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第9章 ウイスキーの街

15 お客様

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 扉を叩く音に驚いた私は思わずベッドの上でぴょんと飛び上がってしまった。
 いや、お客様待ってたんだから来るのは当たり前なんだけど全く心の準備も出来てなければ逃げ出す暇もないままにこの時が来てしまった。あるわけのない逃げ場を探してキョロキョロしてる間に叩かれた扉がスッと音もたてずに内側に開かれた。
 息を飲んで見上げた扉の内側には一人の美しい男性が立っていた。歳の頃は黒猫君と同じくらいだろうか?
 長い栗色の紙を後ろで束ね、切れ長な瞳を静やかに輝かせながらこちらを見てる。

「こんばんわ」

 艶やかでちょっとハスキーな声にビクンと肩が飛び上がってしまった。

「そちらへ言ってもいいかな?」

 途端ルーシーちゃんがベッドからお客様に駆け寄って外套と上着を脱がせ、丁寧に畳んでカーテンの向こうのテーブルの上に置く。
 それが終わるとルーシーちゃんは薄いカーテンを両手で抑えてお客様が通れるように横に引き、お客様が中に入るのを待って後ろに控えた。
 私が何も答えなくてもお客様は勝手に部屋に入ってくる。そのままするりと滑るようにベッドに近づいてくるお客様に私は全身にダラダラと冷や汗を掻きながら思いっきり引け腰で声をかけた。

「こ、こんばんわお客様、こ、今宵はこちらへ一体何をしにいらっしゃりましたのでしょうか?」

 緊張で訳のわからないことを口走ってるのは自分でも分かってるけど止められない。
 私のおかしな質問を聞いてお客様がクククッと口の中で笑うのが聞こえた。

「ここに来る目的は一つしかないと思うけど? 今日はレネが特別な娘を入れたと言ってたから楽しみにしていたんだよ」
「ととと、特別な事なんて何もないですよ。別に美人でもなければ取り立ててスタイルがいいわけでもないし、経験も対してないからお客様を楽しませるなんてきっと出来ないはずです。いえ、出来ません、きっと無理です」

 焦って早口にまくしたてる私をお客様が興味深そうに目を少し見開いて見つめてきた。そんなモテそうな顔しててなんでこんな所にくるんだ?
 見られれば見られるほど冷汗が噴き出してくる。
 いっそ今すぐ走って逃げだしたい。
 でもふと横を見るとそんな私の様子をルーシーちゃんが心配そうに見つめてる。私が逃げ出したらルーシーちゃん、怒られちゃうのかな。
 私のしどろもどろの本心だだ漏れの返事に今度こそ声を出して笑いながらお客さんがベッドの端に腰掛けた。ベッドがお客様の重さでズシリと軋み、私は思わず一歩後ろに逃げる。

「レネの言ってたのとはまたかなり違うね。凄く自信満々な娘が心からもてなしてくれるって話だったけど」

 うわあああ、たしかにあのときの私の勢いはそう取られちゃっても仕方ない。あれは一時の気の迷い、大きな誤解だ。

「まあ、僕はどっちでっもいいけどね。さあ、早速始めようか?」

 一気に事が始まってしまいそうな様子に私は口の中で小さく悲鳴を上げて伸ばされるお客様の手を両手で押さえ込んだ。
 ま、マズイ、絶対マズイ。始めちゃまずい。始めるのダメ!
 何とか時間を稼ごう、そうだ、時間さえ稼いだらもしかしたら黒猫君がどうにかしてくれるかもしれない。
 全く持って自分勝手でご都合主義な考えだけどそんな事でも考えないと今にも叫び出してしまいそうだった。だってここにはもうどこにも逃げ場がない。
 押さえ込んだお客様の手をギリギリと力いっぱい握りしめながらバリバリと音の出そうな作り笑いを張り付ける。

「いいいいえいえいえいえ、まずはお飲み物などいかがですか? ほらここにいっぱい色々素敵そうなお飲み物がございますですし」

 私が引きつった作り笑いでそう言ってテーブルを指差すと彼はヒョイっと片眉を上げて私と握られた自分の手とテーブルを順番に見比べて、それからニヤリと笑って頷いた。

「いいね。じゃあ、あの赤いのを頼もうかな?」

 喜んで私はすぐにテーブルに寄っていって自分で注ごうと思ったのに、ルーシーちゃんがすかさず進み出てお酒を準備してくれちゃった。
 うわ、そんなにすぐに終わらせちゃったら時間稼ぎに全然ならない!
 心の中でそう叫びながらルーシーちゃんが差し出してくれたお酒の入った盃を受け取る。お客様も同じように渡された盃を受け取って軽く私に掲げた。

「新しい出会いと今夜の二人に」

 そう言って口をつける。私も目だけはジッとお客様を見すえたまま見習って盃を上げてお酒を口に含んだ。だって目を離した途端、なんかされそうで怖い。
 でも口に含んだ‎それは思いがけずとっても美味しいお酒だった。甘くてさっぱりしてて喉に涼しい。

「美味しい!」
「そうかい。じゃあもっと飲むといいよ」

 言われなくても甘さに惹かれてチビチビと飲み進める。それはどうやら口当たりのわりに強いお酒だったみたいですぐに頭がポーっとしてきた。でも現実逃避したい現状のいたたまれなさから私はマズいなってちょっと思いつつもついつい飲み続けてしまう。

「よっぽど気に入ったみたいだね」
「ええ、だってこれ、凄く甘くて口当たりが良くてスルリと飲めちゃう。まるで子供に飲ませるお薬みたい」
「そうだね」

 短くそう答えたお客様はなんかちょっと面白そうに笑う。
 うーん、この人、お客様じゃなくて普通に出会ってたら結構良い人っぽいな。でもこんな所に来るくらいだから遊び人なのは確かだ。
 黒猫君もこういう所に来た経験あるのかな? あるんだろうな、きっと。
 突然胃の辺りがキュウっと締め付けられた気がした。
 そう言えば黒猫君、私がこんな事してる間何してるんだろう?
 正直こんなにかからずに黒猫君が飛び込んできてくれるんじゃないかって実は期待してた。こんな事になったのは全部私のせいだけど、黒猫君なら何とかしてくれる気がしてた。うわ、レネさんの言う通り、私完全に黒猫君を頼ってる。
 さっきの事だってそうだ。今まで私が色々してこれたのも今秘書官に収まってるのも全て沢山の人に助けられての事だ。
 レネさんの言っていたことには全く偽りがなかった。そしてそれがて真実をついていたからこそきっと私はあんなに悔しかったんだ。
 今更気が付くなんて情けなくて涙が出そうだ。

「どうしたの? なんか変な味でもした?」

 突然黙り込んで考え込んでいた私を怪訝そうに見つめながらお客様が声をかけてきた。私は慌ててごまかすために話題を探す。

「あ、えっと本当だったら一緒に何か摘まむものがあった方がいいのかも知れないなって思ってただけです」
「摘まむものか?」

 美味しいお酒のお陰でちょっとだけ緊張がほぐれてスルリと言葉が勝手に出てきてくれた。

「はい、お酒って本当はそれにあった美味しい物を頂きながら飲んだ方がいいじゃないですか」
「ふむ。あまりそんな事考えた事なかったな。じゃあ例えばこの飲み物だったら君は何を食べたいんだい?」
「そうですね。凄く甘くておいしいお酒だから本当ならほろ苦いチョコレートとかチーズかな?」
「チョコレート?」

 しまった、聞かれて答えちゃったけどここにはないのか。そう思うのと考えてた事が勝手に言葉になってこぼれ出るのがほぼ同時だった。

「あ、そっかここにはないのかな。チョコレートっていうのは南国の木の実の中身を乾燥させて作ったお菓子なんですよ。もとになる茶色い粉自体は甘くないんだけど、そこにお砂糖を入れて甘くしてあるの。油分があるから口の中でとろけて独特の風味が口に広がるんです」
「甘いお菓子ね。よっぽどのお金持ちでも中々食べる機会のない物をまるで君は沢山食べた事があるような口ぶりだね」

 勝手に零れでる言葉に歯止めが効かなくて余計な事まで話しちゃった!
 不信を買った気がした私はあわてて言い訳を考える。

「いいいいいえ、これはキーロン陛下やナンシーの偉いかたから聞いたお話です」
「ふ-ん。でも確かにチーズは合いそうだ」
「でしょ。多分これなら硬いチーズの薄切りとかいいなぁ。ビスケットに乗っけて一緒に齧るの」

 ビスケットもしばらく食べてないよねぇ。

「ビスケット?」
「あ、薄くてサクサクのパンって言えばいいのかな? あれだったら私でも作れるかな。バターもあるしお砂糖も使わないでいいんだし」

 またもや勝手に考えてることがポロポロとそのまま口からこぼれ出る。そんな私の様子にちょっと首を傾げて考えてからお客様が私に尋ねる。

「君は料理人だったのかい?」
「いえいえいえ、しがない元小間使いです。言われた事をなんでもやってまわってただけですよ」

 えっとわざわざお客様に秘書官だってことは言う必要ないだろうし簡単に説明するならこれであってるよね?

「それにしては色々よく知ってるね」

 まだなんか聞きたそうなお客様の気を逸らそうと話しかけようとして気が付いた。私このお客様をなんて呼んだらいいんだろう?

「そ、それよりお客様のお名前をお聞きしてもいいですか?」

 考えた時には尋ねてた。どうも思考がそのまま言葉に繋がってきちゃってる。そんなにこのお酒強かったのかな?

「おや、こんな所で名前を聞かれるなんて思っても見なかった」
「え?」
「娼館では僕たちお客は『ご主人様』とだけ呼ばれるからね」

 ご主人様!
 なんかどっかのメイドさんのようだ。まさか自分がそんな事言う日が来るとは思わなかった。
 ちょっと遠い目になりながらも私は慌てて言われた通りに呼んでみる。

「ああ、す、すみません『ご主人様』。経験が浅くて全然常識がなくて」
「いや、それも初心で珍しくてなかなかそそるよ」

 そう言ったお客様の目が突然なんか色っぽく光った気がする。
 気のせいかなんかこの人さっきより近づいてきてないか?
 なんかヤバい気はするんだけどお酒とさっきルーシーちゃんに塗り込められた香油の効果で私の頭は今まで以上にグルグルと空回りして焦る気持ちがそのまま言葉になってもれだした。

「いえいえそそらないですよ、お客様みたいに慣れてらっしゃる方が私みたいのでいいんですか? よくないですよね? だって私本当に経験少ないんですよ、レネさんのようにお相手することなんてできませんしきっと面白くないですよ。他のお姉さま方の方が何十倍も経験豊かで身体もかっこよくて顔も綺麗できっといいこと尽くしですよ、保証します!」
「……なんかまるで僕の相手をしたくないみたいに聞こえるんだけど?」
「したくないというか何というか無理と言うかきっとできないというか」

 とうとうボロボロと本音が漏れだした。もう嫌がってるのバレバレで逃げたいという内心もはっきり表れちゃってるはず。
 はずなのに。
 何故かお客様の目がさっきにもましてギラギラ光ってる?

「そんな事ないよ。なんだ不安なんだったら今日は僕の言うとおりにしていればいいから」

 そんな事を甘い蕩けそうな声で囁きながらお客様がいつの間にか私のすぐ横までにじり寄っていた。
 なんだこの人、気配が薄くて私が逃げる間もなくすぐ横にくっつかれてた!
 気づいたとたん身体が勝手に逃げ出す。って言うかもう体裁も何もなく完全に逃走体勢になってるのに。
 逃げ出そうとする私の肩を掴んだお客様がサッサっと手を滑らしてなんかどっかを軽く押しただけで魔法のように私の身体が簡単にベッドに押し倒されて、気が付けば私はすっかりお客様の腕の中でその切れ長な目に見下ろされていた。
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