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荷台の中
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プラネタリウムさながらの星空。濃い紺色の画用紙の上に金粉をまぶしたようなそれは、ビルまみれの都会では見ることの出来ない、贅沢な代物だ。
星座も星の名前も何も分からないが、見ていて飽きない。
「おじさん、なに見てるの?」
「空だよ」
そう言いながら、空に向かって指を指す。
折俺の指をなぞるようにして、エレナは首を傾けていく。
そして、満天の星空を捉えたとき、彼女の目が大きく見開かれた。
「綺麗……」
美辞麗句を並び立てるでもなく、一言だけ彼女は呟いた。
彼女の故郷の空がどんなものだったかは分からない。
けれど、こうして空を眺めることはしなかっただろう。スラムに育った子供というのは、こんな文化的なことをする余裕を持ち合わせていないからだ。
俺は荷台に寝転がった。星空をより広く見るためだ。背中に金属の床が触れる。太陽の熱に温められ、程良い温もりを残していた。
「……昔を思い出すよ」
「昔?」
エレナが、俺の隣に寝転がりながら訊ねてくる。
俺は記憶に被った埃を払った。おぼろげな記憶が鮮明になり、脳内で再生される。
「……昔。おじさんがまだ若かった頃な。こんなふうにして、星を見てたんだよ」
「ふ~ん」
エレナは俺の過去に少し興味を持っているようだが、そう簡単に人に話せるものではない。
若かった頃というのは、イスラム過激派を相手に、イラクやアフガニスタンを駆け回っていた頃のこと。
度重なる戦闘によって街は廃墟と化し、文明の光が消えた。
なので、星の光が際立つようになり、夜に空を見上げれば満天の星空が望めたのだ。
俺はテクニカルの荷台や銃座に座って、よく星を眺めていた。
毎日誰かが死ぬ日常の中。
星が綺麗だと感じることで自分がまだ、精神的、肉体的両方の余裕があるのと、文明的な感性が残っていることを確認していたのだ。
記憶の再生が終わると、ふと、ある種の寂しさのようなものが胸の中に現れた。
視線を星空から、自身の身体に落とす。
今ここにいるのは、正義に燃え、己が身一つで戦う義勇兵ではなく、兵という肩書を捨てた一人の男でしかない。
(……あの頃みたいに、あちこちを走りまわれないんだな)
老いからは逃げられない。
重ねてきた年月に浸りながら、俺はコンビーフを齧った。
肉の塩辛さが、思考を逃れられない現実へと引き戻す。
「………………」
どんなに年を取ろうとも、星だけは変わらずに瞬いている。
「……本当に綺麗だ」
俺はそう呟いてからは、無言でコンビーフを齧り続けた。エレナも俺の昔話より肉の方に気が向いたようで、何も言わずに肉にパクつく。
お互いに食べ終えてから、また無言で星を眺め続けた。十分くらいこうしていただろうか、エレナが口を開いた。
「……ずっと、こうしていられたらいいね」
俺は顔を彼女の方に向けたが、思っていたよりも薄暗くその表情は伺えない。
「……そうだな」
そう返すと、不意に手を握られた。小さな手だ。確かな生の温もりが手のひらを通して、伝わってくる。
「どうした?」
「おじさんは……」
「うん?」
「……おじさんは」
「………………」
「おじさんは――」
「おじさんは」の先を言い淀むエレナ。何事かと問いただそうとした瞬間、言葉の先を彼女が口にした。
「――死なないよね?」
衝撃的な発言に、一時的に思考が止まってしまう。それでもなんとか、言葉を絞り出す。
「……死なない?」
「………………」
「どういうことだ? ……エレナ?」
エレナはまず、俺の手を強く握った。俺がここにいることを確かめるように。
「前に、私に言葉を教えてくれたおじさんのお話をしたの、覚えてる?」
混乱状態で咄嗟には思い出せなかった。しかし、掃き溜めに鶴とも呼ぶべき存在だったのを思い出した。
「……もちろん」
「そのおじさんはね……。死んじゃったの」
前にエレナがその「おじさん」について言及した時、一部を濁していた。つまりそれは、彼の死に関係するからだったのだ。
「……殺されちゃったの」
声から、彼女が涙ぐんでいるのが分かる。
俺は迷わず手を引き、彼女を抱きしめた。胸のあたりが温かい何かで濡れる。涙だろう。頭を撫でながらエレナを宥め、ひとまず落ち着かせる。
それから彼女が落ち着いたタイミングを見計らって「おじさん」に何があったかを、改めて訊ねた。
「そのおじさんは、誰に殺されたんだ?」
「……私を、あの、大きい船に乗せた人達の仲間」
人身売買組織の一員が何故。その疑問はすぐに解消された。
「私が売られた時ね、おじさんの家にいたの。それで、私が連れてかれそうになって、おじさんが庇ってくれたの」
日常のささやかな幸せに土足で踏み込む無頼の輩を目の当たりにして、その「おじさん」が何を思ったのかは定かではない。だが、エレナの言葉から考えるに、毅然と立ち向かったのだろう。
悲しいことに、その結果は簡単に察しが付く。
「……それで、撃たれちゃったの」
「………………」
「『逃げろ!』って叫んでくれた。でも……逃げられなかった」
「……エレナのせいじゃない。おじさんを撃った、いや、エレナをさらった奴等が、全部悪いんだ」
「でも! 私が最初から素直にしてれば、おじさんは……」
確かにエレナの言う通り、彼女が最初から素直にしていれば、その場で「おじさん」が撃たれることは無かったのかもしれない。
けれど、そうじゃないのは今の俺が一番分かっていることだ。
星座も星の名前も何も分からないが、見ていて飽きない。
「おじさん、なに見てるの?」
「空だよ」
そう言いながら、空に向かって指を指す。
折俺の指をなぞるようにして、エレナは首を傾けていく。
そして、満天の星空を捉えたとき、彼女の目が大きく見開かれた。
「綺麗……」
美辞麗句を並び立てるでもなく、一言だけ彼女は呟いた。
彼女の故郷の空がどんなものだったかは分からない。
けれど、こうして空を眺めることはしなかっただろう。スラムに育った子供というのは、こんな文化的なことをする余裕を持ち合わせていないからだ。
俺は荷台に寝転がった。星空をより広く見るためだ。背中に金属の床が触れる。太陽の熱に温められ、程良い温もりを残していた。
「……昔を思い出すよ」
「昔?」
エレナが、俺の隣に寝転がりながら訊ねてくる。
俺は記憶に被った埃を払った。おぼろげな記憶が鮮明になり、脳内で再生される。
「……昔。おじさんがまだ若かった頃な。こんなふうにして、星を見てたんだよ」
「ふ~ん」
エレナは俺の過去に少し興味を持っているようだが、そう簡単に人に話せるものではない。
若かった頃というのは、イスラム過激派を相手に、イラクやアフガニスタンを駆け回っていた頃のこと。
度重なる戦闘によって街は廃墟と化し、文明の光が消えた。
なので、星の光が際立つようになり、夜に空を見上げれば満天の星空が望めたのだ。
俺はテクニカルの荷台や銃座に座って、よく星を眺めていた。
毎日誰かが死ぬ日常の中。
星が綺麗だと感じることで自分がまだ、精神的、肉体的両方の余裕があるのと、文明的な感性が残っていることを確認していたのだ。
記憶の再生が終わると、ふと、ある種の寂しさのようなものが胸の中に現れた。
視線を星空から、自身の身体に落とす。
今ここにいるのは、正義に燃え、己が身一つで戦う義勇兵ではなく、兵という肩書を捨てた一人の男でしかない。
(……あの頃みたいに、あちこちを走りまわれないんだな)
老いからは逃げられない。
重ねてきた年月に浸りながら、俺はコンビーフを齧った。
肉の塩辛さが、思考を逃れられない現実へと引き戻す。
「………………」
どんなに年を取ろうとも、星だけは変わらずに瞬いている。
「……本当に綺麗だ」
俺はそう呟いてからは、無言でコンビーフを齧り続けた。エレナも俺の昔話より肉の方に気が向いたようで、何も言わずに肉にパクつく。
お互いに食べ終えてから、また無言で星を眺め続けた。十分くらいこうしていただろうか、エレナが口を開いた。
「……ずっと、こうしていられたらいいね」
俺は顔を彼女の方に向けたが、思っていたよりも薄暗くその表情は伺えない。
「……そうだな」
そう返すと、不意に手を握られた。小さな手だ。確かな生の温もりが手のひらを通して、伝わってくる。
「どうした?」
「おじさんは……」
「うん?」
「……おじさんは」
「………………」
「おじさんは――」
「おじさんは」の先を言い淀むエレナ。何事かと問いただそうとした瞬間、言葉の先を彼女が口にした。
「――死なないよね?」
衝撃的な発言に、一時的に思考が止まってしまう。それでもなんとか、言葉を絞り出す。
「……死なない?」
「………………」
「どういうことだ? ……エレナ?」
エレナはまず、俺の手を強く握った。俺がここにいることを確かめるように。
「前に、私に言葉を教えてくれたおじさんのお話をしたの、覚えてる?」
混乱状態で咄嗟には思い出せなかった。しかし、掃き溜めに鶴とも呼ぶべき存在だったのを思い出した。
「……もちろん」
「そのおじさんはね……。死んじゃったの」
前にエレナがその「おじさん」について言及した時、一部を濁していた。つまりそれは、彼の死に関係するからだったのだ。
「……殺されちゃったの」
声から、彼女が涙ぐんでいるのが分かる。
俺は迷わず手を引き、彼女を抱きしめた。胸のあたりが温かい何かで濡れる。涙だろう。頭を撫でながらエレナを宥め、ひとまず落ち着かせる。
それから彼女が落ち着いたタイミングを見計らって「おじさん」に何があったかを、改めて訊ねた。
「そのおじさんは、誰に殺されたんだ?」
「……私を、あの、大きい船に乗せた人達の仲間」
人身売買組織の一員が何故。その疑問はすぐに解消された。
「私が売られた時ね、おじさんの家にいたの。それで、私が連れてかれそうになって、おじさんが庇ってくれたの」
日常のささやかな幸せに土足で踏み込む無頼の輩を目の当たりにして、その「おじさん」が何を思ったのかは定かではない。だが、エレナの言葉から考えるに、毅然と立ち向かったのだろう。
悲しいことに、その結果は簡単に察しが付く。
「……それで、撃たれちゃったの」
「………………」
「『逃げろ!』って叫んでくれた。でも……逃げられなかった」
「……エレナのせいじゃない。おじさんを撃った、いや、エレナをさらった奴等が、全部悪いんだ」
「でも! 私が最初から素直にしてれば、おじさんは……」
確かにエレナの言う通り、彼女が最初から素直にしていれば、その場で「おじさん」が撃たれることは無かったのかもしれない。
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