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―――平成三年
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その夜、映子は父に電話をした。
父が出て行った日に握らされた電話番号の紙を机の奥から引っ張り出した。
母が和室で寝息をたてているのを確認してダイヤルをまわした。
父は四回目のコールで電話に出た。
「もしもし、お父さん?」
「映子やないか。元気しとったか?」
父はこちらが戸惑うほど映子を気遣った。
中学ではどうしているのか、元気にやっているのか、毎月の生活費は足りているのか。
こちらの近況を聞きたがった。
映子は、電話したら嫌がられるかと心配していた。
捨てるように逃げて行った父が、こちらのことを気にかけているとは思いもよらなかった。
「ごめんな、映子。あのときお父さん出て行ってしもうて。お父さんな、しんどかったんや。毎日つらそうにしてるお母さんを見てるんも、もう耐えられんかった」
何度もそう言って、謝ってくる。
抜け殻になった父の部屋を眺めては、虚しい気持ちに襲われていた映子の気持ちが、少し救われるようだった。
「そういえば映子。もう秋やから受験が本格的になるな」
そう父が言ったところで、映子は用件を切り出した。
「そのことなんやけど」
「なんや。言うてみ」
「わたし高校行きたいと思ってるねん。お父さん、授業料出してくれる?」
映子はえいやとばかりに口に出した。
「もちろんやん」
父は拍子抜けするほどあっさりと了承した。
映子の中ではいろいろな葛藤があって言い出せず、進学はあきらめようと覚悟もしていた。
なのに父は二つ返事で快諾する。
「そんなん当たり前やん。そのことで映子に電話しようと思っててんけど、仕事が忙しくてなかなか連絡できへんかってん。悪かったな」
「そうやったんや」
映子はほっと胸をなでおろした。
「何かあったらいつでも言うてくるんやで」
父はそう何度も念を押して電話を切った。
チンと電話の回線の切れる音が静かな家に響いた。
受話器を置いて、なんとなく気配を感じて映子は振り返った。
和室の引き戸が開いて、母が顔を覗かせていた。
「びっくりするやん。いつからおったん」
映子が聞くと母は首を振って答えず、違うことを言った。
「映ちゃん高校行くんやね。お父さん何て?」
やっぱり立ち聞きしていたようだ。
なんとなく母には反対されるような気がしていた。
「行ったらいいって言ってくれた」
「そう。よかったやん。お母さんのせいで高校も行かれへんかったら、映ちゃんがかわいそうやもんね。ほんまよかったわ」
母は案に相違して心から安心したようにほうと息を吐いた。
「お母さんはわたしが高校行くのん反対やないの? お金もかかるし」
「なんで?」
母は目を丸くした。
「なんでそんなこと思うん。映ちゃんにはお母さん、高校に行ってほしいし、大学も行ってほしいと思ってるで」
「そうなん?」
映子は意外な気がした。
「そんなこと今まで一言も言わんかったやん」
「わかってくれてると思ってたわ」
「そんなん、わかるわけないやん。わたしはお母さんの心まで覗かれへんわ」
「それもそうやね」
母はふふっと笑った。
開いた引き戸から線香の香りがもれてくる。
「また京ちゃんにお線香あげてたん?」
映子がそう言うと、母はちょっと驚いた顔をした。
「映ちゃん、京介のこと京ちゃんって呼んでたん覚えてたん?」
「ちょっと前に、思い出してん」
まさか父が出て行った日に思い出したとも言えない。
「そうなん。あの子も生きとったらもう中学生やったね。学ラン似合ったんかな。どんな部活入ったやろうか」
母が京介のことを話題にするなんて意外な気がした。
今までは触れることさえ恐れて、京介の名前さえ口にはしなかった。
「お母さんがそんな話するとは思わんかった」
「ほんとそうやね」
母は自分でも意外そうに口元に手をあてた。
「お母さんはね、なんで京介が水路で死ななあかんかったんかって、ずっとその理由が知りたいと思ってた。目を離したお母さんのせいももちろんあるけど、なんで京介は一人で田んぼになんか行ったんやろうって。その理由を知りたくて、でもどうしよもなくて苦しかった」
母が映子の目を真っ直ぐに見た。
「でもね、最近思うんよ。じゃあ理由がわかったら、私は納得がいったんかって。こんなに苦しまずにすんだんかって。でもたぶんそうじゃないんよね。わかってたら、私はもっとしんどかったかもしれん。つらかったかもしれん。後悔してももう京介は戻ってはこえへんし、あのとき私の取るべき行動がわかってたら、なんでそうせえへんかったんかって、もっと自分を責めてた。だからこれは京介からのプレゼントやったんやって思うようにもなったんよ」
「プレゼント?」
「そう。たぶん京介のあの日の行動が全部わかったら、私はもっと苦しむことになってたんやないかって。だから京介は私にはわからんように黙って死んだんよ。黙ってることで、私のせいやないよって私のことかばって、助けてくれたんよ」
映子は母の言葉に驚きを隠せなかった。
それは違うと否定したい衝動と、それで母の心が軽くなるならと容認したい気持ちが葛藤した。
どちらも決着はつかなかった。
正直、母の言うことはわからなかった。
でも今となっては京介の死だけが現実で、そこに至るまでの過程は闇の中だ。
それが白日の下にさらされる日はおそらくもう来ないだろう。
映子も当時は五歳だったし、五歳児の記憶には限界がある。
もしかしたら映子が京介を唆して、水路に向かわせた可能性も否定できない。
小学生のとき、保と恵一が言っていたように、自分も何か気に食わないことがあって、京介にあっちへ行ってと邪険にしたのかもしれない。
でもそれを思い出すことはもうないだろう。
ただの推測だけで、真実はわからない。
小学生の頃は映子だけが知っていることは無数にあると思っていた。
今の自分には理解できないことがたくさんある。
それをどうやって自分の中で噛み砕いて処理したらいいのか。
映子は母の話を聞きながら、数式よりも数倍も難しい問題に直面したように思った。
父が出て行った日に握らされた電話番号の紙を机の奥から引っ張り出した。
母が和室で寝息をたてているのを確認してダイヤルをまわした。
父は四回目のコールで電話に出た。
「もしもし、お父さん?」
「映子やないか。元気しとったか?」
父はこちらが戸惑うほど映子を気遣った。
中学ではどうしているのか、元気にやっているのか、毎月の生活費は足りているのか。
こちらの近況を聞きたがった。
映子は、電話したら嫌がられるかと心配していた。
捨てるように逃げて行った父が、こちらのことを気にかけているとは思いもよらなかった。
「ごめんな、映子。あのときお父さん出て行ってしもうて。お父さんな、しんどかったんや。毎日つらそうにしてるお母さんを見てるんも、もう耐えられんかった」
何度もそう言って、謝ってくる。
抜け殻になった父の部屋を眺めては、虚しい気持ちに襲われていた映子の気持ちが、少し救われるようだった。
「そういえば映子。もう秋やから受験が本格的になるな」
そう父が言ったところで、映子は用件を切り出した。
「そのことなんやけど」
「なんや。言うてみ」
「わたし高校行きたいと思ってるねん。お父さん、授業料出してくれる?」
映子はえいやとばかりに口に出した。
「もちろんやん」
父は拍子抜けするほどあっさりと了承した。
映子の中ではいろいろな葛藤があって言い出せず、進学はあきらめようと覚悟もしていた。
なのに父は二つ返事で快諾する。
「そんなん当たり前やん。そのことで映子に電話しようと思っててんけど、仕事が忙しくてなかなか連絡できへんかってん。悪かったな」
「そうやったんや」
映子はほっと胸をなでおろした。
「何かあったらいつでも言うてくるんやで」
父はそう何度も念を押して電話を切った。
チンと電話の回線の切れる音が静かな家に響いた。
受話器を置いて、なんとなく気配を感じて映子は振り返った。
和室の引き戸が開いて、母が顔を覗かせていた。
「びっくりするやん。いつからおったん」
映子が聞くと母は首を振って答えず、違うことを言った。
「映ちゃん高校行くんやね。お父さん何て?」
やっぱり立ち聞きしていたようだ。
なんとなく母には反対されるような気がしていた。
「行ったらいいって言ってくれた」
「そう。よかったやん。お母さんのせいで高校も行かれへんかったら、映ちゃんがかわいそうやもんね。ほんまよかったわ」
母は案に相違して心から安心したようにほうと息を吐いた。
「お母さんはわたしが高校行くのん反対やないの? お金もかかるし」
「なんで?」
母は目を丸くした。
「なんでそんなこと思うん。映ちゃんにはお母さん、高校に行ってほしいし、大学も行ってほしいと思ってるで」
「そうなん?」
映子は意外な気がした。
「そんなこと今まで一言も言わんかったやん」
「わかってくれてると思ってたわ」
「そんなん、わかるわけないやん。わたしはお母さんの心まで覗かれへんわ」
「それもそうやね」
母はふふっと笑った。
開いた引き戸から線香の香りがもれてくる。
「また京ちゃんにお線香あげてたん?」
映子がそう言うと、母はちょっと驚いた顔をした。
「映ちゃん、京介のこと京ちゃんって呼んでたん覚えてたん?」
「ちょっと前に、思い出してん」
まさか父が出て行った日に思い出したとも言えない。
「そうなん。あの子も生きとったらもう中学生やったね。学ラン似合ったんかな。どんな部活入ったやろうか」
母が京介のことを話題にするなんて意外な気がした。
今までは触れることさえ恐れて、京介の名前さえ口にはしなかった。
「お母さんがそんな話するとは思わんかった」
「ほんとそうやね」
母は自分でも意外そうに口元に手をあてた。
「お母さんはね、なんで京介が水路で死ななあかんかったんかって、ずっとその理由が知りたいと思ってた。目を離したお母さんのせいももちろんあるけど、なんで京介は一人で田んぼになんか行ったんやろうって。その理由を知りたくて、でもどうしよもなくて苦しかった」
母が映子の目を真っ直ぐに見た。
「でもね、最近思うんよ。じゃあ理由がわかったら、私は納得がいったんかって。こんなに苦しまずにすんだんかって。でもたぶんそうじゃないんよね。わかってたら、私はもっとしんどかったかもしれん。つらかったかもしれん。後悔してももう京介は戻ってはこえへんし、あのとき私の取るべき行動がわかってたら、なんでそうせえへんかったんかって、もっと自分を責めてた。だからこれは京介からのプレゼントやったんやって思うようにもなったんよ」
「プレゼント?」
「そう。たぶん京介のあの日の行動が全部わかったら、私はもっと苦しむことになってたんやないかって。だから京介は私にはわからんように黙って死んだんよ。黙ってることで、私のせいやないよって私のことかばって、助けてくれたんよ」
映子は母の言葉に驚きを隠せなかった。
それは違うと否定したい衝動と、それで母の心が軽くなるならと容認したい気持ちが葛藤した。
どちらも決着はつかなかった。
正直、母の言うことはわからなかった。
でも今となっては京介の死だけが現実で、そこに至るまでの過程は闇の中だ。
それが白日の下にさらされる日はおそらくもう来ないだろう。
映子も当時は五歳だったし、五歳児の記憶には限界がある。
もしかしたら映子が京介を唆して、水路に向かわせた可能性も否定できない。
小学生のとき、保と恵一が言っていたように、自分も何か気に食わないことがあって、京介にあっちへ行ってと邪険にしたのかもしれない。
でもそれを思い出すことはもうないだろう。
ただの推測だけで、真実はわからない。
小学生の頃は映子だけが知っていることは無数にあると思っていた。
今の自分には理解できないことがたくさんある。
それをどうやって自分の中で噛み砕いて処理したらいいのか。
映子は母の話を聞きながら、数式よりも数倍も難しい問題に直面したように思った。
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