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―――平成六年
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映子の思った通り、恵一と祥子はその日のうちに仲直りした。
授業終わりに、担任から配られた進路希望の用紙を、映子はかばんの奥に押し込んだ。
映子には恵一や祥子と違って、まだ未来に何の絵も描いてはいなかった。
思えば、映子は今まで今に精一杯だった。
どんな未来を描けばいいのか想像もできなかった。
そのことに気がついて、なんとか未来を思い描いてみようと試みたが、上手くいかなかった。どれも曖昧で、もやがかかったように霞んでおぼろげだった。
そのおぼろげな影を想像すればするほど、それとは対照的に映子の目の前にはっきりと立ちはだかっているものが余計に鮮明になるようだった。
正門を出たところで保に出会った。
門の横に自転車を横付けして中を窺っている風だったから、恵一と待ち合わせでもしているのだろうか。
「恵一待ってるん?」
映子が聞くと保は曖昧にうなずきかけて、
「いや、違う」とそれを否定した。
「映子を待ってた」
「そうなん? どうしたん」
「たまには一緒に帰ろうかと思ってん」
「そうなんや。どっか寄ってく?」
映子が誘うと保はじゃああそことすぐ目の前のファストフード店を指差す。
「めっちゃポテト食いたい。んでシェイクが飲みたい」
「了解」
保と目の前の店に入り、奥まった一角の二人席に陣取った。保はさっそくうれしそうにポテトを頬張った。
「そんな食べたら太らん?」
映子はそう言いながらも、自分もアップルパイを頬張る。矛盾した行動に保がにやりと笑う。お互い言葉もなくにやにや笑いあった。
「映子さ、ほんまにいいん?」
保は急に笑いを引っ込めた。
今日待ち伏せしていたのはこのためだったようだ。
何のことを聞かれているのかはすぐにわかった。
みどりばあさんのことだ。
恵一と祥子は映子がもうやめにしようと言ったのを受け入れていた。
保だけはあのとき返事をしなかった。
その後も保は何も言わなかったけれど、どこかでずっと引っかかっていたのだろう。
映子は宮井との取引のことをまた思い描いた。
忘れることはできなかった。追いやっても追いやっても、目の前に立ち現れてくる。
本当は一人で解決しようと思っていた。
宮井とのことをどうするのか。
答えを出すのは映子一人だ。
誰にも相談するつもりはなかった。
なのに保の前に座ると、体温の高い保の温もりが伝わってきて、話す気もなかったはずなのに言葉がするすると口をついて出て行った。
宮井の持ち出した条件や、きよが疑わしいとわかるはっきりとした証拠をつかんでいるらしいこと。
話は簡単明瞭にまとまっていた。
映子自身何度も頭の中で整理してきたことだったから、
それを口に出すと驚くほど明瞭だった。
「何やねんその交換条件」
保は眉をしかめた。
「映子がみどりばあさんを責めるって。良心を捨てるって。そんなこと映子にさせて何がしたいねんそいつ」
「わたしにもわからん。ただ、」
映子は宮井の人を食ったような表情を思い出した。
「わたしが困るとこを見たいだけなんかも。宮井さんが、どんな証拠を持ってるんかは知らんけど、それでわたしがみどりばあさんを責めたからって、どうにかなるとも思えんし。今更死んだ京ちゃんは還ってはこんしね」
映子は口に持っていきかけたアップルパイをテーブルに下ろした。
なんとなく口にする気分ではなくなっていた。
「わたしたぶん、怖いんやと思うわ。もしもほんまにみどりばあさんが京ちゃんの死に関わってたんやとしたら、今までわたしのやってきたことって何やったんやろうって。虚しいっていうか腹立たしいっていうか。なんかもういろんなこと、わーってなってどうしたらいいんかわからんねん」
小学生の頃、大声を出してみどりばあさんから逃げ出すのが心地よかった。
あのときだけは母のことや父のこと、厳格な祖母が母を責める光景や、線香の煙が薄く立ち上る陰気なあの部屋のことを忘れられた。
みどりばあさんの家に上がりこむようになってからは、外界を全て遮断するあの空間が、心を落ち着ける唯一の場所だった。
映子が自分を保っていられたのはあの家のおかげだった。
でも―――。
一転今度はその全部を否定しなければならないかもしれない。
あのみどりばあさんが京介の死に関わっていたなら、映子は今まで拠り所にしてきたあの家に、全てを奪われていたことになる。
それを認めなければいけないのが、たぶん恐ろしいのだ。
保に話したことで自分の中の引っ掛かりをはっきりと認識できた。
「その宮井ってやつのことはどうでもいいけど、やっぱり映子はちゃんと確かめるべきやと俺は思うで。気になってることってたぶん一生消えんやろうし、知らないままで後悔するんやったら、知って後悔した方がいいんちゃうか?」
映子は大きく息を吐いた。
「保の言うとおりやと思うよ」
「ならその宮井ってやつに聞きに行こうぜ。そいつの交換条件なんか放っとけばいいやん。とにかく映子は本当のことを知るべきや」
保は椅子からかばんを取り上げ、まだ残っているジュースの紙コップを掴み、映子の腕をつかんだ。
授業終わりに、担任から配られた進路希望の用紙を、映子はかばんの奥に押し込んだ。
映子には恵一や祥子と違って、まだ未来に何の絵も描いてはいなかった。
思えば、映子は今まで今に精一杯だった。
どんな未来を描けばいいのか想像もできなかった。
そのことに気がついて、なんとか未来を思い描いてみようと試みたが、上手くいかなかった。どれも曖昧で、もやがかかったように霞んでおぼろげだった。
そのおぼろげな影を想像すればするほど、それとは対照的に映子の目の前にはっきりと立ちはだかっているものが余計に鮮明になるようだった。
正門を出たところで保に出会った。
門の横に自転車を横付けして中を窺っている風だったから、恵一と待ち合わせでもしているのだろうか。
「恵一待ってるん?」
映子が聞くと保は曖昧にうなずきかけて、
「いや、違う」とそれを否定した。
「映子を待ってた」
「そうなん? どうしたん」
「たまには一緒に帰ろうかと思ってん」
「そうなんや。どっか寄ってく?」
映子が誘うと保はじゃああそことすぐ目の前のファストフード店を指差す。
「めっちゃポテト食いたい。んでシェイクが飲みたい」
「了解」
保と目の前の店に入り、奥まった一角の二人席に陣取った。保はさっそくうれしそうにポテトを頬張った。
「そんな食べたら太らん?」
映子はそう言いながらも、自分もアップルパイを頬張る。矛盾した行動に保がにやりと笑う。お互い言葉もなくにやにや笑いあった。
「映子さ、ほんまにいいん?」
保は急に笑いを引っ込めた。
今日待ち伏せしていたのはこのためだったようだ。
何のことを聞かれているのかはすぐにわかった。
みどりばあさんのことだ。
恵一と祥子は映子がもうやめにしようと言ったのを受け入れていた。
保だけはあのとき返事をしなかった。
その後も保は何も言わなかったけれど、どこかでずっと引っかかっていたのだろう。
映子は宮井との取引のことをまた思い描いた。
忘れることはできなかった。追いやっても追いやっても、目の前に立ち現れてくる。
本当は一人で解決しようと思っていた。
宮井とのことをどうするのか。
答えを出すのは映子一人だ。
誰にも相談するつもりはなかった。
なのに保の前に座ると、体温の高い保の温もりが伝わってきて、話す気もなかったはずなのに言葉がするすると口をついて出て行った。
宮井の持ち出した条件や、きよが疑わしいとわかるはっきりとした証拠をつかんでいるらしいこと。
話は簡単明瞭にまとまっていた。
映子自身何度も頭の中で整理してきたことだったから、
それを口に出すと驚くほど明瞭だった。
「何やねんその交換条件」
保は眉をしかめた。
「映子がみどりばあさんを責めるって。良心を捨てるって。そんなこと映子にさせて何がしたいねんそいつ」
「わたしにもわからん。ただ、」
映子は宮井の人を食ったような表情を思い出した。
「わたしが困るとこを見たいだけなんかも。宮井さんが、どんな証拠を持ってるんかは知らんけど、それでわたしがみどりばあさんを責めたからって、どうにかなるとも思えんし。今更死んだ京ちゃんは還ってはこんしね」
映子は口に持っていきかけたアップルパイをテーブルに下ろした。
なんとなく口にする気分ではなくなっていた。
「わたしたぶん、怖いんやと思うわ。もしもほんまにみどりばあさんが京ちゃんの死に関わってたんやとしたら、今までわたしのやってきたことって何やったんやろうって。虚しいっていうか腹立たしいっていうか。なんかもういろんなこと、わーってなってどうしたらいいんかわからんねん」
小学生の頃、大声を出してみどりばあさんから逃げ出すのが心地よかった。
あのときだけは母のことや父のこと、厳格な祖母が母を責める光景や、線香の煙が薄く立ち上る陰気なあの部屋のことを忘れられた。
みどりばあさんの家に上がりこむようになってからは、外界を全て遮断するあの空間が、心を落ち着ける唯一の場所だった。
映子が自分を保っていられたのはあの家のおかげだった。
でも―――。
一転今度はその全部を否定しなければならないかもしれない。
あのみどりばあさんが京介の死に関わっていたなら、映子は今まで拠り所にしてきたあの家に、全てを奪われていたことになる。
それを認めなければいけないのが、たぶん恐ろしいのだ。
保に話したことで自分の中の引っ掛かりをはっきりと認識できた。
「その宮井ってやつのことはどうでもいいけど、やっぱり映子はちゃんと確かめるべきやと俺は思うで。気になってることってたぶん一生消えんやろうし、知らないままで後悔するんやったら、知って後悔した方がいいんちゃうか?」
映子は大きく息を吐いた。
「保の言うとおりやと思うよ」
「ならその宮井ってやつに聞きに行こうぜ。そいつの交換条件なんか放っとけばいいやん。とにかく映子は本当のことを知るべきや」
保は椅子からかばんを取り上げ、まだ残っているジュースの紙コップを掴み、映子の腕をつかんだ。
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