港西高校山岳部物語

小里 雪

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第2章 一本取ったり、武器を忘れたり、キジを撃ったり、デポされかけたり。

1. 月曜日の午後は時間がゆっくり流れる。

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 新人歓迎山行の翌々日の月曜日は、職員会議があるために授業は午前中のみだった。そのため、ぼくとまっきーが十kmのランニング、りょう先輩が階段歩荷という、いつものトレーニングをして帰ってきても、まだ三時にしかなっていなかった。

 まだ一昨日の山行のダメージが残っていて、体の節々が痛かったが、それでもぼくは、十kmが無理なく走れるようになっていた。

 そして、暇を持て余したぼくたち三人は、部室で例の4番鍋にお湯を沸かし、例のベコベコのアルミカップでお茶を飲んでいたのだった。稜先輩がザックの中でボロボロに折れてしまった非常食のエナジーバーを、お茶請けとして提供してくれた。

「そうそう、つるちゃん、一昨日の新歓山行の紀行文を書いといてね。部誌に載せるやつ。二~三千字くらい欲しいな。過去の部誌を参考にしていいから。」

 実は部活がない日にも、ぼくもまっきーもたいてい部室に来ていたから、数年分の部誌にはすでに目を通していた。まあ、五年生の放課後講座もまだ本格化していなかったので、稜先輩もだいたいはここにいて、天気図の書き方などを教わったりしていたのだが。

「細かいコースタイムとか、装備とか気象に関する技術的なことは私が書くから、つるちゃんは思ったことを素直に書いてくれればいいからね。」

 部誌には、当日の天気や、持参した装備や食料のことも記載されており、今後の山行の計画を立てる際の大きな目安になっていた。それと同時に、かなり砕けた調子で紀行文が書かれていて、おそらくその山行を共にしたメンバーにとって、かけがえのない思い出の記録になっているのだろう。そして、山で起こるかもしれないいろいろなことの一端が分かり始めたぼくにとって、その紀行文はどんな文章よりも生き生きとして見えて、過去の部誌を読むのが放課後の楽しみになっていた。

 ただ、部誌の中の技術的な部分で、気になることがあった。過去の山行で、持って行ったけど使わなかったものが非常に多いのだ。この機会に先輩に聞いてみることにした。

「そう言えば、一昨日の山行で持って行った団装だんそうは、何も使いませんでしたね。個装こそうのアイゼンも、雨具もヘッドランプも使わなかったし。」

「うん。私たちの装備は『最悪の一歩手前』くらいを見越して決めてるからね。一昨日、塔ノ岳にはたくさんの人が登っていたけど、あの中でツェルトを持っていたのは一割もいないと思う。アイゼンを持っていたのも、もっと簡易版のチェーンスパイクを含めて、それよりちょっと多い程度だと思う。まあ、雨具やヘッドランプはほとんどの人が持っていたと思うけどね。」

「部として山に登るときと、個人で山に登るときとで装備が変わってくるということですか?」

「そうだね。私が個人で一昨日のルートを登るのなら、ツェルトもアイゼンも持たない。救急セットや修理セットも必要最小限にするし、足元もアプローチシューズにする。その代わり、風雨が強かったりしたら山行は中止だし、行動中にそうなったらその時点で引き返したり、山小屋に避難したりすることになる。でも、昨日の私たちの装備なら、かなり悪条件でも山行を継続できるからね。」

「じゃあ、一昨日がもし雨でも、山には登っていたんですね。」

「そうだね。そういう歓迎の仕方もありだからね。」

 稜先輩はカラカラと笑う。

「縦走していると、悪条件でも先に進まないといけないことも多いからですよね。わたしはまだ、日帰りと一泊二日の山行しか経験がありませんけど。」

 隣にいたまっきーは、理由がだいたい分かっているようだった。

「そう。この先私たちが行く山では、一日で下山できない場所がたくさんあるからね。下山するためには山行を最後までやるしかないこともあるんだ。持っている食料とか、休日の日数を考えると、雨でも先に進まなきゃいけないことも多いんだよね。」

「『すべては縦走のために』ですね。」

と、まっきーが言った。『勇気ある撤退』と、『すべては縦走のために』が、港西こうせい山岳部の二大モットーだった。

「うん。その通り。縦走は、すぐには山を下りられない場所にいることも多いしね。」

「そう言えば、今度の山行は泊りなので、わたしとみーちはいろいろな個装を部室から借りなきゃいけませんね。」

 まっきーは一度泊りの山行を経験しているので、そのときのことを思い出したのだろう。

「そうだ。シュラフ、個人用マット、メインザック、スパッツ、コッフェル、場所によっては十二本爪アイゼン、ピッケルとオーバーグローブもいるなあ。」

 なんだかかなりすごい装備だ。しかも、名前を聞いてもよく分からないものもある。

「スパッツってピチピチのパンツじゃなくて、登山では、雪が入らないようにする脛巻きみたいなやつのこと。コッフェルはいつもお茶で使ってる個人用の食器ね。」

 まっきーが解説してくれた。

「分かりました。ピッケルも使うんですか。」

「うーん、場所によるなあ。今日このあと先生が来て、ミーティングで行先を決めるから、そのときにはっきりするよ。それまでに、まっきーとつるちゃんの個装を確かめておこうか。」

 稜先輩はまず、棚からシュラフをいくつか引っ張り出してきて、長机の上に乗せた。

「あ、くっさ、これ。こんなの使えないよ!」

 先輩が顔をしかめ、手に持ったシュラフを脇にどける。まっきーは別のものを手に取り、

「わたし秋はこれ使いました。そのあと洗濯もしたので、これ使いますね。」

と、しれっと一番状態がよさそうなものを持って行く。

「つるちゃんはこれだなあ。」

 先輩に渡されたシュラフは、最初のものほどではないけど、使い込まれて色褪せ、ところどころにパッチが当ててある。臭いもちょっとする。

「この山行が終わったら、最初のやつといっしょに洗っといてね。洗い方は教えるから。これも装備係の仕事。」

と、稜先輩が笑う。

「次はザックだね。まっきーの体に合うのはこれしかないから、これは決まり。」

 また一番状態がいい奴だ。

「つるちゃんは背が高いから、この大きいのにしよう。まあ、今回は一泊だからこんな大きくなくてもいいんだけど、この後の山行はたぶんずっとこれを使うことになるからね。」

 七十五Lの大きさだという赤いザック。赤と言うより、退色してピンクに近い色だったが。

「ほらほら、わたしこれ中に入れちゃうよ。みーち、私入れて背負ってってよ。」

 まっきーがザックの中に立って延長部を伸ばすと、脇の下くらいまでザックに入ってしまう。

「うわあ、それ究極の歩荷ボッカじゃん。っていうかぼくの荷物どうするの。」

「わたしまとめて背負ってあげるよ。」

「で、ぼくがさらにそれをまとめて全部背負うのか。」

 先輩とまっきーが声を揃えて笑う。

「マットとスパッツとコッフェルはどれでも大丈夫。状態がよさそうなのを選んで。そうだ、ピッケルも見ておこうか。つるちゃんちょっと手伝って。」

 稜先輩と二人で、別の棚からピッケルをたくさん持って来る。

「うん、大丈夫。ちゃんと研いであるし、錆も出てない。前の装備係が良かったからな。まっきーはこの短い奴だね。私はこっちのカーブしてるやつをいつも使ってる。つるちゃんはどれにする?」

「この木の柄のやつは使わない方がいいですか?」

「大丈夫。氷壁をやるわけじゃないから。ただ、ちょっと重いよ。」

「祖父が写真で持っていたのは、木の柄のピッケルでした。ちょっと使ってみたいです。」

「わかった。しばらく使ってないから、持って行くことになったら亜麻仁油あまにゆをシャフトに塗っておいてね。アイゼンは、また今度、練習するときに選ぼう。」

 山岳部の部室には、部費で買った装備や、卒業生が寄付したり置いて行ったりした装備がたくさん並んでいた。その中に、コーヒーの缶より一回り大きい古い缶があった。手にしてみるとずしりと重い。あちこち錆を吹き、例によってベコベコに凹んでいたが、赤と金色の缶には『PHOEBUS No.625』と書かれているようだった。

「あー、それ、ブス。」

 稜先輩が言う。

「食べると死んじゃうやつですか?」

 と、まっきーがおどける。

「狂言か。ホエーブス625っていう、ガソリンのストーブ。ホエーブスを略してブス。昔はガスコンロじゃなくこれを使ってたらしい。私も使ったことないんだけどね。」

 中を開けると、半球状の金色のタンクからバーナーと五徳が生えているようなコンロが入っていた。錆とガソリンの匂いが広がる。

 そこに、職員会議を終えた久住くじゅう先生がやって来て、リンゴを二つ、ゴトリと机の上に置きながら言った。

「おー、ブスじゃないか。久しぶりに見たな。今はガソリンを電車に持ち込めなくなっちゃったから、もう山では使わないんだけど、災害時に使えるようにまだ取ってあるんだよ。燃料もあるから、使い方教えようか。しばらく使ってないし、炎上するといけないから外でやろう。」

 ホワイトガソリンのボトルからファネルでブスのタンクに燃料を入れて、部室棟の北側に出る。稜先輩は、炎上と聞いてからちょっとびくびくしている。

「まず、予熱という作業がある。バーナーヘッドを熱してガソリンを気化させないと、ノズルから生ガソリンが出て炎上してしまうから、このくぼみに固形燃料かアルコールを入れて火をつけて、バーナーを熱する。その間にこのポンプを何回か押して、タンクの内圧を高める。予熱が足りなかったり圧が高すぎたりすると炎上するし、圧が低いと火がつかないので、何回か練習が必要だな。それでテントを燃やしちゃう事故も結構あったんだよ。」

 予熱用の固形燃料の火が尽きたあたりでコックを開き、ライターで火をつけると、ゴーっと大きな音を立てて青い火が上がった。南東からの風がかなり強く吹いていたが、力強い炎が消える様子はなかった。

「これだけで一・五kgくらいあるけど、故障も少ないし、どんなに寒くても火が付くし、信頼感だけは抜群だったな。最悪、自動車用のガソリンでも使えるしね。さあ、これでもう一杯お茶を入れてみよう。」

 山岳部の部室は居心地がよく、月水金の部活の日以外でも、ぼくが部室に行くと,
たいてい先輩かまっきーがすでにいて、勝手にお茶を沸かして飲みながら長机で勉強したりしていた。部誌に記されていた日常の一コマの中にも、そんな描写がたくさんあった。きっと、もう何十年も山岳部は、同じように続いてきたんだろう。

 耳には、風の音と野球部の掛け声とブスの轟音が入ってくる。ぼくはいま、ここにいる。ここじゃないどこかに行くために、いま、ここにいる。同じように山に行きたいと思っていた、卒業した先輩方と、部誌を通じて緩やかにつながっている気がして、ぼくの横に置いてあったブスの缶の凹みを手でなぞる。

 ブスがボフッボフッと音を立てて咳き込み、ずっと及び腰だった稜先輩が驚いて声を上げ、腰を引く。その珍しい光景を目にしてぼくたちは笑い、稜先輩も照れ笑いを浮かべた。

 風は強かったが、春の陽は柔らかだった。半日授業の月曜の午後は、ゆっくりゆっくり時間が流れていた。
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