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第1章 四月、横浜市の西のはずれ、丹沢の見える街で物語は始まる。
5. まっきー無双。
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四月六日の朝は、昨日より三十分早く登校した。昨日帰るときにまっきーから食訓の準備を手伝うように頼まれたのだった。この食訓と呼ばれる水曜日の恒例行事では、五十分間の昼休みの間に調理して食べ終わり、簡単な後片付けまで終えなければならない。そのためには、始業前にある程度準備しておくことがどうしても必要だった。
まっきーはすでに部室に来ていて、
「おはようみーち。早速、ご飯の用意をお願いできる?無洗米だから研がなくても大丈夫。無洗米は一七〇ccで一合換算だから注意してね。水はお米一合に対して二二〇cc。」
と、指示を出す。
お米は三合ということなので、部室に常備してある無洗米と、それに見合った量の水を計量カップで測り、『③』と書かれたアルミの三~四Lほどの鍋の中に入れた。この3番鍋は惨憺たる様相を呈しており、至る所が凹み、鍋底はいつのものか分からない焦げ付きだらけだった。
お米専用などではない計量カップが一つあるだけなので、ちょっとまごついてしまったが、その間にまっきーは見事な手さばきで、あっという間に部室の冷蔵庫にストックしてあった人参と持ってきた大根を薄く切り、ボウルに水と高野豆腐とともに入れて、米の入った3番鍋と一緒に机の上に置いた。
「みーち、ありがとう。あとは昼休みで大丈夫。」
山での食事は、米飯のほかは基本的に一品しか作らないので、この食訓もいつもそうしているのだという。来週は稜先輩、再来週はついにぼくが主体になってこの食訓を準備する回がやって来る。このくらいの下準備なら、まっきー一人でも全く問題なかったはずだが、ぼくに手順を知ってほしいという配慮だろう。
「最初はいつもの定番メニューを食べてもらおうと思って、今日は豚汁。この食訓から新しい定番が生まれることもあるんだよ。わたしが去年作ったポークストロガノフは、もうすでに定番なってる。」
「ビーフじゃないんだ。」
「生肉は長持ちしないから、代わりにブロックベーコンで作った。野菜も、日持ちのする人参、大根、ジャガイモ、玉ねぎ、キャベツがメイン。サワークリームなんかも無理だから、スキムミルクとマヨネーズで味付けしたので、ほぼビーフストロガノフの原形を留めてないけど。」
「聞いてるとなんだかおいしそうだね。缶詰とかは使わないの?」
「缶は重いから、短い日程のときだけね。じゃあ、四時間目終わったらダッシュで部室。また後で! ありがとう!」
そして、四時間目の終わりの起立・礼の挨拶が終わった瞬間に、ぼくは走り出して部室に向かった。教室が近いまっきーはすでに到着していて、挨拶もなく、この間使ったコンロをぼくに渡す。
「みーち、まずお米。3番鍋を火にかけて最大火力。鍋の真ん中に火が来るようにして。それから、コンロの安定が悪いから気を付けて!」
この間は使わなかった、ボンベの下に装着する三脚のような台がついていたが、それでも危うくひっくり返しそうになった。地面が平らでない野外で、数多くの悲劇が繰り返されただろうことを想像して胸が痛くなる。
まっきーはネットに入れてつるしてあった玉ねぎを取って来ると、またしてもあっという間に薄くスライスした。そして、『②』と書かれた、3番鍋と同じくらい汚く、もっと大きな鍋を取り出し、コンロに火をつけて油で炒め始めた。
2番鍋に使っているコンロは、本体とボンベをホースでつなぐ分離型で、重心が低く、大きな2番鍋を乗せても安心そうだ。
だんだん分かってきた。大事なのは「軽量化すること」と「時間を節約すること」なのだ。分離型のコンロは、安定しているけれど重い。3番鍋なら軽い一体型でも行ける。お米は、「カトウのごはん」とかなら、最悪そのままだって食べられるけど、現地で水を調達して生米を炊く方がずっと持ち歩く重量は減る。そして、お米を炊く時間がすべてを決める。前もって吸水させておいても、炊き上がりに二十分、蒸らしに五分。おかずはその間に作る。その間で勝負するために、人参や大根をあんなに薄く切ったのだ。
まっきーがボウルの水と野菜を2番鍋に入れて煮込みを始めると、やっと一息付けた。
「朝は、しょくとうが起きてから、テントを全部撤収して出発まで二時間で納めるの。だから、しょくとうが起きてから食事が終わるまでに一時間というのが目安。朝に簡単な準備をした上で、昼の五十分でやる食訓は、ちょうどいい練習になるんだよね。」
しょくとうは「食事当番」かな。昨日からの会話の中で、いろいろな用語がすでにたくさん出てきて、なんだか新鮮だ。
まっきーは、冷蔵庫から味噌の入ったビニール袋を取り出し、その中にある何かを、沸騰の始まった2番鍋の中に入れ始めた。
「それは何?」
「お肉を味噌の中に漬けてあるんだ。家で作って、今朝冷蔵庫に入れといた。こうしておくと夏でも涼しい山の上なら三日くらいは持つから。」
なるほど、肉を最初に炒めないのはそういうわけか。
「みーち、吹き始めた。火弱めて!」
言われたとおりにコンロのつまみをひねる。
「ふたを開けてみてもいいから、沸騰が継続するくらいの火加減にして。」
始めチョロチョロもないし、ふたも開けていいんだ。なんかいろいろ言い伝えと違う。
「炊き上がると水が全部お米に吸収されて、ぐつぐつ言わなくなるから、そのタイミングを逃さないでね。」
まっきーは残った味噌を残さずすべて溶き、水を少しずつ加えることで豚汁の味を調整していた。
「味噌の量はきちんと計算しておいて、必要な分より若干少ない量の水で煮込むんだ。そうすれば最後の調節で味噌が余ることも味が薄くて困ることもないでしょ。」
溶く味噌の量ではなく、あらかじめ決まった量の味噌で最適な味を作るための工夫。
「まっきー、沸騰が止んだみたいなんだけど。」
「分かった。ちょっと待って。」
まっきーはふたを何度か開け、湯気の匂いを確認している。
「よし、火を止めて。鍋でお米を炊くときは、少しだけお焦げができるくらいが一番おいしいの。さあ、これでご飯の蒸らしが終われば完成。あっ、先輩!あと五分だけ待ってくださいね。」
ちょうどそこに、稜先輩もやって来たところだった。
「まっきーの豚汁いいよね。つるちゃん、今日のやつをきちんと覚えてくれれば、これからつるちゃんの回も全部豚汁でいいよ。」
例のベコベコの食器を棚から出しながら先輩の言ったそんな言葉に、まっきーに対する先輩の信頼が見える。そんなふうに、稜先輩がぼくを信頼してくれる日が来るんだろうか。
午後の授業をつつがなく終え、放課後の部活の時間になった。お昼の豚汁は、普通においしかった。目が覚めるほどおいしかったのではない。もちろん、ホロホロと煮崩れる大きめの根菜がたくさん入った豚汁の方がうまいに決まっている。でも、限られた時間と限られた素材と限られた手法という制限の中で、これだけのものが食べられれば、満足以外の言葉はない。家の夕食にあの豚汁が並んだとしても、ぼくは文句を言うことは絶対にないし、そのレベルのものが山に入って三日目でも食べられるということのすごさは素人のぼくでもよくわかる。
ただ、米を炊いた3番鍋に湯を沸かしてお茶のティーバッグを入れ、ご飯粒をこそげ落とし、さらにそれを2番鍋に移して豚汁の滓を溶かしこみ、さらにさらにそれを三人の食器に分配して食器についた汚れを落とし、最後にぐいぐいと飲み干すという謎の儀式だけはどうしても抵抗があった。山での「後片付け」は、それをトイレットペーパーで拭き取るだけで終わりなのだという。さすがに今日は、さっきちゃんと洗剤で洗ってきたが。
「さあ、じゃあ走るよ。私たちは陸上部じゃないから、速く走ることが目的じゃない。最初の目標は、ゆっくりでもいいから二十kmを連続して走れるようになることね。三時間かかってもいいから。今日はまず十km。いつもは川沿いのサイクリングロードを走るんだけど、今日はいつヘバってもいいように、学校の外周ね。一周一・二kmちょいだから、八周ってことで。おしゃべりできるくらいの速さで、ゆっくり。」
ぼくは今まで、中学のマラソン大会の四km以上の距離を走ったことがなかったが、走り始めた稜先輩のペースは本当にゆっくりで、これなら何とかなりそうだと安心した。
「今日の食訓、まっきーすごかったなあ。家でもよく料理作るの?」
「うん。もちろん家でも練習してるよ。でも、ホント言うと、去年山岳部に入るまでは、全く料理なんかしなかったんだよね。練習を始めたのは入部した後。」
「それであれだけできるのはすごいよ。特に包丁さばきがすごい。」
「次の食料係はお前だって言われたからね。必死だった。」
「まあ、私には絶対食料係をやらせたくなかったらしい。」
と、振り向きながら稜先輩が鼻をかく。
「だけど、実は家で作るみたいな品数の多い料理は苦手。っていうか、ちょっと無理。空いている時間にほかの献立を作ってとかっていう複数の料理の手順の最適化みたいなものは、絶望的にできない。わたしの能力はご飯とその他1品をできるだけ手早く、制限の中で最大限においしく作ることに特化されているの。」
「実はぼく、結構料理するんだよ。両親からこのくらいできるようにならなきゃって躾けられた。でも、今日手伝ってみて、山でできる自信はなくなっちゃったよ。」
「えー、意外ー。みーち料理できるんだ。普通の人にとっては、きっとみーちの方が『料理ができる人』だよ。弟なんてわたしが料理作る日は露骨に嫌な顔するもん。品数が少ないって。ただ、みんな、ご飯だけはわたしがお鍋で炊いたやつの方がおいしいって言ってくれるな。」
ここにいる人はみんな普通の人じゃないのか。
「私は家でも山でもダメだからなあ。そりゃおいしい方がいいけど、エネルギーが摂れればまあいいやとか思っちゃう。」
「ふふふ、来週のりょう先輩の食訓、楽しみです。」
今日の調理のとき、まっきーの指示は的確で、すべての行動には意味があった。台風みたいな態度の奥にある彼女の知性のきらめきと、任された責任を果たすために努力してきた時間のことを思う。半年早く入部していたとは言え、隣を走るまっきーとの差を見せつけられ、ぼくには何もできない気がして意気消沈してきてしまった。
しかも、まだ半分も走っていないのに足が上がらなくなってきたのだった。呼吸はまだ大丈夫なのに。
まっきーはすでに部室に来ていて、
「おはようみーち。早速、ご飯の用意をお願いできる?無洗米だから研がなくても大丈夫。無洗米は一七〇ccで一合換算だから注意してね。水はお米一合に対して二二〇cc。」
と、指示を出す。
お米は三合ということなので、部室に常備してある無洗米と、それに見合った量の水を計量カップで測り、『③』と書かれたアルミの三~四Lほどの鍋の中に入れた。この3番鍋は惨憺たる様相を呈しており、至る所が凹み、鍋底はいつのものか分からない焦げ付きだらけだった。
お米専用などではない計量カップが一つあるだけなので、ちょっとまごついてしまったが、その間にまっきーは見事な手さばきで、あっという間に部室の冷蔵庫にストックしてあった人参と持ってきた大根を薄く切り、ボウルに水と高野豆腐とともに入れて、米の入った3番鍋と一緒に机の上に置いた。
「みーち、ありがとう。あとは昼休みで大丈夫。」
山での食事は、米飯のほかは基本的に一品しか作らないので、この食訓もいつもそうしているのだという。来週は稜先輩、再来週はついにぼくが主体になってこの食訓を準備する回がやって来る。このくらいの下準備なら、まっきー一人でも全く問題なかったはずだが、ぼくに手順を知ってほしいという配慮だろう。
「最初はいつもの定番メニューを食べてもらおうと思って、今日は豚汁。この食訓から新しい定番が生まれることもあるんだよ。わたしが去年作ったポークストロガノフは、もうすでに定番なってる。」
「ビーフじゃないんだ。」
「生肉は長持ちしないから、代わりにブロックベーコンで作った。野菜も、日持ちのする人参、大根、ジャガイモ、玉ねぎ、キャベツがメイン。サワークリームなんかも無理だから、スキムミルクとマヨネーズで味付けしたので、ほぼビーフストロガノフの原形を留めてないけど。」
「聞いてるとなんだかおいしそうだね。缶詰とかは使わないの?」
「缶は重いから、短い日程のときだけね。じゃあ、四時間目終わったらダッシュで部室。また後で! ありがとう!」
そして、四時間目の終わりの起立・礼の挨拶が終わった瞬間に、ぼくは走り出して部室に向かった。教室が近いまっきーはすでに到着していて、挨拶もなく、この間使ったコンロをぼくに渡す。
「みーち、まずお米。3番鍋を火にかけて最大火力。鍋の真ん中に火が来るようにして。それから、コンロの安定が悪いから気を付けて!」
この間は使わなかった、ボンベの下に装着する三脚のような台がついていたが、それでも危うくひっくり返しそうになった。地面が平らでない野外で、数多くの悲劇が繰り返されただろうことを想像して胸が痛くなる。
まっきーはネットに入れてつるしてあった玉ねぎを取って来ると、またしてもあっという間に薄くスライスした。そして、『②』と書かれた、3番鍋と同じくらい汚く、もっと大きな鍋を取り出し、コンロに火をつけて油で炒め始めた。
2番鍋に使っているコンロは、本体とボンベをホースでつなぐ分離型で、重心が低く、大きな2番鍋を乗せても安心そうだ。
だんだん分かってきた。大事なのは「軽量化すること」と「時間を節約すること」なのだ。分離型のコンロは、安定しているけれど重い。3番鍋なら軽い一体型でも行ける。お米は、「カトウのごはん」とかなら、最悪そのままだって食べられるけど、現地で水を調達して生米を炊く方がずっと持ち歩く重量は減る。そして、お米を炊く時間がすべてを決める。前もって吸水させておいても、炊き上がりに二十分、蒸らしに五分。おかずはその間に作る。その間で勝負するために、人参や大根をあんなに薄く切ったのだ。
まっきーがボウルの水と野菜を2番鍋に入れて煮込みを始めると、やっと一息付けた。
「朝は、しょくとうが起きてから、テントを全部撤収して出発まで二時間で納めるの。だから、しょくとうが起きてから食事が終わるまでに一時間というのが目安。朝に簡単な準備をした上で、昼の五十分でやる食訓は、ちょうどいい練習になるんだよね。」
しょくとうは「食事当番」かな。昨日からの会話の中で、いろいろな用語がすでにたくさん出てきて、なんだか新鮮だ。
まっきーは、冷蔵庫から味噌の入ったビニール袋を取り出し、その中にある何かを、沸騰の始まった2番鍋の中に入れ始めた。
「それは何?」
「お肉を味噌の中に漬けてあるんだ。家で作って、今朝冷蔵庫に入れといた。こうしておくと夏でも涼しい山の上なら三日くらいは持つから。」
なるほど、肉を最初に炒めないのはそういうわけか。
「みーち、吹き始めた。火弱めて!」
言われたとおりにコンロのつまみをひねる。
「ふたを開けてみてもいいから、沸騰が継続するくらいの火加減にして。」
始めチョロチョロもないし、ふたも開けていいんだ。なんかいろいろ言い伝えと違う。
「炊き上がると水が全部お米に吸収されて、ぐつぐつ言わなくなるから、そのタイミングを逃さないでね。」
まっきーは残った味噌を残さずすべて溶き、水を少しずつ加えることで豚汁の味を調整していた。
「味噌の量はきちんと計算しておいて、必要な分より若干少ない量の水で煮込むんだ。そうすれば最後の調節で味噌が余ることも味が薄くて困ることもないでしょ。」
溶く味噌の量ではなく、あらかじめ決まった量の味噌で最適な味を作るための工夫。
「まっきー、沸騰が止んだみたいなんだけど。」
「分かった。ちょっと待って。」
まっきーはふたを何度か開け、湯気の匂いを確認している。
「よし、火を止めて。鍋でお米を炊くときは、少しだけお焦げができるくらいが一番おいしいの。さあ、これでご飯の蒸らしが終われば完成。あっ、先輩!あと五分だけ待ってくださいね。」
ちょうどそこに、稜先輩もやって来たところだった。
「まっきーの豚汁いいよね。つるちゃん、今日のやつをきちんと覚えてくれれば、これからつるちゃんの回も全部豚汁でいいよ。」
例のベコベコの食器を棚から出しながら先輩の言ったそんな言葉に、まっきーに対する先輩の信頼が見える。そんなふうに、稜先輩がぼくを信頼してくれる日が来るんだろうか。
午後の授業をつつがなく終え、放課後の部活の時間になった。お昼の豚汁は、普通においしかった。目が覚めるほどおいしかったのではない。もちろん、ホロホロと煮崩れる大きめの根菜がたくさん入った豚汁の方がうまいに決まっている。でも、限られた時間と限られた素材と限られた手法という制限の中で、これだけのものが食べられれば、満足以外の言葉はない。家の夕食にあの豚汁が並んだとしても、ぼくは文句を言うことは絶対にないし、そのレベルのものが山に入って三日目でも食べられるということのすごさは素人のぼくでもよくわかる。
ただ、米を炊いた3番鍋に湯を沸かしてお茶のティーバッグを入れ、ご飯粒をこそげ落とし、さらにそれを2番鍋に移して豚汁の滓を溶かしこみ、さらにさらにそれを三人の食器に分配して食器についた汚れを落とし、最後にぐいぐいと飲み干すという謎の儀式だけはどうしても抵抗があった。山での「後片付け」は、それをトイレットペーパーで拭き取るだけで終わりなのだという。さすがに今日は、さっきちゃんと洗剤で洗ってきたが。
「さあ、じゃあ走るよ。私たちは陸上部じゃないから、速く走ることが目的じゃない。最初の目標は、ゆっくりでもいいから二十kmを連続して走れるようになることね。三時間かかってもいいから。今日はまず十km。いつもは川沿いのサイクリングロードを走るんだけど、今日はいつヘバってもいいように、学校の外周ね。一周一・二kmちょいだから、八周ってことで。おしゃべりできるくらいの速さで、ゆっくり。」
ぼくは今まで、中学のマラソン大会の四km以上の距離を走ったことがなかったが、走り始めた稜先輩のペースは本当にゆっくりで、これなら何とかなりそうだと安心した。
「今日の食訓、まっきーすごかったなあ。家でもよく料理作るの?」
「うん。もちろん家でも練習してるよ。でも、ホント言うと、去年山岳部に入るまでは、全く料理なんかしなかったんだよね。練習を始めたのは入部した後。」
「それであれだけできるのはすごいよ。特に包丁さばきがすごい。」
「次の食料係はお前だって言われたからね。必死だった。」
「まあ、私には絶対食料係をやらせたくなかったらしい。」
と、振り向きながら稜先輩が鼻をかく。
「だけど、実は家で作るみたいな品数の多い料理は苦手。っていうか、ちょっと無理。空いている時間にほかの献立を作ってとかっていう複数の料理の手順の最適化みたいなものは、絶望的にできない。わたしの能力はご飯とその他1品をできるだけ手早く、制限の中で最大限においしく作ることに特化されているの。」
「実はぼく、結構料理するんだよ。両親からこのくらいできるようにならなきゃって躾けられた。でも、今日手伝ってみて、山でできる自信はなくなっちゃったよ。」
「えー、意外ー。みーち料理できるんだ。普通の人にとっては、きっとみーちの方が『料理ができる人』だよ。弟なんてわたしが料理作る日は露骨に嫌な顔するもん。品数が少ないって。ただ、みんな、ご飯だけはわたしがお鍋で炊いたやつの方がおいしいって言ってくれるな。」
ここにいる人はみんな普通の人じゃないのか。
「私は家でも山でもダメだからなあ。そりゃおいしい方がいいけど、エネルギーが摂れればまあいいやとか思っちゃう。」
「ふふふ、来週のりょう先輩の食訓、楽しみです。」
今日の調理のとき、まっきーの指示は的確で、すべての行動には意味があった。台風みたいな態度の奥にある彼女の知性のきらめきと、任された責任を果たすために努力してきた時間のことを思う。半年早く入部していたとは言え、隣を走るまっきーとの差を見せつけられ、ぼくには何もできない気がして意気消沈してきてしまった。
しかも、まだ半分も走っていないのに足が上がらなくなってきたのだった。呼吸はまだ大丈夫なのに。
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