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赤提灯と暁

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「裕さんお疲れ様です。僕、もう帰りますね」

 すやすやと眠る天使の寝顔をほれぼれと眺めていると、はにかんだような笑顔を向けて、太郎は椅子に引っかけた上着を手にする。
 風呂から読み聞かせ、それから寝かしつけが終わり、窓の外は夜色に包まれていた。瑠璃色に満ちた夜空は高々と冴えて、欠けた月が輝いて見える。

 森の事務所から保育園に寄って、子供達をピックアップして帰宅すると、太郎は渡した合鍵を使って、すでに特大ステーキを焼いていた。
 よく焼いた肉は食べやすいように刻んで、プチトマトにカボチャ、それにヨーグルトで和えた白菜のコールスローも添えて皿に盛りつけられていた。千秋も珍しく野菜を食べて、物珍しい自分の顔にはしゃいで笑い合う。ちゃんと座って食べる楽しい団欒。裕は久しぶりに自分も家族も笑っている顔を目にして気分が浮き立った。

 太郎が帰ろうとして、裕は声を潜めて引きとめた。

「太郎、あのさ、えっと、少し飲まないか?」

 照れたような笑いを浮かべ、買ってきた赤ワインのボトルを見せる。最寄り駅で目に止まり、つい買ってしまった。いや、税理士や森を紹介してくれたお礼にと太郎と一緒に飲みたくなった。

「いいんですか!? あの、だって……」
「明日は休みだし、少しだけな。用事があるなら、これ貰ってくれ。森さんを紹介してくれたお礼なんだ」
「いやいやいや、飲みます! つまみが必要なら持ってきます!」

 太郎は嬉しそうに声を弾ませて、ぶんぶんと首を振って否定の意を示す。

 そんなに喜ばなくても。なんか、かわい……。はっ! ちがう!

「……つまみはいいよ。肉で腹はいっぱいだし。美味かった。ありがとう」
「裕さんのためなら何でも作ります!」

 鼻先で笑い飛ばして、裕はすたすたとキッチンに足を運ぶ。腰ぐらいまでの食器棚に掛けられたドアロックを外し、グラスを二つ取り出した。一歳の千秋が棚から食器を漁って出すので、開けれないようにしたが、何度もロックを破壊され、いたちごっこのような戦争を繰り返している。
 ソムリエナイフでコルク栓をぽんと抜くと、果実香と樽香がバランスよく調和された芳醇な香りが漂う。手にしたのは、樽で熟成された飲みごたえのあるミディアムボディとでかでかと棚札に書かれていた一本だ。

「そういえば、今日はオメガの女性が母子手帳を取りに来ました。父親がいないのに、一人で産むんですって」
「ふーん、そうか。逞しいな」
「ご主人が亡くなったと聞いて、細かな手続きなど案内しながら、裕さんの顔が浮かびました」

 太郎は定位置と化した椅子に腰を落ち着け、物問いたげな視線を投げた。裕は透明なグラスにとくとくと濃厚な赤紫色の液体をそそぐ。

「おれ?」
「ええ、裕さん、一生懸命、頑張ってるから」
「まあ、そうだな。でも、太郎がいて助かってる。感謝してるよ」
「本当ですか!? 嬉しいです。乾杯しましょ。裕さん、ワインなんて飲むんですね」
「いや、雅也がよく飲んでたからさ。なんとなく……」

 しまった。つい、赤ワインを選んでしまった自分に遅まきながら気づく。ボトルを買って、よく二人で飲んでいた記憶が染みついていた。あの頃は千円のボトルすら高価に感じられ、たまに買ってきては二人で楽しく飲んだ。

「ご主人、好きそうですもんね。棺に入れていた楽譜でそう思いました。僕と全然違うな」
 太郎は頭をぽりぽりとかくと、寂しげに口許を緩めた。
 雅也は音楽が好きだった。四歳からバイオリンを習い続けて、夜中に楽譜みては音無しで弾いていた。子供がいない頃はコンサートにも足を運んで一緒に鑑賞もした。
 裕はグラスを並べて置くと、太郎の向かい側に腰を下ろした。

「……おまえはなに飲むの?」
「僕は海外のビールですね。バドワイザー、ハイネケンを瓶で飲むのが好きです」
「ふは、なんかフジロックとか似合いそうだもんな」
「よく行ってました! フェスは大好きです!」

 背が高く、逞しい身体をしている太郎はなんとなく大自然が似合いそうだった。学生の時、バレーボールをしていたと聞いたが、すぐに想像がついた。

「はは、なんかそういうところ、森さんに似ているな」

 笑った顔つきが森と似ていて、裕は昼間の出来事を思い出した。軽く乾杯して、グラスを口にもっていくと、すっきりとした酸味と新鮮な果実の味わいが口内に広がった。

「おじさんどうでした? ちゃんと相談乗ってくれました?」
「ああ。頼んでくれたんだってな。ありがとう。親身に話を聞いてくれて、へんな名言なんか話して、ちょっと面白かった。なんだっけ、ああ、もう忘れたわ。あはは」

 久しぶりのアルコールのせいか、気分が気もちよく解放される。森の軽快な口調と穏やかな顔が頭に浮かんだ。

「それ、趣味なんです。会う度に言ってます」
「へぇ、面白いな。しっかりして、性格も申し分ない。素敵な人だな。紹介してくれてありがとう」

 グラスを傾けて、赤い液体を喉へ流し込んだ。酔いが回って、晴れ晴れと気分がいい。後ろでは、すうすうと快げな寝息が聞こえる。

「あ……」
「どうした?」
「おじさんのこと、気になります?」

 太郎の泣きそうな瞳に吹き出してしまう。肩を震わせて、捨てられた子犬のような目つきだ。

「ばか。既婚者だろうが。子供もいるんだ。あっちは仕事だし、相手にもしないよ」

 そうか、と、呟きながら太郎はグラスを空けた。静かな闇色が二人の間に沈黙を流す。太郎は理由もなく肩を落として、じっとグラスに視線を向けたまま動かない。

 いやいや、なんでそんなに落ち込むんだよ。

「なんか映画でも見る?」
「あ、は、はい」

 適当にデッキにDVDを入れて、音量を低めにした。オレンジ色の灯りの下、画面だけが白く浮かんでみえ、中身は運の悪いことに雅也のお気に入りだった。静謐な湖と小鳥が飛び交ってひたすら眠気を誘うやつだ。

「裕さん、ラブストーリーも好きなんですね」
「雅也が好きなんだよ。変えるか」

 どちらかというと、裕はアクションが好きだ。対して、雅也は落ち着いたラブストーリーが好きだった。

「あ、いいです。そのままで。ほら、グラス空いてますよ?」
 太郎は空いたグラスにワインを黙々と注いだ。
 雅也が好きなシーンが流れて、裕は目を背ける。思い出したくもないのに亡き夫の顔が浮かんだ。よくこのシーンで飽きてしまい、甘えては二人で唇を重ねた。
 ちらりと太郎をみる。じっと視線を落として口を閉じていた。
 なにを落ち込んでるんだろうか。さっきまで喜んでたくせに、訳がわからない。むしろ、気分が沈むのは自分だ。

「……そういえば、来週末、知り合いがくるんだ。遺品整理を手伝ってくれるんだけど、その間、保育園は休みだから、子供二人を託児所に預けようと思う」
「え!? そんな、僕がみますよ! 公園とか連れて行きます」
「休日ぐらい、ゆっくりしろよ」

 平日は毎日顔を合わせているので、せめて土日は別々に過ごそうと決めていた。

「だって、朝から荷物もって、見送りして、お迎えなんて大変ですよ。お邪魔にならないように昼ごはんも作りますから!」

 しまった。余計なことを喋ってしまった。
 裕は舌打ちして、ちらりと太郎に視線を投げる。

「いや、悪いって」
「頼ってください」

 圧が、すごい。太郎はぐいぐいと顔を近づけて、目と鼻の先でぴたりと距離が止まった。怖いくらい真剣な眼差しでみつめる。

「……いやだ」

 キスしそうな距離に裕はぎろりと睨めつけて警戒した。これ以上、頼りたくない。
 意味もなく、ばくばくと心臓が高鳴ると、太郎はふいと視線を外す。

「わかりました。勝手にしてください」

 え?

 意外な言葉に裕は驚いた。太郎の怒りを孕んだ声が耳の奥に響いて残る。

「お、おう」
「僕、帰りますね。ワインありがとうございます。ご馳走様でした」

 太郎は俯いたまま、目もろくに合わせずに立ち去ろうとした。裕は慌てて服の袖をつかんだ。
「ま、まてよ」
「……なんですか?」

 暗く凄みを帯びた声だった。蝋のように青白い顔で太郎は微笑む。いままで見たことがない表情だった。

「俺、なんかしたか?」
「べつに、なにもしてません」
「じゃあ、どうして急に怒るんだよ? さっきまで機嫌良かったじゃないか」

 そうだ。さっきまで、普通に飲んでいた。ボトルだってまだ半分以上ある。

「酔ったからですよ。これ以上、貴方も僕と一緒にいたくないでしょ?」
「それは、その……」
「離してください。では、また」

 太郎は冷たい刺すような目で、裕の手を払いのけた。
 茫然とする裕を置いて、太郎は颯爽と立ち去り、玄関の扉が静かに閉まる音がする。冷気が吹き込んで、裕の頬を撫でた。

 はあああああああああ!?

 突然の手の返しように、裕は地団駄を踏みそうになった。
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