曖昧なパフューム

宝月なごみ

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かりそめの幸福

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「ごめんね、朱夏……。私きっと、余計なこと話しちゃったんだよね」

 テーブルの向こうで早苗が深々と頭を下げ、朱夏は慌ててかぶりを振った。

「ううん。むしろ、早苗の方が怖い思いをしてるじゃない。怪我とか、乱暴にされたりとか、大丈夫だった?」

 いくらなんでも、今回の岡崎の行動は常軌を逸している。先日、ただの同僚に戻ると話したばかりではないか。どうして彼はそこまで自分に執着するのだろう。関係のない、早苗を巻き込んでまで。

「うん。首を絞めようとしたのは、たぶんただの脅しだったから……。それより朱夏、本当に専務と付き合ってるの?」

 半信半疑な視線で問いかけてくる早苗に、朱夏はためらいつつも小さく頷いた。彼女だって、話しづらいことをを打ち明けてくれたのだ。自分だけ貴人のことを秘密にしておくのはフェアじゃない。

「そっか……。おめでとう、って言いたいところだけど、難しい立場だよね、朱夏」
「え……?」
「猪狩涼音との縁談よ。今度の新作フレグランス、イメージキャラクターに彼女を起用するでしょう? 彼女、美水堂の新しいブランドからもオファーがあったらしいけれど、断ってうちを選んだの。その理由は、社長が専務との結婚を交換条件にしたからよ」

 初めて知る事実に、朱夏は言葉を失った。

 猪狩涼音……。一度、直接本人と対峙した時の敗北感が、朱夏の胸に蘇る。

 若者のカリスマである彼女をイメージキャラクターに据えたいと思っている企業は星の数ほどあるだろう。そんな人気者の彼女がナチュール・デコレを選んでくれたのは、喜ばしいことに違いない。

 自分が貴人の恋人でなければ、そう思えたのに。

「もしかして、専務からはなにも?」

 早苗に問いかけられて、ハッとする。

「う、ん……。きっと、言い出しにくかったんだと思う。私なら大丈夫なのに。住む世界が違うことくらい、最初からわかってたんだから」

 なんて、嘘だ。貴人が心から自分を愛してくれる。それだけでなにもかも乗り越えられる気がしていた。

 涼音とは一度顔を合わせ、痛いくらいの敗北感を味わっていたというのに……貴人の気持ちさえ自分に向いていればいいのだと、子どもみたいに思っていた。

 御曹司である貴人には、一般人にわからないしがらみがある。朱夏はそれをわかっていたつもりで、わかっていなかった。

 テーブルの向こうから早苗が気の毒そうな視線を向けてくるが、朱夏はそれを受け流し、ナイフとフォークを手にする。鉄板にのったままで火が通り過ぎた肉は硬く、なかなかうまく切れない。

 朱夏は必死でステーキと格闘しながら、明日の貴人とのデートで自分の取るべき行動に思いを巡らせた。

 別れを告げるべきなのだろう。彼と会社のために。

 だけど、それは最後のデートを楽しんでからでいいだろうか。別れる前に、貴人の笑顔を、声を、優しさを、胸に焼き付けたい。

 ちゃんと思い出にするから。今度こそ、彼の幻影で自分を慰めたりせず、ひとりで生きていくから――。

「朱夏……。これ」

 早苗にハンカチを差し出され、朱夏は初めて自分が泣いていることに気がついた。

 ナイフとフォークを置いてそれを受け取り、顔を押しつける。早苗が愛用するジャスミンの練り香水がふわりと優しく香り、朱夏はますます湧いてくる涙を止めることができなかった。


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