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第8章 ナンシー 

60 キーロンの決意

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「キーロン様、それではこちらの控えの間でお待ちください。」

 全く朝からずっとこの調子だ。
 途中抜けて幾つか用事は済ましてきたがそれにしてもここで潰される時間はかなり痛い。
 昨日はとうとうのらりくらりと時間稼ぎばかりされて、最終的に時間切れで明日に延期を言い渡された。例え謁見が叶っても俺の進言は右から左だ。

「それではこちらへどうぞ」

 そう言って謁見の間に通されたのは結局あれから2時間も後だった。
 謁見の間には今日もたくさんの大臣が一緒に集まって話を聞いている。これは以前からのナンシー公のスタイルで元々自分の施政を広く聴講させることによりオープンな執政を目指すもののはずだった。それが──

「それで。また来たのか」
「ええ、何度でも伺いますよ、ナンシー公」
「貴様にナンシー公呼ばわりされる覚えはない」
「…………」

 俺がここでどのようなやり取りをこのナンシー公と行おうと、謁見の間に集まる大臣たちから一言さえも発せられることはなかった。何かがおかしい、それは分かってる。だが。

「なぜ農民の返還に応ぜられぬ。貴公もそれがこの街の食料難、ひいては国全体の食料難を引き起こすことを重々ご存じのはずだが」
「案ずることはない。全ては上手くいく。食料など奪てくればよいのだ」
「奪うとはどこからですか?」
「貴様の様な下賤な血の者に答える必要があろうか」
「クッ……」

 俺のことを一体どこまで覚えているのか。このナンシー公の態度は一部昔そのままであり、しかしおかしい。最初は完全に操られていると思っていたがどうもそうは思えない節もある。

「このアズルナブ家の母殺しが」

 これだ、この話を知っている者は例え上級貴族の間でもそう多くはない。無論ナンシー公は知っていたしそれを揶揄されるのもいつもの事だった。だが。

「それでも私は家を継いでおりますよ。公の息子殿とは違ってね」
「……また世迷言を。ワシに息子などおらん。どこからそんな話を吹き込まれてきたやら」

 こう返すこの公の様子はどう見てもウソをついている様に見えない。一体どうなっているんだ?
 多分ネロなら俺の抱いている疑惑を確認できるのだろう。しかしそれにはやはりかなりの無理をすることになる。
 俺が一旦黙ると今度はナンシー公の方がギロリとこちらを睨んで要求を突きつけてくる。

「それよりも兵舎に隠れてるお前の秘書官とやらを教会に引き渡せ。人でさえない非人などとっとと処分するがいい」
「これももう何度もご説明したと思うが。あれは私の施政の中心を担っている。教会が何を勘違いしているのか知らないが非人扱いなどもっての他。第一、教会の言う非人の扱いこそ廃止させるべきだと再三貴公に進言してきたと思うが」
「馬鹿らしい。この街の歴史と変わらない教会の慣習がそんな簡単に変わるわけもなかろう。教会とは争わぬというこの国の常識を忘れたわけではなかろうな」
「そのような常識は受け入れるつもりは毛頭ない。何せこちらは社交界にも所属しない下賤な血の出なものですのでな」

 俺のはぐらかすような答えに業を煮やしたナンシー公はすぐ横の兵士を呼び寄せて宣言した。

「これ以上の引き伸ばしは看過できぬ。明日中に教会への引き渡しが行われないようなら明後日、ワシがこちらから兵を送りその場で殺処分することとする。例え護衛兵と言えどその非人を隠匿しようと抵抗する者は全て同様に処分するから覚悟するがいい」

 最後通牒とばかりにそう宣言したナンシー公の顔をマジマジと見つめる。これも運命か。
 俺は「好きにするがいい」と言い捨て、ため息をつきながら無意味な今日の謁見を終え暗い決意とともに兵舎へと戻った。


「それで私は今日は朝からずっとここで一人待たされていたわけですけどね。これで一体あなたの施政の何を見ろっていうんでしょうかね?」

 兵舎の自分の執務室に戻ればまたうるさい奴が待っていた。このシモンという男。
 昨日は一旦貧民街に戻るといって帰ってこなかったが今朝も早くから俺の執務室に押しかけてきた。朝の謁見の時間は決められていて、前もって謁見を申し込んでいても定時までに謁見待ちの列に並ばなければすぐに切り捨てられてしまう。とてもこいつをかまっている暇もなくここに置き去りにしていったわけだが。
 その間ずっと俺の部屋に篭ってたらしい。というかこちらはこちらでこいつを他にいかせられなくなっちまった。
 あゆみは特殊な開発を始めてしまったしネロはバッカスたちに訓練を付けてる。あんなもんに付き合わせたら何言われるか分かったもんじゃない。
 俺は俺で忙しく、毎日こうやって朝から領城に上申しに顔を出し、合間を縫って同じ行政区域内にある中央政府の出張政府に根回し、必要な連中と顔繋ぎしながら商業区をまとめてるギルド長と掛け合って、工業区域の顔役につなぎを付けて注文出して……
 目の回るような間を縫って襲ってくるあの操り人形のような小さな刺客の相手をして、ここに戻っても結局こいつに掴まって気が抜けない。
 俺はいい加減疲れて適当なことを言ってみる。

「シモン、君も他の者と共に農村の手伝いに行った方がいいんじゃないのか?」
「いえ、そちらでは私の知識は活かす事ができません。力仕事は適任とは言い難いですし」
「ならばいっそ事務でもお願いするか」
「私が見たいのはキーロン殿下、貴方の施政自体ですよ。なぜ私をお連れ下さらない」

 そうは言ってもまさか謁見にこいつを連れまわすわけにもいかない。深いため息とともにシモンの顔を見る。まあ、こいつなら謁見に連れて行っても文句は出ないか。昨日から見ていて分かったがこいつは下手な文官より王族貴族のマナーをきちんと控えている。必要ならば社交も卒なくこなしそうだ。下手したら俺なんかより上手かもしれない。
 ただ単に俺がまだこいつをそれ程知らないから持て余しているだけなのだ。ネロじゃないが中々本心を見せないこいつに下手な仕事を任せられなくて結局ここで待たせるだけになっているのだ。
 さて。いっそネロかあゆみ、どちらかの仕事を手伝わせるか。

 俺がそんな事を考えている所にネロが戻ってきた。そこで考える。どの道人手は足りてないんだ。だったらあゆみの方はともかく俺とネロの話は聞かせてもいいだろう。そう遠くないうちに周りに周知する事になるわけだしな。
 俺はすぐに呼ぶといってシモンを一旦部屋から追い出し、ネロたちの報告を聞いてあゆみの研究機関の説明を終わらせ、すぐにシモンも呼び戻して俺の領主への疑念、時間的制約、そして明後日の一連の予定を説明した。



「というわけで結局領主との交渉も決裂し、こちらも対決せざるを得なくなった。決行は明後日。ネロには悪いが当日は駆けずり回ってもらうことになる」
「マジか……」

 俺の説明を聞き終えたネロは既に逃げ出したそうな顔でこっちを見てる。横で同じく話を聞いていたシモンが呆れ顔で俺たちを見比べていた。

「忙しくなるって言っただろ」
「ああ、言ってたな」
「い、忙しいってあんたがた、本気ですか?」

 ネロは顔に諦念を浮かべ、執務室に来たときよりも余計疲れた顔で執務机に突っ伏した。
 ネロと一緒に部屋に報告に来ていたアルディと朝から俺に付いていたエミールは既に大体の流れは掴んでいたので二人してため息を付いた程度だ。
 未だ信じられない様子で文句を言いたそうなシモンは無視して話を進める。

「そういうわけで今回はタイミングが鍵になる」
「ああ」
「時間がないのが分かったな」

 改めてネロのやつを見ればすでに立ち直ってこちらを見てる。目を見ればすでにこいつの頭がフル回転始めてるのがすぐわかった。
 ネロは体力バカに見えて実はそうじゃない。それどころか下手するとここで一番頭が回るのはこいつかも知れない。なのになぜか本人は自分が馬鹿だと信じ込んで決定を人に押し付けてくる。まあ、これからの自分の立場を考えればこれは悪くないのだが。
 こいつを秘書官に選んだのも決して成り行きや同情などではなくこいつの実力を見てのことだったのだが、どうもこいつにはそれが理解できてないようだ。

「わかった。あゆみはどうする?」
「彼女に知らせるのは最後でいいだろう。どのみちその時が来れば彼女にも来てもらうことになるからな」

 あゆみに嘘は付けないだろうしそれが妥当だ。ネロが納得して頷いたのを見て先を進める。

「それじゃあ一気に計画を詰めるぞ」

 それから昼過ぎまでじっくりと細かい計画を詰めた結果、ネロはバッカスの元へ予定をこなしに行き、最初は文句を言っていたシモンも最終的には貧民街に人手を集めに戻っていった。
 それを見送った俺は剣を片手に気持ちを引き締め、アルディたちと共に兵長たちが既に始めているはずの今日の「定例軍議」へと足を向けた。
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