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第8章 ナンシー 

96 準備

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 やっと式が終わってその後のご挨拶は出なくていいと言われた私たちはそのまま新政府のおじいさんと一緒に「北ザイオン帝国新中央政府庁舎」、略して「新政庁」に寄ることになった。何といっても明日には一旦『ウイスキーの街』に戻るのだ。キールさんが勅令はもう正式に発表されたんだから本来私と黒猫君を中心にすぐに活動を始めるべきなのに当の本人の私たちが暫くいなくなっちゃうので、先に色々打ち合わせしておきたいんだって。

「それでネロ様。あゆみ様。今後の具体的な方針は決まっていますかな」

 高官のおじいさんは名前をイアンさんと言った。イアンさんが立派なお髭をしごきながら新政庁の一室のソファーで私たちと向かい合って座ってる。
 私も黒猫君と並んで座ってる。
 お互い反省会でお会いして顔は知ってたけどお話するのは今日が初めてだ。

「すまん、イアンのおっさん、俺をサマ付けするのは止めてくれ。あんたにそんな呼び方されるような者じゃねーぞ俺たちは」

 黒猫君が少し居心地悪そうにそう言うとイアンさんが横に首を振る。

「いけません。あなた方お二人はこれから唯一の国王陛下の秘書官となられるのですぞ。今までとはお立場が違います。しかもお二人は国王陛下と個人的にも親しく、『親族』であり、数少ない陛下の名前を呼ぶことを許されるお立場です。このようなケジメは私の様にお二人に思う所のない者からしっかりとさせないと今後お二人が非常に難しい立場に追い込まれますよ」

 黒猫君がちょっと困った顔になった。でもこれはイアンさんの言う通りなのかもしれない。っていうかなのだと思う。

「じゃあイアンさん、今日の挨拶はどう思われましたか? 私たちここでは全くのよそ者だと思うんですけど」
「確かにあなた方は『よそ者』かもしれません。でも正直もうしましてナンシー公よりも人気はあります。国王陛下の後押しがあるのも大きいですよ。精進なされればいい」

 ナンシー公、ってあのナンシー公と比べても意味が……ってあそっか。こんどはエミールさんがナンシー公なんだよね。ややこしい。

「すみません。エミールさんがナンシー公になっちゃった今、今までのナンシー公はどうお呼びしたらいいんですか?」
「いい質問ですね。故ナンシー公と言うのが暫くは正式な呼び方となりますが今後お名前に戻られてヘンリー様またはヘンリー前公爵様とお呼びするのが妥当かと」

 ああ、そっか。当たり前だけどナンシー公にもお名前があったんだよね。

「それじゃあ俺たちはあんたの事を何て呼べばいいんだ?」

 黒猫君が首を傾げながらイアンさんに問いかける。

「イアン、と呼び捨てになさってくださって結構です。おっさんは必要ありませんよ」

 イアンさんがニヤリと笑った。イアンさん、結構おちゃめな人?

「それでは話し合いに戻りましょう。国王陛下は早急に勅令の施行をお望みです。まず改善の目標ですが……」
「一つ、奴隷制度の廃止。これは基本時間をかけたい。無理やり施行してしまうと貧民街の奴らの救済の道が断たれる。出来れば市場ではなく王家が主導の取引に移行して、出来うる限り公的資金で年数を決めた上での期間売買に変更し、他の救済措置を整えて最終的には廃止したい」

 へ、って私が呆けてる間に黒猫君がはっきりと答える。

「結構です。その方向で各方面に持ち掛けて見ましょう。次に『非人』の取りあつかいですが……」
「教会に新政府から常時誰か一人人間をおいてくれ。出来れば半年交代にして教会と関りの少ない者を選んで欲しい。現在まで非人扱いされていたものに関しては不当な扱いをした場合の適当な処罰に関して新しい法律を整備する必要がある。なるべく大まかに、暫くは緩めで設定しておいた方が施行しやすい。あと非合法な肉体の売買の取り締まりを軍に徹底させろ。その辺りの法整備も得意な奴いるだろ」
「はい、こちらも結構です。法律関連は我々がプロですからお任せください」

 テキパキと黒猫君が方針を決めてっちゃう。
 あれ、もしかして黒猫君先に全部考えてくれてたの?
 請け負ったのは主に私だったのに私はまるっきり具体的な事は考えてなかった。

「ああ。帰ってきたら目を通すからこっちにも回しておいてくれ」
「かしこまりました。では最後に。台帳と税金の件ですが」
「これは俺とあゆみが帰ってきてから始めたい。ただ施行には計算と書類作業に手馴れた文官が十分必要になる。求人は早めに出してくれ。実際の作業は政府機関内で部署作ってやってくれるとありがたい。報告、変更、指示はあゆみが担当するのが一番だが、こちらもナンシーの税務に関わる人間を一緒に教育する必要がある。仕組みに関してはあゆみが帰ってきたら明文化させる。良さそうな文官を適当に選んで話付けてくれるか?」

 そう言って私を見る。うん、それはいいけど。……この街、何人くらい人がいるんだろう?

「これまた結構です。国王陛下からお話に聞いていた通りですな。ネロ様は実務には非常に頭が回られるのに気は回られない。あゆみ様は気は回るのになかなかお話にならない」
「キールの奴そんな事言ってたのか。それはかなりの買いかぶりだ」

 黒猫君が迷惑そうに鼻を鳴らした。


 イアンさんとの打ち合わせが終わると外に止められていた馬車からヴィクさんが出てきた。

「あゆみ、ネロ殿こちらへ」

 文句言う間もなくそのまま押し込められてしまう。すぐに扉が閉まって馬車が走り出した。

「ヴィクさん、この距離なら私だって歩けますよ?」

 私が恐縮してそう言う横で黒猫君が難しい顔でヴィクさんを見てる。

「なんかあったのか?」
「いいえ、まだ。ただ今日のお披露目でお二人の顔が知れ渡りましたので今後は護衛なしで街を歩くのは控えて頂きます」
「へ? ええ!?」
「仕方ねーか。俺はともかくあゆみはどうにもならねーからな」
「く、黒猫君!?」

 驚く私とは違って黒猫君は素直にヴィクさんに同意しちゃってるよ。

「今後のお二人の行動については兵舎に戻ってキーロン陛下がお話されると思います」

 そう言ってヴィクさんは黙り込んでしまった。


 兵舎に戻っても馬車は厩で止まらず、本棟の目の前まで進んだ。そこでヴィクさんが先に降りて周りを確認してから私たちを降ろしてくれる。って言うか当たり前のように私を抱えた黒猫君が降りたんだけどね。

「直接執務室に向かいます」

 速足のヴィクさんの後を黒猫君が私を抱えてやはり速足で着いていく。
 キールさんの執務室に入って扉を閉めた時点でやっとヴィクさんが警戒を解いて小さく安堵のため息をついた。
 中ではキールさんが服の襟を緩めてこちらを見ながら苦笑いしてる。他にもエミールさんとアルディさん、そしてカールさんが一緒に部屋に集まっていた。

「やっと戻ったか」
「キール何があった?」

 軽い口調のキールさんを黒猫君が軽く睨みながら質問した。それを見たキールさんは一瞬瞳に迷いを見せたけどすぐにフッと笑って答えてくれる。

「お前に嘘ついても意味ないな。教会の愚か者どもがお前の死刑を要求してきた」
「え?」
「なんだそんな事か」

 黒猫君はすぐに安堵のため息をついて私ごと椅子に座っちゃったけどちょっと待って!

「そ、そんな事ってちょっと、なんでそんな事に? だってキールさんの勅令……」
「関係ないんだろう。大方教会を燃やした罪とか言い出したんじゃねーのか?」
「その通りだ」
「で、でもそれはだって新兵さんが危険で……バッカスたちも危なくて……」
「それも直接の関連はない。神聖な教会の建物に火を点けたネロを火炙りの刑に処せって言い募ってる」
「それでお前はどうするんだ?」
「そんなもの無視するに決まってる。裁定は俺が出したんだ。あいつらに口出しする権利はない。言いたい奴らには言わせておけばいい。だが他にも色々あるからな」

 キールさんの最後の言葉に黒猫君がちょっと考えてから返事をする。

「そう言えば今回『連邦』の連中が全く絡んでこなかったな」
「それは別のお知らせがあります」

 黒猫君の疑問にはアルディさんが反応を返した。

「実は貧民街の3人の長から連絡を受けました。どうやらナンシーの主だった『連邦』の者はずいぶん前に姿を消していたそうです。最後まで残っていた者もあの戦闘があった日に我々が船着き場を抑える前に船で出てしまっていた様です。ですから現在この街に残っている『連邦』の者は組織の者というよりは実際に街を取り仕切ってるそれぞれの地域の取りまとめ役くらいだそうです」
「そいつらどこに行ったのかは分かってるのか?」
「中央だろう、とは言われてますが確実な事は分かりませんでした。」
「じゃあ別にそこまで警戒する必要はないんじゃないのか?」
「それが……」

 言いよどんだアルディさんの横で今度はエミールさんがため息をついていいにくそうに答える。

「逆だよ。ネロ君、君に人気があり過ぎるんだ。今日もあの後沢山の獣人が君に合わせろって兵舎まで押しかけて来た。一言お祝いを言いたいそうだ。ただその中に少なからず人間も混じってて、それが本当に君に好意的な意味であいにきてるのか教会の影響で悪意を持って近づいてきているのかこちらとしては判断しづらくてね」
「エミー……じゃなくてナンシー公がその人たちに会ったんですか?」

 私が言った一言でエミールさんが蹴る様に椅子を立ち、私の目の前に身を投げ出すように跪いて今にも泣きだしそうな顔で見上げてきた。

「嗚呼、僕の小鳥ちゃん。僕の流れるような金髪は失われても僕の君への愛は変わらないつもりだよ。なぜそんな悲しい呼び方で僕を呼ぶんだい? 今までの様にエミールと呼んではくれないのかい?」
「とち狂うなアホナンシー公。誰が『お前の』小鳥ちゃんだ。とっとと席に戻れ」

 私が一言もしゃべらないうちに黒猫君がサッと向きを変えて私をエミールさんの目の前から引き上げて怒鳴った。
 ついでにニョッてエミールさんの後ろから手が伸びてヴィクさんが「お戻りください」って丁寧な言葉の割に結構乱暴な勢いでエミールさんを席に引きずってく。
 それを見ていたキールさんが嘆息してこちらを見た。

「あゆみ、ネロ。もう一度はっきり言っておく。俺もエミールもお前たちに公式の名前で呼ばれることを拒否する。っていうかな、今後俺とエミールを名前で呼んでくれるのは多分お前らだけだ。それをよく考えて欲しい」

 キールさんの言葉に部屋にいたみんなの顔がどこか物悲しい物に変化した。あのエミールさんでさえ少し寂しそうに見える。
 あ、そうか。そう言えばいつの間にかキールさんは国王陛下、エミールさんはナンシー公って呼ばれてて、もう自分の名前を呼んでくれる人がいなくなっちゃうんだね。

「当たり前だろ。俺は面倒くせーから変えねえぞ」

 もしかして黒猫君は最初っからそれを分かってたのかな。だからこの前文句もなくキールさんの申し出を受けてたのかな。

「わ、私もみなさん『さん』付けで統一させてください。呼び捨ては無理ですから」

 これが私の精一杯。でもみんなそれは分かってるみたいでニッコリ笑ってくれた。

「じゃあ、まずは話を戻すぞ。当分ネロとあゆみには警護をつける。とはいえもう明日には『ウイスキーの街』に出発するがな。カールとエミールはここに残るが俺とアルディそれにヴィクは一緒に向かう。あゆみ、子供たちは連れて行く約束だと聞いたが?」
「はい、お願いします」
「ネロ、バッカスたちはどうする?」
「あいつらもう今朝発っちまった。どうも新兵の遠投は距離が足りないらしい。結局俺が投げる事になるんなら俺の行く先に来るってさ」
「仕方ない、俺も──」
「何をいってらっしゃるんですか。陛下には山積みの仕事があるんですからそんなことはネロ君とヴィクにでもやらせておいてください」

 あ、キールさんがムッとしてる。

「ピートルも一緒に行くって言ってたぞ。こんなに長くいる事になるとは思わなかったから一旦戻って色々片付けるって言ってた」
「え、黒猫君いつの間に会ってきたの?」
「お前の化粧が延々と続いてる頃だ」

 ああ、そう言えば今朝のお化粧はしっかりやったもんね。隠すものいっぱいあったし。

「ああ、それはちょうどいい。じゃあ船の管理も頼めるな」
「バッカスが森の外まで誰か迎えが来るようにテリースと門兵に伝えてくれるって言ってたぞ」
「助かる。それからネロ、あゆみ。ウイスキーの街から戻ったら俺たちは領城に移るぞ」
「え?」
「まあそうなるよな」

 そ、そんな。折角ここの部屋にも慣れて皆さんとも仲良くなって、それに──

「王立研究所はどうするんですか!?」

 私の叫びに部屋にいた全員の白い目が返ってきた。呆れた声でキールさんが窘める。

「あゆみ。あそこは確かに君の知識を具体化するための施設だ。だが君が自分の研究に没頭するための場所ではない。これから君には沢山の仕事が待ってるだろう。いつまでもあそこに掛かりきりになっていてもらっては困る」

 言われたことが正しいのは分かってる。でも。

「納得がいかないか。じゃあ言い換えよう。君の仕事に差し支えない君の自分の時間であそこに出入りする事にまで文句をつけるつもりはないぞ」

 あ。うん。そうか。そうだよね。公私混同してたんだ私。

「無論君の意見が欲しいとピートルたちが言ってくれば正式に仕事として出張すればいい。どうせネロが時間交渉するだろうしな」

 見透かされてる。ほっとくと私が行きっぱなしになるのを見透かされてる。

「じゃあ明日も忙しくなるから今から戻ってそれぞれ荷造りに移れ」
「はい」

 そこで今日の打ち合わせはおしまいになって黒猫君とヴィクさんが一緒に部屋に戻ったんだけど。

「ヴィク姉、あゆみ姉、これ持ってく」
「これ持ってく」
「持ってく」

 部屋は凄い事になってた。なぜって。
 実は最初は色々あったけど、結局今ではこの3人は兵舎のマスコットの様になっていた。ビーノ君は運び屋さん頑張ってたしミッチちゃんとダニエラちゃんもお砂糖づくり頑張ってくれてた。
 そう言えばお砂糖は出来たらしいんだけど、なぜか試食会は差し止められてしまった。トーマスさんとエミールさんが有事の為の備蓄が溜まるまでは誰にも手を出させないことに決めたらしい。常習性があるから一度与えてしまうと皆に食べつくされちゃうのが目に見えてるから駄目なんだそうだ。
 とにかく、結構人気の出てしまったこの3人。戻ってくる予定だったにも関わらず、旅立つと聞いて沢山の兵士さんが贈り物をくれたらしい。

「す、すごいね。みんな私や黒猫君より荷物多いんじゃないの?」
「お前ら食い物は置いてけ。腐る」
「あゆみ私は自分の部屋に一旦戻るよ。これ片付かないとお風呂いけないだろ」
「うん。黒猫君、ビーノ君の荷物は少ないみたいだから先二人でお風呂行ってきなよ」
「ああ、じゃあ後任せた。ビーノ行くぞ」

 そう言って黒猫君がビーノ君を抱え上げ、「恥ずかしいからやめろよ」っていいつつも嬉しそうなビーノ君とヴィクさんが部屋から出て行った。
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