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第7章 変動

7 黒猫君の朝練

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 今朝は朝から兵長の号令で起こされた。
 昨日夜遅くに森から返った後、以前あゆみと使っていた上の部屋ではなく下の兵卒部屋を借りてたからだろう。
 一緒になって外に引きずりだされた俺をアルディが笑って「ついでだから少し剣の稽古を付けてあげましょう」と言って錬場に連れ出し一振りの剣をよこした。

 アルディの「稽古」は俺には殆ど実践だった。稽古なのに使ってる剣は刃を間引いていない。ちょっと掠ればちゃんと切れる。

「そんなにガチガチに固くなっていては練習になりませんよ?」
「無理言わないでくれ、本物の剣なんてこっちは生まれて初めて持つんだ」
「おや、ネロ君はキーロン殿下の王気にも耐えるほど肝が座ってるのに刃物は駄目なんですか」

 アルディは驚いているようだが俺だってそこまでヤバイやり取りが必要な場所は避けてきたんだ。刃物なんかナイフで動物を捌くくらいしかしたこと無い。まあ、昨日バッカスの腹は少し裂いちまったが。
 最初は剣と剣を撃ち合わせる所から始まった。ちゃんと角度を見て当てないとやり合う前に剣が折れたり曲がったりしてしまうんだそうだ。これは元々の度胸と猫の目のお陰で結構すぐに出来るようになった。
 その辺りから剣の撃ち合わせるスピードが上がっていく。当てる場所も段々上段から下段、サイド、ゆっくりだが突きも入ってくる。
 アルディの奴、わざと一閃を俺に防がせた後、剣を返して薄く俺の皮を切り裂いていく。多分あれは意地悪ではなく、俺に剣に切られる感触を覚えさせる為だ。痛いのはもちろん痛いが次の反撃が忙しくてそれどころじゃない。
 唸り声を繰り返しながらアルディが飄々と繰り出す攻撃を一時間も防いだ頃には全身が血液混じりの汗でビショビショになり手が滑って剣を取り落とした。

「ネロ君、大したものですよ。今まで一度も剣を握った事無かったんでしょう? それで僕との組み稽古に一時間耐えたのは素晴らしいです。明日から毎日いらっしゃい」

 剣を拾おうとしてその場にへたり込んだ俺にアルディがニコニコと笑顔でそんな事を言う。見廻せばいつの間にか周りの連中も俺の稽古を見物してたらしい。みんな何故かやたら嬉しそうだ。

「待て、俺はここの兵士になる気は毛頭ないぞ?!」
「ネロ君。君あゆみさんを守りたくないんですか?」

 ギョッとしてアルディを見れば思いの外真剣な顔でこちらを見てる。

「あゆみさんもネロ君も気づいていないようですけどここの連中は最近あゆみさんを慕う者が増えています。うかうかしてると力づくで持って行かれてしまいますよ?」

 こいつもか。見ればアルディの奴、余裕の笑みでこちらを見下ろしてやがる。俺はヘタった身体を叱咤して立ち上がり再度剣を構え直した。

「俺だって別に剣の訓練をするの自体は文句ねえよ。だがあゆみの事はあいつが自分で决めるだろ。力任せなんかで落ちる様な生易しい奴じゃないと思うぞ」
「それはネロ君の経験談ですか?」
「……俺は圏外だよ」

 俺の言葉の意味が分からなかったのかアルディが少し首を傾げた。
 そんなアルディに俺は力いっぱい剣を振り上げた。


 それからまた一時間はアルディに刻まれ続けた俺は血みどろになった身体を兵舎の井戸で洗い流して治療院に向かった。
 結局これからも毎朝時間のある時はアルディに稽古を付けてもらう事になった。後から知ったのだが他の兵士が嬉しそうだったのは刻み癖のあるアルディの稽古の相手を俺が一手に引き受けたからなんだと。相当嫌な相手に気に入られてしまったらしい。まあ、俺は切り傷にそれほど恐怖がないのでいいんだけどな。

 治療院でテリースに会うと一目で「アルディさんの仕業ですね! 全く」と言って自分の治療室に引き入れて治療してくれた。どうやらあれはいつもの事らしい。流石にこれ全部舐めて治すのは億劫だったので素直に従った。

「パットはどうだ?」
「今ちょうど執務室に連れて行った所ですよ。何か新しい半紙を前に嬉しそうに書き込み始めていました」
「そうか。キールは?」
「ナンシー行きのための準備を始めていますよ。ああ、昼頃にウィスキー工房のドンタスが来るそうですから後で執務室に来て欲しいそうです」
「あゆみは……寝てるんだよな、きっと」
「はい」

 テリースがちょっと笑って答える。

「テリース、一度ちゃんと聞いておきたかったんだ……」
「あゆみさんの事ですか?」
「……ああ。その、お前はあゆみの事……」

 俺が言いあぐねってるとテリースが悪戯に目を輝かせてこちらを見る。

「そう言うネロ君はどうなんですか? 気になってるんでしょう?」

 テリースに真っ直ぐそう言われて俺は言葉に詰まった。
 正直、昨日あゆみが帰ってきて一緒に居るうちに今までとは違う、もう後戻り出来ない感情が自分の中にある事に気が付いていた。
 一度死んだと思わさせられたお陰でもう自分に嘘が付けなくなっていた。

「俺はあいつがすごく大切だ。多分惚れてる。でも今の所あいつの中で俺は人間にすらなってないだろ。まあ、本当に人間じゃないしな」

 俺は自分の耳を触りながらため息をついた。
 どんなに人間の姿に近くてもこの身体、どこかが全く違う。まあそりゃそうだ。元が猫なんだからな。

「それを言えば私も半分人じゃありませんよ。私の父は人じゃありませんでしたし」

 テリースが少し寂しそうに笑った。

「ネロ君。1ついい事をお教えしましょう。ここで、『こっち』の世界では番えない組み合わせはありません。ですからその身体のことを余り気にする事はありませんよ」
「そ、そうなのか?」

 それも凄いな。でもそう言えばバッカスも狼人族は人と狼が混じって出来てるって言ってたもんな。

「それから私自身ですが。ネロ君がちゃんと答えてくださったんですから私もちゃんとお答えしましょう。あゆみさんの事はすごく好きですよ。ただこれは男性が女性へ向ける類の物ではありませんね」

 そう言って少し上を向く。

「これはむしろ執着です。苦労して自分が救い上げた命を無駄にしたくない。何処までも繋げていきたい。見守り、時には手助けしてあげたい」

 そう言ってテリースは俺に顔を向けて続けた。

「ですから私、あゆみさんと同様にネロ君の事も愛おしいんですよ。ここの兵士達も、この街の皆さんも、そしてキーロン殿下も。皆私の愛おしい人達です」
「あんたの情愛はすげぇデカイんだな」
「ええ。人のそれとは少し違います。それにこれでも若い頃にはちゃんと奥さんも居ましたし子供も居たんですよ」
「へ? ああ人だったのか?」
「はい。いっぱい一緒にいていっぱい幸せをくれて先に逝ってしまいました。残念ながら彼女を超える女性にはもう出会うことは出来ないでしょう」
「そっか……」

 俺はかけられる言葉が無くて俯いた。

「ネロ君。君が思っている以上にあなた方の時間は短いのですよ。機会があったらその場で奪い取りなさい。次があるとは限りませんから」
「……お前はそうやって奪い取ったのか?」
「もちろん」

 そう答えたテリースの目は顔に似合わず獰猛だった。
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