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第3章 ザイルは伸び、無駄に荷物を背負い、二人は歩き、一人は助ける。
12. 稜さんの大変な一日。
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「そんなわけで、予定の半分で切り上げてきたんだよね。ちょうどまっきーが計画してたルートと同じだね。まあ、仕方ないことだけどさ。」
と、放課後の部室で稜さんはお茶を飲みながら静かに呟いた。今日は気温が高く、稜さんも半袖のTシャツ一枚だったが、その腕は至る所擦り傷とひっかき傷だらけだった。
ぼくとまっきーが二人で奥多摩を登り、見えるはずもない稜さんの姿を丹沢の山塊に探していた頃、実は稜さんは大変な出来事に巻き込まれていたのだった。テスト採点日の翌日、過半数のテストが返却された金曜の四時過ぎの部室で、ぼくとまっきーはそのときの話を聞いていた。
稜さんが計画していたのは西丹沢自然教室を起点として檜洞丸、大室山、加入道山、畔ヶ丸をぐるりと巡って再び自然教室に戻る、いわゆる『西丹沢周回』と呼ばれるコースだった。
通常のコースタイムでは十五時間ほどかかるコースだが、稜さんは、彼女の今の技術と体力なら九時間以下で戻って来られると踏んでいた。
檜洞丸までの千m超の登りを二時間でこなすところまでは順調で、そこから犬越路という峠までの難所で、その『大変なこと』が起こったのだった。
檜洞丸と犬越路の間の険路については、ぼくとまっきーも西丹沢のコースを検討したので知っていた。鎖や梯子が連続し、手を使わなければ突破できない岩場だらけで、危険を知らせる看板も立てられている場所だった。
稜さんの目の前の鎖場を下降していた単独行の女性の足元の石が崩れ、ちょうど鎖から手を離していたため、握り直す間もなく転落してしまったのだ。稜さんは鎖場の下の藪の中で倒れている女性の元に藪をかき分けてたどり着き、意識を失っていることとバイタルサインがあることを確認して警察に連絡した。腕の傷はそのときについたものだった。程なく女性は意識を回復し、稜さんはヘリによる救助が到着するまでの一時間強の時間を付き添っていたそうだ。
「あの人は、私だったかもしれないんだよね。私の前に誰もいなかったら、私も多分あの石に足を置いてた。風化と浸食で岩の様相はどんどん変わるから、前の人が通れたから自分も通れるとは限らない。」
稜さんはお茶の入ったコッフェルのふちを手でなぞる。そして目を伏せて、
「それに、私にも責任がある。私の方がペースが速かったから、あの人はちょっとプレッシャーを感じてたみたいだった。」
と言った。泣きたいのを必死に堪えているようだった。
「両神、今、県警から連絡があった。昨日の女性、頭蓋骨と左足を骨折して重傷だが、命には別条ないそうだ。彼女とご両親がきみにお礼をしたいと言っている。警察からも感謝状を出したいそうだ。」
部室に入ってきた久住先生が稜さんに伝える。
「私にはそんな資格はありません。あの人が滑落した原因は私にあります。」
稜さんは下を向いたまま、顔を上げずに答えた。
「そんなことはない。事故はいつでも起こり得る。たぶん、きみも、その人も悪くない。それでも事故は起こる。そして起こってしまった事故に対して、きみがとった行動は最善のものだったと思うよ。」
「あんなことがあった後でも、私はコースを短縮して山行を継続しました。そのとき私は初めて山を怖いと思ったんです。私が今ここで遭難して意識を失ったら、誰も助けに来ない。意識を失わなくても、携帯が圏外になる場所なんていくらでもある。特に昨日は平日だったので、入山している人がとても少なかったからかもしれません。今までにも単独で登山をしたことは何回もあったけれど、あんな気持ちになったのは初めてです。」
稜さんは大きく息をつく。先生は何も言わずに見守っていた。
「それに、私が誰かを傷つけてしまうことも怖くなった。落石を起こしたり、滑落に巻き込んだりする可能性もある。そうではなくても今回の私みたいに、ペースを上げたいという無言の圧力が原因になることもある。正直に言えば私、あのとき、早く先に行きたいと思っていた。標準的なタイムの六割を目標にしてたからだけど、そんなものは誰かを傷つけて達成する目標じゃない。」
傷だらけの腕の上に涙が落ちる。
「私は、まっきーやつるちゃんを傷つける可能性がある立場だということが、今はとても怖い。」
久住先生がそのとき静かに口を開いた。
「俺はな、両神。死亡事故の現場に居合わせたことがある。近くにいた人たちと一緒になって必死に救助したけれど、助からなかった。それ以来、山に登るときにはいつでも恐怖を感じるようになった。」
先生は、長机の稜さんの向かいにある椅子に腰を掛ける。
「きみたちを一番傷つける可能性が高いのは俺だ。それでも俺はきみたちが山に行きたいと思う気持ちの後押しをしたいと思い続けてきた。俺が山で見てきたものをきみたちにも見て欲しいから。それはもしかしたらその後の人生を大きく変えるかもしれないくらいのものだから。でも、景色を見に行くことのみが山に登ることではないって思いながら、ずっと、うまく言葉にできずにいた。恥ずかしながら、今年になって上市に言われて初めて気付いた。俺が伝えたいのは、ここに来たいと思う自由を持ち続けることの素晴らしさなんだ。」
先生はぼくを真っ直ぐに見て、再び稜さんに向けて話しかける。
「怖さを知っている人がそれでもそこに行きたいと思うことが、本当の自由なんだと思う。怖さを知っているから、危険を避けるために準備に準備を重ねる。怖さを知っているから、誰かと一緒に登っていることの尊さを感じることができる。」
ぼくは昨日のまっきーとの山行を思い出す。まっきーが隣にいることの安心感。一人では気付けないものに、二人なら気付けるはずだという確信めいたもの。
「こういう出来事をきっかけにして、山をやめてしまう人を俺は何人も見てきた。それは止められないし、ある意味合理的な判断であるとすら思う。両神がどうするかは、両神が決めるしかない。ただ一つ俺が言えることは、きみは俺が見てきた中でも最高に自由な精神の持ち主だということだけだ。」
稜さんの腕に涙がバタバタと落ちる。しばしの沈黙があった後、稜さんは腫れた目を隠そうともせずに顔を上げ、こう告げる。
「とりあえず、ランニングに行こう、まっきー、つるちゃん。」
ふつう、山行の翌日は疲労を考えてランニングや階段歩荷は行わない。ぼくとまっきーの昨日の行程は二十五kmを軽く超えていたため、脚にはかなり疲労が残っている状態だったが、稜さんのために何かしたいという気持ちでぼくはランニングに付き合うことに決めた。その気持ちはまっきーも同じようだった。
いつもの川沿いの道を、一kmあたり七分以上のペースでゆっくりゆっくり走る。稜さんが前で、ぼくとまっきーは後ろを何も言わずに走る。舗装の割れ目から草が生え、黄色い花を咲かせている。カタバミだろうか。稜さんはその花を踏まないように注意深く避ける。六月が間近に迫った川沿いの空気はたっぷり湿気をはらみ、三人とも汗をびっしょりかく。
「私は、登るのをやめない。今までと同じ気持ちではもう登れないかもしれないけれど。今日、私は選んでここに走りに来た。何度も見た景色の中を走りたいと思った。きっとこれからも、私は私の大好きな場所、私が大好きになれるはずの場所に行く自由を持ち続ける。なぜだか知らないけれど、私はそういうふうにできているみたいだ。」
稜さんはゆっくり手を広げ、湿った風を腕に受ける。長く、しなやかで、傷だらけの腕に汗が光っている。それはぼくが見た最も美しい腕だった。隣のまっきーはなぜか涙を拭いながら走っている。
夏はもうすぐそこにあった。
(第3章終わり)
と、放課後の部室で稜さんはお茶を飲みながら静かに呟いた。今日は気温が高く、稜さんも半袖のTシャツ一枚だったが、その腕は至る所擦り傷とひっかき傷だらけだった。
ぼくとまっきーが二人で奥多摩を登り、見えるはずもない稜さんの姿を丹沢の山塊に探していた頃、実は稜さんは大変な出来事に巻き込まれていたのだった。テスト採点日の翌日、過半数のテストが返却された金曜の四時過ぎの部室で、ぼくとまっきーはそのときの話を聞いていた。
稜さんが計画していたのは西丹沢自然教室を起点として檜洞丸、大室山、加入道山、畔ヶ丸をぐるりと巡って再び自然教室に戻る、いわゆる『西丹沢周回』と呼ばれるコースだった。
通常のコースタイムでは十五時間ほどかかるコースだが、稜さんは、彼女の今の技術と体力なら九時間以下で戻って来られると踏んでいた。
檜洞丸までの千m超の登りを二時間でこなすところまでは順調で、そこから犬越路という峠までの難所で、その『大変なこと』が起こったのだった。
檜洞丸と犬越路の間の険路については、ぼくとまっきーも西丹沢のコースを検討したので知っていた。鎖や梯子が連続し、手を使わなければ突破できない岩場だらけで、危険を知らせる看板も立てられている場所だった。
稜さんの目の前の鎖場を下降していた単独行の女性の足元の石が崩れ、ちょうど鎖から手を離していたため、握り直す間もなく転落してしまったのだ。稜さんは鎖場の下の藪の中で倒れている女性の元に藪をかき分けてたどり着き、意識を失っていることとバイタルサインがあることを確認して警察に連絡した。腕の傷はそのときについたものだった。程なく女性は意識を回復し、稜さんはヘリによる救助が到着するまでの一時間強の時間を付き添っていたそうだ。
「あの人は、私だったかもしれないんだよね。私の前に誰もいなかったら、私も多分あの石に足を置いてた。風化と浸食で岩の様相はどんどん変わるから、前の人が通れたから自分も通れるとは限らない。」
稜さんはお茶の入ったコッフェルのふちを手でなぞる。そして目を伏せて、
「それに、私にも責任がある。私の方がペースが速かったから、あの人はちょっとプレッシャーを感じてたみたいだった。」
と言った。泣きたいのを必死に堪えているようだった。
「両神、今、県警から連絡があった。昨日の女性、頭蓋骨と左足を骨折して重傷だが、命には別条ないそうだ。彼女とご両親がきみにお礼をしたいと言っている。警察からも感謝状を出したいそうだ。」
部室に入ってきた久住先生が稜さんに伝える。
「私にはそんな資格はありません。あの人が滑落した原因は私にあります。」
稜さんは下を向いたまま、顔を上げずに答えた。
「そんなことはない。事故はいつでも起こり得る。たぶん、きみも、その人も悪くない。それでも事故は起こる。そして起こってしまった事故に対して、きみがとった行動は最善のものだったと思うよ。」
「あんなことがあった後でも、私はコースを短縮して山行を継続しました。そのとき私は初めて山を怖いと思ったんです。私が今ここで遭難して意識を失ったら、誰も助けに来ない。意識を失わなくても、携帯が圏外になる場所なんていくらでもある。特に昨日は平日だったので、入山している人がとても少なかったからかもしれません。今までにも単独で登山をしたことは何回もあったけれど、あんな気持ちになったのは初めてです。」
稜さんは大きく息をつく。先生は何も言わずに見守っていた。
「それに、私が誰かを傷つけてしまうことも怖くなった。落石を起こしたり、滑落に巻き込んだりする可能性もある。そうではなくても今回の私みたいに、ペースを上げたいという無言の圧力が原因になることもある。正直に言えば私、あのとき、早く先に行きたいと思っていた。標準的なタイムの六割を目標にしてたからだけど、そんなものは誰かを傷つけて達成する目標じゃない。」
傷だらけの腕の上に涙が落ちる。
「私は、まっきーやつるちゃんを傷つける可能性がある立場だということが、今はとても怖い。」
久住先生がそのとき静かに口を開いた。
「俺はな、両神。死亡事故の現場に居合わせたことがある。近くにいた人たちと一緒になって必死に救助したけれど、助からなかった。それ以来、山に登るときにはいつでも恐怖を感じるようになった。」
先生は、長机の稜さんの向かいにある椅子に腰を掛ける。
「きみたちを一番傷つける可能性が高いのは俺だ。それでも俺はきみたちが山に行きたいと思う気持ちの後押しをしたいと思い続けてきた。俺が山で見てきたものをきみたちにも見て欲しいから。それはもしかしたらその後の人生を大きく変えるかもしれないくらいのものだから。でも、景色を見に行くことのみが山に登ることではないって思いながら、ずっと、うまく言葉にできずにいた。恥ずかしながら、今年になって上市に言われて初めて気付いた。俺が伝えたいのは、ここに来たいと思う自由を持ち続けることの素晴らしさなんだ。」
先生はぼくを真っ直ぐに見て、再び稜さんに向けて話しかける。
「怖さを知っている人がそれでもそこに行きたいと思うことが、本当の自由なんだと思う。怖さを知っているから、危険を避けるために準備に準備を重ねる。怖さを知っているから、誰かと一緒に登っていることの尊さを感じることができる。」
ぼくは昨日のまっきーとの山行を思い出す。まっきーが隣にいることの安心感。一人では気付けないものに、二人なら気付けるはずだという確信めいたもの。
「こういう出来事をきっかけにして、山をやめてしまう人を俺は何人も見てきた。それは止められないし、ある意味合理的な判断であるとすら思う。両神がどうするかは、両神が決めるしかない。ただ一つ俺が言えることは、きみは俺が見てきた中でも最高に自由な精神の持ち主だということだけだ。」
稜さんの腕に涙がバタバタと落ちる。しばしの沈黙があった後、稜さんは腫れた目を隠そうともせずに顔を上げ、こう告げる。
「とりあえず、ランニングに行こう、まっきー、つるちゃん。」
ふつう、山行の翌日は疲労を考えてランニングや階段歩荷は行わない。ぼくとまっきーの昨日の行程は二十五kmを軽く超えていたため、脚にはかなり疲労が残っている状態だったが、稜さんのために何かしたいという気持ちでぼくはランニングに付き合うことに決めた。その気持ちはまっきーも同じようだった。
いつもの川沿いの道を、一kmあたり七分以上のペースでゆっくりゆっくり走る。稜さんが前で、ぼくとまっきーは後ろを何も言わずに走る。舗装の割れ目から草が生え、黄色い花を咲かせている。カタバミだろうか。稜さんはその花を踏まないように注意深く避ける。六月が間近に迫った川沿いの空気はたっぷり湿気をはらみ、三人とも汗をびっしょりかく。
「私は、登るのをやめない。今までと同じ気持ちではもう登れないかもしれないけれど。今日、私は選んでここに走りに来た。何度も見た景色の中を走りたいと思った。きっとこれからも、私は私の大好きな場所、私が大好きになれるはずの場所に行く自由を持ち続ける。なぜだか知らないけれど、私はそういうふうにできているみたいだ。」
稜さんはゆっくり手を広げ、湿った風を腕に受ける。長く、しなやかで、傷だらけの腕に汗が光っている。それはぼくが見た最も美しい腕だった。隣のまっきーはなぜか涙を拭いながら走っている。
夏はもうすぐそこにあった。
(第3章終わり)
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