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第8章 ナンシー 

18 夜の市場

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 あーあ。
 とうとうやっちまった。
 俺は半泣きの体であゆみを抱えて人の少ない裏道を抜けた。

 今まで何とか誤魔化してきたのに衝動的にあゆみを抱きしめちまった。
 言い訳も言い逃れもできねぇ。
 完全に衝動のまま抱きすくめちまった。

 大体宿にいる時からずっと我慢し続けてたんだ。
 目の前で好きな女が薄着で寝てんだぞ。しかも自分の腕の中で。
 ビーノを帰してから文句の多い店の主人に金掴ませてびしょ濡れの部屋を片付け頼んですぐ隣の部屋を借りて。濡れた服のままあゆみをベッドに乗せるわけにもいかなくて仕方なく服を脱がせて乾かしてもらえるように手配して。
 戻って見ればあゆみのやつ安宿の薄い布団の中でガタガタ震えてるし。仕方ないから後ろから抱きかかえて、ともかく寒くない様に温めること以外考えない様に必死で別の事考えて。考え付く全ての最低な思い出を脳裏に繰り返し引き出してきて「生きててゴメンナサイ」って言いたくなるぐらい自虐に浸ってやっと何とか理性を保ってたのに。

 なのにあゆみの馬鹿。
 店を出て俺に抱え上げられたあゆみのやつ。
 以前俺が猫だった時とまるっきり変わらない調子で俺の耳の後ろをかき始めた。
 強くなく弱くなく。耳の後ろの敏感なあたりを何度もくすぐられて。
 頭に血がのぼって意識が朦朧もうろうとして。

 情けねー。
 本当に情けねー。

 しばらく歩けば表通りが見えてきた。あそこに出ちまうとあゆみにも俺の顔が見えちまう。俺は何気なく空いてる腕で顔を拭って何とか体裁を整える。
 表通りを横切って東の市場に続く反対の道に入る。東の市場の場所だけはビーノに確認を取っていたのですぐにわかった。
 商家の続く細い裏道をしばらく進むと突然縦に長い広場に出くわした。広場に面した建物はそれまでの商家に比べてもやけに背が高く、全て広場を睥睨するように建っている。夜だというのに広場には埋め尽くすようにいくつもの屋台が店を連ねていた。
 魔晶石の柔らかい光に照らし出された一番手前の露店は遠目に何かペットを売っている気がしてあゆみの気が紛れるかとホッとした俺は本当に馬鹿だった。
 それは確かにペットショップの様に檻の並んだ屋台だったが、中に入っていたのは可愛いい動物なんかではなく……獣人の子供達だった。すぐ俺の横であゆみが息を飲む音が聞こえた。
 しまった。夜の市場は奴隷市だったのか。

「すまねぇ、戻ろう」
「待って。駄目。ちゃんと進んで!」

 慌てて引き返そうとした俺の首をグキリと広場の先に向き直らせてあゆみが叫んだ。
 見上げるとあゆみがものすごい形相で檻を睨んでる。これはなに言っても聞き入れそうにない。俺は諦めてあゆみを引き寄せて周りの奴にぶつからない様に気をつけながら店の間を歩き始めた。
 広場には結構な人出があった。ほとんどは男で商人の格好をしている。普通の堅い店のオヤジらしい奴も多い。夜の市は基本奴隷市なのだろう。そのほとんどが最初に目に入った店と同様、檻を積み上げていた。

 起きて半畳寝て一畳なんて言うが。どう考えても半畳も無いような檻が5段ぐらいづつ積み重ねられた屋台が幾つも続いている。それぞれの檻の中には毛色の違う様々な獣人が入れられていた。
 猫、犬系が多いのはやはりここでもペットとして躾けられるからだろうか? 他にも猿、うさぎ、羊、中には子豚らしきものもいる。どいつも一様に怯えた目で周りを見回している。
 檻にはそれぞれ値段が付いていて、見ると結構個体によって違いがある。だがどこを見ても服を着ている者はいなかった。以前見たバッカスの反応からしても獣人だって普通服は着るはずだ。
 あゆみに押し切られて暫くそのまま露店の間を進んだが突然俺の首に回ったあゆみの腕がビクリと震えた。何かと思ってあゆみを見上げ、その視線を追って後悔する。その視線の先の檻には沢山の子供が入っていた。人間の子供が。多分下は小学生ぐらいからだろうか? 片側に男の子、反対側に女の子。こちらは皆申し訳程度の服を着せられていた。どの子も腕に以前テリースが見せてくれた奴隷の入れ墨を入れられてる。それを当たり前の様に検分してる男達が店の前にたむろってる。どうやら獣人より人間の子供の方が人気があるらしい。値段もそれ相応に高くなっていた。
 今の現代に奴隷制度は無いとは言え、アジアの幾つかの国では檻にこそ入れてはいなかったが子供に売春させてる最低な場所も見てきた。でもこれはそれよりもひどい。とてもじゃないがあゆみに見せるようなもんじゃない。

「もう戻ろう」
「駄目。最後まで見せて」

 俺が折角戻ろうと言うのにあゆみは頑固に先に進もうという。
 うわ、最悪だ。客が子供を買ってるのに出くわしちまった。もう居た堪れなくてあゆみの顔が見れない。
 その先には大人の奴隷売り場が続いていた。こちらは人も獣人もごちゃまぜに繋がれている。それぞれ最低限の服は着せられているが買い取り交渉が始まると後ろのテントに連れ込まれている。
 子供の奴隷にはまだ目の中に残っていた恐怖の様な感情さえここの奴らには残っていなかった。売る事、売られる事に慣れきった彼らの様子に胃のあたりが締め付けられた。

「おい、その姉ちゃん売るなら裏に回れ」

 売り場の一画で腕を組んで見下してた髭面のオヤジがあゆみの腕を掴んで無愛想に言った。頭ではこんな所に女連れで来た俺が悪いのが分かってるのに、俺は一瞬で頭に血がのぼって。体が勝手に動いて俺が今にもそのオヤジに殴りかかろうってその直前、あゆみが俺の耳をつねりあげて代わりに声を上げた。

「私は売り物じゃありませんからあしからず」
「威勢のいい姉ちゃんだな。よっぽどいい扱いされてんなあんた」

 その髭のオヤジは不思議と優しい笑顔でそんな事を言いやがった。俺は言葉に詰まったがあゆみがすかさず言葉を返す。

「もちろん。ね? ご主人様」

 一瞬で全く違う血が頭にのぼる。
 こ、こいつー!

「他の奴らもそんな奴に買われてきゃいいがな」

 思わず、といったふうに髭のオヤジが呟くのを聞いて俺の方が驚いた。

「そうですね。私もそう願います」

 そしてそれにとても自然に答えたあゆみにも。

「ねえ、ご主人様。折角だから数人買いませんか? 私もお友達が欲しいし。どの子がご主人様の好み?」

 あゆみが少しいたずらっぽくそう言ったが目が全然笑ってない。
 どう返事しても絶対正解の無い質問の気がして俺は口を開けないまま固まった。

「姉ちゃん、あんまお前の主人を虐めるな。困った顔で固まってるぞ」
「……意気地なし」

 小さく呟いたあゆみの声を俺の性能の良い耳が拾ってしまった。

 屋台の立ち並ぶ広場を抜けるとその終わりには沢山の立ち食いの屋台が出ていた。昼も中途半端にしか食べてなかった俺たちはだけど二人共何も食べる気になれず、結局そのまま夜の市場を後にして無言で兵舎へと向かった。
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