってから玄関へ向かった。
このアパートは立地のわりには家賃が安くて住みやすいけれど、部屋にはインターホンのモニター等が常設されていない。そのため、来客時は俺が玄関を開けるまで誰が来たのか分からないのだ。
いつもなら防犯を気にして覗き穴の魚眼レンズで一度確認してから開けるのだけど、今は多少酔っていたのと急な来客に慌てていたのとで、つい確認もせずに玄関を開けてしまった。

「はーい……」

開けてから、これで質の悪いセールスとかだったら嫌だなと思ったけどもう遅い。誰にせよこんな時間にわざわざ訪ねやがってと心の中で悪態をつきながら、玄関先にいる人物を視界に入れる。

「え、康臣……!?」

そこには、数ヶ月前最後に見たときと変わらない、俺の幼馴染で親友の、康臣の姿があった。



✦✦✦



なかなか言葉が出ない。連絡もしてこなかったし、年末に地元に帰った時だって、実家は隣同士なのに訪ねてくることもなかったじゃないか。
ていうか。

「な、なんで俺んち知って……」
「おばさんに聞いた」

おばさん、とは俺の母のことだ。ああそうか、俺が転職して引っ越したこと、母さんがいつの間にか康臣に喋っていたらしい。俺も口止めとかしてなかったからな……母さんなら言うだろうな。

「そっか……。それで、なんで急に、その……」
「別に何か用ってわけじゃないけど……今日誕生日だろ。おめでとう。……それだけ。じゃあな」
「えっ? ま、待てよ!」

それだけ言うなり、そのまま踵を返して本当に立ち去ろうとする康臣をつい呼び止めてしまった。なんで呼び止めたのかわからない。だけど久しぶりに会ったのに、こんなにあっさりと帰ってしまうなんて、なんか。

「何?」
「え、っと……そ、外暗いし、寒いしさ。あ、上がってかない? わざわざ来てくれたし、どうせ俺一人だし……」

自然とごにょごにょと声が小さくなる。引き止める正当な理由なんかなかった。ただ、このまま康臣が帰ってしまったら、またずっと連絡も何もないだろうし。少し話がしたかったのかもしれない。康臣から逃げたのは俺なのに、勝手な考えだけど。

「いや、遠慮しとく。家遠いし」

そんな曖昧な俺を叱咤するかのように、康臣の態度は極めて淡白だった。本当にただ一言、おめでとうと言いにきただけだったのか。それだけのために、わざわざ俺の家まで来て。俺は康臣に話したいことがたくさんあるのに。ずっともやもやしていて、さっきまで康臣のことばかり考えていたのに、康臣はそれだけで帰ってしまうのか。他に俺に言いたいこととか、ないの?

「で、でもっ……」
「お前、ちゃんとわかってる?」

俺に背を向けて去って行こうとする康臣の腕を思わず掴みかけたが、少々苛立った声を出した康臣にその手を逆に掴まれる。機嫌の悪そうな康臣は少し怖かったものの、俺を無視せずに振り返ってくれたことに安心した。

「俺は、まだ純のこと好きだよ。自分を恋愛感情で好きだって言ってる男を、お前は簡単に家に上げるのか? それで何されても、お前は文句言わない?」
「っ……」

しかし安心したのも束の間、康臣が俺を玄関の壁に追いつめて、ぐっと顔を近づけてきた。キスをしてしまいそうなくらい近距離に康臣がきて、康臣の吐息が俺の唇にかかる。
数ヶ月前にはキスよりもっと凄いことを好き放題されたんだ。今さら顔が近づいたくらいでは嫌悪感や不快感は感じないものの、それでも反射的に身体が強張った。そんな俺を見て康臣の表情も一層不機嫌そうになる。

「嫌なら、引き止めたりするな。」

不機嫌……いや、どこか苦しそうな顔で俺にそう言うと、今度こそ康臣は俺に背を向けて去って行ってしまった。俺はもう呼び止めることができない。強張っていた身体からようやく力が抜けたのは、去っていく康臣の足音が聞こえなくなった時だった。

「……」

冷たい玄関先でへたりこむ。心臓がどくどくと脈打っているのをここにきてようやく実感した。

康臣は変わってなかった。俺と離れたところで、目が覚めることもなかった。まだ俺が好きだと面と向かってはっきり言われて、なんだか頭がどうしようもなくくらくらした。俺、どう考えても混乱している。

だって、康臣にそう言われて、俺はドキドキしたんだから。

俺……ホモなのかな。今までこんなことなかったのに、なんでドキドキしているんだろう。男が好きになったのだろうか。それとも、康臣だから?

……わからない。本当はここ数ヶ月、俺は自分が康臣のことをどう思っているのかどんどんわからなくなっていた。幼馴染で親友、疑いもなくそう思っていたのに、康臣に告白されて、微妙に関係が変化してから、俺はおかしい。距離を置けばおかしくなった康臣は元に戻ると思ったのに、離れている間、俺の方がよっぽどおかしくなっていた。それを今日、思い知らされた。
心のどこかでは気付いていた。こんなに康臣のことばかり考えるのは変だと。幼馴染とか、親友の域ではないと。でもそれがどういうことなのか、ずっとはっきりしなくて。

「とにかく、追いかけなきゃ……」

康臣を追いかけないといけない。
あと少しで何か大事なことに気付きそうなのに、このまま別れてしまったら、またわからなくなる。
そんな気がした。

手ぶらのままスニーカーだけ引っかけて、上着も羽織らずにアパートの階段を駆け下りる。走ればまだ追いつくかもしれない。

「……ん?」

階段を下り、一階の集合ポストの前を駆け抜けようとして、ふと視界の端に映った光景に違和感を覚える。
俺の部屋番号が書かれたポストに、何かが挟まっていた。でも、先程帰宅した際に見たときは何もなかったはずだ。
郵便物かと思ったけど、宛名も差出人も書いてない。ささやかなラッピングが施された包装には、俺がよく読む雑誌で取り上げられていた、有名ブランドのロゴがあった。

「……っ康臣!」

それが何なのか理解すると同時に、俺は全速力でアパートを飛び出した。
俺の誕生日。俺がよく読む雑誌。好きなブランド。もらったら嬉しい物。全部知っているのは一人しかいない。
わざわざこんな物まで用意して、どうして直接渡さないで帰ったんだ。俺は康臣の考えていることがわからない。連絡はしてこなかったのに突然家に来たり、そっけなく接するのにまだ俺のことが好きだとはっきり言うし。
康臣は頭がいいし、俺はバカだ。だから理解できないのかもしれない。けど、自分のことくらいはわかっていたい。康臣から連絡がなくて寂しかったり、帰ろうとするのをつい呼び止めてしまったり、好きだと言われたらドキドキしたり。
ただの幼馴染であったはずの相手に、俺がそうなる理由は。



✦✦✦



「康臣!」

ぜえぜえと息を切らしながら、ようやく見えた後ろ姿に向かって叫ぶ。まだ距離があるのによく聞こえたなと思う、康臣は俺の声に気付いて振り返った。

「待って!」

俺が言うと康臣は立ち止まってくれた。どうして俺が追いかけてきたのかと疑問に思っているような表情だ。
康臣の元まで追いついて、走ったせいで乱れた呼吸を整える。全力で走ってきた甲斐があった。人通りが多い場所に出てしまっていたら、見つけられていたかどうか自信がない。
終電近い時間帯の住宅街は、人気がほとんどなかった。自分の荒い息遣いが、俺と康臣以外誰もいない路地によく響く。

「どうしたんだよ」
「ごめん、康臣。まだ帰らないでほしい」

俺が慌てた様子で走ってきたので、さすがの康臣も怪訝そうな声を発した。さっきあんな別れ方をしたばかりだということも忘れて、俺は顔を上げて康臣の目を見る。

「言いたいことがある」

俺がそう言うと、康臣はちゃんと俺の目を見てくれた。

「俺、あの時……康臣がおかしくなったのかと思った。俺が傍にいるから、ああなっちゃったんだって。でも本当は、俺がおかしかったのかもしれないんだ。俺が、康臣に好きだって言われてから、変になったのかも」

心臓がドキドキしてる。
言うべきことはわかっているのに、頭の中でまとまっていない。今更まとめられない。
でも言わないと。このまま康臣が俺から離れていってしまうなんて嫌だ。俺を好きだと言っていた気持ちが、時間と共に消えてなくなってしまう前に……後悔する前に、言わなきゃいけない。

「康臣のこと好きになれないって、距離を置こうって言ったのは俺なのに、康臣がいないと寂しいんだ。今どうしてるかなって、ずっと康臣のことばっか考えてるし、彼女も作る気になれない。それってつまり、俺が康臣のこと……」
「いいよ、もう」

俺が言葉を続けようとするのを、康臣の声が遮った。

「無理しなくていい。お前は優しいから、俺の気持ちにも応えようとしてくれてるのかもしれないけど、同情でそんなこと言われたって惨めなだけだ」
「康臣……」
「さっきはあんな事言って悪かった。純はただ、俺と普通の幼馴染に戻りたいだけなんだろ? 純がそうしたいなら、そうするよ。ここ数ヶ月、気持ちに整理つかなくて、メールもできなかったけど……今はもう何とか大丈夫だから。これからは今まで通り、連絡取り合ったりしよう」

康臣は心なしか淡々とした口調でそう言った。その言葉にざわり、と胸のあたりを何かが通り過ぎる。
幼馴染に戻って、今まで通り気の置けない間柄に。俺が一番望んでいた、そうなるために強引に康臣を突き放してまで得ようとした関係。

「今までごめんな」

久しぶりに優しく微笑んだと思ったら、康臣が口にしたのは謝罪だった。辛そうな様子なんておくびにも出さずに、幼馴染で親友だった頃と同じように、俺に笑いかける。やっと笑ってくれたのに、やっと元の関係に戻れるのに。もう康臣に好きだなんて言われて困ることはなくなるのに。

それなのに、身勝手にも俺は涙を流してしまっている。

「そんなことっ……、言うなよぉ……!」

俺のために自分の気持ちをしまい込もうとしている康臣のことを、思いきり抱きしめたい衝動に駆られた。あんなことをしてまで本当は俺を傍に置いておきたかったくせに、なんでそんなに優しいことを言うんだ。
康臣は昔からそうだ。頭の良い奴だから、俺のわからないことも康臣には全部わかっているはずなのに、いつも俺に付き合ってついてきてくれる。

「俺のこと好きだって言ったじゃん。好きって言って、あ、あんなことまでしたくせに……お前はそれでいいのかよ。あんだけひとりよがりだったくせに、なんで今更、優しいんだよ」

いっそ抱きついてしまいたかったけど、俺から離れようとしている康臣を抱きしめてしまっていいのかと躊躇して、迷った末に俺はせめてもと康臣の服の袖を掴んだ。今ならば、距離を置こうとする俺を閉じ込めた康臣の気持ちが少しわかる。このままどこかに行ってほしくない。捕まえておかないと、俺が言う前に康臣が逃げてしまう気がした。

「親友に戻ったら、やっと康臣が好きだって気付けた俺の気持ちはどうすりゃいいんだよ……っ!」
「……え?」

康臣の表情が明らかに変わった。
ああ、言ってしまった。顔がみるみる熱くなる。

「同情なんかじゃない……そんなんで康臣に嘘つけるほど器用じゃねえよ。今更信じてもらえないだろうし、俺だって自分でまだ信じられないけどっ!」

親友だと思っていた。一緒にいるのが当たり前の、切っても切れない何かでつながっている幼馴染。まさかそんな幼馴染に向かって、こんな一世一代の告白をする日がくるとは思わなかった。

「康臣は、ピアノのことで俺に恩みたいなのを感じてて……俺は特別なことなんて何もしてないのに、康臣は勘違いして好きだって錯覚してる。だからいつか康臣の目が覚めるまで、距離を置こうって思ってたけど……もう勘違いでも何でもいいよ。康臣が俺を好きでいてくれるんなら、理由なんか何だっていい。」
「待って、それは違う」
「違わねえよ! じゃないと、康臣が俺なんか好きになるわけないだろ! ピアノが弾けなくて辛いときに傍に俺がいたから、きっとそれで勘違いして!」
「だからなんで『勘違い』って決めつけるんだ? 確かに切っ掛けはそうだったけど、勘違いなんかじゃない!」
「っじゃあちゃんと考えてみろよ! 康臣はピアノと俺だったら絶対ピアノのほうが好き……っ」

ああ、我ながら面倒くさいことを言ってしまっている……と思いながら半ばヤケクソで叫んだら、しかし言い終わる前に康臣に強く抱きしめられた。

「純に決まってるだろ、そんなの」

今まで聞いたことがないほど甘い声音でそう言われて、相手は康臣だとわかっていても心臓がきゅんとしてしまう。くそ、無駄にかっこいい声で言いやがって。女の子だったら一瞬で落ちるぞ、それ。なのになんで俺なんかのことを口説きにくるんだ。

「ピアノはもちろん好きだよ。でも俺は、俺のピアノを嬉しそうに聴いてくれる純が、一番大好きだ。昔からずっとね」
「っ……!」
「だから、俺の気持ちだけは疑わないでくれ。お願い」

何か言いたいのに、康臣の顔を見たいのに、自分の赤くなった顔が恥ずかしくて康臣の胸に埋めたままの顔をなかなか上げられない。まるで子供のように、泣きながら康臣にぎゅうっと抱きつき続けることしかできない。

「っ、じゃあ……康臣も、疑わないでほしい……。俺は、康臣のことが、一番」
「うん……ありがとう」

嗚咽しながら必死に伝えた言葉に、柔らかくて優しい声で、ありがとうと返ってくる。俺みたいな平凡野郎に好きだなんて言われてこんなに喜ぶのは康臣くらいだ。幸せそうな声音から、康臣は今微笑んでいるのだろうかと、みっともない泣き顔を見られるのを承知で俺は顔を上げて康臣を見た。

「……康臣、顔真っ赤じゃん」
「っ……だって、純と両想いになれるだなんて、夢にも思ってなかったから……」

余裕ないんだよ、と、俺に見つめられて恥ずかしそうに目線を逸らす康臣がとても可愛く見えた。
たまらなく愛おしくなって、俺は少し背伸びをして康臣の唇に口付ける。そのままどちらからともなく舌を差し出して、長いことキスを交わし合った。
康臣とのキス。監禁されていたときにも何度かされたけど、あの時とは全然違った。キスってこんなに幸せで、ドキドキするものなんだ。あの時よりもずっとずっとドキドキしているのは、康臣が俺を好きで、今は俺も康臣が好きで……気持ちが通じ合っているからなんだと思う。

「康臣……好きだ」
「うん。俺も好きだよ、純」

名前を呼ばれて、好きだと言われて、胸が幸せでいっぱいになる。嬉しくて俺が笑うと、それを見た康臣も同じように笑顔になった。



✦✦✦



あの日からしばらく経った。俺は仕事もそれなりに順調で、相変わらず普通に元気にやっている。
ただひとつ変わったことといえば……恋人の康臣がよく俺の家に泊まりにくるようになったことだ。

お互い仕事があるし、家も遠いので毎日というわけにはいかないけど、暇ができるたびに家を行き来するようになった。特に最近康臣はかなりの頻度で俺に会いに来てくれていて、もう半同棲状態なんじゃないか……って思うくらい。
いっそ同棲しようか、って話も出ているけど、俺の家は二人で住むには狭いし、康臣の家は俺の職場から遠い。なのでちゃんと二人で物件を選んで、二人で引っ越ししようかって康臣と話している。
なんか信じられないくらい幸せな日々だ。


「そういえば、これ、ありがとう」

あの日、康臣が置いていった俺への誕生日プレゼント。俺の好きなブランドのロゴが入った箱の中身は、シンプルなカフスボタンだった。

「康臣はチョイスがおしゃれだよな~。でもカフスボタンって俺つけたことないや。どうやってつけんの?」
「どんなシャツでも付けられるってわけじゃないんだよね。でも仕事がデスクワークなら普段から付いてると邪魔だろうし、結婚式とかフォーマルな場の時に付けるといいと思うよ」
「なるほどなー。さすが康臣、ものしりー」

物知りっていうか、カフスくらい誰でも付けるだろ、と康臣は苦笑するけど、康臣は有名企業のエリート高給取りだからこういうのも付け慣れているかもしれないが、俺みたいな超平凡サラリーマンにはあまり縁のないアイテムだぞ!
それでも持っていて損はしないだろうから、康臣はそう言って俺に付け方を教えてくれる。カフスボタンは落ち着いているが渋すぎないデザインが大人っぽくて、康臣はやっぱりセンスあるなぁと思う。俺はというと普段こういったものを身に付けないので、なんだか緊張してくすぐったい気分だ。康臣はこういうのが趣味なのかな。

「どうかな、変じゃないかな」
「ううん、似合ってる。可愛い」

恥ずかしげもなく微笑んでそんなことを言ってくる康臣に、俺のほうが恥ずかしくなる。今まではそんなことなかったくせに、付き合うようになってから「可愛い」だとかそういうことを、康臣はことあるごとに俺に言うようになった。

「その可愛いっていうのなんなんだよ」
「嫌?」
「嫌というより……だって俺、平凡だし。普通の男だし」

顔が美しいわけじゃない、背も高くも低くもなく、体格も普通……むしろちょっと貧相。勉強や運動は一貫してほどほどで、性格は悪いわけではないけど、聖人君子というわけでもない。
俺はそんな自分はやはり平凡な人間だと思う。康臣が俺を可愛いと言うのは惚れた欲目というのもあるのだろうと思っている。才能があって人望があって、何もかもに秀でている康臣の傍にずっといたから尚更それは自覚している。そりゃあ康臣みたいな特別な人間には憧れたりもするけど、俺自身決して今の自分が嫌いなわけでもない。

康臣はそんな俺の髪を撫でて、指先に軽いキスを落としてから言う。

「純は可愛いよ。少なくとも俺にとっては世界一可愛い。それに、純は自分のこと平凡だとか言ってよく卑下するけど、俺はそんな風に思ったこと一度もない」

だから卑下なんかじゃなくて、本当にそうなんだってば。
世界一可愛いとか……そういうクサイことを言っても様になるだなんて、これだからイケメンはずるい。康臣にここまで甘やかされては、何と返していいかもわからない。俺も同じように甘い言葉を惜しげなく返せたらいいのだけど、これがなかなか難しい。

「つーか康臣、付き合うようになってから俺に甘過ぎじゃね? 嫌じゃないけど、なんかこう……くすぐったいっていうか。無理して優しくしなくても……」
「え? 無理してない。むしろ今まで我慢してたんだよ。本当はずっと純のこと口説きたかったし、甘やかしたかったし、触りたかった」

そんなことまで言われて、慣れていない俺はひたすら赤面するしかない。それでも愛おしそうに唇にキスをしてくれる康臣に、俺も精一杯応えた。キスをしながら、康臣が背中を優しく撫でて、無意識に固くなっていた俺の身体をリラックスさせてくれる。

実は、ちゃんと付き合うようになってから、康臣とはまだセックスをしていなかった。俺がどうしても怯えてしまうのだ。
俺は今は康臣に抱かれたいと思っているし、触れられるのだって嬉しい。だけどそういう雰囲気になるとどうしても、前に俺を無理矢理犯した康臣の冷たい表情と、ひたすら辛かった痛みを思い出して、俺の意志とは関係なしに身体が震えて緊張してしまう。

「ご、ごめん。い、嫌じゃないんだけど、俺」
「大丈夫。全部俺のせいだし……いつも言ってるだろ。ゆっくりでいいって」

康臣がそう言いながら子供をあやすように頭を撫でてくれて、なんだか胸の奥がじんとした。
キスはできるのにセックスは拒否とか、潔癖な女子じゃあるまいし……もうそんな歳でもないのに、康臣にここまで付き合わせてしまっているのが申し訳ない。早く慣れたいけど、焦れば焦るほど身体が勝手に強張ってしまう。

「でも、俺だって、早く康臣としたい……。それに、俺がいつまでもこんなんだったら康臣、う、浮気するかも」
「いいや、それは絶対ないよ」

信用していないわけじゃないけど、康臣モテるしなぁ……。こんな俺じゃ呆れられてしまうかもしれない。そう言うと、康臣はそれをきっぱりと否定した。

「やっと俺のものになったんだからね。一生、離してやれるわけないじゃないか」 

にっこりと、王子様然とした完璧な笑顔でそう言った康臣に、ちょっと背筋がぞくっとした。
最近わかってきたこと。あの時は勢いでおかしくなったのかと思ったけど、康臣が執着深くて独占欲が強いのは、わりと素だ……。

「やっぱ康臣って、ちょっとヤンデレだよな」としみじみ呟いた俺に、何のことか分からなかったのか康臣が首を傾げる。そんな仕草をちょっと可愛いなんて思いながら、そんなお前も好きだよと俺は小さく囁いた。



end.
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みんなの感想(2件)

月夜道
2024.09.26 月夜道

有能イケメンでよりどりみどりなのにただ一人にド執着してるの大好き

toki
2024.10.10 toki

コメントありがとうございます!
一途すぎてちょっと怖いくらいの美形執着攻め、いいですよね…!

解除
たろじろさぶ
ネタバレ含む
toki
2023.12.20 toki

とっても嬉しい感想ありがとうございます!
こちら10年ほど前に書いたものだったのですが、そう言っていただけて感無量です…。
客観的に見れば相手など選びたい放題な男が、しかしたった一人に異様に執着している様が性癖です(笑)

10年越しに続編を書いてみようかな…?と思いました。(激チョロ)

解除

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