曖昧なパフューム

宝月なごみ

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痛みを思い出させる人

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 翌日、飲みすぎた酒が少々残った気怠い体で出勤した朱夏は、どことなく研究室の空気に居心地の悪さを感じて胸がざわめいた。

 自分の存在が疎まれているのはいつものことだが、今日はもっと直接的に、誰かから敵意を向けられている気もする。

 思い当たることといったら、昨夜貴人と食事に出かけた件しかない。彼に誘われる現場を見ていた社員もいるし、変な噂が立ってしまったのだろうか。

 色々と悪い展開を予想しかけては、そんなことより仕事だと自分を戒め、午前中は淡々と作業をこなした。

 問題が発生したのは、昼休憩の後だった。親しい同僚のいない朱夏が社員食堂での一人ランチを終えて研究室に戻ると、泣きそうな顔をした咲が駆け寄ってきた。

「朱夏先輩、どうしましょう……!〝冬〟の調香チャートが、全部消えてるんです!」
「え?」

 咲を落ち着かせて詳しい話を聞くと、〝四季〟のフレグランス開発で彼女が担当していた冬の香水、その原料の種類や配合比率がすべて書かれた調香チャートが、彼女のパソコンから消えているとのことだった。

「バックアップは取ってなかったの?」
「すみません、これからやるつもりで……。本当に申し訳ありません……」
「そっか。いくつか覚えているものはある?」
「種類の方は、すべて。でも、配合比率までは……。また一からやるしかないですよね。でも、全く同じようにできるでしょうか……」

 咲はすっかり意気消沈しているが、朱夏は少し考えて、彼女に告げる。

「大丈夫。あの香り、私は覚えているわ。原料の種類が分かるのなら、再現できると思う」
「ホントですか……!?」

 もともと朱夏を尊敬していた咲は、やはりこの先輩はすごいと、羨望の眼差しを送る。

 いつか、彼女のようなパフューマーになりたい。咲が密かに抱いている目標が、改めて確固たるものになった。

 ふたりはすぐに再現に取りかかり、一時間ほどで昨日咲が作り上げた調合とまったく同じサンプルができたが、朱夏はそれだけではよしとしなかった。

 咲の作り上げた、ひんやりと芯の通った、氷のように冷たい香り。そこにほんのり椿の優雅な香りをプラスして、より冬の表現に広がりを持たせたのだ。

「雪の中に凛と咲く椿の香り……すごい、前より全然よくなりました!」
「もともと咲ちゃんのベースがあったからよ。今度はちゃんと、バックアップを取っておいてね」
「はい! 今すぐに!」

 白衣を翻して自分のデスクに戻っていく咲と、そんな彼女を温かい眼差しで見守る朱夏。そんな彼女たちの姿がおもしろくなくて、研究室の隅で舌打ちする男がいた。

 昨日、朱夏に〝春〟のサンプルを試してもらい、『違う……もっとこう、幸せな気分になる感じなのよ』と指摘され首をひねっていた、駒門である。

 駒門の手には、ひとつのUSBメモリがあった。咲がなくした調香チャートのデータを、彼がこっそり移したものだ。

 彼は、朱夏がオロオロと慌てる姿を見たいがために咲のパソコンからそのデータを抜き取り、目的が達成されればデータは戻すつもりだった。

 しかし、朱夏は少しも動じることがなかったうえ、以前より優れた調香に成功したらしい。

 駒門は不要になったデータを忌々しく思い、USBを叩きつけるようにデスクの上に放った。


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