お母さんは二歳児です。-楽しい陰にいつも哀しさ。嬉しい傍にいつも寂しさ。認知症の母との日々。-

伊吹梓

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002 久々のでっかい一撃! 頭抱えてポッカーン…

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 頭のてっぺんから脳ミソ吹っ飛んだ。

 いやもう頭から花火ドッカン打ち上がったよもう。そのレベルで吹っ飛んだ。

 おおう…、いま、それ!?そう来るか?おい、は、母上!?!?

 思わずムンクの「叫び」みたいに、頭抱えて口空けてポッカーンとしてしまう母の一言。
 久々のでっかい一撃が炸裂してしまった。


「お母さん、補聴器どう?」

 家に帰って帰って一休みしたあと、母に電話をした。
 借りた補聴器はIPX7近い防水で、お風呂くらいなら大丈夫だけど、熱的な問題もあり店員さんからは「お風呂に入る時は外しましょう」と言われていた。
 認知症の母が、そんな細かい話を一々記憶していて、キッチリ実行するとは思えない。

 認知症とはそういうもの。短期記憶はまるでアテにならない。

 だから、こちらからちょうどいい時間にちゃんと外すよう伝えないと、と思い、頃合いを見計らって電話をしたのだが…。

「はぁ…?補聴器ぃ…?」
「うん、今日お試しで借りに行ったんだよ。補聴器。いま、ちゃんと聞こえる?」

 うん。そうだよね。補聴器のことを忘れていることまでは予想済み。まぁ、誘導すれば思い出すだろう…
 でも、なんで母はいつもの大きな声で喋ってるのだろう?補聴器を着けると自分の声がうるさいって言って、小さな声で喋ってたよね? パッドがずれて聞こえにくくなったかな?

 なーんて、のんびり考えていた。
 しかし。
 少しの間を置き唸り声がした後。

 脳ミソが遥か遥か天高く大気圏外に飛んで行く母の答えが…。



「補聴器なんか借りてませんッ!」



……………………えっ?
…ええっ!?ええええっっっっ!?!?!?!?

そこっ??ねぇそこ!? そう来たかおいっ!?


 しっっかもだよ。


 言い切った。キッパリすっぱり言い切った! 超自信満々。超絶凛々しい。スマホから「キリッ!」って文字が飛び出したよいま!なんだその自信は? ひえぇぇ…。


「今日あんたと紗江さえさんが家に来たけど…外出してないじゃないの。あんた何言ってんの?補聴器買ったのぉ?今度持って来るの?」


 どこか怒ったような電話口の母の声。

 もう顔面ハニワ。
 半開きの口が閉じられない。いま、とても人に見せられない顔していると思う。表情筋のいろんなところがヒクヒクする。

 マンガによくあるヒクヒクってこれか。なんて、余計な事ばかり頭に浮かぶ。
 ああ、そしてこれがリアル現実逃避ってやつね…。いやだから戻って来い私。

 マジか…そっから記憶改竄かいざんされているか。

 もうムリ!!ムリムリムリムリ!!!と心が叫んでる。いやいやムリじゃない、何とか今この瞬間を切り抜けないと、って理性が必死になっている。頑張れ私の理性くん。


 今日の午前中から昼にかけて、補聴器を選びに行った。無料お試し2週間を利用し借りてきた。母はワックワク。私たちもワックワクで母の家まで戻ってきた。
 義姉あね紗江さえさんが車で母の家まで送ってくれて、途中で買ってきたお寿司をみんなでニッコニコで食べた。

 母は海なし県の、家の裏から500mも行くと、もう海抜1400mクラスの山々、という環境で育った。なお母の実家は海抜700mちょっと。
 母が子供の頃は、生の海の幸なんてめずらしく、年に1~2回の旅行時の御馳走だっという。
 そんな幼少時代を過ごしているからか、お寿司やお刺身に異常に執着を持っていた。特にお寿司と言えばもうそれだけで、隠しても隠し切れないウキウキオーラが出まくっていた。

 だから、こんな時はいつもお寿司。イクラとトロは絶対。ブリも大好き。贅沢な舌だなおい、なんてよく思ったものだ。

 お寿司を頬張っていると、補聴器をしていることに気付かないくらい快適なようで、

「あれぇ、なんだか自分の声がうるさいわ。今日はどうしちゃったのかしら」

 なんて言ってる。もうそれだけで嬉しい。

「お義母かあさん、いま補聴器着けてるんですよ。ずっと欲しがってた補聴器ですよ。私たちの声、よく聞こえるでしょう?」

 義姉あね紗江さえさんが柔らかくそう言うたび、母は驚いたような顔で耳を探り、耳穴から耳の裏に延びる細く短い線を指でなぞる。そして嬉しそうな顔をする。
 すぐ補聴器を着けてること自体忘れてしまうけれど、何か違うことは認識しているのだ。
 うん。そうなると思ってた。でも着けてることを認識しないほど快適なんだろう。これを選んで正解だった。

 そんな会話を楽しんで、私と義姉は、母の機嫌がいいうちに退散しましょうと示し合わせ、それぞれの家に帰った。

 母は多分このあと寝るだろう。だいぶ疲れて半分目が閉じてたから。
 夜に起きて、耳に何か入っていて、これなに?となるかも知れない。
 もしかしたら、着けてることを忘れてお風呂に入ってしまうかも。それはそれでまずい。

 そんな様々な可能性を考え、夜に私から電話をしてみら…。


 まさかの「借りてませんっ!」と来たもんだ…。


「だから!何言ってるか分からないのよ!補聴器ぃ?そんな、買っても借りてもないもの、探しても無いわよ!何度も言ってるでしょう!?もうあんたたちなんなの!?」

 ああぁぁぁ……
 駄目だ。夫が捜索の誘導してくれたけど、もうイライラしている。こうなると話しにならない。
 母との電話の時は、スマホはスピーカーにして、夫と二人で話す。その夫が、魂抜けて白を剥いている私を尻目に、いろいろ話して探してもらったが、当然見つからなかった。

「あー、うん。わかった。義母かあさん、補聴器の話はいったん置いておこう。とりあえず、そうだな…明後日の金曜にでも、琴音ことねがそっち行くから」

 そう。私の名は琴音。染谷琴音そめやことね。旧姓は水沢。古風なんだかキラキラなんだか、中途半端で昔は嫌だった。けれど染谷の姓に変わってから、途端に字面も響きも綺麗になった気がして、一気に好きになった。こっちの方が和風キラキラ度増してる気はするけど。
 それに、母の想いもこの名に詰まってる。そう思えるようになった二十代半ばから、やっと世界一好きな名になった。

 って、そんなことより…。


 夫も切り上げ時と諦めて、そんな風に話をまとめ、捜索は一旦終了。
 ていうか、やっぱり行くのかよ。
 うん。分かってる。今日家に帰る前からそうしようと思ってたし。

「あら、そう?来てくれるの?まぁわざわざありがとう!」

 電話を切ったら、明後日訪問の約束なんて忘れるだろう。まぁそれもいつものこと。構わず伝えたとおりに行けばいい。と言うか、行かなきゃならんぞこれは。

「困ったな。テーブルの上にも置いてない様子だったな」

 電話を切った後、夫が頭を抱えて言う。

「そうね…。テーブルはもちろんだけど、洗面所、お風呂場、台所、トイレ、玄関…ここに無ければ、私もお手上げだよ。でも、あれから外出してない筈だから…ならどこへ?」
「着けたまま忘れてるとか。耳触っても違和感無さ過ぎて、補聴器してることに気付かないとか?」
「それなら、今までどおりの電話で声が聞こえにくいってこと、起こらないでしょう?でも私の声が聞こえにくそうにしてた。声も前みたいにはじめから怒鳴るようだった」
「バッテリー切れ?」
「それは有り得るかも知れないわね。でもそれも、満充電で引取ったから22時間は持つ筈なんだよ。まだ12時間も経ってない」
「そうか。だとしたら着けてない説が濃厚か。見えないところに置いた。それだけなら良いけど…考えたくはないが…最悪、ゴミ箱ってことも」



 ゾッとした。


 あれ、35万円のモデル。


 これから契約しようとしている、紛失補償も入れる月1万4千円のサブスク契約時なら、失くしても2万円で済む。しかも交換器が手に入る。

 でも、今は契約前のお試し期間。
 紛失すると、本体価格の2割払わなければならない。

 てことは7万円…決してホイッと気軽に出せる額じゃない。


「…ゾッとするけど、否定できないわ」


 さっきまでのウキウキは綺麗さっぱり吹き飛んだ。心にまた霧が生まれる。
 こういうことは今まで何度もある。だから、心の準備はいつもしている。でも、毎回毎回その予想を上回る。
 びっくり箱系マジシャンかあのク〇バ…いや母は。
 そんなびっくり箱が炸裂する度、心がどんより霧掛かる。心の中に全自動ドライアイス噴霧器がガッチリ設置されてる気分だ。こんなものいらない。誰だ取り付けたヤツ。私か。

 でも夫、なんだか異様に冷静。
 兄もそうだけど、こういう時の男性ってどこか余裕な気がする。そのメンタル、1mgでもいいから分けてほしい。
 むしろ深く考えてないだけなのか。それとも私や義姉が深刻に捉え過ぎなのか…。

「とりあえず、ゴミ出しの日は来週月曜だから大丈夫。外出もしないだろ?なら、補聴器が自分で歩いて出てかない限り大丈夫だから。落ち着け、こと

 言われてみればそうだけど…。
 というか凄いな。いつそのスケジュール確認したの? 私でさえ、ゴミ収集の日が私があの家に住んでいた時と変わってるって、全然気付かなかったのに。もう。変なところで頼りになる。落ち着かせてくれる情報を隠し持ってる。出すポイントもいつも完璧。嬉しくてなんかムカつく。ムカつくのはいま私のメンタルのせいなんだけど。

 補聴器は自分で歩かなくても、母が癇癪起こして外にポイと投げたり、とかはあるかもしれない。
 2週間で慣れなければいけないし、万が一ということもある。うーん、やっぱり急がないとダメか。

「それはそうだけど…、でも慣れる期間は長くとりたいし、万が一ってこともあるから…明日の木曜はもう時間的に介護休暇は取れないから、明後日必ず行くわ。それと、ヘルパーさんにも朝連絡しないと」
「介護休暇、大丈夫か?何なら土曜でもいいと思うけど」
「ううん。介護休暇は前日申請でも取れるから、うちの会社。緊急って伝えれば大丈夫。いまは急を要する仕事もないし。」

 私の勤める会社は、有給以外に介護休暇制度がある。介護休暇は、要介護認定を受けていることを証明出来ていれば、こんな急な申請でも通るようになっている。
 いま、この福利厚生には本当に助けられている。

 とは言え、夜じゃなくて、夕方電話すればよかった。そうすれば、ヘルパーさんにも相談の連絡ができたし、様々な手配が明日には間に合った。
 1日遅れが命取りになることもある介護。今回は完全にミスだ。

 安心し切って気持ちが緩んだ。こんなこと毎度のことで、学習している筈なのに。 
 何やってるの私!

 もう何も考えたくない。
 布団に潜り込んで、スマホのカレンダーに『介護休暇申請、ヘルパーさんへ補聴器の連絡』とだけ入れ、一旦寝ることにした。


 ********************************


 朝になると、兄家との介護情報共有用に作ったグループチャットに、メッセージがある。義姉あねからだ。

「昨夜そちらに電話ありましたね?こちらにも電話きました。補聴器のことすっかり忘れている様子。機器も充電器も認識してない様子。今日私は動けます。お義母さんの家に確認しに行った方がいいですよね?」

 うわー。そっちにも行ったか。
 夫もメッセージを見たようで、私に言う。

「これさ、捨てられてる可能性も伝えた方がいいよね?俺伝えようか」
「大丈夫。私が伝える。お義姉さんと話したいし。駅行く間ちょっと電話してみる」

 身支度を整え、出勤。歩き出してから電話をする。
 話してみると、やはり捨てられている可能性までは頭に無かったようだ。
 私がそのことを伝えると、焦ったように「すぐ行きます!」と言ってくれ、すぐ電話が切れた。
 ありがたい。みんなホントに、心から母のこと考えてくれている。しかも、私が動こうとしていたこともお見通しで、そのうえで助け船を出してくれる。

 ふと思う。
 夫にしろ義姉にしろ、自分の親でもないのに、なんでこんなに親身になってくれるのだろう?

 それはさ、お金は掛かってるよ。35万円の2割。7万円。これはデカい。
 でも、他にも体の調子を心配してくれたり、やろうと思ってたこと分担してくれたり。お金以外の部分でも手を差し伸べてくれる。

 二人は母と血の繋がりも無いし、こんな状況は迷惑でしかない筈だ。でも私や兄より親身になってくれる時が沢山ある。ありがたいし感謝しかないのだけれど、それにしたって家族って、いったい何なのだろう…。



 ********************************


 昼休み、義姉からメッセージが入っていた。

「ありました。テレビ横の鍵や貴重品など、大切なものが入ってる小物入れの中。充電器は引き出しにしまってありました。一応全部出して充電しておきます。ヘルパーさんも丁度いらしたので、言伝ことづてしました」

 わお。さっすが義姉あね。ヘルパーさんにも補聴器使用始めたこと伝えてくれたんだ。

 既に介護休暇は取った。が、これなら明日私が行く必要は…

「でも、充電の仕方はすぐ忘れると思うし、充電器の存在の意味が分かってないようです。使い方を書いたものを貼っておく必要があると思います」

 ない、なんてことにはならなかった。
 なんてこった。一日ゆっくり休める。寝れる!と思ったのに。

 これ、私が作るべきだよね…。分かりやすく写真付きで、図解で。とすると、パ〇ポ作成だろう。
 お義姉さんパ〇ポ扱えないし。兄は技術者あるあるの、プログラムなら余裕で組むけど事務系ツールまるでダメな人だし。むしろツール作っちゃう派ではあるけれど。

 いやー一晩で作るのか。今晩は寝れない!


 ただ、こうも思った。

 母は、大切なものを入れるケースの中に入れてたんだ。

 つまり。

 母はそれを、補聴器と認識していなくても、無意識に「大切なもの」として扱っていた。じゃなきゃ、あそこには仕舞わない。

 認知症独特の強いこだわりと、長年の習慣で、他の物は置き場がいつも違うのに、あの小物入れだけはいつ行っても同じ場所にあり、同じものが入っている。

 異物があれば、母はすぐ排除するし、いつ行っても小物入れを気にしている。

 なのに、新たに手に入れた「見慣れないもの」を、そこに入れていた。

 最近手に入れたものは、かなり高い割合で、異物と処理されてしまう。なのに…。

 すぐ忘れるけど、目に映ればたとえ何か分からなくても、どこか「大切な物」と認識しているんだ。

 どんなに瞬間の記憶が消えても、どんなにイライラしても、母自身の長く心に抱いていた願い、私たちの想い、過ごした楽しいひと時、その出来事一つ一つは消えても、抱いた想いは消えてないんだ。

 多分…、

 出来事は忘れるけど、ウキウキした想いは残っていて、その噛み合わない記憶と想いとの溝を埋めるために、全く違う記憶を作り出すのかな、と思った。
 それならそれでいいじゃないか。幸せな時間自体を忘れるより、幸せな想いに合わせて記憶をすり替える方が、余程マシだ。

 そう思うと、少し嬉しくなる。

 みんな消える。大切な母という人の記憶から、兄が消える。私が消える。その日は絶対にやってくる。その恐怖に怯えた時もあったけど、いまはまだ、想いがある。
 いいんだ。それだけでも。いいんだ。それは大事な大事な、母と私たちの宝物なんだ。

 そう思ったら少し、元気が戻ってきた。

 よし!そうと分かれば善は急げ。仕事終わって帰ったら、「母でも分かる壁張り補聴器マニュアル」作ろうか!




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