9 / 17
第五話 前編
しおりを挟む
慎さんはそのまま優しく腕の中の私を抱きしめて頭を撫で続けてくれる。
私が落ち着いたのを見て慎さんが私を布団に入れてくれた。
「鈴ちゃん。これでゆっくり眠れるかい」
「……でも慎さん」
「言ったろう。もう手を出さないって」
「え?」
「この件に方が付くまで待ってくれ」
そんな。
この件が終わったら慎さんが一緒にいてくれる保証はないのに。
慎さんは私の不安そうな顔を覗き込みながら言葉を続ける。
「約束だ。この件が片付いたら必ず鈴ちゃんを迎えに行く」
そう言いながら私の頭を撫でてくれる。
慎さんには申し訳ないが、昨日の疲れと達した後の脱力感で直ぐに瞼が落ちてきた。
私は慎さんが与えてくれる安心の合間でゆっくりと眠りに落ちていった。
◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆
次の朝、宿を立つ客の喧騒で暗がりの中目を覚ました私は、布団の中で暫くまどろんでいた。
朝売りの声が行きかい、明け六つの鐘が鳴る頃に慎さんが起きだす。
慎さんを見ると慎さんもしっかり目を覚ましてこちらを見ていた。
小さく微笑みながら「おはよう」とだけ声をかけられ、私も「おはようございます」と返す。
気恥ずかしくてそれ以上何も言えずにいると「ちょっと厠へ」と言って慎さんが出ていってしまった。
多分私に気を使ってくれたのだろう。
私は手早く身支度を終えた。
それぞれ用足しなどで部屋を空けた間に部屋が綺麗に片づけられていた。
朝食を運んでくれた女中さんに慎さんが心づけを渡し、暫く出るのでこの子の事を頼むと言づける。
「悪いがちょっとだけ出てくる。くれぐれも気をつけてくれ」
そう言い残して出ていってしまう。
一人部屋に残され、どうしたものかと考えていると、直ぐにお峰さんが髪結いを連れて入って来た。
「こちらは終わりましたから、どうぞ」
「お世話おかけします」
「良いんですよ、ついでなんですから。船宿に髪結いなんて贅沢と思われるかもしれませんが、私も朝の早い客商売ですからね」
「それじゃぁ早速」
私の後ろに腰掛けた髪結いのおじさんが手慣れた調子で髪を梳き上げ結っていく。
折角だからとお峰さんが自分一人ではとても出来ないほど手の込んだ髪型をおじさんに頼んで結い上げてくれた。
私の髪結いをする間にお峰さんが障子を開けて風を入れてくれる。
障子の外からは平川から吹き上げる優しい川風が春の匂いを部屋に運んできた。
「今日はいい天気だこと。舟遊びが忙しくなりそうね」
お峰さんがちゃきちゃきとそう言いながら、窓辺から通りを見下ろしている。
私の髪結いが終わるとお峰さんが私以上に喜んでくれた。
「まあ、よく似合う。慎さんも喜びますよ」
そう言ってお峰さんは髪結いさんと一緒に部屋を出て行った。
いつもよりちゃんと結い上げられた髪が少し重い気がして、暫くあちこち手で押さえていたが、直ぐに崩れそうな気がして諦めた。
お峰さんが開けてくれた障子の間から窓辺に腰かけて外を眺める。
慎さんはすぐ戻ると言っていたが、置いて行かれた私はここを出るわけにもいかず、他に出来る事がなにもなかったのだ。
それにこんな立派な船宿から平川の川面を眺めて時を潰すなんて贅沢、多分これっきりだろう。
部屋は通りを隔てて平川に面していた。早朝から旅立つ商人の皆さんはもう殆どが出てしまったようで、今は昼前から遊びに興じるお大臣様たちと下り物を載せた船が川面を揺らしなが行き交っている。
淡い黄緑の新芽の吹いた柳が対面の川沿いに揺れていて心そそられる。
平川を行きかう屋形船や猪牙船の中からは、お姐さんたちの笑い声や太鼓持ちの大声、船頭のかけ声が響いてくる。
遠くから聞こえてくるお囃子は浅草寺の奥山あたりだろうか?
外に出たいなぁ。
折角いいお天気なのに外を眺めるだけではつまらない。
お昼も近くなり、いい加減飽きてきた頃に慎さんが部屋に戻って来た。
何処で着替えたのか今日は着流しだ。
「鈴ちゃん、一人で大丈夫だったかい?」
「少しくらい一人でいても何もありませんよ」
私がおかしそうに返事をすると、慎さんは真面目な顔で返してきた。
「いや、例え気が知れた宿とは言え正直今はなにがあるか分からん。もし不審な者でも入って来た時には思いっきり叫ぶんだぞ」
「は、はい」
思わぬ厳しい忠告に、戸惑いながらも返事を返した。
「俺もなるたけここを離れないようにするから鈴ちゃんも我慢してくれ」
そう言いながらお土産だと言って笹包みを手渡してくれる。
「これは?」
「開けてみな」
包みを開けると鰻のかば焼きが乗せられている。
「両国橋を通って帰ってきたら今流行りのかば焼きの立ち売りが出てたんでな」
「まあ、お侍さんが買い食いですか」
私はちょっと呆れながらもその香ばしい匂いに誘われて小鼻をひくつかせた。
「俺はもう先にやったが中々だった。試してごらん」
慎さんは悪びれもせずに私に食べるよう勧めた。
「食べながらでいいからちょっと聞いてくれ」
「何でしょう」
「鈴ちゃんは拐かしの時の浪人の顔を覚えているかい?」
「朧気にでしたら」
私がしっかりと顔を見たのは私に当て身を加えた浪人さんだけで、後の二人は遠目だったこともあってあまり自信がない。
「鈴ちゃんのお陰で、俺たちが見張っていた赤穂藩中屋敷の様子を探っているそれらしき者を見かけたんだが、どうにも決め手がない。俺も見たが俺は直ぐに目隠しされちまったから今一つ確信が持てん」
「私でお役に立つでしょうか?」
「なんとも言えないがお願いしたい」
そう言って頭を下げる。
私は手を止めて慎さんに向き直った。
「慎さん、私にお手伝い出来るのでしたらいくらでも協力しますが、その前にお聞きしたい事があるのですが」
「…………」
「その、慎さん、私に話してもいい範囲で結構ですから、慎さんたちが一体なにをしてらっしゃるのか教えてくれませんか?」
「…………」
慎さんはちょっと考え込んだが、やがて決心したように話し始める。
「一週間ほど前、お前さんが拐かされた下屋敷内にある稲荷で仏さんが見つかった。鈴ちゃんはあれが何方の下屋敷か知っているかい?」
「確か以前、松平様のお屋敷だと伺った気が」
「まあ、間違っちゃいねぇがあそこはちょっと特殊なんだ」
慎さんは女中さんが運んできてくれたお茶を自分の茶碗に注いで話をつづけた。
「あそこは元々自昌院様が浅野安芸守へお興し入れの際に上様から化粧料として賜ったもんなんだ。ただ、同じ年に『寛文の惣滅』で幾つかの近隣の寺で坊主達が追い出された」
「『寛文の惣滅』って確か不受不施派(お布施を良しとせず幕府に主入れない日蓮宗の一派)のお寺をお上が潰して回ったって言う?」
慎さんは頷いてお茶をすすって一息入れる。
「その弾圧された寺社に関わる者を自昌院様が憂いて農地を買い取ってお抱え屋敷にして彼らを匿ってきたんだ」
「し、知りませんでした」
慎さんはちょっと眉根を寄せながら話を続ける。
「そんな事もあって、本来ならば藩預かりになるはずのこの一件を自昌院様がわざわざ直々に寺社方の吟味物調役に検分を願いだされた。ところがそこで上がっていた仏さんの身元が不味かった。調べてみれば隠密廻りの使っていた目明しだったんだ」
「隠密廻り、ですか」
噂に聞いた事くらいはあるが『隠密廻り』なんて実際にその存在をはっきりと聞くのは初めてだった。
「屋敷を預かっていたのは寺から移った者達と中元ばかりで、滅多に訪れない自昌院様の目を盗んで賭場を開いているような怪しい連中が混じってた」
「自昌院様は何故そんな者を雇い入れたのでしょう?」
「そんな現状をご存知なかったんだろう」
どうでも良さそうに慎さんは切って捨てた。
「吟味物調役から町奉行所にこの話が回って来たので俺達は数人で張り込んでいたんだが、暫くして素行の悪い中元に侍が渡りをつけているのが目撃された。仲介をした者を捕まえて聞き出せば、『近いうちに来る』と言づけさせられたという。いつ来るのかも分からねぇ話だったが、たった一つの手がかりだ。結果俺が自昌院様の客分と言う触れ込みで中に住み込んで罠を張っていたのさ」
「え、じゃあ慎さんは寺社方のお役人さんなのですか?」
「……いや、違う」
そこで慎さんはちょっと言いにくそうに声を落として答える。
「俺の身分はまあ、南町の同心だ。ただ、隠密廻り専門だがな」
「え、し、慎さんが『隠密廻り』、なのですか」
噂に聞くことがあっても見ることがないのが『隠密廻り』だ。
ついしげしげと慎さんの顔を見てしまう。
「俺の家系はちょっと変わっていてな。俺は今じゃ本所に部屋を持っているが、元々は鈴ちゃんに会ったあの辺りの出だ」
「え? 慎さんもですか?」
「ああ。まあ、住む界隈がかなり離れているからまず会った事もなかったろうがな」
そうなんだ。
「では昨日のお仲間のお侍さん方も?」
「いや、あっちは北町だ。おやっさんは彼方の与力を勤められている。後の二人は俺と同じ隠密廻りさ。同じ隠密同士、前から少しは繋がりがあった。おやっさんとは仕事で重なることが多くてな。ちょくちょくここに連れてきてもらっていた」
「なんで北と南の両方のお侍さんが一緒に仕事を?」
「あの屋敷の中で亡くなったのは北の隠密廻りの目明かしだったんだが、あの地域は南の定廻りの範疇だったんだ」
「そんなこともあるんですね」
「……まあ、めったにない。今回が本当に特殊な件なんだ」
そう言って私が食べ終わった鰻の包みを受け取って、代わりにお茶を渡してくれた。
それを受け取って暫くすすりながら、さっきっから私の心に引っかかっていた事を尋ねる。
「……自昌院様はどうして寺社方にお知らせされたんでしょうね」
何をまた、と言う顔で慎さんがこちらに目を向けた。
「だって本来ならばされないって慎さんも言ってたでしょう。自昌院様がご自分で匿われていた寺社の方が傷付けられたのならばともかく、殺されていたのは全く関わりのない人だったんですよね。だとしたら、寺社方に申し出る必要はなかったのでは?」
私の言葉に慎さんが思案顔になる。
「なんで鈴ちゃんはそこにこだわるんだい?」
「私はただ、自昌院様には自昌院様の理由があって行動されたんじゃないかな、と思ったんです」
「自昌院様の理由?」
「ええ。どうしてもの必要がないのに、わざわざご自身で検分を申しだされるなんて、自昌院様は奉行所に手を入れてもらいたい理由があったんじゃあないですか。なにか、その、慎さん達に気付いて欲しい事があったんじゃあないでしょうか」
慎さんはしばらく考え込んでいたがぼつりと呟いた。
「これは全く間違った見方をしていたのかもしれねぇ。鈴ちゃん、悪いがもう一度出てくる」
言葉と共に立ち上がって慎さんはバタバタと部屋を出て行ってしまった。
入れ替わりにお峰さんが入ってくる。
「あら、慎さんはまた出かけてしまったんですか? お昼をお出ししようかと思って来たんですけど」
「すみません、慎さんも私も立ち売りの鰻を頂いてしまいました」
「まあ、慎さんたらまた買い食い。今度お姉さまに告げ口しておかなくちゃ」
そう言って笑った。
私が落ち着いたのを見て慎さんが私を布団に入れてくれた。
「鈴ちゃん。これでゆっくり眠れるかい」
「……でも慎さん」
「言ったろう。もう手を出さないって」
「え?」
「この件に方が付くまで待ってくれ」
そんな。
この件が終わったら慎さんが一緒にいてくれる保証はないのに。
慎さんは私の不安そうな顔を覗き込みながら言葉を続ける。
「約束だ。この件が片付いたら必ず鈴ちゃんを迎えに行く」
そう言いながら私の頭を撫でてくれる。
慎さんには申し訳ないが、昨日の疲れと達した後の脱力感で直ぐに瞼が落ちてきた。
私は慎さんが与えてくれる安心の合間でゆっくりと眠りに落ちていった。
◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆
次の朝、宿を立つ客の喧騒で暗がりの中目を覚ました私は、布団の中で暫くまどろんでいた。
朝売りの声が行きかい、明け六つの鐘が鳴る頃に慎さんが起きだす。
慎さんを見ると慎さんもしっかり目を覚ましてこちらを見ていた。
小さく微笑みながら「おはよう」とだけ声をかけられ、私も「おはようございます」と返す。
気恥ずかしくてそれ以上何も言えずにいると「ちょっと厠へ」と言って慎さんが出ていってしまった。
多分私に気を使ってくれたのだろう。
私は手早く身支度を終えた。
それぞれ用足しなどで部屋を空けた間に部屋が綺麗に片づけられていた。
朝食を運んでくれた女中さんに慎さんが心づけを渡し、暫く出るのでこの子の事を頼むと言づける。
「悪いがちょっとだけ出てくる。くれぐれも気をつけてくれ」
そう言い残して出ていってしまう。
一人部屋に残され、どうしたものかと考えていると、直ぐにお峰さんが髪結いを連れて入って来た。
「こちらは終わりましたから、どうぞ」
「お世話おかけします」
「良いんですよ、ついでなんですから。船宿に髪結いなんて贅沢と思われるかもしれませんが、私も朝の早い客商売ですからね」
「それじゃぁ早速」
私の後ろに腰掛けた髪結いのおじさんが手慣れた調子で髪を梳き上げ結っていく。
折角だからとお峰さんが自分一人ではとても出来ないほど手の込んだ髪型をおじさんに頼んで結い上げてくれた。
私の髪結いをする間にお峰さんが障子を開けて風を入れてくれる。
障子の外からは平川から吹き上げる優しい川風が春の匂いを部屋に運んできた。
「今日はいい天気だこと。舟遊びが忙しくなりそうね」
お峰さんがちゃきちゃきとそう言いながら、窓辺から通りを見下ろしている。
私の髪結いが終わるとお峰さんが私以上に喜んでくれた。
「まあ、よく似合う。慎さんも喜びますよ」
そう言ってお峰さんは髪結いさんと一緒に部屋を出て行った。
いつもよりちゃんと結い上げられた髪が少し重い気がして、暫くあちこち手で押さえていたが、直ぐに崩れそうな気がして諦めた。
お峰さんが開けてくれた障子の間から窓辺に腰かけて外を眺める。
慎さんはすぐ戻ると言っていたが、置いて行かれた私はここを出るわけにもいかず、他に出来る事がなにもなかったのだ。
それにこんな立派な船宿から平川の川面を眺めて時を潰すなんて贅沢、多分これっきりだろう。
部屋は通りを隔てて平川に面していた。早朝から旅立つ商人の皆さんはもう殆どが出てしまったようで、今は昼前から遊びに興じるお大臣様たちと下り物を載せた船が川面を揺らしなが行き交っている。
淡い黄緑の新芽の吹いた柳が対面の川沿いに揺れていて心そそられる。
平川を行きかう屋形船や猪牙船の中からは、お姐さんたちの笑い声や太鼓持ちの大声、船頭のかけ声が響いてくる。
遠くから聞こえてくるお囃子は浅草寺の奥山あたりだろうか?
外に出たいなぁ。
折角いいお天気なのに外を眺めるだけではつまらない。
お昼も近くなり、いい加減飽きてきた頃に慎さんが部屋に戻って来た。
何処で着替えたのか今日は着流しだ。
「鈴ちゃん、一人で大丈夫だったかい?」
「少しくらい一人でいても何もありませんよ」
私がおかしそうに返事をすると、慎さんは真面目な顔で返してきた。
「いや、例え気が知れた宿とは言え正直今はなにがあるか分からん。もし不審な者でも入って来た時には思いっきり叫ぶんだぞ」
「は、はい」
思わぬ厳しい忠告に、戸惑いながらも返事を返した。
「俺もなるたけここを離れないようにするから鈴ちゃんも我慢してくれ」
そう言いながらお土産だと言って笹包みを手渡してくれる。
「これは?」
「開けてみな」
包みを開けると鰻のかば焼きが乗せられている。
「両国橋を通って帰ってきたら今流行りのかば焼きの立ち売りが出てたんでな」
「まあ、お侍さんが買い食いですか」
私はちょっと呆れながらもその香ばしい匂いに誘われて小鼻をひくつかせた。
「俺はもう先にやったが中々だった。試してごらん」
慎さんは悪びれもせずに私に食べるよう勧めた。
「食べながらでいいからちょっと聞いてくれ」
「何でしょう」
「鈴ちゃんは拐かしの時の浪人の顔を覚えているかい?」
「朧気にでしたら」
私がしっかりと顔を見たのは私に当て身を加えた浪人さんだけで、後の二人は遠目だったこともあってあまり自信がない。
「鈴ちゃんのお陰で、俺たちが見張っていた赤穂藩中屋敷の様子を探っているそれらしき者を見かけたんだが、どうにも決め手がない。俺も見たが俺は直ぐに目隠しされちまったから今一つ確信が持てん」
「私でお役に立つでしょうか?」
「なんとも言えないがお願いしたい」
そう言って頭を下げる。
私は手を止めて慎さんに向き直った。
「慎さん、私にお手伝い出来るのでしたらいくらでも協力しますが、その前にお聞きしたい事があるのですが」
「…………」
「その、慎さん、私に話してもいい範囲で結構ですから、慎さんたちが一体なにをしてらっしゃるのか教えてくれませんか?」
「…………」
慎さんはちょっと考え込んだが、やがて決心したように話し始める。
「一週間ほど前、お前さんが拐かされた下屋敷内にある稲荷で仏さんが見つかった。鈴ちゃんはあれが何方の下屋敷か知っているかい?」
「確か以前、松平様のお屋敷だと伺った気が」
「まあ、間違っちゃいねぇがあそこはちょっと特殊なんだ」
慎さんは女中さんが運んできてくれたお茶を自分の茶碗に注いで話をつづけた。
「あそこは元々自昌院様が浅野安芸守へお興し入れの際に上様から化粧料として賜ったもんなんだ。ただ、同じ年に『寛文の惣滅』で幾つかの近隣の寺で坊主達が追い出された」
「『寛文の惣滅』って確か不受不施派(お布施を良しとせず幕府に主入れない日蓮宗の一派)のお寺をお上が潰して回ったって言う?」
慎さんは頷いてお茶をすすって一息入れる。
「その弾圧された寺社に関わる者を自昌院様が憂いて農地を買い取ってお抱え屋敷にして彼らを匿ってきたんだ」
「し、知りませんでした」
慎さんはちょっと眉根を寄せながら話を続ける。
「そんな事もあって、本来ならば藩預かりになるはずのこの一件を自昌院様がわざわざ直々に寺社方の吟味物調役に検分を願いだされた。ところがそこで上がっていた仏さんの身元が不味かった。調べてみれば隠密廻りの使っていた目明しだったんだ」
「隠密廻り、ですか」
噂に聞いた事くらいはあるが『隠密廻り』なんて実際にその存在をはっきりと聞くのは初めてだった。
「屋敷を預かっていたのは寺から移った者達と中元ばかりで、滅多に訪れない自昌院様の目を盗んで賭場を開いているような怪しい連中が混じってた」
「自昌院様は何故そんな者を雇い入れたのでしょう?」
「そんな現状をご存知なかったんだろう」
どうでも良さそうに慎さんは切って捨てた。
「吟味物調役から町奉行所にこの話が回って来たので俺達は数人で張り込んでいたんだが、暫くして素行の悪い中元に侍が渡りをつけているのが目撃された。仲介をした者を捕まえて聞き出せば、『近いうちに来る』と言づけさせられたという。いつ来るのかも分からねぇ話だったが、たった一つの手がかりだ。結果俺が自昌院様の客分と言う触れ込みで中に住み込んで罠を張っていたのさ」
「え、じゃあ慎さんは寺社方のお役人さんなのですか?」
「……いや、違う」
そこで慎さんはちょっと言いにくそうに声を落として答える。
「俺の身分はまあ、南町の同心だ。ただ、隠密廻り専門だがな」
「え、し、慎さんが『隠密廻り』、なのですか」
噂に聞くことがあっても見ることがないのが『隠密廻り』だ。
ついしげしげと慎さんの顔を見てしまう。
「俺の家系はちょっと変わっていてな。俺は今じゃ本所に部屋を持っているが、元々は鈴ちゃんに会ったあの辺りの出だ」
「え? 慎さんもですか?」
「ああ。まあ、住む界隈がかなり離れているからまず会った事もなかったろうがな」
そうなんだ。
「では昨日のお仲間のお侍さん方も?」
「いや、あっちは北町だ。おやっさんは彼方の与力を勤められている。後の二人は俺と同じ隠密廻りさ。同じ隠密同士、前から少しは繋がりがあった。おやっさんとは仕事で重なることが多くてな。ちょくちょくここに連れてきてもらっていた」
「なんで北と南の両方のお侍さんが一緒に仕事を?」
「あの屋敷の中で亡くなったのは北の隠密廻りの目明かしだったんだが、あの地域は南の定廻りの範疇だったんだ」
「そんなこともあるんですね」
「……まあ、めったにない。今回が本当に特殊な件なんだ」
そう言って私が食べ終わった鰻の包みを受け取って、代わりにお茶を渡してくれた。
それを受け取って暫くすすりながら、さっきっから私の心に引っかかっていた事を尋ねる。
「……自昌院様はどうして寺社方にお知らせされたんでしょうね」
何をまた、と言う顔で慎さんがこちらに目を向けた。
「だって本来ならばされないって慎さんも言ってたでしょう。自昌院様がご自分で匿われていた寺社の方が傷付けられたのならばともかく、殺されていたのは全く関わりのない人だったんですよね。だとしたら、寺社方に申し出る必要はなかったのでは?」
私の言葉に慎さんが思案顔になる。
「なんで鈴ちゃんはそこにこだわるんだい?」
「私はただ、自昌院様には自昌院様の理由があって行動されたんじゃないかな、と思ったんです」
「自昌院様の理由?」
「ええ。どうしてもの必要がないのに、わざわざご自身で検分を申しだされるなんて、自昌院様は奉行所に手を入れてもらいたい理由があったんじゃあないですか。なにか、その、慎さん達に気付いて欲しい事があったんじゃあないでしょうか」
慎さんはしばらく考え込んでいたがぼつりと呟いた。
「これは全く間違った見方をしていたのかもしれねぇ。鈴ちゃん、悪いがもう一度出てくる」
言葉と共に立ち上がって慎さんはバタバタと部屋を出て行ってしまった。
入れ替わりにお峰さんが入ってくる。
「あら、慎さんはまた出かけてしまったんですか? お昼をお出ししようかと思って来たんですけど」
「すみません、慎さんも私も立ち売りの鰻を頂いてしまいました」
「まあ、慎さんたらまた買い食い。今度お姉さまに告げ口しておかなくちゃ」
そう言って笑った。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる