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曖昧なパフューム
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その夜、プレゼンが成功したお祝いにと、貴人は朱夏を食事に誘った。
ラグジュアリーホテルの最上階にあるフレンチレストラン。窓に向けて設置されたカップルシートからは、星を散りばめたような夜景が見える。
ふたりはそこで洗練された食事とワインを楽しみながら、プレゼン会議の話題で盛り上がった。
「貴人くん、海で迷子になったことがあるの?」
「あります。たぶん、幼稚園児くらいだったから泣きべそかいてた」
ワインに口をつけていた貴人がグラスを置き、苦笑する。
父親に言われるまで忘れていたくらいの些細な記憶だが、貴人の記憶にも確かにその光景はあった。
「ふふっ、かわいい。じゃ、期末考査で一位っていうのも?」
「それは中三だったかな……。それまで最高で二位だったのが、夏の期末テストで初めて一位になれて、あの人も珍しく褒めてくれたの覚えてる」
父親のことを〝あの人〟と呼ぶ貴人だが、まんざらでもなさそうな顔をしている。
以前、お手伝いさんが親代わりだった話す貴人に、幼少期は寂しくなかったのかと朱夏は少し心配になっていた。
しかし、会議で貴人との記憶に触れる貴政の姿を見てホッとした。『私の季節にはいつもお前がいるな』と口にする穏やかな表情から、決して親子の情が希薄なわけではないのだとわかったからだ。
「今日の会議の後、朱夏さんのことも褒めてましたよ」
「えっ? 社長が?」
「はい。今度はパフューマーとしてでなく、息子の婚約者としてプライベートで話がしたいって」
意外な言葉に、朱夏は頬を赤らめて目を丸くする。
社員として社長の貴政と対峙するより、そっちの方が緊張しそうだ。
「こ、婚約者って……私たち、まだそんなんじゃ」
「ですよね。だって、プロポーズは今からなんですから」
朱夏の胸が、どきりと音を立てる。彼女の膝の上に置かれた小さな手を握った貴人は、薄茶色の瞳に朱夏を映すと、迷わず口を開いた。
「朱夏さん、俺と結婚してください」
朱夏はすぐに返事ができず、呆然とする。
貴人が自分を好いてくれているのは理解しているが、結婚というふた文字に現実味を感じられない。
そこまで酔っていないはずなのに、頭と体がふわふわする。全身が、熱い。
これは、夢じゃない……?
「……嫌ですか?」
「ち、違うの……ごめん。突然すぎて、びっくりして」
「じゃあ、返事は?」
貴人がじりじり顔を近づけてくる。カップルシートとはいえ、レストランで接近される羞恥と背徳感で、朱夏はますます余裕がなくなる。
「も、もうちょっと落ち着いて考えさせて……っ」
「ダメです。朱夏さん、考えすぎると間違った結論出しそうだから、今聞かせて」
そんな言葉と共に鼻先まで貴人の端正な顔が迫り、朱夏の心拍数が跳ね上がる。
しかし、彼の言い分も決して否定できなかった。
あれこれ悩むと、つい思考がネガティブな方向へ進んでいく。その度に貴人を困らせ、逆に彼の大きな愛に助けられてきた。
もう、必要以上に不安がることも、自分を偽ることもやめよう。
朱夏は至近距離にある彼の瞳を覗く。それだけで無意識に溢れてくるのは、彼を愛おしく想う気持ち。
プロポーズを断る理由なんてない。
朱夏は今までで一番素直な気持ちで、返事をゆっくり口にする。
「私も……貴人くんと、ずっと一緒にいたい」
「よかった。今度の休みに、指輪選びに行きましょうね」
顔を傾けた貴人が、愛を誓うように朱夏に口づけをする。貴人からは相変わらずチョコレートの芳香が漂っていて、唇を重ねているだけで蕩けそうになる。
今夜のプロポーズもきっと、この香りとともに朱夏の記憶に深く刻まれるだろう。
この上なく愛おしい気持ちとともに、ずっと――。
FIN
ラグジュアリーホテルの最上階にあるフレンチレストラン。窓に向けて設置されたカップルシートからは、星を散りばめたような夜景が見える。
ふたりはそこで洗練された食事とワインを楽しみながら、プレゼン会議の話題で盛り上がった。
「貴人くん、海で迷子になったことがあるの?」
「あります。たぶん、幼稚園児くらいだったから泣きべそかいてた」
ワインに口をつけていた貴人がグラスを置き、苦笑する。
父親に言われるまで忘れていたくらいの些細な記憶だが、貴人の記憶にも確かにその光景はあった。
「ふふっ、かわいい。じゃ、期末考査で一位っていうのも?」
「それは中三だったかな……。それまで最高で二位だったのが、夏の期末テストで初めて一位になれて、あの人も珍しく褒めてくれたの覚えてる」
父親のことを〝あの人〟と呼ぶ貴人だが、まんざらでもなさそうな顔をしている。
以前、お手伝いさんが親代わりだった話す貴人に、幼少期は寂しくなかったのかと朱夏は少し心配になっていた。
しかし、会議で貴人との記憶に触れる貴政の姿を見てホッとした。『私の季節にはいつもお前がいるな』と口にする穏やかな表情から、決して親子の情が希薄なわけではないのだとわかったからだ。
「今日の会議の後、朱夏さんのことも褒めてましたよ」
「えっ? 社長が?」
「はい。今度はパフューマーとしてでなく、息子の婚約者としてプライベートで話がしたいって」
意外な言葉に、朱夏は頬を赤らめて目を丸くする。
社員として社長の貴政と対峙するより、そっちの方が緊張しそうだ。
「こ、婚約者って……私たち、まだそんなんじゃ」
「ですよね。だって、プロポーズは今からなんですから」
朱夏の胸が、どきりと音を立てる。彼女の膝の上に置かれた小さな手を握った貴人は、薄茶色の瞳に朱夏を映すと、迷わず口を開いた。
「朱夏さん、俺と結婚してください」
朱夏はすぐに返事ができず、呆然とする。
貴人が自分を好いてくれているのは理解しているが、結婚というふた文字に現実味を感じられない。
そこまで酔っていないはずなのに、頭と体がふわふわする。全身が、熱い。
これは、夢じゃない……?
「……嫌ですか?」
「ち、違うの……ごめん。突然すぎて、びっくりして」
「じゃあ、返事は?」
貴人がじりじり顔を近づけてくる。カップルシートとはいえ、レストランで接近される羞恥と背徳感で、朱夏はますます余裕がなくなる。
「も、もうちょっと落ち着いて考えさせて……っ」
「ダメです。朱夏さん、考えすぎると間違った結論出しそうだから、今聞かせて」
そんな言葉と共に鼻先まで貴人の端正な顔が迫り、朱夏の心拍数が跳ね上がる。
しかし、彼の言い分も決して否定できなかった。
あれこれ悩むと、つい思考がネガティブな方向へ進んでいく。その度に貴人を困らせ、逆に彼の大きな愛に助けられてきた。
もう、必要以上に不安がることも、自分を偽ることもやめよう。
朱夏は至近距離にある彼の瞳を覗く。それだけで無意識に溢れてくるのは、彼を愛おしく想う気持ち。
プロポーズを断る理由なんてない。
朱夏は今までで一番素直な気持ちで、返事をゆっくり口にする。
「私も……貴人くんと、ずっと一緒にいたい」
「よかった。今度の休みに、指輪選びに行きましょうね」
顔を傾けた貴人が、愛を誓うように朱夏に口づけをする。貴人からは相変わらずチョコレートの芳香が漂っていて、唇を重ねているだけで蕩けそうになる。
今夜のプロポーズもきっと、この香りとともに朱夏の記憶に深く刻まれるだろう。
この上なく愛おしい気持ちとともに、ずっと――。
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