港西高校山岳部物語

小里 雪

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第2章 一本取ったり、武器を忘れたり、キジを撃ったり、デポされかけたり。

12. ぼくは、少しだけ自由を手に入れたのかもしれない。

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「あっ、降って来たよ。」

 まっきーが空を見上げて言った。雪が降り始めていた。下では恐らく雨だということで、帰りは雨具をつけて行くことになった。

上市かみいち、スパッツは雨具の外側な。」

 言われてみればそうだ。潜ったときに雪が入り込まないことと、アイゼンに裾を引っかけないことが目的なので、いったんスパッツを外し、改めて雨具の外から着け直す。

 帰りがけに、あさひ先輩、りょうさん、まっきーの三人は五丈岩に登った。ぼくはさすがに足のことがあるため、自重し、旭先輩から預かったカメラで、下から三人の記念写真を撮った。

「やっぱり真っ白で何も見えなかったよー。」

 降りてきたまっきーがアイゼンを着けながら言う。

「でも、こういう山もいいよね。ここでの時間って、わたしがいてもいなくても勝手に流れてて、そこにちょっとだけ参加するために、えっちらおっちら苦労して登って来るのって、景色が見えなくても十分意味がある気がするよ。」

「なんとなく分かる気がする。ぼくはここと丹沢しか知らないけど、一度登った山でもまた行ってみたいと思うし、昨日瑞牆みずがきから見えた八ツやつなんアに行きたいと思うのは、あそこでどんな時間が流れてるか知りたいからなのかもな。」

「まあ、偉そうなこと言ってるけど、単純にわたしくたびれることが好きなのかも。くたびれればくたびれるほど、ここにいることが実感できるっていうか。なんか変態っぽいね。」

 まっきーは笑った。うん。まっきーはいろいろ変態っぽいよ。でも、自分のしたいことに素直になって、その意味をいつも考えて、そのために頑張っているまっきーは、本当に尊敬できるよ。そんなことを言いたかったけれど、なぜか言えずに、ぼくは「うん」とだけ言った。すぐそばに稜さんがいて、ゆうべ、稜さんに好きだと告げたことを思い出したせいかもしれない。

 歩きながら、なんだか、まっきーが変態であることを肯定したような返事になってしまったことに気付いてフォローしようと思ったが、まっきーが後ろで歌を歌い始め、そのチャンスを逸した。よく聞いたら、港西こうせいの校歌だった。笑いながら旭先輩と久住くじゅう先生が唱和し、稜さんとぼくも後に続く。

 ぼくたちは、はらはらと降り続く雪の中、校歌を歌いながら歩いていた。アイゼンが雪に刺さる音も、岩の上でヂャリヂャリ立てる音も、今はなんだか心地よく聞こえた。すれ違う人たちがちょっとびっくりして笑っている。今のぼくたちは外から見たら明らかに変な人たちだけど、今、この場所は、なんだか校歌を歌うのにふさわしい気がしていた。

 ぼくは、入学式の日に「山岳部に入りたい」と言ったときに、部活勧誘のほかの部の先輩たちが見せていた、「本気なのか?」というあきれ気味の表情を思い出していた。確かに、昼休みに超特急で部室で料理して食べたり、転がってるテントを追いかけたり、背負子に荷物をつけて階段を延々と上り下りしたりしているのを見れば、学校のほかの生徒にとって「変な部活」に思えるのは確かだろう。

 でも、ぼくたちは自由だった。まっきーも、稜さんも、先生も、旭先輩も、それぞれの意味でみんな自由で、自分のやりたいことを追いかけている。そして、一緒にいるみんなが、それぞれの自由を尊重し、支えている。まっきーが歌っているのは、きっと自由の歌なんだ。変態なんて思っちゃってごめんね、まっきー。

 いつの間にか目の前には樹林帯が見えてきた。この先は行きに難渋したズボズボ地帯だ。下りだと踏み出した足に体重がかかるので、さらに踏み抜きやすくなる。ぼくたちのほかにもかなりの数の登山者がいたため、残っている足跡の場所なら大丈夫だろうと思って油断していると、全くそんなことはなかった。少し慣れてきて、行きよりはかなり踏み抜きの回数は減ったものの、それでもはまり込むと抜け出すのに苦労する。左足がはまるたびに、またひねらないかとひやひやしたが、なんとか大丈夫なようだった。

 気温が高くなってきて、雪がみぞれ混じりになった。下りでも雪に潜りながら歩くのはかなりの労力を要し、汗で雨具の内側が湿ってくる。もうだいぶ前から、歌を歌う余裕はなくなっていた。

 雪が完全に雨に変わり、土の地面が見え始めたところで一本にしてアイゼンを外し、ピッケルを背中に差す。ここで最後に残っていたパンを食べ、水分も補給した。ズボズボ地獄からは解放されたが、地面も岩も滑りやすくなっているため、この先も緊張を強いられる。

 それでも、十三時ちょうどに富士見平まで帰ってくることができた。頂上を十時二十六分に出発したので、行きに四時間近くかかったところを二時間半だ。雨が強くなっていたため、デポしていたメインザックにサブザックを押し込んでザックカバーをかけると、すぐに出発。雨の中、重荷での下り坂でヒヤリとするシーンはあったが、十三時四十六分、瑞牆山荘に到着した。

 十四時二十分のバスまで、山荘の軒先を借りて待たせてもらう。

「まだ早いし、一時間後にもバスがあるから、途中の増富ますとみ温泉でお風呂に浸かって行こうか。」

という先生の提案で、温泉に寄ることになった。

 疲れた体で浸かる温泉は最高だったので、先生と旭先輩が出た後も、ぼくは粘って入っていた。ただ、お湯から出た後でまた湿った下着や服を着るのが不快だった。

 ちょっと悲しい気持ちでロビーに出ると、稜さんとまっきーの二人が、並んで腰に手を当てて牛乳を飲んでいた。しかもジャージに、お揃いの「港西山岳部」Tシャツだ。

「え、ジャージ……」

「あー、つるちゃんにも言っといてあげればよかったね。今回みたいに時間があるときはたいていお風呂に入って帰るから、着替え持ってくるといいよ。ジャージとTシャツなら軽いし。ってもう遅いか。」

 そうですね。行く前に聞きたかったです。



 ほどなくバスの時間になり、ぼくたちは韮崎にらさき駅に向かう。温泉で上気した頭で、ぼんやりと窓の外で雨に煙る山々を眺めながら、今回の山行で起こったいろいろな出来事を思い出していた。

 たくさん失敗をして、迷惑を掛けちゃったけど、これは自分がちゃんと山に登ることができるようになるために避けて通れなかった道なのかもしれない。今までの先輩方も同じような失敗を繰り返してきて、だからこそ独標どっぴょうにも失敗談が、笑い話になってたくさん載っているのかもしれない。

 瑞牆の山頂から見た八ヶ岳や南アルプスに行ってみたいという気持ちはすでに抑えられなくなっていた。祖父と関係ないところで、ぼくは次に登りたい山を見つけたのだ。ぼくは少しだけ自由になって、稜さんやまっきーのいる場所に近づけたような気がしていた。そして、みんなが大事に思っていることをぼくも大事にするために、ちゃんと山に登れるようになるために、明日からまた頑張って『山岳部の人』になろうと心に決めていた。

帰りは時間を気にする必要もないため、韮崎駅からは各駅停車に乗った。ボックスシートに座った稜さんはぼくを隣に呼ぶと、昨日の朝のバスと同じように、窓側の壁とぼくの体でがっちり自分の体を固定した。

「旭さんだと狭いし、まっきーは小さいし、先生にはこんなことできない。つるちゃんちょうどいいし。」

と言うと、隣の駅を待たずに寝てしまった。向かいの席のまっきーが、笑いながらぼくたちを見ている。

 洗い髪の香りにドキドキする気持ちと、温泉で暖まった後の心地よい眠気が拮抗していたが、やがて眠気の方が優勢になり、高尾駅の手前でまっきーに起こされるまで前後不覚に眠り込んだ。

 高尾の乗り換えのときにまっきーはぼくを捕まえて、小声でこう囁く。

「わたしも寝てたんだけど、気付いたらりょうさん、みーちによだれ垂らしててさ、わたしがティッシュで拭っても全然起きなかったよ。よかったね、みーち。おならとよだれでドラが二つ乗って満貫まんがんだよ。」

 ごめん、何を言ってるかさっぱり分からない。っていうか、何がよかったんだ。やっぱり変態かよまっきー。

 でも、家の近くでみんなと別れたあと、こっそり左肩のにおいを嗅いでいるぼくも人のことはまったく言えないことに気付き、これからは変態と言う代わりに『自由な精神を持つ』と言うことにしようと決心した。

 そう、ぼくは好きな人のよだれのにおいを嗅ぐ自由な精神を持っている。

(第2章終わり)
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