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―――平成六年

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 蛇行する小さな川筋に沿って道が続いている。

 ところどころ向こう岸に渡る小さな橋が架けられ、五本に一本くらいの割合で道幅の広い橋が架けられている。

 古めかしい甍の載ったお屋敷のような広大な家もあれば、真新しい外壁の、オープン外構の家もある。

 開け放した車の窓からゴーンと何処かで鳴る鐘の音が聞こえてきた。この辺り一帯だけ時間がゆったりと流れているようだった。


 運転席に乗る宮井はさっきから一言も口を開かない。

 代わりにタバコをふかしながら、緩いカーブを描く道に合わせて黙々とハンドルをきっている。

 窓を開けてもタバコの煙が車内に充満していた。

 宮井はそんなことにはお構いなしに短くなったタバコを灰皿に押し付け、その手で新しい一本を取り出す。

 それを保が横から摘み取った。

「煙い」

 助手席の保は一言不満を口にして、摘み取ったタバコを無造作に灰皿に投げ捨てた。

 後部座席に座っていた映子は、宮井がそれに対して怒らないかと心配したが、宮井はさして気にした風もなく何事もなかったように運転を続けている。

 先日、ファストフード店を出た映子と保は、その足で宮井の勤める大学図書館まで電車を乗り継いで向かった。

 在学生以外は通れないゲートの前で、保と二人、宮井が出てくるのを待ち伏せした。

 宮井はなかなか現れなかった。

 ゲートを入ってすぐ右手にあるカウンターを柵のこちらから何度も覗いた。

 制服を着た男子高校生と女子高校生が二人して覗いているものだから、そのうちカウンターにいた司書と思われる女性が気がついてゲートの方へと歩いてきた。

「何か用?」

 背中まである長い髪が頭の動きに合わせて揺れた。小学生の頃の祥子みたいだなと映子は思った。

「あっと、すいません。人を探してて。宮井って人なんですけど」

 保が聞くと女性はああと顔をほころばせた。

「今ね、地下の書庫に入ってるの。もうすぐあがりだから出てくると思うよ」

「じゃあもう少し待たせてもらいます」

 保がそう答えたとき、以前宮井の出てきた通用口の扉が開いた。宮井だった。

 まず映子に、それから視線を保へと移し、何かを悟ったらしい宮井は行くよと目で合図して歩き出した。 
 
 映子と保はその後を急いで追いかけた。

「なんだ、今日は君の側にハエが一匹飛んでるじゃないか」

 宮井は追いかけてきた保を一瞥した。

 初対面でいきなりハエ呼ばわりされた保はむっと口を噤んだ。

「君から連絡があったら、二人でゆっくり食事でもしてホテルに行ってもいいと思ってたのに。君も大概気が利かないね」

「何言ってんの、こいつ」

 保がほえるのを宮井はおもしろそうに見ている。

「保、この人の言うことは全部おもしろくない冗談。気にしたら負けやの」

「そやけどなんかむかつく」

「はは。君、保くんっていうのか。映子とずいぶん仲良さそうだけど彼氏?」

「違いますけど」

 保はむすっとしたまま答える。

「ま、どっちでもいいけどね。さ、乗って」

 宮井は駐車場に停まった一台の白の乗用車の助手席の扉を開いた。

 どうしたものかと保を見ると、保は警戒心丸出しで宮井を睨んでいる。

「別に拉致しようっていうんじゃない。目撃者もたくさんいるしね。僕もそんなに無謀なことはしない。ほら乗って。話もできない」

 宮井はます映子の腕を引っ張って助手席に押し込んだ。

 運転席に乗り込んだ宮井がエンジンをかけるのに気づき、保は慌てて後部座席の扉を勝手に開けて乗り込んだ。車はすぐに発進した。

「僕の提示した交換条件はのんでくれるってことだよね」

 宮井は車を走らせながら映子に聞いてくる。

「どこへ向かってるんですか」

 答える代わりにそう聞くと宮井はちらりとこちらを見た。

「君の家の方向だよ。高校生をあんまり遅くまで連れまわすわけにはいかないからね」

 人格者らしい言葉を吐いて宮井はにやりと笑う。

 ハンドルを右手だけで操って、空いた左手を伸ばして映子の髪を撫でた。先に反応したのは保だった。

「映子に触んな」

 保は後部座席から立ち上がって宮井の手を払った。
 その瞬間車は大きく左に旋回し、保はバランスを崩して狭い車内でよろめいた。

「保!」

 映子は助手席から腕を伸ばして保を支えようとしたが無理だった。保は前のシートと後ろのシートの間に尻餅をついた。

「ってぇ」

「ちゃんと座ってないと危ないよ」

 宮井はバックミラー越しに倒れこんだ保を楽しそうに眺めている。

「何も髪に触れたくらいで大騒ぎすることじゃない。僕たちはキスだってした仲なんだ。ね、映子」

 保は眉間を険しくして宮井を睨んだ。

「てめぇかよ」

 いつか安藤が言っていたことを保は思い出したようだ。
 相手が誰かまでは知らなかったはずだ。
 映子もあえてそのことを保には言わなかったから。映子から聞き出した恵一も、保には黙っていたようだ。

「なんだ、知ってたのか」

「知らねぇよ。知らねぇけど知ってる」

「それは光栄だ」

 宮井はそう言うとまた映子の髪に触れてきた。

 今度は自分でそれを振り払った。

 宮井がそんなことをするのは保の反応が見たいからだけなのはわかっている。

 面白がって保を挑発しているだけだ。

 そんなくだらないことで保に怪我をさせるわけにはいかない。

 映子が睨むと宮井は肩を軽くすくめて手を引っ込めた。

「僕の提示した条件、のんでくれるってことだよね」

 宮井は再び同じ質問を繰り返した。
 今度は映子ははっきりと頷いた。

「そのつもり。約束は守る」

 嘘も方便やでと保は映子に何度も言った。

 とりあえず約束して相手の情報を聞き出すことだけを考えようと。

 映子の言葉を宮井はどう受け取ったのか。

 今度の土曜日、またここに迎えに来ると言って宮井は以前、移動図書館がいつも停車していたタバコ屋の角に車を停めた。

 長谷川きよのところへ案内しがてら、僕の知っていることを話すよと宮井は言った。





 そう話していた宮井だったが、約束の土曜日、車に乗り込んでからまだ一言も言葉を発していない。

 助手席の保はさっきから宮井を注視したままだ。

 この間のことがあったから今日は保は真っ先に助手席に乗り込んだ。

 映子が隣じゃないと話もできないと宮井は難色を示したが保は譲らなかった。

 そのことへのささやかな抗議なのか、宮井はきよについて何一つ話し出そうとはしない。

 川沿いの道を車はひたすら進んだ。

 対向車が来るとすれ違うのに苦労しそうな道幅だったが一方通行なのか向こうから車は来ない。

 蛇行する川の流れに合わせて、道が右へ左へ曲がるので車もゆるやかに振動を繰り返した。

 長い時間揺られていたように思ったが実際はそれほど経ってはいなかったかもしれない。

 宮井は手前に現れた信号で右折し、橋を渡った。また川筋に沿って走るのかと思ったが、宮井は橋を渡ってすぐのスペースに車を乗り入れ、停車した。

「降りて」

 促されるまま車を降りる。

 宮井が駐車させたのは新聞の販売所の駐車場だった。

 映子も知っている全国紙の名前が看板に書かれている。
 開いた扉の奥から印刷機が紙を刷る音なのか、機械の動く音と紙の擦れる音が響いてくる。
 
 宮井は勝手しったる様子で中に入っていく。映子と保も顔を見合わせて後を追った。

「おう、こんにちは」
 
 入ってすぐのパイプ椅子に腰掛けていた男が宮井に気がついて腰をあげた。

 頭髪の大半は白く、やせ細った初老の男だった。

「この間はどうも」
 
 宮井は軽く頭を下げた。

「あんなんでお役に立てたのかな。そちらの子たちは?」

 男が宮井の後ろにいる映子と保に気がついた。

「彼女は鷹取映子さん、でこっちの彼は、なんだっけ」

 宮井は首をひねった。かわりに保が答えた。

「井上保です」

「そうそう保くん。で、この方は藤井恒成さん。長谷川きよさんのアリバイを証明した方だよ」

「え?」
 
 映子は思わず目の前の初老の男性の顔を注視した。

「きよさんが新聞を直接受け取ったと証言した方がいたのは君も知ってるよね。その方がこの藤井さん。藤井さん、彼女は水路で亡くなった弟さんのお姉さんです」

「君が」

 藤井は映子の顔をまじまじと見た。

「もう何年も前やけど水路で亡くなった小さな子のことは私にも忘れられへん出来事やった。君がその子のお姉さんか。あれは、かわいそうなことやった」

「実は偶然僕はきよさんのアリバイを証明した藤井さんと知り合ってね。それでいろいろ当時の話を聞いたんだよ。君も聞きたいだろうと思ってね」

 宮井が促すように映子を前へ押しやる。

 しかし咄嗟には何を聞けばいいのかわからなかった。言葉の出てこない映子を気遣って藤井が口を開いた。

「宮井さんに話したことを君にも話したらいいかね」

「お願いします」

 保が横から促した。

「私は若い頃は新聞配達をしてまして。まあ若いといっても当時すでに四十代やったから君らから見たら十分なおじさんなんやけどな。脱サラしてこの販売所を立ち上げたばっかりで、人を雇う余裕もなかったから、私も配達をしてなんとかここを回しとったような有り様で。長谷川さんとこはここを立ち上げたときからのお得意さんやってな。いつもそこの奥さん、きよさんやな。その方が夕刊を受け取りに出てきはって、ご苦労さん言うて労ってくれる方でした」

 みどりばあさんのことだからきっと無愛想だったろうと映子は思った。

「水路で男の子が亡くなった日も例外やなかったね。というかきよさんが夕刊を受け取りに出てこられんかった日は私の知る限り一日もない。あの日もきよさんは夕刊の配達時間には家におられましたよ」

 宮井が後を継いだ。

「君も知っているだろうけどね、あの小屋からきよさんの家までは歩いて三十分はかかる距離がある。藤井さんが配達をされたのは四時なんですよね」

「そうです。私はいつも四時きっかりに長谷川さんとこの配達に行くようにしていました。というのもきよさんが四時ちょうどに門柱のところで待っていてくれるから、遅れてあまり待たせては申し訳ないとの思いがありましたからね」

「君の弟さんが亡くなったのは四時頃なんだろう? あくまで推定時刻だからきよさんに犯行が不可能だったという確たる証明にはならない。けれどきよさんが犯人だという証拠もない」

「あのきよさんがそんなことをするはずないわな」

 犯人ではないとは言い切れないとの宮井の見解に反発するように、藤井は確信を込めて言った。

「子供好きなきよさんが子供を殺すなんてありえへん。ましてやあの姑と小姑が揃ってきよさんをかばうなんてありえへん」

「それはどういうことですか」

 映子が聞いた。

「あそこの姑と小姑はきよさんに子供ができひんかったことを恥や言うてね。えらいきつう当たってたらしいですわ。きよさんの管理してる小屋から水死した男の子の靴が見つかったときも、あんたが犯人やろって警察もびっくりするくらい冷たく責め立ててたらしいですわ。けど日にちを確かめたらその日は一日きよさんは家にいたと二人揃って渋々証言して、なんやおもしろないって舌打ちまでしてた言う話でな。そこへ私の証言も重なり、証拠もないで、きよさんの疑いは晴れたわけやな」


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