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点鬼簿と恬淡たる花 1
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「本当にいいの?」
東京駅からタクシーで揺られて三十分。東雲家本宅に到着した。都内の閑静な住宅地にある三百坪ほどの土地に、厳重に鎖ざして静まり返る門がそびえ立つ。重厚感と犯しがたい荘厳さを表現した大屋根は陽射しを反射して光り、「本家」としての誇りを強くもった風格の佇まいにごくりと裕は生唾を飲みこんだ。
「いいんです。太郎と決めましたから」
「そうか。なら、いいんだ。『逆境の中で咲く花はどの花よりも貴重で美しい』っていうからね。ああ、これはディズニーの言葉かな」
森は柔らかな微笑みを浮かべ、前を歩いている裕にちらりと視線を流す。
東雲家。雅也の実家。貫禄ある石積み階段の一段目を踏む。
「太郎くん心配してるんじゃない?」
「まさか」
といっても、さっきまで携帯が鳴り続けて、子供の様子を写真つきで送ってきては心配する太郎を森は知っている。
あの夜、裕がピルを飲んだのを見届けると、太郎は洗い物を終えた手を拭って上着を手にして帰ろうとした。
『……とまってくれ』
『え?』
『一緒にいたい。だめか?』
心なしか声が震えて、裕は太郎の逞しく伸びた腕をむずとつかんだ。
『え、いや、でも……』
『おまえといたい』
裕は影のようにゆっくりと太郎に近づく。贅肉のない均斉のとれた体を抱き締めて、太郎の匂いを嗅いだ。
初めて雅也以外に甘えている。石鹸の香りを漂わせて、すりよって太郎の鎖骨に鼻をあてると緩んだ気持ちがひろがっていく。落ち着く。一枚戸の向こうには子供たちが寝息を立てている。それでも離れたくなかった。
『て、手を繋いで寝ましょう……』
太郎はしばし思念をこらして渋った顔をしたが、裕の顔をみて観念したように声を潜めて呟いた。手をつないで、コロコロと転がる子供たちの横でうつらうつらと二人で眠った。窓の外が明るくなり、太郎の腕の中で気持ちよさそうに眠りこけている自分に気づいて、さっぱりとした気持ちで目が覚める。
『……たろ』
気もちよさげに寝ている太郎の柔らかな唇をそっと指でなぞった。太郎は幸せそうな顔で眠って気づかない。
平凡な幸せに憧れて、生活を守ることに汲々と生きてきた。仕事に家族、それだけでいっぱいな自分がいた。澄みきった朝の空気のなか、青い鳥でも手に入れたような気分で裕は朝を迎える。
好き、なのか、気持ちはまだはっきりとみえない。それでもそばにいて欲しい。離したくない。いや、離れたくない。子供じみた我儘なのはわかっている。
……太郎が許してくれるなら、そばにいたい
「それで、ずっと寝食を共にしてるのか。太郎くん、暴走しちゃうんじゃない?」
「全て終わってから、と太郎と決めたんです」
「へぇ、今時しっかりしているな。それにしても僕が当て馬か」
「……あの時は、本当にすみませんでした」
裕は振り向いて下の石段にいる森へ頭を下げた。首を横に振って、森の眉が八の字になった。
「違う、ちがう。謝るのは僕のほうだよ。きみと太郎くんに頭があがらない。本当に申し訳ないことをした。謝ってもきりがない。ごめん」
森は頭を深々と下げた。黒のスーツに身を包む裕に対し、ブルーでまとめられたスーツは真面目さと清潔感が漂い、光沢がかった濃紺色のネクタイが垂れ下がる。
「いや、俺がわるいので……」
「いやいや、僕が悪い。項だって傷がひどいはずだ。どう考えても僕は加害者なんだ。いまからでも被害届をだしたってかまわない。僕は君を傷つけたんだ、それはどうしたってかわらない」
あまりにも申し訳なさそうな光を目に浮かべ体を起こそうとしない森の様子に、裕は諦めたように視線を落とした。
「あれは事故ですよ。森さん、忘れましょう」
「でも……」
「どうしてもというなら、その分、請求書からひいてください。でも、まあ、森さんは若い頃ならドツボでしたけどね」
「え、そうなの?」
「冗談ですよ」
「まいったな、ちょっと嬉しい自分がいたよ」
森は体を起こすと、おどけた仕草で肩をすくめ、少年のような明るい微笑を浮かべた。
「さ、森さん気を取り直してがんばりましょう」
「そうだね、仕事の時間だ。頑張らせてもらうかな」
森は腕を振り上げ、弓なりにのけぞると体を戻して、長い指先でインターホンを押した。朝八時発の新幹線に飛び乗って、東京まで四時間座りっぱなしでやってきた。森も自分も書類を突合して確認しながら、それしか会話を交わさなかった。女中らしき女の声がして観音開きに正面の門がひらく。
◆◆◆◆
通されたのは和室造りの貴賓室だった。大きな桜の木がある庭園とその隣に竹林がみえる。二百平米の室内には、折り上げ格天井をはじめ、組子・千本格子の欄間などそこかしこに、こだわりの心がかよっていた。
古い記憶を刻むような、静寂に包まれたおだやかで優雅な時間が流れる部屋で、はりつめた緊張だけが募っていた。一枚板を漆塗りで仕上げられた漆黒色のテーブル、座椅子の上には朱色の座布団が敷かれ、一同は黙りこくって口をつぐんでいた。
向かい側に東雲雅子、長男の英一、そして壁側の隅に百合子が足を崩して座っていた。ネイビーのフレアワンピースを着た百合子へ視線を投げると、やはりふっくらとした部分が目についた。俯きながらも口の端は緩んでいる。隣に座っている英一に目をやると雅也のような華やかさはなく、銀縁の眼鏡の奥は冷たく、ピンストライプ柄の落ち着いたスーツを着込んで無表情で腰かけている。
裕が頭を下げると、雅子は欠伸を噛み殺して好奇の色を浮かべた細い視線を送った。だれもかもが口を閉ざして、しいんと静まり返る。裕は森とともに膝を折り曲げて正座し、膨らんだ臙脂色の紙袋をそばに置いた。
「この度は突然のことで、心よりお悔やみ申し上げます。また、お忙しいところ、わざわざお集まりいただき、お手間をおかけして申し訳ございません。そちらにいる百合子さんから東雲裕さんへ遺産分割についての申し出がございまして、恐縮ながらご主人である雅也さんのご実家にと場所をお願い致しました」
森は英一へちらりと視線を流し、口許に柔和な笑みを浮かべた。すると、雅子が赤い唇をゆがませて、顔を森と裕にむけた。
東京駅からタクシーで揺られて三十分。東雲家本宅に到着した。都内の閑静な住宅地にある三百坪ほどの土地に、厳重に鎖ざして静まり返る門がそびえ立つ。重厚感と犯しがたい荘厳さを表現した大屋根は陽射しを反射して光り、「本家」としての誇りを強くもった風格の佇まいにごくりと裕は生唾を飲みこんだ。
「いいんです。太郎と決めましたから」
「そうか。なら、いいんだ。『逆境の中で咲く花はどの花よりも貴重で美しい』っていうからね。ああ、これはディズニーの言葉かな」
森は柔らかな微笑みを浮かべ、前を歩いている裕にちらりと視線を流す。
東雲家。雅也の実家。貫禄ある石積み階段の一段目を踏む。
「太郎くん心配してるんじゃない?」
「まさか」
といっても、さっきまで携帯が鳴り続けて、子供の様子を写真つきで送ってきては心配する太郎を森は知っている。
あの夜、裕がピルを飲んだのを見届けると、太郎は洗い物を終えた手を拭って上着を手にして帰ろうとした。
『……とまってくれ』
『え?』
『一緒にいたい。だめか?』
心なしか声が震えて、裕は太郎の逞しく伸びた腕をむずとつかんだ。
『え、いや、でも……』
『おまえといたい』
裕は影のようにゆっくりと太郎に近づく。贅肉のない均斉のとれた体を抱き締めて、太郎の匂いを嗅いだ。
初めて雅也以外に甘えている。石鹸の香りを漂わせて、すりよって太郎の鎖骨に鼻をあてると緩んだ気持ちがひろがっていく。落ち着く。一枚戸の向こうには子供たちが寝息を立てている。それでも離れたくなかった。
『て、手を繋いで寝ましょう……』
太郎はしばし思念をこらして渋った顔をしたが、裕の顔をみて観念したように声を潜めて呟いた。手をつないで、コロコロと転がる子供たちの横でうつらうつらと二人で眠った。窓の外が明るくなり、太郎の腕の中で気持ちよさそうに眠りこけている自分に気づいて、さっぱりとした気持ちで目が覚める。
『……たろ』
気もちよさげに寝ている太郎の柔らかな唇をそっと指でなぞった。太郎は幸せそうな顔で眠って気づかない。
平凡な幸せに憧れて、生活を守ることに汲々と生きてきた。仕事に家族、それだけでいっぱいな自分がいた。澄みきった朝の空気のなか、青い鳥でも手に入れたような気分で裕は朝を迎える。
好き、なのか、気持ちはまだはっきりとみえない。それでもそばにいて欲しい。離したくない。いや、離れたくない。子供じみた我儘なのはわかっている。
……太郎が許してくれるなら、そばにいたい
「それで、ずっと寝食を共にしてるのか。太郎くん、暴走しちゃうんじゃない?」
「全て終わってから、と太郎と決めたんです」
「へぇ、今時しっかりしているな。それにしても僕が当て馬か」
「……あの時は、本当にすみませんでした」
裕は振り向いて下の石段にいる森へ頭を下げた。首を横に振って、森の眉が八の字になった。
「違う、ちがう。謝るのは僕のほうだよ。きみと太郎くんに頭があがらない。本当に申し訳ないことをした。謝ってもきりがない。ごめん」
森は頭を深々と下げた。黒のスーツに身を包む裕に対し、ブルーでまとめられたスーツは真面目さと清潔感が漂い、光沢がかった濃紺色のネクタイが垂れ下がる。
「いや、俺がわるいので……」
「いやいや、僕が悪い。項だって傷がひどいはずだ。どう考えても僕は加害者なんだ。いまからでも被害届をだしたってかまわない。僕は君を傷つけたんだ、それはどうしたってかわらない」
あまりにも申し訳なさそうな光を目に浮かべ体を起こそうとしない森の様子に、裕は諦めたように視線を落とした。
「あれは事故ですよ。森さん、忘れましょう」
「でも……」
「どうしてもというなら、その分、請求書からひいてください。でも、まあ、森さんは若い頃ならドツボでしたけどね」
「え、そうなの?」
「冗談ですよ」
「まいったな、ちょっと嬉しい自分がいたよ」
森は体を起こすと、おどけた仕草で肩をすくめ、少年のような明るい微笑を浮かべた。
「さ、森さん気を取り直してがんばりましょう」
「そうだね、仕事の時間だ。頑張らせてもらうかな」
森は腕を振り上げ、弓なりにのけぞると体を戻して、長い指先でインターホンを押した。朝八時発の新幹線に飛び乗って、東京まで四時間座りっぱなしでやってきた。森も自分も書類を突合して確認しながら、それしか会話を交わさなかった。女中らしき女の声がして観音開きに正面の門がひらく。
◆◆◆◆
通されたのは和室造りの貴賓室だった。大きな桜の木がある庭園とその隣に竹林がみえる。二百平米の室内には、折り上げ格天井をはじめ、組子・千本格子の欄間などそこかしこに、こだわりの心がかよっていた。
古い記憶を刻むような、静寂に包まれたおだやかで優雅な時間が流れる部屋で、はりつめた緊張だけが募っていた。一枚板を漆塗りで仕上げられた漆黒色のテーブル、座椅子の上には朱色の座布団が敷かれ、一同は黙りこくって口をつぐんでいた。
向かい側に東雲雅子、長男の英一、そして壁側の隅に百合子が足を崩して座っていた。ネイビーのフレアワンピースを着た百合子へ視線を投げると、やはりふっくらとした部分が目についた。俯きながらも口の端は緩んでいる。隣に座っている英一に目をやると雅也のような華やかさはなく、銀縁の眼鏡の奥は冷たく、ピンストライプ柄の落ち着いたスーツを着込んで無表情で腰かけている。
裕が頭を下げると、雅子は欠伸を噛み殺して好奇の色を浮かべた細い視線を送った。だれもかもが口を閉ざして、しいんと静まり返る。裕は森とともに膝を折り曲げて正座し、膨らんだ臙脂色の紙袋をそばに置いた。
「この度は突然のことで、心よりお悔やみ申し上げます。また、お忙しいところ、わざわざお集まりいただき、お手間をおかけして申し訳ございません。そちらにいる百合子さんから東雲裕さんへ遺産分割についての申し出がございまして、恐縮ながらご主人である雅也さんのご実家にと場所をお願い致しました」
森は英一へちらりと視線を流し、口許に柔和な笑みを浮かべた。すると、雅子が赤い唇をゆがませて、顔を森と裕にむけた。
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