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第3章 夢よもういちど

3-14.砂上の美酒 ワイロゥ・トルーマン

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 ワイロゥ・トルーマンに示された”祝福”の対価、それは1億ドル。
 普通の人間なら一生贅沢三昧が出来る金額であり、それを投資に回せば、子々孫々に到るまで働かずに暮らせるだろう。
 だが、彼にとってはそれは物足りない金額だった。
 彼は東ヨーロッパ某国の議員であり、ゆくゆくは首相の座を狙う野心家でもあったから。
 1億ドルという金額は個人には大金であっても、彼にとっては数回の選挙で散逸してしまう金額であった。

「大変お待たせしました。皆さまの安全が確保出来ましたので、このフロア限定ではありますが自由にお過ごし下さい」

 4月2日の深夜、エボルトテック・ジャパンのVIPルーム、そこでワイロゥは社員からそう告げられた。

「ありがとう、少ししたら回ってみるよ」

 手持ちの充電アダプタをコンセントに刺し、スマホを充電させながらワイロゥは言う。
 何食わぬ顔をしているが、このスマホと充電器は一般のものとは違う。
 コンセントに差すだけでネットにつながるコンセントLANというものがある。
 それはコンセントから通じる電線をネットワークの通信回線として簡易に室内Wi-Fi環境を敷く装置。
 ワイロゥが持つ充電アダプタとスマホはその逆。
 ビル内の電線をアンテナにしてビル内で利用されるPCやスマホをハックする装置だ。
 手に入れた情報はスマホから衛星を通じて彼の本国へ送付される。
 もちろん、そのスマホも特製で外部からのハックは受け付けない。
 彼は某国の議員であるが、某国の元諜報員でもあった。

 一応、他の”祝福者”の様子でも見ておくか。
 
 ワイロゥはそう思い立つと、部屋から出る。
 フロアには大きめのコミュニケーションスペースがあり、そこにはドリンクバーと軽食のスペースもあった。
 彼の好物である高級ワインとキャビア缶も備えられている。
 いち早く部屋から出たのだろう、そこでは2人の男と3人の女が何やらヒソヒソと会話していた。

 おそらく、全て”祝福者”。
 全員が左手の甲を手袋や化粧で隠しているのを見ればわかる。
 顔つきと言葉のイントネーションからしてひとりを除けば、残りは全て西側の国民。
 極東の地で西側の国民というのも不思議なものだ。
 そう思いながらワイロゥは耳をすます。

「だから、あのエゴルトって人は危険なんです。”祝福”でそれを阻止するよう協力しましょう」
「そうはいっても、それを無条件に信じるわけにはいかないですよ」
「ハイ、こちらにも事情があります」

 日本の女が必死に訴えているが、他の”祝福者”はそれに同調する様子はない。
 当然だ、ここに集まったのは他人同士。
 出会って小一時間程度で信頼が生まれるはずがない。

「あ! 最後のひとりが出てきた! お願いです! 話を聞いて下さい!」

 見つかった。
 隠れる気もなかったが。

「スミマセン、ワタシ、ニホンゴ、ヨク、ワカラナイ」
「あ、そうですか……」
 
 こういう時は誤魔化すに限る。
 ワイロゥは日本人の女を軽くあしらいながらフロアを見渡す。
 その目がひとつのインターホンを捉えた。
 赤いボタンを押すと『なにか御用でしょうか』と秘書らしい女性が応対した。

「エゴルトCEOと直接お話したい。取り次いでもらえるかね?」
『少々お待ち下さい……。会うとおっしゃってます。そのままお待ちを』

 数分後、ワイロゥはCEO室に通された。

「僕と話とは何かな?」
「大したことじゃない。”祝福”の対価についてだ」
「1億ドルでは不満だと」
「ああ、倍の2億がこちらの要望だ」
「どうやら君の職業は物入りのようだね」
「そこは君の方がよく知っているだろう」

 ワイロゥの視線をエゴルトはまっすぐに受け止めると、数秒の間をおいて目を逸らす。

「3億出そう。もちろん”祝福”を僕の言う通りに使ってくれるという条件だが」
「君は賢いな。話が早くて助かるよ。これからも仲良くしたいね」
「こちらもだ」

 ふたりは近づくと、握手と軽いハグをして別れた。
 数分後、ワイロゥは再び部屋に戻りスマホをチェックする。
 もちろん、室内の監視カメラに見えない角度から。
 スマホは動作していた。

 ほう、こいつはかなりのネタだな。
 ファイル名やテキストだけでもわかる。
 エゴルトが違法行為や犯罪まがいのことを指示していたことが。
 本国で解析すればスキャンダルに、いや、彼を強請ゆするいいネタになるだろう。
 仲良く出来そうだ。

 上々の成果にワイロゥは機嫌を良くした。
 祝杯でも上げようかとコミュニケーションスペースのワインを思い出すが、その足は止まる。

 いや、何が入っているかわからない。
 祝杯はいい、だが安全を取るべきだ。

 ワイロゥは彼自身が持ち込んだバックを開け、そこからウォッカを取り出す。
 彼の一番の酒、母国の故郷の銘柄だ。
 マイナー過ぎてこの国ではまずお目にかかれない。
 合わせて取り出した堅いチーズとビスケットを流し込むようにワイロゥはウォッカをあおった。
 ウォッカの刺激と香りがチーズの味を深め、ビスケットのひなびた味を際立たせる。
 
 うまい、いつも通りでうまい。 
 だが、いつもより酔いが早いな。
 旅の疲れでも出たのか。

 ワイロゥは大きく伸びをすると、そのままベッドに倒れ込んだ。
 彼が目覚めることはなかった。
 
 ◇◇◇◇

「エゴルトCEO、掃除が完了しました」

CEO室でエゴルトの個人的な掃除婦レイニィが報告する。
 
「いつも綺麗にしてくれてありがとう。しかし彼も愚かだね」
「はい、このビルの中でこちらからの強制アクセスを受け付けないスマホを使うなんて。疑ってくれと言っているようなものです」

 エゴルトたちは当然だがここに訪れた”祝福者”を監視している。
 スマホの履歴も例外ではない。
 そして、その監視から逃れられるスマホなどないのだ。
 一般販売品の中には。

「自分が持ち込んだものなら安全と思い込むところもバカでしたね。すり替えられていましたのに」
「ああ、彼が持ち込んだものは入国ゲートのチェックで僕に知られているのにね」

 エゴルトテックは世界的なIT企業。
 入出国ゲートのシステムも世界的なシェアを誇る。
 ワイロゥの持ち物は全てエゴルト側に筒抜けだった。
 そして、世界各国に支社を持ち、プライベートジェットを所有する彼にとっては、どんなマイナーな酒であっても、数時間あればそれを調達するのは容易なことだった。

 エゴルトは左手の甲を満足気に眺める。
 そこには9の文字がふたつあった。

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