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―――平成五年

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 冬休みのキャンパスは夏休みのときよりも活気に欠けていた。あちこちに植えられた木々の大半は葉を落とし、時折吹く風が落葉を空へ舞い上げる。

 映子はみんなで集まった二学期の終業式の次の日、宮井のいる大学へ来ていた。

 オープンキャンパスではなかったので、守衛にとめられるかとびくびくしながら門をくぐったのだが、こちらが拍子抜けするほど何もなく大学内へ入れた。

 が、目的の図書館入り口にはゲートがあり、学生証のない映子は入れなかった。

 前回は安藤の案内もあり、すんなりと中に入れてくれたが、今日は入館はさせてもらえないだろう。

 どうしたものかとゲートのそばで立ち竦んでいると、当の宮井が横の職員通用口から出てきた。

 途方に暮れたように立つ映子の姿に、一瞬で全てを悟った宮井は、さりげなく映子に目配せするとついて来いと顎をしゃくった。

 宮井は、学内のコンビニでサンドイッチやコーヒーなどを買い込むと、五階建ての建屋に慣れた様子で入っていく。
 ずらりと並んだ空き教室の一つに勝手に入ると、手近な席に腰を下ろした。

「勝手に入っていいんですか」

 綺麗に並んだ机の列を見回して映子は言った。
 宮井はその質問には答えず、鼻を鳴らした。

「で? わざわざ僕の顔を見に来たわけじゃないんだろ?」

 宮井は袋からサンドイッチを取り出し食べ始めた。

「君も食べなよ」ともう一つのサンドイッチを映子に寄越す。

 映子は宮井とは充分な距離を取って座った。

 宮井は目を細めてそんな映子の顔にじろじろ遠慮なく視線を注いだ。

 充分にあいた距離を揶揄するように口端を歪める。

「長谷川きよさんの話を聞きにきました」

 映子は単刀直入に切り出した。何もかも見抜いている相手に、遠回しに話をしても無駄だ。

「そうだと思った」

 宮井は湯気の立つコーヒーを啜った。

「あなたが、長谷川きよさんのことが疑わしいと言ったのには、何か理由があると思った。警察の取調べを受けたというだけではない何か。違いますか」

 宮井は目だけ映子に焦点を合わせてコーヒーを何度も啜った。どう答えるべきか考えているようだった。

「仮に君の言うとおりだとしよう。だけど、僕しか知らないその情報を、安々と君に教えると思うのかい。この僕が」

「そうなるようお願いするしかありません」

「はっ」

 宮井は鼻でせせら笑った。

「君は何だって都合のいいように解釈しようとする。ギブアンドテイクだよ。君は何かを僕に差し出さなければならない。そうすれば、僕だって喜んで君の知りたいことを教えてあげるよ」

「お金はありません」

「金なんかいらないさ。あって困るものではないけどね。女子高生の持っている金なんてたかが知れてる。そうだな」

 宮井はコーヒーを机上に置くと立ち上がった。映子の座る机に両手をついて身をかがめ、顔を近づけた。

「こないだの続きをしよう。それでどうだい」

 映子は唇を引き結んだ。

「お断りします」

「強気な発言。知りたくないの?」

「それとこれとは話が別です」

「別なものか。取引できるものなんて君にはそれくらいしかないだろう」

 映子は宮井をにらみつけた。宮井はその視線を受けて満足そうに口端を歪めた。

「君はそう言うだろうと思っていたよ。初めからわかってる」

 宮井は身を引くとまた元の席に腰を下ろした。

「じゃあこうしよう。実現の可能性の高いものを取引材料にするのも大事なことだ。君はその良心を捨てるんだ」

「意味がわかりません」

「君はいろいろと複雑な環境で育ってきたようだね。弟は幼くしてなくなり、母は気の病。父もそんな母を見捨て家を出る。それでも君は僕の知る限り真っ直ぐだった。うっとうしいくらいに真っ直ぐで、歪んだ人間を追い込む。だけどそれは本当に君の本性なのか? 僕が知る限り、自分の利益を優先しない人間はいない。そりゃ口では何とでも言うさ。だけど本心はみんな歪んでいる。心から他人を思い、行動できる人間なんて、この世には存在しない」

 宮井は逸る心を持て余すように息をついた。

「君は長谷川きよを慕っているんだろう。その信頼を捨てるんだ。全て捨てて、きよに向き合う。真実を知るためにきよを責めるんだ。そう約束するなら、君に秘密を教えてあげよう」

「みどりばあさんを、責める?」

 映子はその光景をまるで想像できなかった。
 ここ数週間、恵一や保、祥子たちと共に、きよに宮井の言ったことの真偽を、確かめようとしていたにもかかわらず、きよを責めるという発想はついぞなかった。

 今までの信頼や親しみを全て捨てて、弟の事故にのみ向き合い、きよに対峙するとはどういうことなのか。

 映子にはわからなかった。

「僕はね、君が人を責めるところを見たいんだ。感情のままに相手を詰り、貶めるところを見たいんだ。僕の想像だけど、君は今まで一度だって、声を荒げて人を責めたことがないんじゃないのか? 相手を徹底的に責め、怒るのは、それはそれで気持ちのいいものだよ」

「わたしにはやっぱりあなたの言っている意味がわかりません」

「僕の話を聞いて真実が見えれば、君はきっときよを責めるよ」

「もし責めなかったら?」

「それはありえない」

 宮井は自信ありげに微笑み、空になったサンドイッチの袋を丸めて、教室の隅のゴミ箱に無造作に放り込んだ。

「取引成立ってことでいいかい?」

「わたしは何も言ってない」

「じゃあこうしよう」

 宮井は席に戻ると今度はタバコに火をつけた。

「僕は先に君に手の内をばらす。君は僕の条件をのむと約束だけをするんだ。君にとって悪い話じゃないだろう? 約束を守るかどうかは君の良心にかかっている」

「良心を捨てろと言っておいて変な話ですね」

「だからおもしろいんじゃないか。僕もいい加減退屈な毎日でね。久しぶりに刺激がほしいんだ」

 宮井は空になったタバコの箱の蓋にペンを走らせた。

「僕の電話番号。気持ちが固まったら電話しておいで」

 宮井は軽く片手を上げると火のついたタバコを無理矢理映子に咥えさせた。

 何が起こったか瞬間理解できず、映子は肺いっぱいに煙を吸い込んでしまい盛大にむせた。

 タバコはその拍子に机の上に転がり落ち、タバコの火は白い机に茶色の染みを広げていく。

 映子は我に返って、慌ててタバコを摘みあげると、宮井の残していったコーヒーの缶に押し込んだ。
 焦げてしまった茶色の染みのように、映子の心の一点にも消えない染みが広がっていくように思えた。




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