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消えた屍王

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 エリューズニル。
 秘密結社ヘルヘイムが根城とする館の名だ。

 屍王ヘルと『八戒はっかい』と呼ばれる幹部の八人以外の立ち入りを許すことはなく、得体のしれない魔法によって存在すらを隠匿された、世界において埒外の場所。

 エリューズニル内の廊下を歩くのは、薄く青がかった白髪を揺らした女。女はその美貌を暗く歪ませ、長く息を吐いた。

 屍王が消えてから、180年の月日が流れた。
 元々神出鬼没な屍王が姿を消すことはままあったが、定期的な連絡を怠らない人物だった。
 こんなに長い間音信不通などあり得ない。

 屍王の死。
 まことしやかに囁かれていたこの噂を信じる者は、ヘルヘイムには一人もいなかった……はずだ。
 顔と名前も一致しない自称ヘルヘイムの下っ端が増えた現在では定かではないが、少なくとも屍王に直接勧誘された初期メンバー、八人の幹部の中にはいなかった。

 ヘルヘイムは総力を挙げて、死に物狂いで屍王の行方を追った。
 結果は、手掛かりの一つも見当たらない絶望的なものだ。

 そして、丁度三年前。

『屍王は――――死んだ』

 幹部の一人がそう漏らした。
 それを皮切りに、屍王の捜索は終わった。
 誰よりも捜索に尽力し、誰よりも彼の生を疑っていなかった幹部たちの心は、屍王を失えばこうも脆かった。

 屍王の下に集った幹部達は、散り散りになってしまったのだ。
 繋ぎ止める者もなく、失ったものの大きさに心を折った。

 今やエリューズニルに残っているのは、彼女一人。

 屍王ヘルの自称右腕、『不妄ふもう』のニヴル。

 天使族と悪魔族のハーフであり、迫害を受けた過去を持つヘルヘイムの頭脳。
 いつの日か必ず屍王が帰還することを信じ、毎日館に通い詰め家政婦の真似事をしているのだ。

 しかし、そんな彼女の希望はもうすでに風前の灯火。

 最近、世界でヘルヘイムの名が広がっている。
 それは高名ではなく、悪名の方でだ。

 ヘルヘイムの名を語った不埒者の仕業か……はたまた、幹部の誰かの暴走か。
 幹部達も屍王から授かった『八戒』の名を捨てる気は無いようだった。それを名乗って人類を攻撃している可能性もある。

 だと言うのに、依然として彼は現れない。
 あんなに大切にしていたヘルヘイムの名を穢されていると言うのに、だ。

「屍王ヘル…………シオー」

 大切なものを抱く様に名を呼ぶ。
 不毛だ。
 ここで彼の名前を呼んでも何も起こらない。

「……もう、潮時なのでしょうか……」

 他の幹部のように泣き喚いてしまえれば楽なのだろう。
 最後に彼の姿が消えた神聖国を恨んで、攻撃してしまえれば憂さ晴らしになるだろうか?

 そのどれもを、彼の右腕であるというちっぽけな誇りが邪魔をする。

『脳であるお前が冷静であることが、この組織を支えている―――――感謝するぞ、ニヴル。流石は我が右腕だ』

「………ッ……」

 流れる涙に歯を食いしばる。
 泣くな、冷静で居なければ……。

 あともう少しだけ、待っていなければ。
 諦めてしまえば、もう二度と会えないかもしれない。
 そうでなくても、

「どうか、生きていてください……二度と会えなくても……あなたが生きているなら、私は……っ」


 コンコンッ!

「っ!」

 館の玄関の方から、けたたましいノック音が響く。

 ニヴルの息が詰まる。
 ここを知っているのは世界でたったの九名。
 幹部と――――屍王。

 赤くなった目元を隠しながら、震える声を整える。
 きっと、幹部の誰かだ。弱みを見せるわけにはいかない。

 もし……幹部の誰かじゃないとしたら……。
 それこそ、こんな姿を見せるわけにはいかない。

 微かな期待に急く足で玄関に向かいそっと――――扉を開いた。





「ニヴルーーーーーッ!!」

「ガ、ガルム……ですか」


 開けた瞬間ニヴルの豊満な胸に飛び込んできたのは、赤毛の狼耳の少女。
 『不殺ふさつ』のガルム。
 ヘルヘイムの一番槍たる幹部の一人だ。

 ニヴルは微かな期待がふっと消えたことに落胆の声を出すが、努めて冷静にガルムを諫める。
 ガルムは息を上げて、嗚咽を漏らし、滂沱の涙を流していた。

 快活で恐れを知らないガルムのその様子に、ニヴルは内心で焦燥する。
 
 ――――なにかヘルヘイムにとって致命的な不測の事態が訪れたのではないか?

 ――――もしや、屍王の死の決定的な証拠が見つかってしまったのではないか?

 どちらであっても、今のニヴルには受け止められる自信はなかった。

 諦観と消耗が色濃く浮き出た声音で、ニヴルはガルムに問う。

「ガルム、どうしたのですか……?」

「うぅ……ぇぐっ……ぅ……あ、あのねっ……」

 ガルムが顔を上げる。

 その表情は、ニヴルの想像のどれとも一致しない。

 泣きながら、溢れんばかりの喜色に満ちていた。



「―――――王の匂いがするッ……王が……帰ってきたっ!」
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