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とどめ色の友垣 2
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「ええ、それが?」
『あの、うーん、なんというか、それがですね、東雲くんの労災がね、おりるかどうか、内輪で揉めているんですよ』
「え? あの、えっと、え? ちょっと、まってください。どういうことですか?」
ぞくぞくするほどの嫌な気分に襲われ、ばくばくと心臓が痛い。曲げた指先が震えて、手のひらからじわりと汗が滲んだ。
『うーん、あのですね、東雲くんが職務を放棄して、その、言いにくいのですが、プライベートなことをしていたと認識されれば、労災は難しいんじゃないか? という噂がでておりまして、その……』
うーんってなんだよ、うーんって。人が死んでるんだぞ?
「穏便にことを運んで欲しいと……?」
『そ、そうなんですよ。彼女も専務のお嬢さんなので、訴えなんて起こさせられたら大変でして……。いや、あの、なんというか、昨今、いろんなウィルスが流行ってるからそこでディスタンスをとって議事録を書いていたと思うなんて、僕は言ったんですけどね……、その慰謝料なんて言葉がでると……』
絞ったような苦しい言い訳に、裕は眉間に縦皺をつくる。脅しだ。ふざけんな。でも、不倫相手との先のみえない裁判よりもさっさと労災認定をうけて、遺族葬金と埋葬代を粛々とうけた方が利口だ。
百合子との証拠は沢山ある。あるが、不倫相手の慰謝料請求は百合子の支払い能力を考慮してもせいぜい百万円程度。
どちらかをとるなんて、考える必要もない。
「わかりました。子供たちもおりますし、こちらとしては労災で進めていただければ幸いです」
おおいがたい屈辱が頬を痙攣させ、雅也の遺体にむかって深々と頭をさげてしまう。『あ、うん、そうですか』とやや明るい声をとりなして川村は電話を切った。
クソが!
裕はスマホを床に散らばる服へ投げつけた。
仕事中に浮気なんてするなよ!
こうなるなら、早くに百合子へ内容証明書を送りつけてやればよかった!
黙って指を咥えてろという暗黙の了解に腹が立つ。いや、まて、目先のことよりも金だ。これから学資保険、月々の生活費、習い事、固定資産税の支払いなどすべて自分一人にのしかかってくる。そっちのほうが重い。
考えるだけで、目に見えないものに押しつぶされそうな不安に胃液が吐きそうなくらい奥からこみあげてくる。胸の中が空っぽになるような深いため息が口から抜けていった。
突然、玄関の呼び鈴が鳴る。
「だれだ?」
こんな夜中に訪れる客なんていない。裕はいいようもない恐怖にとらわれる。まさか、雅也? いや、死んだはず。
裕はおそるおそる椅子をきしませて立ちあがり、インターホンの画面ボタンを押す。ぱっとライトが灯り、背の高い、爽やかな青年が橙色に微笑んで、白い保存容器らしきものを抱えているのがみえた。
「はい?」
『あ、あの、夜分遅くにごめんなさい。隣の佐々木の孫で、祖母からご飯をおすそわけしに来ました。な、なにも召し上がってないと伺ってて……』
「佐々木さんのお孫さん?」
たしか子供が一人いたと言っていた。
『そうです。最近東京から戻ってきて、木村太郎と申します……』
んん? 太郎? どっかできいたな? 政治家か?
誰もいない玄関に丁寧に頭をさげ、画面奥からは白息がみえた。その真面目で誠実そうな佇まいに裕の強張った頬が綻んだ。
「はは、すみません、すぐにでますね」
『は、はい! ……!?』
玄関の扉をひらいた瞬間、男は固まって裕の顔を目と鼻の先までよせて凝視する。ゆっくりとタッパーを渡し、裕は両手でうけとって見返すが、男は微動だにせずじっと立ったままだ。
「……え?」
「ふあああああああああああ! う、ん、めい! あの、あの、ああの、好きです。好きです! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はあ、あ、あ、あ、あの、あの、結婚してください!」
裕はタッパーごと抱き締められる。
「うわああああああああ!」
夫以外の逞しい腕に包まれ、裕は背筋をせりあがる悪寒が全身を駆けまわって、琺瑯のタッパーごと持ちあげる。そして、凶器のようにして太郎の顎を殴った。
「ふぐぅ!」
『あの、うーん、なんというか、それがですね、東雲くんの労災がね、おりるかどうか、内輪で揉めているんですよ』
「え? あの、えっと、え? ちょっと、まってください。どういうことですか?」
ぞくぞくするほどの嫌な気分に襲われ、ばくばくと心臓が痛い。曲げた指先が震えて、手のひらからじわりと汗が滲んだ。
『うーん、あのですね、東雲くんが職務を放棄して、その、言いにくいのですが、プライベートなことをしていたと認識されれば、労災は難しいんじゃないか? という噂がでておりまして、その……』
うーんってなんだよ、うーんって。人が死んでるんだぞ?
「穏便にことを運んで欲しいと……?」
『そ、そうなんですよ。彼女も専務のお嬢さんなので、訴えなんて起こさせられたら大変でして……。いや、あの、なんというか、昨今、いろんなウィルスが流行ってるからそこでディスタンスをとって議事録を書いていたと思うなんて、僕は言ったんですけどね……、その慰謝料なんて言葉がでると……』
絞ったような苦しい言い訳に、裕は眉間に縦皺をつくる。脅しだ。ふざけんな。でも、不倫相手との先のみえない裁判よりもさっさと労災認定をうけて、遺族葬金と埋葬代を粛々とうけた方が利口だ。
百合子との証拠は沢山ある。あるが、不倫相手の慰謝料請求は百合子の支払い能力を考慮してもせいぜい百万円程度。
どちらかをとるなんて、考える必要もない。
「わかりました。子供たちもおりますし、こちらとしては労災で進めていただければ幸いです」
おおいがたい屈辱が頬を痙攣させ、雅也の遺体にむかって深々と頭をさげてしまう。『あ、うん、そうですか』とやや明るい声をとりなして川村は電話を切った。
クソが!
裕はスマホを床に散らばる服へ投げつけた。
仕事中に浮気なんてするなよ!
こうなるなら、早くに百合子へ内容証明書を送りつけてやればよかった!
黙って指を咥えてろという暗黙の了解に腹が立つ。いや、まて、目先のことよりも金だ。これから学資保険、月々の生活費、習い事、固定資産税の支払いなどすべて自分一人にのしかかってくる。そっちのほうが重い。
考えるだけで、目に見えないものに押しつぶされそうな不安に胃液が吐きそうなくらい奥からこみあげてくる。胸の中が空っぽになるような深いため息が口から抜けていった。
突然、玄関の呼び鈴が鳴る。
「だれだ?」
こんな夜中に訪れる客なんていない。裕はいいようもない恐怖にとらわれる。まさか、雅也? いや、死んだはず。
裕はおそるおそる椅子をきしませて立ちあがり、インターホンの画面ボタンを押す。ぱっとライトが灯り、背の高い、爽やかな青年が橙色に微笑んで、白い保存容器らしきものを抱えているのがみえた。
「はい?」
『あ、あの、夜分遅くにごめんなさい。隣の佐々木の孫で、祖母からご飯をおすそわけしに来ました。な、なにも召し上がってないと伺ってて……』
「佐々木さんのお孫さん?」
たしか子供が一人いたと言っていた。
『そうです。最近東京から戻ってきて、木村太郎と申します……』
んん? 太郎? どっかできいたな? 政治家か?
誰もいない玄関に丁寧に頭をさげ、画面奥からは白息がみえた。その真面目で誠実そうな佇まいに裕の強張った頬が綻んだ。
「はは、すみません、すぐにでますね」
『は、はい! ……!?』
玄関の扉をひらいた瞬間、男は固まって裕の顔を目と鼻の先までよせて凝視する。ゆっくりとタッパーを渡し、裕は両手でうけとって見返すが、男は微動だにせずじっと立ったままだ。
「……え?」
「ふあああああああああああ! う、ん、めい! あの、あの、ああの、好きです。好きです! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はあ、あ、あ、あ、あの、あの、結婚してください!」
裕はタッパーごと抱き締められる。
「うわああああああああ!」
夫以外の逞しい腕に包まれ、裕は背筋をせりあがる悪寒が全身を駆けまわって、琺瑯のタッパーごと持ちあげる。そして、凶器のようにして太郎の顎を殴った。
「ふぐぅ!」
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