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第八章 動転する物語とハッピーエンド
ヌエとエクレア(その2) ※全4部
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◇◇◇◇
「今、戻ったぞ」
台盤所に入ると、そこに漂うのはばたぁと小麦が合わさって焼ける香り。
匂いの源はおぅぶんから取り出したばかりの鉄の盆。
久方ぶりの珠子の料理の香りだ。
「おかえりなさい。どうでしたヨルさんとソラさんは? 来てくれそうでしょうか」
「一応な。俺様の顔を立てて夜半過ぎに来ると言っておった」
「ありがとうございます。いやぁ、あんなことを言いましたけど、ヨルさんとソラさんは人間嫌いみたいですから、ちょっと心配だったんですよね」
「後先考えず言うからだ。だがな、お前の出す料理がヌエたちの不興を買えば、俺様の顔を潰すことになるぞ。もし、そうなったら……どうなるかわかるな」
少し含みを持たせた口調で俺様は言う。
「その時は腹が立たなくなるまで、またここで働きますよ。お腹ががいっぱいになれば、腹も立たなくなるでしょ。胸はすきますが」
「呵呵呵、相変わらずの度胸よな。お前のことだ献立には自信があるのだろう。その膨らんだ麦餅と甘い匂いを立てている練り餡がそれか?」
「これは試作用のシュー皮とカスタードクリームですよ。オーブンの試運転ですね。鬼道丸さん、次の準備は出来てますか?」
「はいっ、師匠! こんな感じでどうでしょうか?」
「うんうん、上出来です。これをオーブンに入れて、次が焼けるまでの間にシュー皮にカスタードを詰めちゃいましょ」
おぅぶんの扉を開け、その中に鉄の盆を入れると、珠子は金属の止め口についた袋を取り出した。
「さっ、鬼道丸さん、絞り袋の準備はいいですか」
「はい師匠!」
鬼道丸はウキウキと楽しそうに、珠子と同じ金属の止め口の付いた袋へかすたぁどという甘い匂いの練り餡を匙で詰め始める。
「熊どもはどうした? 姿は見えぬようだが」
「熊さんたちには買い出しを頼みました。魚貝とか果物とか。鮮度は重要ですからね。でも、天然舞茸があったのは嬉しい誤算でした。へっへっへっ、これはいいものですよ……」
台の端に鎮座する、黒くて平たい茸の群体を眺めながら、珠子がいやらしそうに笑う。
「それは茨木殿が師匠のために今朝採ってきた物です。本当は松茸を用意したかったのですが、良い物がなかったと言ってました」
「いえいえ、この舞茸だけで充分です。その名の通り、嬉しくて舞を舞っちゃうくらいですよ。ところで茨木さんはどうされたのです? まだ喧嘩中ですか?」
「ああ、まだ北対で引きこもっておる。なぜかは知らぬが、数日前より茨木は機嫌が悪い」
目下、俺様と茨木は喧嘩中。
あいつめ、俺様を見るとプイと目を逸らしおる。
「何か原因に心当たりは?」
「ない」
「本当に?」
シュー皮と呼んでいた麦餅にかすたぁどという練り餡を入れながら、珠子が俺様を問い詰める。
「そういえば……原因は誕生日やもしれぬ」
茨木の機嫌が悪くなる直前にしていた会話を思い出し、俺様はそう言う。
「誕生日? 茨木さんの誕生祝いを企画していたとかですか?」
「違うぞ。茨木は農民の生まれで、幼き時に父母を亡くし、母様に引き取られて俺様と同居するようになった。だから正確な誕生日はわからぬ。そんな話をしていた」
「平安時代の農民だと暦を知らないかもしれませんからね。でも、大体の季節くらいはわかるんじゃないですか」
「そうだ。母様より旧暦の神無月ごろだとは聞いている」
「旧暦の神無月、つまり旧暦の10月だとすると、11月8日から1か月間のどこかですね。茨木さんの誕生日は」
流石は珠子、計算が早い。
最近旧暦に関わりのある催しでもやったのだろうか。
「それで、その誕生日の話がどうかしたのですか?」
「正確な日付がわからぬのなら、それを決めてしまおうという話になった。そこで茨木は俺様に決めて欲しいと言ったのだ」
俺様だけに見せる可愛らしい顔でな。
そう言葉を続けようと思ったが、黙っておこう。
女と話す時に他の女の話を出すのは無粋であるからな。
…
……
「どうされました?」
「いや、何かに気付きそうになったが……。まあよい、話を続けよう。そこで俺様は言ったのだ。『ならば、珠子と同じ11月11日ではどうだ。これなら珠子の旅の帰路に同時に祝えるぞ』と……」
あ、
”女と話す時に他の女の話を出すのは無粋であるからな”
俺様の心の声が再度鳴り響く。
気付いた時にはもう遅かった。
「この唐変木のクソデリカシー男ー!!」
バチーン!
叫び声と同時に鋭い平手が俺様を襲う。
「それが原因に決まっているでしょ! 茨木さんが可愛そうだわ! おー、もう! ドジ! バカ! マヌケ! このアンポンタンのあほんだらー!!」
平手では飽き足らずと鉄の盆で珠子はバンバンバババンと俺様を叩き始める。
「特別な妻の誕生日を! 他の女の付け合わせみたいに設定するなんて! ポンコツ、ぼんくら、ノータリン!! 無知蒙昧とはあなたのことよ! 今すぐ茨木さんに土下座と五体投地してきなさい! このうすらトンカチー!!」
珠子の怒声は止まることを知らず、珠子は手袋を身に着け、おぅぶんから取り出したばかりの鉄の盆を頭上に掲げる。
「ちょ、さすがにそれは……、おい、鬼道丸! 見てないで助け……」
俺様の悲痛の声にいつもの意趣返しなのか、鬼道丸もやれやれと首を振る。
「父上、これは私でも父上が悪いと思います。たわけ、ですね」
俺様の眼前に熱気を放つ鉄の盆が迫った。
すまぬ茨木、俺様が悪かった。
だから、助けてくれ。
◇◇◇◇
助けはこなかった。
だからではないが、俺様が茨木の北対に行くのは自然な流れ。
この手の盆の菓子は贖罪の食材ではないぞ、勘違いするな珠子。
猪口才な女め。
台盤所でヌエへの料理を作っている珠子に向けて俺様は心の中で呟く。
「入るぞ、茨木」
「えっ、酒呑。ちょっとまってぇな」
相変わらず俺様の不意の訪問を茨木は拒む。
だが、それを無視して入るのも相変わらずだ。
「今度は裁縫か。以前は人形だったな」
茨木の手にあるのは木枠に張られた布。
刺繍というやつだ。
縫いかけの柄は俺様と茨木の顔だ。
「そんなのを作らぬともよかろう。中々の出来だが本物にはおよぶまい」
「そりゃま、酒呑の方がいい男やけど……」
視線を刺繍枠に下げながら茨木は言う。
「違うぞ、それより本物のお前の方が魅力的だと言っているのだ」
「あら、今日はやけにおじょうずや……、プップププププッ、あははっ、どないしたん、それ」
茨木の笑顔の理由は明白。
俺様の顔を見たからだ。
「珠子にやられた。誕生日のことであんまりだと罵られながらな」
鏡は見ずとも感覚でわかる。
俺様の顔は腫れあが……茨木の傷心を慰撫するために少し愉快になっているのだろう。
「そ、それで。ちっとはわかってくれたウチの気持ちを」
「ああ、すまなかった。茨木は俺様の中で何よりも大切で特別だと示すべきだった。その誕生日を他の女と同日にしようと考えたのは思慮が浅かった。許せ」
俺様は茨木の前に座り盆を体の後ろで隠しながら頭を下げた。
「それで、茨木の誕生日のことなのだが……11月22日でどうだ? 誰の誕生日とも重複しておらぬぞ」
「最後の一言は余計やけど、どうしてその日なん?」
「11月22日は”いい夫婦の日”なのだそうだ」
「それって珠子ちゃんからの入れ知恵やろ」
「そうだ。だが、それは些細なことに過ぎぬ。俺様は茨木の誕生日なら決して忘れない。そして11月22日から”いい夫婦”の日を連想するだろう。俺様は茨木の誕生日に彩りを添えたいのだ。この世で最高の彩りをな」
「それって……ひょっとせいへん?」
俺様の意図に気付いたのか、クスクスの笑う。
「正解だ。この世で最高の彩りとなれば、やはり俺様自身しかなかろう! お前だけのいい夫、酒呑童子である!」
「フフフッ、そうやね。酒呑は最高の男やさかい。ウチの誕生日にそれがあると嬉しいわ」
「それはいつもあるぞ。俺様がそれを忘れることなぞありえぬ。なにせ、最高の妻の誕生日だからな」
俺様がそう言うと、茨木は「せやね、その通りや」とフフフと花のような笑顔を見せる。
「ええよ。このまま喧嘩しとうのもウチは嫌やし。ウチの誕生日は11月22日。それと後ろの菓子で許したる」
どうやら機嫌は直ったようだ。
ま、俺様が誠意を尽くせば、わからぬはずがないがな。
「そうか。それでこそ俺様の妻。では、ともに食べようぞ。作ったのは珠子だが、俺様も少し手伝った。かすたぁどを詰める時にな」
背後の盆を前に出すと、山盛りのしゅうくりぃむが茨木の前に現れる。
しゅうくりぃむを飴で接着して、うず高く積んだものだ。
さらに糸のような飴で薄絹のように飾られている。
「うわぁー! クロカンブッシュやー!」
「知っていたのか。そうだ、仏国の結婚式などで振舞われる祝い菓子だそうだ。夏の時は和装だったからな、今度は洋装の菓子を作りたかったのだと言っておったぞ。『本当は式の参列者に配るんですが、今日はふたりだけの式ってことで、おふたりで食べて下さい』ともな。これはせめてもの俺の気持ちだ」
”詫び”という一言を入れなかったのは、俺様のつまらぬ自尊心。
台盤所で茨木へのりはぁさるでこの台詞を言った時、珠子は何やらニヤニヤ笑っておったが、今さら俺様と茨木がふたりっきりになろうと照れも恥もない。
茨木とは長い付き合いだからな。
「ふーん、気持ちねぇ。ふぅん」
「何だそのにやけた笑いは」
「ああ、気にせんでええよ。それより食べよ」
接着の飴がパキッと音を立て山の側面のしゅうくりぃむが茨木の手に落ちる。
茨木め、俺様に登頂のひとつを譲ろうとは愛いやつめ。
夫を立てる良い妻ではないか。
俺様もパキキッとしゅうくりぃむを手にする。
「いただきまーす」
「いただこうぞ」
サクシュッ
しゅうくりぃむの皮は最初はわずかに歯ごたえがあった。
だが、その食感はふわふわで、唇の形に合うかのように形を変える。
歯で皮を破ると、中からはかすたぁどの甘い香り。
卵と牛乳と砂糖の絡み合って生まれた、とろける餡が口内に広がった。
「相変わらず珠子はんの菓子はおいしわぁ。鬼道丸もダメとは言わへんけど、まだまだやねぇ」
「やはり本職には敵ぬさ。鬼道丸が毎日、俺様たちの食事を作ろうと、珠子は『酒処 七王子』の多数の来店客への料理を作るのだ。実践の数が違う。努力は認めるがな」
モシャモシャと次のしゅうくりぃむを食べつつ俺様は言う。
「”努力は認める”やなんて、酒呑もすっかり丸くなったねぇ。やっぱ息子はかわええか?」
「茨木の方が可愛い」
「あら、今日はいつになく上手やねぇ。嬉しいわぁ」
モッシュモッシュ
「ふーん。で酒呑は知っとるの?」
「何をだ?」
少しニヤニヤした顔で茨木もモギュモギュと食べ続ける。
「さっき、このクロカンブッシュは酒呑の気持ちだって言ってたやん」
「そうだな。嘘ではないぞ」
「うん、うれし。クロカンブッシュのシュークリームのChouはね、キャベツを意味するんよ」
「そうか、言われてみると似てないこともないな」
モギュモギュ
「このクロカンブッシュはフランスではウェディングケーキとして振る舞われる菓子なんよ」
「それも聞いたぞ」
ムグムグ
「で、外国では、キャベツはやや子の暗喩なんよ。もう、いややわ酒呑ったら、そんなにウチとウチの子が欲しかったん」
ムグゥ!
柔らかいはずのしゅうくりぃむが俺様の喉を圧迫した。
「ま、喧嘩の後のアレは盛り上がるって話もあるし、ウチはええよ。酒呑ならいつでもオッケーや」
珠子め、あのニヤニヤ顔はこれが理由か。
「いややん?」
しゅうくりぃむをハモっと口に咥え、上目遣いに俺様を見る茨木の姿は、垣間見える幼さと豊満な肢体とのぎゃっぷが、俺様の男を扇情する。
それが俺だけに向けられた姿ならば尚更。
珠子め『ヌエさんへの料理の準備には時間が掛かりますから、ごゆっくりどうぞー』なぞ言っておったが、こういうことか。
「嫌なものか、宴まではまだ間がある。それまで一足早く楽しむとしよう。ふたりで」
「うん、ふたりっきりで」
茨木はとても愛おしかった。
「今、戻ったぞ」
台盤所に入ると、そこに漂うのはばたぁと小麦が合わさって焼ける香り。
匂いの源はおぅぶんから取り出したばかりの鉄の盆。
久方ぶりの珠子の料理の香りだ。
「おかえりなさい。どうでしたヨルさんとソラさんは? 来てくれそうでしょうか」
「一応な。俺様の顔を立てて夜半過ぎに来ると言っておった」
「ありがとうございます。いやぁ、あんなことを言いましたけど、ヨルさんとソラさんは人間嫌いみたいですから、ちょっと心配だったんですよね」
「後先考えず言うからだ。だがな、お前の出す料理がヌエたちの不興を買えば、俺様の顔を潰すことになるぞ。もし、そうなったら……どうなるかわかるな」
少し含みを持たせた口調で俺様は言う。
「その時は腹が立たなくなるまで、またここで働きますよ。お腹ががいっぱいになれば、腹も立たなくなるでしょ。胸はすきますが」
「呵呵呵、相変わらずの度胸よな。お前のことだ献立には自信があるのだろう。その膨らんだ麦餅と甘い匂いを立てている練り餡がそれか?」
「これは試作用のシュー皮とカスタードクリームですよ。オーブンの試運転ですね。鬼道丸さん、次の準備は出来てますか?」
「はいっ、師匠! こんな感じでどうでしょうか?」
「うんうん、上出来です。これをオーブンに入れて、次が焼けるまでの間にシュー皮にカスタードを詰めちゃいましょ」
おぅぶんの扉を開け、その中に鉄の盆を入れると、珠子は金属の止め口についた袋を取り出した。
「さっ、鬼道丸さん、絞り袋の準備はいいですか」
「はい師匠!」
鬼道丸はウキウキと楽しそうに、珠子と同じ金属の止め口の付いた袋へかすたぁどという甘い匂いの練り餡を匙で詰め始める。
「熊どもはどうした? 姿は見えぬようだが」
「熊さんたちには買い出しを頼みました。魚貝とか果物とか。鮮度は重要ですからね。でも、天然舞茸があったのは嬉しい誤算でした。へっへっへっ、これはいいものですよ……」
台の端に鎮座する、黒くて平たい茸の群体を眺めながら、珠子がいやらしそうに笑う。
「それは茨木殿が師匠のために今朝採ってきた物です。本当は松茸を用意したかったのですが、良い物がなかったと言ってました」
「いえいえ、この舞茸だけで充分です。その名の通り、嬉しくて舞を舞っちゃうくらいですよ。ところで茨木さんはどうされたのです? まだ喧嘩中ですか?」
「ああ、まだ北対で引きこもっておる。なぜかは知らぬが、数日前より茨木は機嫌が悪い」
目下、俺様と茨木は喧嘩中。
あいつめ、俺様を見るとプイと目を逸らしおる。
「何か原因に心当たりは?」
「ない」
「本当に?」
シュー皮と呼んでいた麦餅にかすたぁどという練り餡を入れながら、珠子が俺様を問い詰める。
「そういえば……原因は誕生日やもしれぬ」
茨木の機嫌が悪くなる直前にしていた会話を思い出し、俺様はそう言う。
「誕生日? 茨木さんの誕生祝いを企画していたとかですか?」
「違うぞ。茨木は農民の生まれで、幼き時に父母を亡くし、母様に引き取られて俺様と同居するようになった。だから正確な誕生日はわからぬ。そんな話をしていた」
「平安時代の農民だと暦を知らないかもしれませんからね。でも、大体の季節くらいはわかるんじゃないですか」
「そうだ。母様より旧暦の神無月ごろだとは聞いている」
「旧暦の神無月、つまり旧暦の10月だとすると、11月8日から1か月間のどこかですね。茨木さんの誕生日は」
流石は珠子、計算が早い。
最近旧暦に関わりのある催しでもやったのだろうか。
「それで、その誕生日の話がどうかしたのですか?」
「正確な日付がわからぬのなら、それを決めてしまおうという話になった。そこで茨木は俺様に決めて欲しいと言ったのだ」
俺様だけに見せる可愛らしい顔でな。
そう言葉を続けようと思ったが、黙っておこう。
女と話す時に他の女の話を出すのは無粋であるからな。
…
……
「どうされました?」
「いや、何かに気付きそうになったが……。まあよい、話を続けよう。そこで俺様は言ったのだ。『ならば、珠子と同じ11月11日ではどうだ。これなら珠子の旅の帰路に同時に祝えるぞ』と……」
あ、
”女と話す時に他の女の話を出すのは無粋であるからな”
俺様の心の声が再度鳴り響く。
気付いた時にはもう遅かった。
「この唐変木のクソデリカシー男ー!!」
バチーン!
叫び声と同時に鋭い平手が俺様を襲う。
「それが原因に決まっているでしょ! 茨木さんが可愛そうだわ! おー、もう! ドジ! バカ! マヌケ! このアンポンタンのあほんだらー!!」
平手では飽き足らずと鉄の盆で珠子はバンバンバババンと俺様を叩き始める。
「特別な妻の誕生日を! 他の女の付け合わせみたいに設定するなんて! ポンコツ、ぼんくら、ノータリン!! 無知蒙昧とはあなたのことよ! 今すぐ茨木さんに土下座と五体投地してきなさい! このうすらトンカチー!!」
珠子の怒声は止まることを知らず、珠子は手袋を身に着け、おぅぶんから取り出したばかりの鉄の盆を頭上に掲げる。
「ちょ、さすがにそれは……、おい、鬼道丸! 見てないで助け……」
俺様の悲痛の声にいつもの意趣返しなのか、鬼道丸もやれやれと首を振る。
「父上、これは私でも父上が悪いと思います。たわけ、ですね」
俺様の眼前に熱気を放つ鉄の盆が迫った。
すまぬ茨木、俺様が悪かった。
だから、助けてくれ。
◇◇◇◇
助けはこなかった。
だからではないが、俺様が茨木の北対に行くのは自然な流れ。
この手の盆の菓子は贖罪の食材ではないぞ、勘違いするな珠子。
猪口才な女め。
台盤所でヌエへの料理を作っている珠子に向けて俺様は心の中で呟く。
「入るぞ、茨木」
「えっ、酒呑。ちょっとまってぇな」
相変わらず俺様の不意の訪問を茨木は拒む。
だが、それを無視して入るのも相変わらずだ。
「今度は裁縫か。以前は人形だったな」
茨木の手にあるのは木枠に張られた布。
刺繍というやつだ。
縫いかけの柄は俺様と茨木の顔だ。
「そんなのを作らぬともよかろう。中々の出来だが本物にはおよぶまい」
「そりゃま、酒呑の方がいい男やけど……」
視線を刺繍枠に下げながら茨木は言う。
「違うぞ、それより本物のお前の方が魅力的だと言っているのだ」
「あら、今日はやけにおじょうずや……、プップププププッ、あははっ、どないしたん、それ」
茨木の笑顔の理由は明白。
俺様の顔を見たからだ。
「珠子にやられた。誕生日のことであんまりだと罵られながらな」
鏡は見ずとも感覚でわかる。
俺様の顔は腫れあが……茨木の傷心を慰撫するために少し愉快になっているのだろう。
「そ、それで。ちっとはわかってくれたウチの気持ちを」
「ああ、すまなかった。茨木は俺様の中で何よりも大切で特別だと示すべきだった。その誕生日を他の女と同日にしようと考えたのは思慮が浅かった。許せ」
俺様は茨木の前に座り盆を体の後ろで隠しながら頭を下げた。
「それで、茨木の誕生日のことなのだが……11月22日でどうだ? 誰の誕生日とも重複しておらぬぞ」
「最後の一言は余計やけど、どうしてその日なん?」
「11月22日は”いい夫婦の日”なのだそうだ」
「それって珠子ちゃんからの入れ知恵やろ」
「そうだ。だが、それは些細なことに過ぎぬ。俺様は茨木の誕生日なら決して忘れない。そして11月22日から”いい夫婦”の日を連想するだろう。俺様は茨木の誕生日に彩りを添えたいのだ。この世で最高の彩りをな」
「それって……ひょっとせいへん?」
俺様の意図に気付いたのか、クスクスの笑う。
「正解だ。この世で最高の彩りとなれば、やはり俺様自身しかなかろう! お前だけのいい夫、酒呑童子である!」
「フフフッ、そうやね。酒呑は最高の男やさかい。ウチの誕生日にそれがあると嬉しいわ」
「それはいつもあるぞ。俺様がそれを忘れることなぞありえぬ。なにせ、最高の妻の誕生日だからな」
俺様がそう言うと、茨木は「せやね、その通りや」とフフフと花のような笑顔を見せる。
「ええよ。このまま喧嘩しとうのもウチは嫌やし。ウチの誕生日は11月22日。それと後ろの菓子で許したる」
どうやら機嫌は直ったようだ。
ま、俺様が誠意を尽くせば、わからぬはずがないがな。
「そうか。それでこそ俺様の妻。では、ともに食べようぞ。作ったのは珠子だが、俺様も少し手伝った。かすたぁどを詰める時にな」
背後の盆を前に出すと、山盛りのしゅうくりぃむが茨木の前に現れる。
しゅうくりぃむを飴で接着して、うず高く積んだものだ。
さらに糸のような飴で薄絹のように飾られている。
「うわぁー! クロカンブッシュやー!」
「知っていたのか。そうだ、仏国の結婚式などで振舞われる祝い菓子だそうだ。夏の時は和装だったからな、今度は洋装の菓子を作りたかったのだと言っておったぞ。『本当は式の参列者に配るんですが、今日はふたりだけの式ってことで、おふたりで食べて下さい』ともな。これはせめてもの俺の気持ちだ」
”詫び”という一言を入れなかったのは、俺様のつまらぬ自尊心。
台盤所で茨木へのりはぁさるでこの台詞を言った時、珠子は何やらニヤニヤ笑っておったが、今さら俺様と茨木がふたりっきりになろうと照れも恥もない。
茨木とは長い付き合いだからな。
「ふーん、気持ちねぇ。ふぅん」
「何だそのにやけた笑いは」
「ああ、気にせんでええよ。それより食べよ」
接着の飴がパキッと音を立て山の側面のしゅうくりぃむが茨木の手に落ちる。
茨木め、俺様に登頂のひとつを譲ろうとは愛いやつめ。
夫を立てる良い妻ではないか。
俺様もパキキッとしゅうくりぃむを手にする。
「いただきまーす」
「いただこうぞ」
サクシュッ
しゅうくりぃむの皮は最初はわずかに歯ごたえがあった。
だが、その食感はふわふわで、唇の形に合うかのように形を変える。
歯で皮を破ると、中からはかすたぁどの甘い香り。
卵と牛乳と砂糖の絡み合って生まれた、とろける餡が口内に広がった。
「相変わらず珠子はんの菓子はおいしわぁ。鬼道丸もダメとは言わへんけど、まだまだやねぇ」
「やはり本職には敵ぬさ。鬼道丸が毎日、俺様たちの食事を作ろうと、珠子は『酒処 七王子』の多数の来店客への料理を作るのだ。実践の数が違う。努力は認めるがな」
モシャモシャと次のしゅうくりぃむを食べつつ俺様は言う。
「”努力は認める”やなんて、酒呑もすっかり丸くなったねぇ。やっぱ息子はかわええか?」
「茨木の方が可愛い」
「あら、今日はいつになく上手やねぇ。嬉しいわぁ」
モッシュモッシュ
「ふーん。で酒呑は知っとるの?」
「何をだ?」
少しニヤニヤした顔で茨木もモギュモギュと食べ続ける。
「さっき、このクロカンブッシュは酒呑の気持ちだって言ってたやん」
「そうだな。嘘ではないぞ」
「うん、うれし。クロカンブッシュのシュークリームのChouはね、キャベツを意味するんよ」
「そうか、言われてみると似てないこともないな」
モギュモギュ
「このクロカンブッシュはフランスではウェディングケーキとして振る舞われる菓子なんよ」
「それも聞いたぞ」
ムグムグ
「で、外国では、キャベツはやや子の暗喩なんよ。もう、いややわ酒呑ったら、そんなにウチとウチの子が欲しかったん」
ムグゥ!
柔らかいはずのしゅうくりぃむが俺様の喉を圧迫した。
「ま、喧嘩の後のアレは盛り上がるって話もあるし、ウチはええよ。酒呑ならいつでもオッケーや」
珠子め、あのニヤニヤ顔はこれが理由か。
「いややん?」
しゅうくりぃむをハモっと口に咥え、上目遣いに俺様を見る茨木の姿は、垣間見える幼さと豊満な肢体とのぎゃっぷが、俺様の男を扇情する。
それが俺だけに向けられた姿ならば尚更。
珠子め『ヌエさんへの料理の準備には時間が掛かりますから、ごゆっくりどうぞー』なぞ言っておったが、こういうことか。
「嫌なものか、宴まではまだ間がある。それまで一足早く楽しむとしよう。ふたりで」
「うん、ふたりっきりで」
茨木はとても愛おしかった。
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