曖昧なパフューム

宝月なごみ

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痛みを思い出させる人

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「お先に失礼します」
「はーい、お疲れ様」

 定時を過ぎ、研究室からひとり、またひとりと社員が去っていく。

 そんな中、朱夏は次の新商品として求められている新たなフレグランスのプレゼン資料の作成に集中していた。
 
〝日本の四季〟の前は、〝太陽系の惑星〟。その前は〝血液型〟がテーマだった。

 共通点は、すぐに香りが想像できないこと。それが逆に香水ユーザーの購買意欲をそそり、売り上げを伸ばしているのだそうだ。

 そういったマーケティング関連の話は彼女の専門外だが、香りがないはずの抽象的なものにあえて香りを与えてみようと発案したのは、ほかでもない彼女だ。

 決まった正解がないだけに開発は難しい作業だが、その分やりがいがある。欲を言えば、もっとチームの皆と一体になって開発を進めたいが……。

 そんなことを思いながらパソコンに向かっていた朱夏のもとに、ひとりの社員が近づいてきた。気配を察して顔を上げると、そこにいたのは駒門だった。

「……桐野さん、試していただきたい香りがあるんですが」

 そう言いながら、駒門がスッと、一本のサンプル瓶を差し出す。

「これは?」
「〝春〟の新しいサンプルです。桐野さんに言われたことを自分なりにもう一度考えて、一から配合を変えてみたんです」
「一から……?」
「ええ」

 朱夏は感心した。駒門にそこまでの情熱があったということが、意外でもあった。いつもの彼は、この部署にいながらフレグランス自体にそれほど興味がないように見えていたのだ。

 しかし、ようやくやる気を出してくれたのだと思うと、リーダーとして素直にうれしい。

「わかりました。貸してください」

 朱夏はいつものように、ムエットにサンプル液を少量染み込ませ、香りを試す。

 ――瞬間、彼女の鼻腔にスミレ畑が広がった。目を閉じると、淡い紫色の絨毯がどこまでも続く、そんな光景が浮かんでくる。

「すごいわ……。春をこんなふうに表現するなんて」
「でしょう!?」

 駒門は思わず前のめりになり、目を輝かせた。しかし……。

「ええ、本当にすごい。さすがは日本で初めて本格的にフレグランス事業を始めた老舗ブランド、美水堂だわ」

 朱夏の瞳に浮かんでいるのは、明らかな落胆の色。駒門は背筋が急にひやりとして、息を呑む。

「一昨年の春、美水堂が春の限定商品として発売した〝野の花シリーズ〟の〝スミレ〟。それを参考に……いえ、真似て作ったとしか思えません。残念ですけど、これは却下させていただきます」

 呆気なく瓶を突き返された駒門は、言葉を失った。朱夏の言うことが、まるっきり図星だったからだ。

 彼は他社製品を少しアレンジしただけのサンプルをわざと作製し、それに朱夏が気づくかどうか、試そうとしていたのだ。

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