港西高校山岳部物語

小里 雪

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第2章 一本取ったり、武器を忘れたり、キジを撃ったり、デポされかけたり。

3. 部室に熊がいた。

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 翌火曜日、部活はなかったけれど、昨日買ってきたガスのカートリッジを持って行くついでの装備の点検をしようと思って、ぼくは部室に向かった。終わったらお茶を飲みながら宿題でもしよう。

「みーち、完全に山岳部にはまっちゃったな。さっき巻機まきはたさんも部室棟の方に行ったよ。」

と、クラスメートの大田原おおたわらが後ろから声を掛けてきた。まっきーがちょくちょくぼくのクラスにやってきて呼び出すので、クラスの中でも『みーち』が定着してしまったが、今ではぼくもこの呼ばれ方がちょっと気に入っている。りょう先輩から呼ばれるときの『つるちゃん』は、いまだに恥ずかしくなってしまうけれど。

「巻機さん、なんかかわいいよな。ジャージだけど。付き合ってる人とかいるのかなあ。」

 明るいし、頭もいいし、よく気が付くし、さりげなく優しいし、実は強いし。まっきーに人気があるのは分かる。ぼくも一緒にいてすごく楽しい。そう言えば稜先輩のことばかり見ていて、ぼくは今まであんまりまっきーを女の子として意識したことはなかった。

「先輩はすごい美人だし、山岳部いいよなあ。やってることはアレだけど。」

 大田原は昨日のテント飛ばし事件の一部始終を見ていたらしく、さっきまで大笑いされていたのだった。

 大田原たちの声を後ろに聞きながら、部室棟に向かう。と、そのとき、向こうから緑のジャージがどたどたと駆けてくる。言わずと知れたまっきーだ。

「どうしたの? まっきー。そんなに慌てて。」

「みーち! ごめん、わたし後でまた行く! 待ってて!」

 まっきーの顔が真っ赤だ。何か大変なことでも忘れていたのだろうか。そのまま走って校舎の方に行ってしまった。

 そしてぼくがいつもの通り部室に入ると、長机のところに熊が座っていた。



 いや、もちろん本物の熊がこんな場所にいるわけはない。身長はたぶん百八十㎝を軽く超えていて、肩幅も広く、もじゃもじゃの髪にうっすら髭まで生えた堂々たる体躯の男性がそこにいた。大学の赤本の問題を解いていたノートから目を上げ、目が合う。

「きみが上市かみいちくんか。初めまして。よく山岳部に入ってくれたね!」

 よく通る大きな声。

「おれ、旭北斗あさひほくと。山岳部の六年。今日は放課後講座が休みになったので久しぶりに来ちゃったよ。さっきはまっきーも来たんだけど、なんだか忘れ物したみたいでぴゅーってどっか行っちゃったな。」

「かっ、上市剱かみいちつるぎです。よろしくお願いします。」

「うん。先生やりょうから話は聞いてるよ。」

 先輩のことを『りょう』って呼ぶんだ。ひらがなかな? 漢字かな? 漢字ならどっちかな?

「ぼくも旭先輩のことはちょっとだけ話に聞いてました。テント破った話とか。」

「あー、そんなことも知ってるのか。アイゼン着けてテン場に帰って来たときに、つまづいて思いっきりテント踏んづけちゃったんだよな。雨具とスパッツも切れちゃうし、あのときは散々だった。」

と、大きな声で笑う。しかし不思議な人だ。体も、声も大きいのに、不思議に威圧感がない。ぼくでも普通に話せそうだった。

「稜先輩も前に山でテント転がしちゃったって言ってたし、結構皆さん失敗するんですね。」

「山岳部なんて失敗のオンパレードだよ。忘れ物したり、食べ物の量を間違えたり、装備全部ずぶ濡れになったり、水が全部凍っちゃって、カチカチのポリタンをずっと持って歩いたり。『独標どっぴょう』を見ればいろんな逸話が載ってただろ。」

 『独標』というのは、山岳部の部誌の名前だ。『独立標高点』という山中の地理標識の略語らしい。そう言えばいろんな笑い話も書いてあったな。

「ただ、重くてもバックアップできる装備を持っているし、何より久住くじゅう先生がいるから、多少の失敗があっても命に係わるようなことは今までなかったけどね。もちろん、失敗はしないように気を付けないといけないけど、失敗があっても大丈夫なように計画を立てることの方がずっと大切だとおれは思うよ。」

 稜先輩も同じようなことを言っていた。装備が重いことには意味がある。だから歩荷ボッカにも意味がある、と。そのとき、後ろで物音がする。

「あー、まっきー。急に走って行っちゃうからびっくりしたよ。」

 ぼくは振り向いて声を掛ける。なぜかまっきーはもじもじしている。

「お、お久しぶりです、旭先輩。勉強の調子はどうですか?」

 まっきーの声がいつもとちょっと違う。

「まっきーも久しぶり。相変わらず小さいね。大丈夫、三月の模試では結構いいところまで行ったよ。しかし、ジャージのまっきーを見ると部室に来たって気になるな。」

と、旭先輩はまた大きな声で笑う。

「そう言えば残雪期山行はどこに行くことになったの?」

「奥秩父の、瑞牆みずがき金峰きんぷです。」

「なに! それはいいなあ。瑞牆にはすごい岩場がたくさんあって、大学に入ったらぜひ登ろうと思ってるんだよな。いいなあ。おれも行こうかな。」

 まっきーの顔が輝く。声もいつもの調子に戻る。

「えー、来てくれるんですか?テントも四テンと二天だから、全然大丈夫ですよ! 食料計画なんてわたしがすぐに直しちゃいますから!」

 そうか。分かったよ、まっきー。そういうことか。ぼくも援護射撃をする。

「鍋を2番と3番にすれば大丈夫そうですね。」

「なんだかずっと勉強ばかりしていて気持ちが全く晴れないんだよな。久しぶりに山に行ったら気持ちいいだろうなあ。あああ、もうだめだ。山にいる自分しかもう思い浮かばなくなってきた。絶対山に行った方が効率もいいはずだ。今日帰ったら親を説得しなきゃ。」

「やったあ!」

 まっきーがぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。

「おー、りょう。おれも残雪期山行行くから、計画書変えといてくれよ!」

 ちょうど部室にやって来た稜先輩に声を掛ける。

「えー、旭さん来るの? 受験大丈夫なんですか?」

 来たばかりでいきさつを知らない稜先輩がびっくりしたように言う。でも、すぐにいつもの稜先輩に戻り、

「もちろん団装持ってもらいますからね。食当しょくとうもやってもらおうかな。」

と、ちょっと意地悪そうに笑いながら言うのだった。

「何でもやる。だから行かせてくれ。食当で思い出したけど、もしかしたら明日の食訓しょっくんはまっきー?」

「いえ、明日はぼくの当番です。」

「そうかあ。まっきーの回なら顔を出そうと思ったんだがな。」

 それはぼくに対して失礼だろ、と口には出さなかったが苦笑いした。まっきーがますます照れている。

「つるちゃんも上手ですよ。私よりずっと上手。」

「そりゃりょうと比較したらそうだろう。」

 旭先輩の逆襲。

「お米や食材もただじゃなくて、私たちでお金出してるんですからね。」

「部費はちゃんと払うよ。山に行くんだしね。明日のメニューは何?」

 最後はぼくに向けて言った。

「炊き込みご飯とポトフです。」

「相変わらずアナーキーなメニューでいいなあ。もう食料買っちゃった?」

「いえ、今日の帰りに買うつもりです。」

「なら、明日四人分お願いできるかな。」

「みーち、わたし手伝うよ。今日の帰りも買い物付き合う!」

 まっきーはまたぴょんぴょん跳ねている。



 そう。まっきーは、旭先輩のことが好きなんだ。
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