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1章 思い出は幻の中に

1 プロローグ

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「師匠、いい加減仕事してください!」

 一生懸命部屋の片づけをしている私のすぐ横でテーブルにベトっと突っ伏すようにだらしない姿勢で私にはまだ読めない魔導書をまるで雑誌か何かのようにパラパラとめくりながら目を通しているのは、ほんの数日前まで私が世界で一番尊敬していた大魔道士アーロンだ。

 ここは小国ルトリアス公国。
 の辺境。
 の端っこ。

 そして今私の目の前でだらしなく突っ伏してる彼こそは5年前ここルトリアス公国に流星のように現れ、ここ数百年国境に巣食ってルトリアス公国を悩ませ続けた封魔の森の雪華せっかドラゴンをたった一人で討伐し、その功績を持って王国お抱えの地位に付いた王国中の女性の憧れの的、アーロンその人。

 着任後すぐこの土地に新しい治水技術や水道橋の建設技術を広め、わずか半年で渓谷を挟んだ隣国のフレイバーンから雨季に氾濫する大河の共同治水を条件に支流を分けることで水源の少ない我が国に潤沢な水をもたらした。

 それからも彼の功績は数限りなく続き、こんな地方まで次々と伝えられる様な功績だけでも枚挙に暇もない、押しも押されぬ有名人である。

 そのサラサラと流れるような漆黒の長髪は金の細い糸で後ろに束ねられ、闇の様な黒の双眸は智慧で輝き、キリッと引き締められた薄い唇はまだ誰にも笑いかけたことがない、と巷の娘たちの間では噂されてきた。

 スラッとした長身の体躯は常に黒のローブに隠されているが、私はその中身が実は騎士団と並んでも遜色のないほど鍛え上げあられた筋肉でガチガチである事を知っている。

 今年はついに隣国アフェーリア国のアルス王子を抜いて人気投票第一位。

 数日前までの私は彼を夢にまで見るほど憧れている、学校を出たばかりの駆け出し魔術師だった。

 それが今じゃ……

「ひぃ! 冷たっ!」

 積み上がった書類を一生懸命整頓している私を捕まえて抱え込み、冷え切った手を私の背中に入れて押し付けて湯たんぽ代わりにし始めたアーロンから避難するため、逃れる様にテーブルの反対側に体を廻す。

 途端、不機嫌そうな声が響いた。

「おい、ここに戻ってこい。手元が寒いと仕事やめるぞ」
「勘弁してください、師匠が働かなくて、誰が食べ物を持ってきてくれるんですか?」
「だったら文句言ってないで湯たんぽになって戻ってこい」

 人の事を一体何だと思ってるんだこの人は!
 こちらを見もしないで手だけプラプラと振って私を呼びつける。
 私に拒否権が無いことは分かってる。
 分かってるけど頭にくる。

 仕方なく彼の左手がぎりぎり届くところまで戻って、一瞬逡巡しゅんじゅんしてから背を向けた。

「俺の左手に寂しい思いをさせた罰だ、ちゃんとここに来て俺の膝に座ってろ」

 呆れながらも、仕方なくおずおずとアーロンの膝に自分で乗る。小柄な私にはアーロンの身体はよじ登るって表現が正しい気すらする。

「……」

 私が膝に乗ってもアーロンはそのまままだ左手をプラプラさせてる。

 これは私に自分で温めろと。

 仕方ないので職業に似合わず筋肉質なアーロンの腕を持ち上げて考え込む。

 背中は冷たい。
 入れるのも難しい。
 仕方ない。

 私はその腕を自分の腕で抱え込む。
 でも魔導書に集中しているアーロンは全然自分ではその腕を支える気がないらしく、力の入っていない腕を抱え続けるのは結構辛い。

「……手、重いです、自分で支えてください」
「何を言っている、自分でちゃんと持っとけ」

うーん、両手でアーロンの手を支えているからこれじゃあ片付けが続けられない。

 そのまま何分が過ぎたのだろう、いい加減飽きてきた上に手が重くてりそうになってきた。

「師匠、もう重くて無理です!」
「まだまだだ。せめてこの章が終わるまで自分で持ってろ」

 アーロンは私を膝に乗せたまま魔導書を読み続ける。

 自分で支えてくれないならもういいや。

 私は面倒くさくなってアーロンの腕をポイっと自分の膝に落とし、膝を握って落ちないようにだけしておく。
 すると、今度は重いながらもアーロンの腕の熱が湯たんぽ効果で温かくなってきて私もちょっとホッコリしてきてしまった。
 ついでにアーロンの膝上からアーロンの読んでいる魔導書を一緒に覗き込む。
 殆どは古い文献でとても私には読み切れないが、所々の挿絵は可愛いし、挿入話は少し読めた。
 娯楽のない生活が長い私はいつの間にか結構本気で一緒になって読んでいたら、私の顔を覗き込むような角度で顔を上げたアーロンの唇の端がクイッと上がった。

「どうした、俺の膝の上がそんなに気に入ったのか?」
「何言ってるんですか、師匠が強要してきたんでしょうが!? っわ!」

 私の反論もそこそこにぽいっと投げ出された。

 折角あったかくて面白かったのに。

「俺は一度王都に行ってくるからお前は掃除に戻れ」
「喜んで!」

 怒気と嫌味をたっぷりにそう答えて、私は出ていくアーロンの後ろ姿に思いっきり舌を出した。

 引っ越してきたばかりのこの古い館の中にはまだまだ掃除しなきゃならないところが山ほどあるのだ。私一人で全てをこなすのには後どれ程かかるのか予想もつかない。

 アーロンは週に数日しかこちらに居ないと言っていたが、このままでは私が人間らしい生活を出来ない。

 まずは最低限すぐに必要になる所から何とかしなくちゃ。
 大体、なんで全て私一人でやらなきゃならないんだ?

 廊下を抜けて吹き抜けのエントランスを取り巻くように続く階段を降りた私は、玄関からボロボロの屋敷を振り返って大きなため息をつくのだった。 
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