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第8章 ナンシー 

62 強制就寝

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「あゆみさん、こっちはこんなものでいいですか?」
「ちょっと待って、今見に行く」

 後ろから声をかけられた私は目の前の実験結果を観察し終えるまで待ってその結果を紙に残してから振り返った。
 えっとこれは誰だっけ?
 ぼーっと顔を見つめて言葉が出てこない私を少し困った顔で見つめ返して青年が代わりに答えてくれた。

「ピートルの甥っ子のレスチャーですよ。魔解分質の研究を担当してる」
「ああ、そうだったね。実験結果が出たの?」
「えっと出たというか面白い結果が見れたので見ていただきたくて」

 そう言って目を輝かせる青年を見るとなんだかこっちまで嬉しくなってくる。
 今日一日でここはすっかり様変わりしてしまった。朝からピートルさんたちが駆け回って人手と物資を集めてきてくれたからだ。お陰で昨日までガランとしていたこの部屋は隅々までギチギチだ。仕方なくさっきヴィクさんに頼んでキールさんに建物の建て増しを頼みこんだところだ。
 この青年の他にも10人くらい新しい人が入ってそれぞれ違う研究を手伝ってくれている。おかげで進展は思いの外早い。私も集中して一つの実験にかかりきりになっていた。

「ほら、この通りこの濃度を超えると突然耐性が変わるんです。ここまでは雷系の魔力への耐性が一番強かったのに、この濃度からこの濃度までは耐性が一気に落ちたので他の魔術を試したところ、この通り火系の魔力を吸い取ることが分かり……」

 青年の話に耳を傾けながら彼が書き留めた実験結果に目を通す。

「じゃあ、この濃度とこの濃度のものを今度はこちらの革に塗布して強度を試してみて」
「ああ、そうですね、分かりました」

 簡単な説明ですぐに私の意図を理解して作業に戻ってくれる。彼だけでなくピートルさんの連れてきた人たちはみんな優秀だった。優秀な上にやる気がすごい。おかげで手間が省ける。

「あゆみ、いつになったら寝るつもりだ」

 突然横から声がかかって驚いて振り向くと研究室の入り口からヴィクさんがこちらを見てた。
 ここでは10人がそれぞれ自分の居場所を区切って自分のブースを作り研究に没頭しているのでヴィクさんもたまにチェックしに来る以外は研究所の建て増しの方を手伝ってくれている。あれが終わらないと明日届く物資を入れる場所も、それを使って大量生産を始める人手を入れる場所ももうないのだ。

「建て増しは立ちましたか」

 思いっきり気になってることを先に尋ねる私をヴィクさんが少し睨みながら答えてくれる。

「あゆみ、君は研究が始まるとまるっきり周りが見えなくなるんだな。ネロ殿の言っていたとおり、これは気をつけないと行けないようだ」

 そう言いながら私の元まで来たヴィクさんが私を抱え上げた。

「え、ちょっと待って、まだその実験結果が……」
「いい加減に一度寝るといい。目が真っ赤だ」

 話を聞かない私の言葉をお返しというように完全に無視したヴィクさんは部屋に残ってる人たちにも一声かける。

「あゆみを寝かせてくる。彼女が起きるまで無茶はするなよ。彼女に聞かなければ作業が進まないところまでいったら諦めて君たちも寝るといい」

 そう言い捨ててスタスタと歩き始めてしまった。ヴィクさんに抱えられて外に出てみてやっと空の端が少し白み始めているのに気づいた私はちょっと気まずくなってヴィクさんに謝る。

「ごめんなさい、もしかして私のせいでヴィクさんも寝れなかったんですか?」

 私の質問に呆れ顔でヴィクさんが私を見返してきた。

「私の心配よりあゆみは自分のことをもう少し考えたほうがいいよ。あとネロ殿のこともね」

 そう言って兵舎の方を目で指し示す。それを見て同様に兵舎の方に目を向けると兵舎の端に寄りかかってる黒猫君が目に入った。

「もう一時間くらいああして君を待ってたみたいだよ」
「え? でも私今日はこっちに泊まるって伝えてもらったと思いますが」

 私の言葉にヴィクさんが苦笑する。

「だからあそこでただこっちを見てるんじゃないか?」

 意味がわからなくてヴィクさんを見返すと、少し笑いながら説明してくれる。

「あゆみは研究のことになると本当に周りが見えないんだね。よく考えてごらん。あの研究所には男性しかいないだろ」
「そうですね」

 ヴィクさんの言わんとすることがどうにもわからない。すると少し呆れたようにヴィクさんが私を見下ろした。

「まだ分からないのか? ネロ殿は心配してたんだよ」
「心配って何をですか」
「呆れた。本当にわからないのか?」

 うーん、昨日の話からして私がまた研究所を火事にするとでも思われてるのかな。
 悩む私の耳にヴィクさんが面白そうに囁いた。

「あゆみ、それが分からないなら後でネロ殿にしっかり聞いてみるといい」

 そうだね。本人にちゃんと聞けばいっか。
 かなり遠くから私を抱えたヴィクさんを見てた黒猫君が少し気まずそうに声をかけてくる。

「もういいのか?」
「いや、私が無理やり引きずってきた。このままだとあゆみは寝ないで研究を続ける気らしいからな」

 そう言ってヴィクさんが私を黒猫君の腕に引き渡す。

「それじゃ私は自分の部屋に戻るよ。新兵錬には出るからそこにまた連れてきてくれ」

 そう言って手を振りながら歩き去っていった。それを見送る黒猫君の顔も少しやつれて見える。

「黒猫君、待っててくれなくてよかったのに」

 私がそう言うとちょっと顔をしかめて見下ろしてきた。

「別に待ってたわけじゃねえぞ」
「でもヴィクさんが黒猫君一時間前くらいからここにいたって」

 私がそう言うとチッと舌を鳴らして小さくヴィクさんに文句をつぶやきながら私達の部屋に向かってあるき出した。

「ねえ、ヴィクさんが言ってたんだけど黒猫君、私を心配してくれたんだって? でも一体何が心配だったの?」

 私の問いかけに黒猫君が困った顔でこちらを見る。

「そんなことはもういいだろ。ほらちゃんと掴まってろ」

 黒猫君は誤魔化すようにそう言うと突然走り出した。ずるい、これじゃあ怖くて喋れない。
 あっという間に部屋についてスースーと寝息を立てるビーノ君たちを見た途端、気が抜けてあくびが出た。
 そのままベッドに入ろうとすると黒猫君が「先に着替えろ」って言って服を手渡してくれる。
 あ、洗濯が終わったんだね。洗いたての服に着替えてから自分がホコリだらけなのに気づいた。まあ、あれだけ石を削ってたらホコリだらけにもなるか。
 叩いても叩いても埃が落ちてきて首を傾げてると黒猫君が「お前髪もすごいぞ」って言って後ろに回って髪を叩いてくれる。それでも落ちないみたいで私を一旦ベッドに座らせて私のサイドテーブルに手を伸ばし、櫛を掴んで梳かし始めた。それがなんかすごく気持ちよくてそのまま後ろに立ってる黒猫君に寄りかかってしまう。

「おい、まだ寝るなよ」

 そうはいってももう目がくっついてきた。

「ほら寝る前に布団に入れ」

 そう言って私の頭を枕に横たえて布団をかけてくれる。そこでなぜかふと気づいた。

「ねえ、もしかして黒猫君が心配してたのって私自身?」

 私の横でベッドに潜り込んでた黒猫君がピタリと動くのをやめてこちらを見てる。

「そうだったらどうする?」

 あ、質問を質問で返された。ずるいんだ。
 私はちょっと考えて答えた。

「嬉しいって言ったらどうする?」

 質問で返されたのをもう一度質問にして返してやった。
 ちょっと考えてた黒猫君は少し苦しそうにため息をついて「もう寝ろ」って言って自分も布団に潜り込んだ。
 ずるい、結局答えてくれない気か。ちょっと意地になってつい言ってしまう。

「もしかしてやいてくれてる?」

 からかうような口調になっちゃったのは悔しかったから。だって黒猫君、二回も返事はぐらかすし。
 でも黒猫君は今度も返事を返してくれない。しばらくしてもう寝ちゃったのかと思ったら。
 突然大きな手が伸びてきて私の肩を掴んで引き寄せた。

「決まってるだろ」

 低い声が頭の上からした。ゴロンと転がった私を黒猫君の片腕がしっかり抱き寄せてる。
 突然のことに声が出ない。気づけば私はすっかり黒猫君の腕の中だった。

「昨日のお返しな」

 昨日のお返しって……あ、そうか。私が抱きついて寝ちゃったから。
 ってこれは全くちがくない!?

「おやすみ」

 内心でめちゃくちゃ焦ってる私をよそに黒猫君は当たり前のようにそう言って寝るつもりみたいだ。
 こ、これ、本当にいいのかな。だって黒猫君、ナンシーから帰ったらって言ってたのに。でも正直ドキドキするだけじゃなくてこれ、すごく安心する。
 しばらくは緊張して身じろぎを繰り返してたけど、結局黒猫君の腕の中は思いの外居心地が良く、私はいつしか気持ちいい眠りに落ちていった。



 寝付いたあゆみを見下ろしてため息をつく。
 ああ。結局やっちまった。なし崩しに抱き込んじまった。これ以上手も出せないのに何やってんだ俺は。
 後悔するのを承知で我慢できなかった。
 もういっそあの街に戻るまでなんてのは忘れて明日にでも言っちまおうか。そう思うのだが、あゆみの顔を見るとついまだいいかと先延ばしにしてしまう。そのくせこいつがあの研究所で他の奴らと一晩中研究やってるってだけでイライラして眠るどころじゃなくなるし。

 明日も体力勝負で忙しいんだけどな。
 すっかり東の空が赤らんでる。今から寝ても数時間か。それならいっそ。
 俺は自分の腕の中で眠るあゆみの顔を少し上に向けて寝顔を覗き込む。

 ビーノたちが起きるまでもうそう時間はないだろう。せめてこいつの寝顔でも堪能するか。
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