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2章 新しい風

24 二人の朝 ― 2 ―

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 朝食を終わらせた後暫くは二人で朝のお茶を入れ直してまったりしていたのだがアーロンが思い切ったように話し始めた。

「お前の魔術の訓練だが。今後一人家庭教師を付ける事にした。お前がちゃんと勉強に集中出来るように少し人も入れようと思う」
「家庭教師ですか」
「ああ。多分今週中には引き合わせられるだろう」

 それを聞いてちょっと不安になる。

 もう師匠からは教えてもらえないっって事?

「あの、それじゃあその後はもう師匠からは教えて頂けないんですか?」

 私の質問に一瞬アーロンの口元が驚いた様に開かれ、でもすぐにちょっと不機嫌そうに聞き返される。

「お前……あれだけ痛い思いしてもまだ俺に教わりたいのか?」
「痛い思いってほど酷いことは……そんなに無かったと思いますけど」

 私の答えにアーロンがつくづくと私の顔を見つめ返す。

 え? 私なんかそんなに変な事言っただろうか?

「だって師匠のお陰でヤツとの戦いは最近私の連勝ですし。弟子になったんですから教わるのはこれからかと期待もしてたんですけど。でも師匠はやっぱりお忙しいですよね」

 隊長さん、じゃ無かった総師団長さんだし。

 私の不安を見透かしたようにアーロンが少しだけ優しい瞳で答えてくれた。


「そんなつもりはないぞ。これからも俺から教えてやる事もあるだろう。ただ、お前の様に若いうちに基礎をきちんと学ぶのであればスチュワードは教師として適任だ」
「スチュワードさんっていうのが家庭教師の方ですか?」
「ああ。まずはこの家の事を任せられる人間を少し入れるつもりだ。今日は一旦城に行ってくるから自分の部屋でも見て居ろ」

 そう言ってアーロンはいつも通り部屋を出る様にして転移していってしまった。

「はぁ、家庭教師かぁ」

 アチラの世界のでは家庭教師なんてしてもらった事もした事も無い。

 ずっと同じ人に教わるのってどんな感じなんだろう。
 こっちの学校では結局通いで来て下さる魔術教員の方以外に本当に魔法を見せてくれる人は居なかった。
 要は殆ど座学だったのだ。

 師匠の訓練はなんかちょっと乱暴だし。

 私はなんかこのままぼーっと時間を過ごすのももったいなくてまずは自分の部屋に戻ってみる。

 ここが私の部屋って事は……

 私は自分の物らしき机に向かってみた。

 アーロンの執務室にある机よりは確かに小さいが、それでも樫材で出来ているそれは重厚で私にはちょっとも動かせそうにない。

 机には引き出しがあって中には十分な数の冊子や紙、ペンにインクなどが詰まっていた。
もう勉強はいつでも開始可能って感じだ。

 椅子はアチラの様に軽い物ではなく、引くにも押すにもちょっと力がいる。

 なんか偉くなってしまったように思えてびっくりしてしまう。

 窓の外を見渡せば二階からの景色は庭を挟んで奥の森まで見えていた。こちら側は街とは逆方向なので少し遠くに国境の山脈が見える。

 そう言えばアーロンは8年前あの国境を越えて隣の国に行こうとしていたって言っていた。

 あの向こうには何があるんだろう。

 今まであまり考えた事も無かったが、アーロンの話に出てきたせいで突然そこが結構近いどこかに思えて来た。

 そのままベッドに飛び込んでみる。

 こんな素敵な部屋をもらってしまっていいのだろうか? 昨日までの自分の生活とのギャップのせいで罪悪感やら劣等感やらが強すぎて嬉しい気持ちが小さくなってしまう。

 でも例えここがどんなに素敵な部屋でも、やはりアチラの世界とはまた違う。何のかんので生活の向上はされたけど、向こうに行けない状況は変わらないままだ。

 スッと鍵をポケットから取り出してみる。

 この鍵は不思議なもので、いつでも私のポケットに入っている。
 ここに来る前はどこの扉でもこの鍵で開けばアチラの世界に戻る事が出来た。

 それがアーロンにつかまって、この結界の中に入れられてからどんなに頑張ってもアチラには帰れない。
 別に帰りっぱなしになりたいわけじゃないし、今はここで始まる新しい生活が楽しみでもあるのだが、せめて一度向こうに帰ってお風呂に入りたい。

 そう、切実に入りたいのだ。お風呂に。

 もう一週間近くお風呂に入ってない。
 いつもはこの辺りでアチラに戻って体調を整えるのだがこれからはそれも出来ない。

 考えれば考えるほど入りたくなる。
 そう言えばもしかして風呂場も掃除してくれたんだろうか?

 ふと思い立って下の部屋に降りていく。
 下の部屋の一番奥にある風呂場は残念ながらまだ手付かずのままだった。

 私は他にすることも無いのでそのまま浴場の掃除を始める事にした。
 他にも人が来るって言ったってそんな直ぐに掃除をお願いできるかも分からないし。

 濡れないように袖を捲り上げ、革靴を脱いで裸足になる。

 いくら寒さに慣れていても真冬に凍えるように冷たい水で掃除するのはこたえる。
 他の掃除はしているとどんどん体が温まってくるのであまり問題ないが水仕事はきつい。

 あ、そうだ!
 この前ヤツを退治するときに使った火をつけない火魔法ってもしかして水にも使えるんじゃない?

 私はこの前同様に詠唱を使って威力をコントロールしながら火をつけない火魔法を発動する。
 とは言っても頭の中で想像しているのは火ではなく分子を活発化させる、いわゆる電子レンジの中のようなイメージだ。

 多分私は普段火魔法も同様にして空気中の酸素をホコリと一緒に燃やしている気がする。

 違うのかな?
 もしホコリだけだとあんなに燃えないよね?

 そんな事をぼやーっと考えながら詠唱を続けているとボコボコと桶に貼った水が沸騰し始めた。

 あ、マズイ。

 慌てて詠唱を止めたが桶の水は沸騰しきっていてとても触れない。
 諦めてもう一度新しい桶を持って井戸から水を汲んできた。

 あれ。どっちの桶もいっぱいで混ぜられない。

 仕方が無いので最初に沸かした桶は放っておいて二杯目の方を暖め始める。

 あ、また沸騰しちゃった。

 どうも中間で止める事が出来ない様だ。

 あ、私馬鹿だ。

 やっと思い付いて自分の指先を桶に近づけて水魔法でチョロチョロと水を加えて冷ます。
 こぼれる水はもったいないけど、どうせ掃除に使うんだから問題ない。

 ただ水魔法って喉が乾くんだよね。

 前に学校にいらしていた魔術教員の先生にもそう言ったけれども、それは私の気のせいだと切り捨てられてしまった。
 水魔法って一体どこから水を取ってきてるんだろ。

 今度こそちょうどいい温度になった桶のお湯を見てちょっとだけ勿体なくなる。

 ……お風呂入りたいな。でも。

 横目で湯船をねめつけながら大きなため息が一つ零れた。

 いっそ銭湯でも開けそうってほど広い辺境邸の豪華な湯船を見ながら、これいっぱいになるまで水を運ぶのも運び出すのも自分一人という事実に涙が滲んだ。

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