曖昧なパフューム

宝月なごみ

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痛みを思い出させる人

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 貴人は年度末から新年度にかけて多忙で、デートは四月の半ばまでおあずけとなった。しかし、その約束があるだけで朱夏の胸は弾み、仕事にも精が出た。

 その間に迎えた新年度。嫌でも緊張する、岡崎との対面の日。わざと出勤時間を遅らせた朱夏が遅刻ギリギリに研究室に到着すると、室内の一角がにわかに騒がしかった。

「アンバーグリスを初めて嗅いだ時は感動したね。こんなに甘く官能的な香りが存在するのかと」
「すご~い。臭くないんですか?」
「ああ。マッコウクジラから取れるなんて信じられないくらいだ。中国では龍の涎の香りだなんて言われているほど、神々しい代物なんだよ」
「へえ……。香りのことなら何でも知っているんですね、岡崎さんって」

 研究室のメンバーがそろってひとりの男性に群がっている。その中心にいるのは、予想通り岡崎だった。

 ここへ来るまでに何度となく自分に言い聞かせた〝動揺するな〟の言葉を、朱夏は再び胸の内で繰り返す。

 唇をきゅっと引き締めて岡崎のいる輪に近づいていくと、彼の目が朱夏をとらえ、わずかに細められた。

「お久しぶりです、岡崎さん」

 朱夏は微笑みを張りつけ、自分より十五センチほど身長の高い岡崎の顔を見上げた。清潔感のある黒髪のショートヘア。直線的な眉に、いつもは穏やかだが時に鋭くなる切れ長の目。少し尖った薄い唇。すべてがあの頃のままだった。

 ズキン、と朱夏の胸が痛みを感じるのと同時に、岡崎が口を開く。

「桐野、久しぶり。聞いたよ。今、ここのリーダーなんだって? 出世したな」
「とんでもない。まだまだ未熟で、みんなに迷惑をかけてばかりです」

 朱夏が謙遜すると、そばにいた咲が声をあげる。

「なに言ってるんですか朱夏さん。私が調香チャート失くした時、そのずば抜けた才能で助けてくれた上、さらに洗練された香りを生み出したじゃないですか」

 その言葉にギクッと肩を揺らしたのは、咲のそばにいた駒門だ。彼は気まずそうにしつつも、付け足すように小声でつぶやく。

「……俺が美水堂の商品をパクったのもすぐ見抜きましたしね」

 そして彼に続き、研究員たちは口々に、パフューマ―としての朱夏に全幅の信頼を寄せていること、また、この頃は日に日にリーダーとしての頼りがいが増していることについて岡崎にアピールした。

 かつて研究室に充満していた、あの閉塞感はどこへ行ったのだろう。自分が変わったのか、それとも周囲が変わったのか。

 朱夏は思いもよらぬ展開に驚き、じわじわと熱い気持ちが染み出す胸を押さえる。岡崎はそんな彼女の姿にふっと笑みを漏らすと、さりげなく朱夏との距離を詰め耳元で囁く。

「慕われてるんだな。……さすが、俺を虜にした女性だよ」

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