花の盛りの通り雨

こみあ

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第七話 前編

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 それから暫く、事件に関しては何事もなく過ぎ去った。
 ただし私の毎日はがらりと変わったが。

 女将さんが私を引き連れて買い物をするのはもうほとんど毎日の事で、ある日は振袖、あくる日は小間物、外履きに部屋の設え物まで色々だ。
 たまに顔を出す平三郎様にも「女将おかみさんを止めて下さい」とお願いするのだが、笑って聞き流されてしまう。

 私は女将さんに頼み込んで船宿のお手伝いをさせて貰うことにした。
 これでも一応道場の娘で、父から算盤と読み書きは仕込まれている。
 人前に出るのはまだ危ないと、母屋で帳簿付けのお手伝いや時事のご挨拶の文などの代筆を請け負っていて、白髪頭の番頭さんには特別重宝がられている。

 慎さんはあれからも数日おきに訪れて、女将さんと張り合うように私になにかと言っては土産を持ってくる。
 ただ、持って来る物の殆どが女心の知れない瓦版だったり立ち売りの天ぷらだったりするのだが。

 あれっきり慎さんは私の部屋には入らず、手も出してこない。
 ちょっと顔を出して、暫く縁側に腰かけて話をしては帰っていく。
 それは結構寂しいのだが、かと言って不安になることもなく、毎日が忙しくてそれほど深くは考える暇はなかった。

 目まぐるしく過ぎ去る日々に追われて、私は事件の事を少しずつ記憶から手放していった。



 ある昼下り、慎さんはいつものように片手に土産の紙包みを持って私の部屋の縁側に回って来た。

「お鈴ちゃん、今日はちょいと話がある。中に上がってもいいかい?」
「それなら表から回ってらしたらいいのに」
「お峰さんに通してくれと話をするのもなんだか気が引けてな」

 照れたように頭を掻きながら草履を脱ぐ。
 私は急いで手拭いを絞ってきて慎さんに手渡した。

 慎さんはありがとうよ、と言って受け取って足を拭いて部屋に上がる。
 直ぐに障子を閉めて私の前に座ると「お鈴ちゃんにも関わりがあるから話すが、これはここだけの話だ」と前置きして声を潜ませた。

「結果から言うと目明めあかしをったのは浅野様の手の者だったようだ」

 私は久方ぶりに聞く事件の行方に少し眩暈を感じながら尋ねた。

「下手人は捕まったのですか?」
「いや。残念ながら俺達の仕事は下手人を上げることじゃねぇ。今後の危険を防ぐための情報を集めるだけだ」

 少し残念そうに慎さんが言った。

「浅野様はなぜそんなことを……」
「お奉行から聞いた話では、殿中では以前、三次みよし藩の浅野長照ながてる様が亡き備中松山藩主の水谷みずのや勝美かつよし様を謀殺されたとまことしやかに噂されてた事があったそうだ。松山藩のお取り潰しに際しては赤穂藩の浅野長矩ながのり様が城受け取り役となられた。当時赤穂藩は松山で幕府の検地にも人を貸し出している」

 そう言った慎さんの顔は完全にお侍さんの顔になっている。聞き慣れない藩主の名前が多く、頭が今聞かされた話でいっぱいいっぱいになった。

「赤穂と言えば塩で有名だがその陰では藩の真ん中を流れる千種ちくさ川の洪水による被害が続いていたそうだ。塩業で赤穂と一二を争う吉良きら氏が『黄金堤』を作って治水に成功してから、赤穂藩では治水への執着が強くなっていた。そこに松山藩が新しい治水の普請を考案したと広く噂された」

 慎さんは一息ついて厳しい表情で続ける。

「勝美《かつよし》様御自身にはまだお子はなく、親族にも家督を継げる年齢の者がいない事から相続はまだ決まっていなかった。当時水谷様がお亡くなりになれば断絶は目に見えていたし、そうなれば前回の赤穂の城受けを松山藩が取り仕切った関係で赤穂藩が今度は松山藩の城受けを賜ると推測するのも難しくなかった。そして、赤穂藩主長矩ながのり様の奥方、阿久里姫様は今も実権を握ると言われている前三次みよし藩主長照ながてる様の義娘に当たる」
「えっとちょっと待ってください」

 私は慎さんが立て板に水のように話した事を何とか理解しようと考え直す。

「それは赤穂のお殿様が治水方を欲していらして、たまたま最近治水に成功された松山藩のお殿様が赤穂のお殿様の義理のお父上の所に行かれてすぐお亡くなりになると都合よく赤穂のお殿様が松山城に入って松山藩内に人を入れられるようになったって事ですよね」

 そこまで言って私はぞっとする。

「では慎さんは松山藩のお殿様は赤穂のお殿様の義理のお父上に殺害されたかもしれない、と。それで赤穂のお殿様が松山の治水を探る手助けをされたと」

「さあな。本当の所、お偉い人たちの間で何が起きたのかは分からねぇ。その後水谷氏は急いで幼い勝晴様を無理して養子にし家督相続をさせようとした。ところが、悪い事にそちらも一月で亡くなってしまい、水谷氏は改易となり赤穂藩は堂々と治水事業を検分出来たってこった。ちなみに三次藩は財政難で諸藩からの借り入れが焼き付いているそうだ」

 慎さんは少しつまらなそうにそう言った。
 私は暫く考えてから、はてと首をかしげた。

「えっと、それが自昌院様やあの下屋敷とどのような関係があるんですか?」
「水谷氏家中の者が勝美《かつよし》様が亡くなられる直前に書かれた手紙を持って自昌院様に直訴しようとしたそうだ」
「なぜそんな関わりの少ない方に?」
「自昌院様は長照《ながてる》様のお母上だ。しかも将軍家にも前田家にも大きな影響力を持ってらっしゃる。水谷の者は慈悲深い事で有名な自昌院様に息子の長照ながてる様の所業を直訴して、せめて新たな継嗣の申し込みを取りなしてもらおうとしたのだろうよ。だが下手に上屋敷や中屋敷に届けりゃすぐ浅野様に知れちまう。そこで自昌院様ご自身のお抱え屋敷である下屋敷を狙った」

 外から水売りの威勢のいい声が響いてきてちょっと慎さんが物欲しそうに顔を向けた。

「ところが自昌院様にそれが届く前に何者かに阻まれ、書状は何処かに行ってしまった。江戸に入っていた水谷の者達はいくら待っても何の音沙汰もない事に苛立ち何とか書状を探そうと下屋敷に忍び込む段取りを付けようとした。そこにどうした訳で目明めあかしが一緒になったのかは結局分からずじまい」

 何かが引っかかる気がするのだが何だか分からない。取り敢えず先に進める。

「それで水谷の方達は……?」
「鈴ちゃんをかどわかした浪人達がいたろう。あれが水谷の家の者だった。結局あの後雇われ者のごろつきが集まり出した所でお縄になった。お縄にしたのは北方の定廻りだ。これ以上見過ごしにはできなくてな」
「なぜそれで赤穂の浅野様と繋がったんですか?」
「水谷の者がしゃべったよ。あの夜、自昌院様に伝手つてを付けてくれるはずの者と下屋敷の裏で落ち合うはずの所に赤穂の者たちが邪魔に入ったそうだ。そこにたまたまいた男を、赤穂藩の藩士が切り捨てるのを見たそうだ」
「それでは浅野様にもお取り調べをなさるのですか?」

 私の問いに、慎さんが悔しそうに口をへの字にする。

「無理だろうな。水谷の者共はお取り調べが始まって直ぐ、牢内で自決しちまった」
「そ、そんな」
「幕府は水谷氏が再度申し立てた弟君、勝時かつとき様を継嗣とは認めず改易としたが、勝時様には後から旗本として三千石与えられお家断続だけは免れた。その事を取り調べで初めて知った浪人共は自分達が身をやつしてまでした事が今度は新たなお家問題になってしまう事を恐れたんだろう。後に残ったごろつきどもは何も知りゃあしない」
「それでは私を拐した浪人さんたちも……?」
「ああ。死んじまった。これで鈴ちゃんがお白州に出る必要はなくなったし、鈴ちゃんに手を出す者もいないだろう」

 今まで不安だったかもしれねぇが安心しな、と慎さんは小さく笑ったが、私は全然嬉しくない。
 自分にまつわる事で捕まった人が死んでしまった事を、嬉しいとはやはり思えなかった。

「それでだな、鈴ちゃん。その事件にやっと切りも付いた事だしお前さんとの事をはっきりしたい」

 慎さんが赤くなりながらもしっかりと私の目を見て言葉を続ける。

「前に約束したろう。事件に方が付いたら迎えに行くと」

 私は慎さんの言葉に心臓が高鳴り、顔が赤くなってくる。
 もう前の様な不安はなかった。

「鈴ちゃん、俺と一緒になってくれるかい?」

 少し不安げに、だけど誇らしげにそう尋ねる慎さんが少し可愛いなどと思ってしまった。
 私は私で喜びで声が震えるのを抑えられず、短く返事を返す。

「は、はい、喜んで」

 同じ様に嬉しそうな慎さんの顔がゆっくりと近づいて来て慎さんの唇が私の唇に重なった。
 久し振りの慎さんの唇の感触に身体の芯が熱くなる。
 着物越しに伝わって来る慎さんの体温が愛おしい。

 お互いの唇を忙しく求め合い、その音が静かな室内で優しく響いていたが、暫くすると慎さんは振り払うように私を引き剥がして大きく息を付いた。

「……実はおやっさんと女将さんがお前さんの返事を待っているんだ。今日はこれ以上無理だ、勘弁してくれ」

 そう言う慎さんの顔は私の大好きな情けない顔だった。


◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆


 それから更にふた月が過ぎた頃。
 紫陽花が咲き始めた梅雨入り前のある昼下がり、自室で書き物をしていた私の所に女将さんが顔を出した。

「四谷の妙円寺さんの小坊主さんがお鈴ちゃんに手紙を持って来たんだけど」

 ちょっと思案顔で私に手紙を手渡す。
 包みの表には名前がないがその包みはやけに上等な紙だった。

 開けてみると美しい字で夏の法要へのお誘いと日時が書かれている。
 最後に書かれている差出人の「満」と言う名前を見て私は腰が抜けそうになった。

「自昌院様……」

 私の呟きを聞いていた女将さんが浮かない顔で聞いてくる。

「お鈴ちゃん、どうしましょうね。小坊主さんはお返事を伺ってきて欲しいと言われているそうなんだけど」

 私は少しの間思案したが、女将さんにはっきりとお願いする。

「連れと二人でお伺い致しますとお伝えください。後、誰かに慎さんを呼びに行ってもらうことは出来ますか?」
「あの時の事に関わるお話かい?」
「はい。慎さんには一緒に行っていただかないと」

 私がそう答えると女将さんは直ぐに踵を返して人を呼びに行く。

 私は手紙をもう一度見据えてため息をついた。
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